#18 父親

「この刀、どうしたんだっけ」

「買ってあげたよ。4歳くらいまでは持ってたんじゃないかな。壊れたあとは父さんが木刀を作ってくれて」


 記憶を遡るも覚えがない。2年も大切にしていたのなら、覚えていても良いはずなのだが。

 この刀を無意識に覚えていたために、ピリオドとして表出したのだろうか。だが、ピリオドは前世の記憶と関係していると聞いた。では、前世の記憶と関係があるから2歳の自分はこの刀に興味を示した? いや、前世はないと結果が出たし。

 思考が行きづまる。よほど難しい顔をしていたのか、母が心配そうに眉をひそめた。


「大丈夫? どこか痛い?」

「いや、思い出せなくて。父さんの影響で剣道始めたんだと思ってたから、驚いた」

「逆だね。あなたがオモチャの刀で遊ぶから父さんが触発されて、用具を引っぱりだして教えはじめた」


 そうだったんだっけ。言われてみると自信がない。自分の経験に間違いないのに、身に覚えがない。

 母は、黙って聞いていた大村に話の脱線を詫びた。「ごめんなさい、関係ない話をして」

「とんでもない。面白い話を聞けました。我々も真悟くんの前世は気になっていたので」

「だから、わざわざ遡臓も再検査を?」

「ええ。身のこなしがどうにも高校生とは思えないと驚く者がいたので。もしかすれば、なんらかの理由で検査には出なかったが前世があるという可能性も考えられます」

「そうなのかなあ。……話を戻しましょうか。この子が生まれてからの話ですよね」


 彼女の話は続く。オモチャの刀で素振りの真似をする息子を見て、父は物置にしまい込んでいた自分の剣道具を引っぱりだしてきた。

 以前は勤務先の高校で剣道部の顧問を務め稽古もしていたが、別の部を担当することになり、それきりだったらしい。


「教えられるなり熱中して、試合を見てみたいって言いだして。近所の大会を見にいったのは覚えてる?」

「それは覚えてる。中学のとき、同じ会場に行ったから」


 中学の大会で三鷹市の施設を訪れた際、デジャブを感じた。父の膝に座り、観客席から試合を鑑賞した記憶を思いだした。神崎が幼少のころ、一家は三鷹市のマンションに住んでおり、それからこの地に移り住んで家を建てたのだ。

 閑静な住宅街。近くに中高一貫校があり、都心へは電車一本で行ける。父母それぞれの勤務先にも近く、福祉や子育て支援が充実しており、治安も良い。

 このさき数十年暮らすのに適した地と見さだめて家を建てたに違いなかった。その段階では、父は家族と幸せに暮らしていくつもりだったはずだ。


「あなたが5歳になってちょっとしたくらいかな。ある日、父さんが青白い顔して帰ってきて」


 母ですら初めて見る顔だった。柔和な笑みを浮かべて妻と息子を抱きしめるのが日課だった彼が、その日は深刻そうな顔をしていた。どうしたのか聞いても生返事ばかりで、すぐに書斎にこもってしまった。

 その日を境に、父は塞ぎこんだ様子でなにかを考えたり、調べたりしていた。休日に出かけることも増えたが、母は黙ってそっとしておいた。

 彼の家族に関することだと思っていたからだ。

 夫婦の対話を重んじ、なにをするにしてもこちらの意見を聞く夫が、一人で動いている。相談されるまで、見守るほうが良いに違いない、と配慮していた。


 異変が起こってから1か月ほどした日、平日だったが彼は休みを取っており、母もまた休みだった。

 両親が家にいると知ったとたん、我がまま盛りの息子は自分も幼稚園を休むと主張し、諭されても聞かず、ついには強硬手段を取った。具体的には泣いたり喚いたり暴れたりだったらしいが、結果としてその主張は通り、3人揃って家にいることになった。

