#48 空蝉


 モニター室では自分の前世について共有されているに違いない。

 国見はまた一段、グラインのギアを上げる。先を行く神崎の姿は豆粒ほどに小さく見えた。彼はもう坂を下りきり、河野のいる小学校方面へと向かっている。

 生ぬるい空気を縫って進むと、風が髪を揺らす。額に光る汗が空気に触れて冷えてゆく。上下黒の制服は、日光を多分に吸収して暑い。通気性があるものの、防刃機能を備えているおかげで、厚くて暑いのだ。


 秘めていた事実が明かされるのが怖かった。それを知った人々が、どういった目で自分を見るのか考えたくない。

 可哀想だと慰められるのも、自分もそうだったと同意を向けられるのも、毒にも薬にもならない言葉を綴られるのもまっぴらごめんだった。この苦しみは自分にしか分からない。分かってもらおうとも思わない。分かった気になって欲しくない。だから必要最低限の人にしか打ち明けなかった。


 河野は黙って聞いてくれた。「そうか」とだけ言い、個人的な感想は何も告げなかった。憐れみもしなければ同情もせず、励ますこともなかった。国見にとって、ひどくありがたかった。

 崎森も似た反応だった。意外だったのは、温かな言葉を掛けてきそうな犬束隊長でさえいつも通りだったことだ。

 話が彼女にまで辿りついていないのかとこちらから触れたこともあった。しかし彼女は人差し指を口に当て、そっと微笑んだ。言わなくても分かる、ということだろうと勝手に解釈していたが、間違ってはいないだろう。


 同期の中村は、ドライな男だ。

 誰とでも気さくに話す気安さがあるが、興味のない話題には淡泊。訓練隊員時代にふざけて技を掛けられたのは、座学でICTOの規則についてロクに聞いていなかったからに他ならない。

 その適当さ、興味のない分野への物覚えの悪さに国見は少なからず感謝している。彼は国見の過去を聞いても「へえ、大変だったんだな」とあっさり言うだけだった。

 普通の人間であれば、凄惨な過去に軽く返されれば怒りたくもなるが、その扱いに救われた。


 俺の前世なんて大したもんじゃない。

 虐待で死んだ子どもなんて、珍しい話じゃない。


 その思考が自分の心を守るための無意識の防衛本能で、そのせいで長く苦しめられるなどとは露ほども思っていなかった。前世というものを見くびりすぎていた。


 ジーワジーワジーワ。どこかの木で、セミが今生を謳歌している。

 セミにも前世の記憶はあるんだろうか? 7日しか生きられないと知っていたら、じっと声をひそめて体力を温存したほうがいいだろうに。

 馬鹿らしい考えが頭をよぎって、小さく笑う。


 あの日は暑かった。夕方でもセミがうるさくて、好き勝手に泣き喚けるなんていいよな、と思いながら洗濯物を取り込んでいた。足はガクガク震えていて、背には冷や汗をかいていた。





 ******






 サラリーマンの父親は仕事一筋で、家に帰れば出されたツマミで晩酌をし、出された食事を当たり前に食べ、当たり前に下げられる食器を横目にテレビを見る男だった。長男である国見に「男なんだから泣くな」「男なんだからこれくらいできて当然だ」と折に触れて言い含めていた。

 母親は常に父親を立て、家事を完璧にこなしていた。国見に手作りのおやつを食べさせ、アイロンがキレイにかかったハンカチを持たせ、寝る前には絵本を読んでくれた。ただ、思い返せばいつも父親を怒らせまいと必死だったように思う。


 夕食の買い物に母と出かけた記憶がうっすらとある。国見は何かのおもちゃが欲しくて、泣いて喚いて店先から動かなかった。困った顔をして「今度買ってあげるから」「あっちの赤いやつはどう?」と猫撫で声で懐柔しようとしていた母だったが、帰宅のリミットが近づいても国見が泣き止むそぶりを見せないと、二の腕をつねって無理やり立たせた。

