訓練
#22 開始
『重心が左に傾いています』
「もっと肩の力を抜いてください。怪我しないんで、安心して」
安心しろ、と言われてすぐ安心できるほど器用ではない。
地上からエールを送る玉池少年に言い訳をしつつ姿勢を正そうと意識する。『体勢を維持してください』と胸元からまた音声が流れた。足裏からシュウ、という射出音が響く。
ちらりと下を見る。高さはせいぜい3mほどだが、自分が身ひとつで浮いていることに漠然と不安が押しよせる。
『重心が前に傾いています』
「はいっ!」
AIに目ざとく指摘され、思わず返事をしてしまった。1分ほど維持すると、『降下します』という音声とともに自動で地上にもどる。
「うう、肩が凝る」
「最初のうちは誰でもそうです。インターバルを置いてもう1m上まで行きましょう」
「意外に怖いですね、これ」
「すぐ慣れます。あと、敬語じゃなくて大丈夫ですってば」
変に気を張ったせいで、肩だけでなく腰にも違和感がある。
加入8日目、訓練3日目。まだ先は長い。明日も筋肉痛に苦しめられそうだ。
*****
引っ越しの日に割りあてられた宿舎は、一人暮らしにはじゅうぶん事足りる広さだった。家具家電は備えつきでAIシステムも導入されており、同じ物件を敷地外で探せばそれなりに値が張るのは間違いなさそうだった。独立タイプのベランダからは似た見目の建物が連なり、宿舎だけでひとつの街を作っているようだった。
絹川から、敷地外に出る際は届出が必要だと説明を受ける。だが敷地内に専門の業者が店を開いているうえ、デリバリーサービスも充実しているので敷地外に出ずとも生活が完結できるよう配慮されていると聞かされた。
「これが隊員用端末。端末から5m以上離れると警告音が鳴るから注意して。こっちも勤務中は必ず身につけてね。呼びだしや伝達事項が通知されるから」
国内でもっとも多く流通している機種を渡される。黒色のそれは、私用のものと同じメーカーで使い勝手は分かっていた。ともに渡されたスマートウォッチも揃いの黒で、絹川も永田も同じものを着用していた。引っ越し作業は永田の手伝いもありつつがなく終わり、翌日は朝からスケジュールが組まれていた。
最初の3日間は座学がメインだと言われ、本部棟――管制室や食堂が入っている建物――の一室で研修を受ける。まずは大村を筆頭とした記憶研職員から遡臓の授業を受けた。
初日の午前、大村に「遡臓の移植手術の成功率は知っているだろうか」と問われ、つい先日受けた忠告を忘れて「知らない」と返したときは大変な思いをした。
彼は嬉々として遡臓が移植手術に成功したことが一度もないことを話しだした。心臓から切り離して遡臓のみを移植したパターン、心臓ごと移植したパターンと術式は2種あると言い、神崎が見てもとうてい理解できない解剖学の資料を見せ、どの国のどういった人が移植を望んだかまで細かく言及した。
移植手術はいずれも失敗に終わり、ドナーの記憶がレシピエントに引き継がれることはなかった。彼はなぜ成功しなかったかについて持論を展開し、海外の研究で疑問に思う部分については英語やフランス語の論文までを引っ張りだしてきた。
難しい話ばかりだったが、大村はこちらが理解できるように噛みくだいた説明をした。その時点で神崎は、「話が長い」と崎森が評したのは大村が一人でずっと話をし続けるからだと思っていた。
だが実情はそうではなく、彼はこちらの脳が理解に到達するまえに「この点について君はどう思うかな」と意見を求めてきた。素人なりに考えて意見を述べると、なぜそう感じたかについて説明を求められた。
意見を批判されることがなかったあたり、彼はただ新しい視点や意見を求めているだけだとは察せられたが長話を聞かされるよりも頭が疲弊した。
まるまる2時間を講義と意見交換に費やされた初日の昼食では、食堂で会った玉池少年に「うわ、顔が死んでますね。大村さんですか」と言いあてられた。
ピンポイントで指摘したあたり、彼もまた大村との問答を経験したことがあるに違いなかった。
遡臓の講義のあとは、須賀と三澤からICTOという組織と業務について踏みこんだ説明をされた。翌日もほぼ同じスケジュールで終わり、3日目は午前中に制服の採寸と健康診断、体力テストが行われ、午後にはこれまた唐突に崎森から指示されたと嘆く永田が敷地を案内してくれた。
電動車に乗り全体を見てまわる。南北に5km、東西に3kmとかなり広大で、地図上では「国立記憶科学研究所 東京本部第1支所」と表記されていた。
敷地内は緑豊かで、都内であることを忘れそうになる。建ちならぶのは白か赤茶色の似たような建物ばかりだった。「実験棟A」「第3研究棟」とマップに表示されているが、具体的になにをする場所かは外観だけでは判然としなかった。
永田は顔が広く、途中で会った隊員たちには神崎を紹介してくれた。新しく1名が入隊したことは通知されており、みな「ああ、新入りの」と口を揃えた。
顔と名前を覚えるのに難儀していると、直近で接触した5人の顔と名前は端末で表示されると教えられた。
散策ののち、ふたたび大村と一対一になる。
業務に従事するうえで遵守すべき事項、およびそれらを破った際に課されるペナルティについて彼は丁寧に指導した。
国家機密の漏えい、ピリオドの存在の口外、隊員間で不用意にピリオドを用いるといった違反事項をひとつひとつ教わる。犯せば口頭注意から国際裁判にかけられるものまで多岐にわたった。