 家を空けることが多くなった父と一緒にいられるのがよほど嬉しかったのか、我がまま息子は父にべったりだった。幼稚園で描いた絵を見せて解説し、絵本を朗々と読みきかせ、習ったばかりの歌を聞かせた。昼には3人でホットケーキを作った。


 午後、父に秘密の特訓の成果を見せてあげようと思いたって彼の手を引き、庭に出たのをうっすらと覚えている。あつらえてもらったばかりの木刀を振ってみせたのだ。

 剣道大会で父に肩車してもらって見た、居合の型を真似たものだった。横に一刀両断し、返す刀で上から下に。褒めてもらおうとひっそり練習していたそれを披露したとき、父は手から木刀を取りあげ、顔をおおって座りこんだ。


「もう剣道はやめなさい、って言われた」

「本人もそう言ってたよ。昼寝してるあなたの頭を撫でて、泣きそうな顔していたから声をかけたの」


 ――どうしたの。なにがあったの。

 ――真悟には、剣道は向いてないかもしれない。もうやめた方がいい、って伝えたんだ。

 ――まだ5歳でしょ、これからどんどん上達すると思うな。

 ――いや、やめた方がいいよ。身のためだ。……出かけてくる。真悟をよろしく。


 コンビニにでも行くのかと思ったので、疑うこともなく見おくった。出ていって数十分後、「知ってしまったから、もう一緒にいられない」とメッセージが入り、そのまま彼は消息を断った。


「捜索願は?」大村の質問に母は強くうなずく。

「もちろん出しました。近所の方も一緒に探してくれて。でも、足取りは掴めませんでした」


 手がかりはないかと書斎を改めたが、なにも見つからなかった。それどころか、必要そうなものは持ちさられていた。写真もいくつか不自然にデータを削除された形跡があった。枚数は多くはなかったが、かえってそれが不気味だった。

 夫婦共有の口座に関するものは残されており、金を引きだした形跡はない。父の口座も調べてもらったが、動きを見せた形跡はない。

 勤めていた高校は、異変があった日に退職を申しでていた。有給消化の休みでどこに出かけていたのか、ふらりと電車に乗ってどこに行ったのかも調べられたが、目的地は特定できなかった。防犯カメラに映っていなかったのだ。


「映ってなかった? 父さんの姿が?」

「電車に乗るのは映っていたのに、降りる姿がなくて。車両を移動したからじゃないですかって警察に言われたけど、乗った車両はだいたい混んでいて、とても車両を移動できそうには見えなかったし」


 カメラに映らない。頭をよぎったのは、つい数時間まえに目にした謎の男。ガラスの雨をこちらに向かって降らせた男は、防犯カメラを掻いくぐって姿を消した。

 あの男が父ではないのは断言できる。身長も体格も違った。父はあの男ほど長身ではなかった。声も違う。別人なのは間違いない。

 しかし、ピリオドを使っていたら。声や見た目を自在に操るピリオドが存在したら。

 そうなれば父を特定できる要素はない。仮にあの男が父だとして、どうして自分を狙ったのか。それともあれは、あの場にいる誰か別の人間を狙っていたのか。モニターを見ていた誰かへのメッセージか。


「夫の行方は分からずじまいなんですが、持ちだしたものがあったので計画性はあると判断されました。夫婦間のトラブルじゃないかとも言われましたが、送られてきたあのメッセージしか心当たりがなくて」

「皆川さんと前世について話をすることはありましたか」

「ありましたが、彼は本当に覚えていないように見えました」

 母と大村のやりとりに口をはさむ。「大村さん、記憶研は遡臓検査の映像を管理しているんですよね。父のデータが残っていれば」


 神崎の問いに、大村は額に手をあてて首を振った。

「残念だが、失踪宣告を受けた者の記録は宣告から3年が経過した時点で破棄される」

「失踪宣告?」

「生死不明の者に対して、法律上死亡したものとみなす制度のことだ。その基準は、失踪してから7年。……申し立てはされていますか?」

「はい。父母に強く言われて」

「そうなると、お父さんの遡臓検査の結果は数年前に破棄されている」

「そんな……」


 気になることばかりなのに、たどる糸が切れているとは。

 剣道をやめさせたいと言ったのは、父か自分の前世に関連があるのは間違いない。続けていれば、なにかを思いだすと気づいたのだろうか。その「なにか」も気になる。

 あのとき剣道をやめていれば白い刀は表出しなかったのか。それなら、きちんと剣道から遠ざかるまで見守っていれば良かったのに、なぜあのタイミングで行方をくらませたのか。