 「お夕飯ができてないとお父さんが怒るでしょう。いつまでもみっともなく泣くんじゃないのっ」。険しい表情を浮かべる母が恐ろしく、ぐすぐす泣きじゃくり連れられるがままに歩いた。

 母は父親の帰りまでにいつも通り一汁三菜を作って食卓に並べた。そのときにはいつもの母に戻っていた。


 父は目の腫れた息子に気付き、泣いたのかと聞いた。おもちゃが欲しくて泣いてしまったのだと母が取り繕えば、お前に聞いてないと父は尖った声を上げた。しんと静まり返った食卓で、消え入りそうな声で、転んで泣いたのだと弁明した。そう答えないと母が父に怒られる気がした。

 けれども父は、転んで泣くなんてみっともない、お前がちゃんと育てないからだと母を叱った。神妙な顔で自らの非を詫びた母は、その晩、布団にくるまる国見の枕元に立ち「なんで私が怒られないといけないのよ」と、低く小さな声を落とした。

 母が母ではない何かに感じられ、寝たふりをしていた国見の背は戦慄わなないた。それ以降、我儘らしい我儘は言わなくなった。


 大きくなるにつれて母親の家事を手伝った。手伝わなければ母が父に怒られる。休日、何もしない父は家の粗を探してはぐちぐちと文句を垂れた。

 部屋の隅に埃が溜まっている、電子レンジの中が汚い、風呂場にカビが生えている。些末なことを取り上げるくせに、彼が動くことはなかった。重りがついているのかと思うほど、テレビの前に鎮座して動かなかった。

 国見はそのうち、彼のかたわらにあるグラスの氷がなくなりかけるのを確認すると、氷を入れたグラスを脇に置いて取り換えてやった。たまに忘れると、気が利かないという叱責が飛んだ。


 8歳ですべてが大きく変わった。だいたいの家事の要領を覚え、母の手が回らないときは廊下を拭き、浴槽を丹念に掃除し、皿洗いをしていた。

 母が体調不良を訴える日が増え、その分も家事を請け負った。慣れない家事に手間取っても、父は言い訳を許さず怒号を飛ばした。母の不調が妊娠によるものだということを知らされ、「母さんの手伝いをしろ」と命じられた。言われなくてもやってる、と喉元まで出かかったがすんでのところでこらえた。2年生に進級したころから、生意気な口をきけば平手が飛んでくるようになった。


 ほどなくして弟と妹が生まれた。二卵性の双子は、病院で見たときは可愛いと思ったが、家に来たら可愛いなどとは思えなかった。一日じゅうどちらかが泣いていて、どちらかはむずがっている。しばらくは母方の祖母が手伝いに来ていたが、祖母が作り置きしていった料理が気に食わないと父が言ってから来なくなった。母が来るなと言ったのか、父が嫌味を言ったのかは知らない。


 目まぐるしく日々が過ぎた。学校から帰れば、疲労困憊している母に代わり弟妹のオムツを替えてやり、ミルクを飲ませ、背を叩いてゲップを促した。床を掃除し、ベビー服を洗濯機に入れた。

 母が妹を背負って死んだ顔で食事を作っているあいだは弟の面倒を見た。ふぎゃふぎゃと泣く声が聞こえると、妹もつられて泣く。母が金切り声を上げる。弟を抱いて2階に避難し、なんとか泣き止んでくれと何度もゆすった。ゆするのがいけないことだと誰も教えてくれなかった。

 子育てに追われて家事がおろそかになっても、父は許すどころか怒った。1日いて何をしているんだと母をなじった。双子の面倒を見ることはなかった。父の中で、外で働いてくることは子育ての免罪符のようだった。どちらかが泣けば迷惑そうな目で母を見、「呼んでるぞ」と顎でしゃくった。


 弟妹は夜泣きがひどかった。父は早々に1階の和室に移っていた。主寝室と隣り合う部屋だった国見は、たびたびどちらかの泣き声に起こされた。泣いている我が子を見下ろす生気のない瞳の母から柔らかく小さな身体をむしり取り、宥めてやった。