終了後はそのまま管制室に連れていかれ、崎森から制服を支給された。週明けの月曜日から訓練を開始することも伝達される。
訓練内容は絹川が話していた通りだった。まずは対人格闘や銃の使いかた、グラインの基本操作を学ぶ。教官はおらず、手の空いている隊員、もしくは各分野に秀でた隊員が指導にまわるらしい。
対人格闘は須賀班の中倉と三澤、射撃は松川班の
崎森は、経歴と体力テストの結果を加味して適格者を選任したと言った。
「剣道の経験があり上背もそこあって運動神経も良い。特に、対人格闘には適性がある。多少キツくても耐えられると見て中倉と三澤を選んだ」
「ポテンシャルはじゅうぶん高い。それを見込んで訓練は厳しくなると思う」
大村の言葉に、無意識に唾液を飲みこむ。
崎森はつづける。「教官役の隊員は、いつどんな状況でもお前を制圧できる。下手な手加減は絶対にしないこと。特に三澤と玉池。女性や子どもだからと甘く見ないように」
「分かりました」
「手加減したり無礼な態度を取ったりしたら、お前の目と口をタコ糸で縫いつけるからな」
「分かりました」
「カナメ、隊員相手に不用意にピリオドを使うなという話をしたばかりなんだが、僕」
週が明けて月曜日から訓練は始まった。最初は屋内訓練場での対人格闘訓練だった。
教官の中倉は、桑原亮一の追跡時にそのしゃがれ声を聞いていた。小柄ではあるが筋骨隆々としており、立ち姿にすら隙がない。50代だと彼は自己紹介をしたが、身のこなしの軽やかさは30代と言われてもうなずける。
人体の構造と力がどう流れていくか説明を受けたのちに受け身や基本動作を教わる。体重移動や体さばきは問題ないが武道特有の癖があると注意された。
中倉の動きは癖がなく読みづらい。逆にこちらの動きはことごとく読まれる。160cmなかばの彼に何度も投げられ視界がまわった。
三澤からは屋内訓練場の真裏にある別棟で護身術を教わった。ナイフを持った人間への対処法、丸腰の相手にはどうするか。状況によって取る手段は変わると教えられる。
「神崎くん、不審者役やってみようか。向かってきて」
別棟は部屋ごとに舞台装置のように異なるシチュエーションが具現されており、三澤は会社のオフィスを模したフロアを指定した。
使えるものはなんでも使っていいという彼女の
怪我をさせてしまったら、と一瞬
こちらが間合いを詰めた
「それくらいの獲物なら、いまみたいに距離感を狂わせる」
彼女が少し体重をかけただけで骨が
中倉も三澤も説明が分かりやすく、こちらの習熟度に合わせて理解できないところは理解できるまで教えてくれた。それに応えるように、積極的に質問をし、実践を繰りかえした。
そして冒頭にもどる。玉池少年のグライン操作は屋内訓練場で行われ、グラインとはどういった装置かをまず説明される。
特殊な気体を射出し、浮遊状態での移動を可能にする。充電式バッテリーはフル充電で3時間駆動する。脱着はフルオートでAIシステムを搭載。映像と音声は管制室でモニタリングでき、管制者の半径5m以内にいればリモートでの操作も可能。その名称は「グライダー」と「ドローン」が由来になっており、他国のICTOでも活用されている。
「神崎さんがフルオートで体験したように浮いた状態での移動もできますが、バッテリー消費が大きく空中戦ではそう長く使えません。あくまで地上戦で相手より早く動くことを主眼に作られた装置です」
少年はすらすらと説明を加えた。次いで脱着のしかたを教わり、手はじめに垂直に浮くことから挑戦する。
操作は両手指を使い、指の動きに動作を割りあてる。簡易な動きであれば音声指示にも対応している。
訓練用とはいえ、自分の意思で動かすのはおっかなびっくりだった。慣れている人に動かしてもらうのとは勝手が違う。
垂直に浮きあがるのを何度か試すが、空中で身体が緊張して姿勢がわずかに崩れる。そのつど乱れをAIに指摘される。
真下の景色を見てしまうと落下したらと思って足に力が入る。高所恐怖症ではないのに、支えがなく自分のさじ加減で浮くのがこれほど怖いことだとは思わなかった。
「今日はここまでにしましょう。恐怖心がなくなれば姿勢も良くなります。慣れですね」
「怖えー……」
「基本に忠実なのですぐ習得できると思いますよ。次の訓練はどこですか」
「本部棟で大村さんがピリオドについて教えてくれる」
グラインを脱いで肩をまわしていると、スマートウォッチがメッセージを着信した。大村からだった。
『急な仕事で午後出られなくなっちゃった。松川班長が代理で教えてくれます』
内容を確認すれば発信者にも通知が行くので、よほどのことがなければ返信は不要。渡されたときに聞いた説明を思いだし、そのまま画面を戻す。
「呼びだしですか」
「いや、大村さんから。来られなくなったから別の人が教えるって」
「誰になりました?」
「松川班長」
「ありゃ、それは大変だ」
その名を告げるなり、彼は苦笑した。
永田や須賀、絹川も話をしていたが、松川班長というのはそれほど心配な人なのだろうか。
「松川さんって、どんな人なの」
そう問えば、少年は考えるように宙をあおいでつぶやいた。
「あえて言うなら、変な人です」
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