「ほかに、皆川さんについて覚えていることはありますか」

「そうですね」


 母はうーん、と腕組みをして考えこんでいたが、かみさま、と小さく零した。空気に言葉を溶けこませるかのような、かすかな声だった。


「神様?」

「神様はいないほうがいい、と言ったことがあって。どういう意味か聞いても、そのままの意味だ、って笑うだけで」


 神様、と大村が繰りかえす。それが何を、誰を指しているのかは見当もつかなかった。

 すべて話しきったのか、彼女はもう思い出せるものはない様子で、自然と父の話はそこで打ちきりとなった。大村もそれ以上は追及しなかった。

 いくつか補足説明をしたのち、彼は辞去の意思を伝えた。時計は8時15分を指している。


「良かったら食べていってください」

「いえいえ、長々と説明しましたし、親子で話しあうこともありますでしょう。お父さんのことは資料が残っていないか探してみます。なにかあればご連絡します」


 二人で大村を玄関まで見送る。靴を履くために式台に腰かけた大村が、そうだ、と声をあげ、急いで靴を履き向きなおった。


「婚姻関係はどうなっているのでしょう。それによって資料の保管場所が多少異なっていまして」

「あっ」問われるなり、母は口を大きくあけて止まり、なにかを考えるように口に手をやった。「そうです、そのとき、変なことがあって。夫とは離婚したことになっているんですが、それがおかしくて」

「おかしい?」

「勝手に離婚届を出されていたんです。彼が失踪した日に」

「父さんが出したんじゃなくて?」

「それがね」当時の気持ちが再燃したのか、彼女は勢いよく言った。「私が出したことになってるの」


 母はその時の様子を語った。

 可能性は限りなく低いと踏んでいたが、不倫の末の駆けおちも考えられた。偽造した離婚届を出されるのを防ぐため、失踪してから数日経ったころに離婚届不受理申出書を提出しに役所におもむいた。

 聞き慣れない言葉に頭にクエスチョンマークが浮かぶ。


「なに、その不受理ナントカって」

「世の中には、離婚届を偽造したり、相手に了承を取らないで勝手に出す人もいてね。それを防ぐために、もし誰かが離婚届を提出しても受理しないでください、っていう届け。なのに、役所の人が『あなたもう離婚されてるじゃないですか』って」

「それは変ですね」大村も母同様に口に手をやり、考えこむ。

「私も事情は説明したんですが、夫が失踪した日に届けが出されていたらしくて。しかも出しにきたのが私で、私とやり取りをしたって証言する人もいて。……離婚届、いまはオンラインで出せるでしょう。いまどき提出しに来るなんて珍しいから、よく覚えていたみたいで」

「母さんが出したのを忘れていたんじゃ」

「ありえない。出しにきたのはお昼ごろって言われた。お昼はあなたと父さんと3人でパンケーキ作っていたから」

「よく似た他人、という可能性はありますか」

「警察に頼みこんで防犯カメラも確認してもらったんです。目深まぶかに帽子をかぶっていて顔は分からなかったけれど、その日私が着ていたのと同じような服を着て、背格好も似ている人が建物に入っていくのが映っていました。でも」


 次にどういう言葉がつむがれるか予想がついたのか、大村が言葉を継ぐ。


「建物を出るところは、映っていなかった」


 母は神妙な顔でうなずき、ささやきを落とした。


「それどころか、室内の防犯カメラにも映っていなかったんです。あれはいったい、誰だったんでしょう」

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