 ――お父さんが起きてくるから、早く寝て。


 祈る気持ちで背をさすった。トン、トン、と階下から父が上がってくる音がすると生きた心地がしなかった。酒に酔って寝る父は、起こされると不機嫌になる。「仕事で疲れている俺を寝かせる気はないのか」と殴られたこともあった。


 この子たちが死ねば、前までの暮らしに戻れる。何度思ったか分からない。これまでの日々が懐かしくて泣きたくなった。

 このころの母は明らかにおかしかった。国見が何を言っても上の空なのに、父が「おい」と声をかければびくりと震えて反応する。双子を放ってまで父の身支度を整えてやっていた。睡眠時間が足りてないのは目に見えて明らかだったが、父は対処しなかった。

 自分のことは自分でやってよ。そう父に訴えたこともある。拳で殴られ、腹を蹴られて終わった。何様のつもりだ、と彼は言っていた。


 3年生に進級し、しばらくした日。帰宅した家は静まり返っていた。何事か書かれた紙が置いてあり、母の荷物や弟妹のオムツ、ベビーベッドなどが消えていた。誰もいない部屋を何度も見て回り、夕方になるにつれて不安がまさったのに、手は米を研ぎ、味噌汁を作っていた。夕飯を作って父を待たねばならないという刷り込みはすっかりルーティーンと化していた。

 父は帰宅すると烈火のごとくいかり、書類をビリビリに破いて色々なところに電話した。実家に身を寄せているということは電話口からなんとなく分かった。母が育児による鬱と診断され、父に見切りをつけたということも。

 二人の間でどんなやり取りがあったのかは知らない。翌日から、母がこなしていたことはすべて国見が行うことになっていた。

 父は何もしなかった。下手へたに手を出して何もできないことが明らかになるのを恐れていたのかもしれない。指図し、出来を評価し、気に入らないことがあれば頻繁に拳を振るった。


 母も弟妹も、半年経っても帰ってこなかった。秋になっても家は静かで、絶対君主と召使がいるだけだった。父は巧妙に服で隠れるところを狙って殴った。夏はなりを潜めていた暴行は、秋冬になると熾烈なものに変貌した。

 返事をしない。返事が小さい。部屋が汚い。ごみが匂いを放っている。どうでもいいことで何度も殴られ、蹴られた。


 4年生になると、担任の男性教師におびえた。スーツ姿が父を彷彿とさせた。大きな体をした男、目つきの鋭い男、声の大きい男に恐怖心を抱いた。

 不思議に思った彼が家庭訪問に訪れると、父は外面を取り繕って応じた。息子が柔道をやりたいと言うから教えている、と自信たっぷりに嘘をついた。新任の男性教師はそれ以上追及しなかった。彼が帰宅したあと、初めて顔面が腫れるほど殴られた。


 祖母の家に押しかけても、電話をしても無駄だった。母は決して姿を見せなかった。赤ん坊がキャーキャーと笑う声が窓越しに聞こえた。門扉もんぴ一枚へだてた先の遠い世界で、彼女たちは幸せに暮らしていた。

 自分は人身御供ひとみごくうにされていた。記憶を取り戻してから理解した。


 あの日はどうしても家に帰りたくなかった。腫れの引いた顔を担任は気に掛けたが、転んだのだという弁明すれば、彼は安堵した表情を浮かべた。

 休み時間に友達が話しかけてくれた。

 新発売のゲームがあるから一緒にやらないか。初心者でも楽しめるやつだからさ。

 何故、うん、と頷いたのか分からない。あの日まっすぐ家に帰っていれば、死ぬのはもう少し先になったはずなのに。しかし、何かに縋る思いで友達の家に行き、ゲームに興じた。


 初めて触るコントローラは発育の良くない自分の手にはいささか大きかった。友達は丁寧に操作法を教えてくれた。画面の中で、自分の操作でどこにでも行けるキャラクターを見たとき、素直に「羨ましい」と思った。


