#27 奇病


 クレイウイルス感染症は、2020年代に世界的なパンデミックを引き起こした感染症として広く知られている。最初の患者が確認されたのは記録上2028年となっているが、遡ればそれ以前に死亡した者の中にも多くの罹患者が存在するとされている。


 世界初の患者は日本人であった。30代の男性会社員は海外から帰国後に体調不良を訴えて入院した。ほぼ終息していた新型コロナウイルス感染症ではないかと疑われたが検査結果は陰性だった。

 男性は入院後7日目に死亡。病状が既存の感染症とまったく別物であったとして、国立感染症研究所は調査に乗りだし「新種の感染症の発生」を発表した。

 海外で発症したかと思われたのも束の間、声明を出した同日にロンドンとシカゴでも患者が発生した。彼ら自身、周囲にも渡航者はいなかった。

 翌日には四川省とベルリンでも患者が確認され、同時多発的に患者は増えていった。


 感染が確認された患者は、身体の末端――主につま先から麻痺が始まる。麻痺の範囲は身体を浸食するがごとく広がり、内臓が侵され、多臓器不全や心臓麻痺で命を落とす。麻痺を起こした箇所がまるで乾いた粘土(clay)のように固く変異することから、「クレイウイルス」の名がつけられた。

 麻痺の開始から内臓の機能停止までの時間は人により異なる。高齢者は遅く、若者ほど早い。持病のあるなしに関わらず、若者の致死率は他の年代に比べて高かった。快復しても身体には麻痺が残り、やむを得ず足を切断するに至った患者も少なくはない。


 感染経路特定は難を極めた。接触感染がまず疑われたが、濃厚接触者のほとんどは発症を免れた。

 吐瀉物・排泄物からの感染、食品や動物を経由しての感染、特定の物質に対するアレルギー、注射の回し打ちや性交からの感染。あらゆる可能性を検証したが相関関係にはなかった。

 感染者は偶発的に世界各地で発生し、致死率は増加するばかりだった。「死のウイルス」とも呼ばれ、各地で神仏に祈りをささげる者が増えた。


 奇妙なことに、発展途上国よりも先進国のほうが罹患率が高く、中でも富裕層からの発症者が多かった。「富を分配しない愚か者への神の鉄槌」「貧富のバランスを取ろうと神が間引きしている」という根拠のない言説が流布した。

 経済を回す主体である若者のあいだでは接触感染説が有力で、レジャーや観光業は大打撃を受けた。それでも患者は増え続けた。

 最初の感染者の確認から僅か半年で、日本のクレイウイルス感染症の死者は新型コロナウイルス感染症のそれを上回った。


 患者に関する記録は現代にも残されている。

 都内在住の日本人男性は感染9日後に自宅で死亡した。部屋から日記が発見され、感染前の行動が詳しく書かれた重要記録として感染症研究所に送られた。

 男性はいわゆる「引きこもり」で、自宅外に出ることはなかった。買い物はすべてネットショッピングで済ませ、配達業者と顔を合わせることもなかった。

 親族は遠方に住み、彼を訪ねる友人もいない。いったいどんな経路で感染したのかと研究者は頭を悩ませた。

 動画配信を行っていたアメリカ在住の18歳の男性は、感染後も病院のベッドから動画投稿を続けた。彼が足をトンカチで叩くと、カンカン、と木を叩くかのような音がした。

 最後の投稿動画は母親が撮影したものであったが、男性は口を動かすこともできず、手も振れず、ただまばたきを繰り返すばかりで、母親の嗚咽が病室に響いていた。


 見えざるウイルスの影におびえる日々が半年ほど続いたころ、転機が訪れた。

 アメリカの製薬会社・ザグレウス社が特効薬を開発したと発表した。臨床試験が行われ、速やかに世界に提供された。

 その効果は抜群で、重症化していた患者の麻痺も寛解し、抗体保有者の罹患率は格段に下がった。一躍ザグレウス社の知名度は上がり、研究に一役買ったというアメリカ人研究者と日本人研究者はノーベル賞ものだと絶賛された。

 急速にクレイウイルスは収束の兆しをみせ、経済活動は徐々に回復した。


 クレイウイルス予防接種は、現代日本では義務となっている。生まれてすぐに1回、5歳で1回、成人してから1回、妊娠したら1回、免疫が落ちる60歳を超えて1回。

 接種回数は多いものの、罹患者は年に100例を下回っている。その罹患者もワクチン未接種者であるとされ、ワクチンによる抑え込みに成功していると言える。


「普通の生活を送っていた人は何ともなくて、家に閉じこもっていた人が罹患する場合もある。感染経路が読めない奇病だと大騒ぎでさ。ウイルスの根源と感染経路がいまだに不明なのって、クレイウイルスくらいでしょ」

「根絶、は……していないですよね」

「まだだ。ワクチンを打っている以上は安心だが、そのワクチンを巡ってもひと悶着起こった。知ってる?」

「はい」


 ワクチンを開発した日本人研究者が、帰国後に殺害された事件。

 その出来事を、神崎は報道特集番組で知った。

 