 羨ましい。俺もこうなりたい。自由自在にどこにでも行きたい。家のことなんて放っておいて、ずっとこのまま遊んでいたい。


 時間を忘れて遊んでいた。気が付けば外は日が暮れかけていて、自分が取り返しのつかないことをしたと悟って血の気が引いた。

 早く家に帰らないと。夕飯を作っておかないと。礼も言わず飛び出すように友達の家を出、走った。明かりの灯っていない家を見て安堵し、2階に駆け上がりランドセルを投げ捨てた。

 暮れきっていないベランダに出て洗濯物を取り込む。まだセミが鳴いていて、ジーワジーワ、響く鳴き声に急き立てられた。手が震えて、いくつか靴下を取り落とす。

 玄関のドアが開く音がした。父特有の、引きずるような足音。気持ちの悪い咳払い。俺が帰ってきたぞ、とアピールするその咳を聞くと鼓動が早鐘を打つ。


 怒られる。風呂の準備もしていない。米も炊いていない。料理も何もしてない。

 なんで俺ばっかり。なんで俺だけ、お母さんみたいなことを。

 ぐるぐるめぐる考えを振り払う。ジワジワとセミがうるさかった。


 俺だって嫌になるほどゲームしたい。放課後は友達と遊びたい。なんでうちは普通じゃないんだ。なんであいつは俺を殴る。


 ドン、ドン、ドン。踏み鳴らす音。下から上がってくる音。

 耳の中で、弟妹の泣き声がした。泣くなよ、俺が叩かれるだろ。取り込んだ洗濯物を抱きしめて無意識にさすっていた。鼻腔には、きつい柔軟剤でも消えない父の加齢臭が届いた。

 一番奥の部屋の扉が開く音。おい、と低く押しとどめた声。

 怒っている。失禁しそうなほど怖かった。足が震えた。いちばん階段よりの部屋に入り、逃げられないと分かっているのにそろりそろりと廊下に出た。


 ――何してる。


 階段に向かって数歩踏み出したところで背後からどすの効いた声が響いた。おそるおそる振り向けば、鬼の形相をした父がいた。癇癪かんしゃくを起こして店先で騒いだ自分をつねりあげたときの母の顔にそっくりだった。


 ――なんで何もしてないんだ、ああ?


 チンピラみたいに舌を巻いて喋る声が大嫌いだった。自分はなんでこの男の稼いでくる金がないと生きていけないのだと情けなかった。

 すべてが嫌になって、抱えた洗濯物を放った。しわくちゃのワイシャツが、父の顔にかかる。


 ――友達の家で遊んできたんだ、悪いかよ! なんで俺ばっかりなんでもやんなきゃいけないんだ! なんで殴るんだよ! 虐待だって警察に言ってやる!


 目をつむってぶちまけた。なんで自分ばかり、こんな苦労を強いられる。同級生は毎日親の作ったご飯を食べて温かい布団で眠っているのに、どうして俺は。

 少しでも悔やんで改めてくれればいい。その思いは、次の瞬間には消し飛んだ。蹴飛ばされて顔から壁にぶつかり、鈍い音がした。鼻が痛い。鉄の味がするものが垂れた。

 倒れ込んだところで腹を蹴りつけられる。どいつもこいつも馬鹿にしやがって、と鼻息荒く言う声が聞こえる。

 背を丸め、頭を抱えた。縮こまって耳を塞いで耐えた。無理やり立たせられ、顔面を殴打された。足がふらつく。耳の奥がキンキンと鳴っている。平衡感覚が薄れ、壁に手をついた。階段の踊り場まで吹っ飛ばされていた。階下の景色がぼんやりと滲む。


 こんなんだったら、あの子の家にいれば良かった。

 もっと、あのゲームをやっていたかった。

 自分でどうにでもできる世界で、どこまでも遠くに行きたい。


 開ききらない目が映す視界は、ひどく濁り、かすんでいた。

 足を踏み外したのか、殴られた衝撃で倒れ込んだのかは覚えていない。

 階段を転げ落ち、頭を強く打った。そのあとの記憶はない。痛みも覚えていない。


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