 

 きっかけは、匿名のネットブログだったという。

 「クレイウイルスは人体実験だった」という題で、投稿者は国立感染症研究所の研究者を名乗っていた。

 クレイウイルスは生物兵器で、自然的に生まれたウイルスではない。ワクチンを開発した日本人研究者と世界初の感染者である日本人男性は友人関係である。

 信憑性はなかったが、そのショッキングな内容は拡散され、翻訳されて世界中に出回った。


 むろん研究者サイドは反発し、ザグレウス社も強く非難した。記事は即座に削除されたが、「生物兵器説」は一部に根強く支持された。

 大規模な経済停滞で失業者・自殺者ともに増加したことに加え、特に若者の致死率・重症者率が多く、ワクチン開発後も経済停滞は糸を引いた。暗澹あんたんたる状況で、ネットリテラシーが高いとされる若者は大幅に減少。ブログ記事を信じ拡散する人が増え、生物兵器説は水面下で力を強めていった。


 あの研究者は、自らがばらまいた病気のワクチンを作ってみせ、手柄を立てて喧伝している――口さがない者は彼を罵った。一部の雑誌やトレンドブログも便乗して書きたてた。

 実は日本で嫌な体験をしたから国外に渡っている。日本人を憎んでいたから最初の罹患者に友人を選んだ。彼と友人はアメリカで会っていたと証言する人もいる。

 情報は積み重なり、精査されないまま見出しのショッキングさだけで拡散された。一部の人間の憎悪は募り、痛ましい事件を引き起こすに至った。


 研究者が帰国した日、空港から自宅まで送り届けるはずだったタクシーは彼を乗せたまま消息を絶った。家で彼の帰りを待っていたはずの家族――妻、娘、幼い息子――も姿を消した。警察が捜査に乗り出して二日後、自宅付近の湖から一家全員の水死体が発見された。

 現場近くの小屋では犯人グループと思われる3名が練炭自殺を遂げていた。遺書や犯行声明文はなかった。

 首謀とされた男は妻をクレイウイルスで亡くしていた。生物兵器説を真に受けた逆恨みによる犯行と結論づけられた。


 事件全貌には謎が多いとオカルトチックに語り継がれている。

 厳重な警備をつけるという申し出を研究者自らが固辞していた。自宅を荒らされた形跡はなかった。加害者・被害者ともに抵抗による創傷がなかった。被害者一家も加害者も、安らかな顔をして亡くなっていた。研究者はアメリカを出国する間際、身辺整理をするように身の回りのものを片付け、抱えているプロジェクトは引継ぎをしていた。

 死を予期していたのではないか、合意の上の犯行ではないか、心中ではないかとも囁かれたが、とうとう今日までその謎が明かされることはなかった。


「あの変死事件も今や都市伝説だなんて、月日が経つのは本当に早い」

 「あの」という単語を使ったことに神崎は引っかかりを覚えた。

「大村さん、この時代を生きていたんですか」

「うん。彼より先に死んだけど。ワクチンが出回る直前にかかっちゃってさあ」

「そうだったんですか……」

 

 こういったときはどう言えば良いのか頭を働かせる。「ご愁傷さまでした」と言うべきか、「生まれ変わってこれて良かったですね」がふさわしいのか。

 逡巡が顔に出ていたのか、大村が吹きだした。


「なんて声をかけようか迷ってる顔だね。気を遣わせてすまない。別に良いんだ、前世の話だから。ところで、ここまで会話をして僕のピリオドは掴めたかな」

「……」

「こら、苦笑いで誤魔化すな」

 いや、あの、と意味をなさない言葉が口をついて出る。「玉池くんのほうが割り出しやすいと思っていて。そっちを確定させてからじっくり大村さんのを探ろうと思っていました」

「いまいちわからない?」

「正直に言うと」


 苦笑して肩をすくめる仕草に「こんなのも分からないのか」と言外な意思が込められていると思われ、気まずい。

 押し黙った神崎の様子を見て察したのか、大村は手を振った。


「いや、呆れているわけじゃないよ。最初は分からなくて当然だ。……ひとつ質問。ピリオドはいつ発動できると思う?」

「戦うとき、ですか」

「それだけかな。四六時中発動した状態の人もいるとは思わない?」


 大村は意味ありげに笑む。

 宿題へのヒントか、攪乱するための引っかけか。


「……もしかして、さっきからずっと発動させたままだったりします?」

「残念、君からの質問に答えることはできない。ルール違反になってしまう」

『まもなく1時間です』

「了解。さ、管制室に行こう」


 彼に続いて部屋を出る。

 発動していたとしたら、この部屋に入ってからだろうか。

 会議室前で会ったときには、もう?

 そもそも、初めて会ったあの瞬間から、ずっと?


 疑問ばかりが増えてゆく。難しい顔をする神崎を見、大村は「大いに悩みたまえ、青年」と鷹揚に笑った。

 相変わらず前髪は真横を向いている。


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