#17 変革


 どこから話せばいいかと問う母に、大村は差支えなければ遡れるだけ全部教えて欲しいと丁重に頼んだ。彼女は静かにうなずき、話しはじめた。


 夫の名は皆川惣次みながわそうじ。友人が家庭内暴力を受けているという相談をしに三神法律事務所を訪れた。事務所設立から日は浅く、母は弁護士3年目だった。

 彼は一人の男性を伴ってきた。衣服に隠れる部分が青あざまみれで憔悴しきった様子の友人を励ましつつ、なんとかなりませんか、と相談を持ちかけてきた。


 父は自らについて、名門私立高校で国語教師をしていると話した。おだやかな風貌は一見頼りなさげであったが、明朗に話し、言葉には説得力があった。

 友人のDV事件が落着すると彼の代わりに費用を肩代わりし、世話になったほうぼうへあいさつに来た。同い年だというのに出来た人だ、と母は感心したという。


 その一件きりだろうと思っていたが、偶然にも生活圏が同じだった。喫茶店で読書をしていた母に父が声をかけ、話が弾み友人として接するうちに深い仲となった。一年ほどの交際期間で二人は結婚の意思を固めた。


 母方の祖父母は当初、結婚に難色を示していた。父の出自が不明瞭なことを不安視していた。

 父は幼いころに一家離散し、ずっと施設で育ってきたと話していた。複雑な家庭環境であることは察していた、と母は振りかえる。


「家族の話をしたがらなかったし、写真を持っているふうでもなかったし。惣次って名前からして、上にきょうだいがいるのかと思ったんだけど、聞いても笑ってはぐらかされてね」


 神崎家が弁護士や警察官、市議会議員といった堅い職業に就く者が多かったのも祖父母がしぶる理由のひとつだった。だが、皆川惣次という男の真摯な人柄と、口の達者な娘に言い負かされるかたちで条件つきながら結婚を認めた。

 その条件というのが、子どもを神崎姓にすることだった。婚姻後も夫婦別姓を継続できる制度が浸透して以来、生まれた子が両親どちらの姓を名乗るのかは出生届を出す際に選択しなければならなかった。

 父はその条件を快く受けいれ、晴れて二人は結婚し、翌年には息子が生まれた。


「真悟という名前は夫が考えました。お腹にいるときからずっと呼びかけていて」

「子煩悩なかただったのですね」

「文句のつけどころのない父親でした。家事は手際がいいし、息子の世話も手慣れたもので。本人は覚えてないって言っていたんですが、前世は子持ちの女性だったんじゃないかな。彼が育休を長く取ってくれたので、私も早くに仕事復帰してお金を稼いでこれました」


 遡臓検査で前世の記憶を辿れるようになってから、社会の様相は変化した。家庭における役割分担が薄れたのもそのうちのひとつである。

 前世と同じ性別に生まれるものもいれば、異性に生まれ変わるものもいる。異性に生まれ変わった場合は、生理や声変わりといった「前世で知識としては知っていた性別特有の現象」を身をもって体験する。

 同性に生まれ変わっていれば、大多数は「なんとなく知っているなあ、これ」と潜在的にその事象を理解するが、異性に転生した者は大小なりとも困惑する。


 生まれ変わりが連綿れんめんと続くうちに、長きにわたって常識とされてきた社会的観念や性別による役割分担は段階を踏んで廃れていった。各家庭は前世の性別により役割を分担した。

 高校で現代社会を教えていた教諭は定年間際の女性だったが、彼女は前世も女性で、2000年代を生きていた。性別で窮屈な思いをすることが多かったと授業で述懐じゅっかいしていた。


「結局、経験しないと分からないものです。想像しましょう、相手の気持ちになってみましょう。そんなものは夢物語。その立場にならないと、本気になれないものです。人間なんてのは」


 彼女はそう言って闊達かったつに笑っていたが、本心はどうだったのだろう。

 遡臓の顕現は世界を揺るがすほどの驚きであり、大きな歴史の区切りになった。

 その存在と作用が世界に周知された2030年からの半世紀は『変革の世紀』といわれる。当時は遡臓を持つ世代と持たない世代が混在していた。それによる混沌がいかほどであったか、資料映像で当時の人が多弁に語るのを授業でも見た。


 母は早くに弁護士となった。記憶があったからだ。

 父は育児に慣れていた。おそらく彼も、記憶があったから。

 では自分は、男性か女性かを知りえるなにかを経験しただろうか。ふと考えがよぎる。


 母子家庭だったこともあり、生理の存在は早くに理解していた。いざきちんと説明をしようとした母から、生理について知っているかと聞かれたことも覚えている。

 しかし、小学生だった自分は生理のメカニズムや周期について知らなかった。将来は自分の身体にも同じことが起きると誤解もしていた。

 正直に答えると、母は丁寧に説明をしたのち「真悟は前世も男の子だったのかもね。それか、女の子だったのを覚えてないのかな」と鷹揚に笑っていた。


 自分は前世も男だったのかもしれない。そのことを機に思っていたものの、成長期におとずれた声変わりもまた、初めて経験する感覚だった。

 こんなに声がかすれるなんて知らなかったと瀬名にこぼせば、彼は声変わりを「懐かしい感覚」と表現した。「新鮮に感じるなら、前世は女性だったんじゃないか」とも。


 その後いっとき、母が前世に関する訴訟を扱うことがあり、大量の資料が家にあった。いい勉強になるからと母にすすめられて読むうち、知識が身についていった。その資料が、前世が男性だった人を中心に編纂へんさんされたものだったのも影響した。

 読みすすめるうち、得た知識が自分の前世の記憶だと脳が誤認した。

 自分の前世は男で、ただそれを忘れているだけだろう。思いかえせばあれもこれも、覚えがある気がする。

 その錯覚に気づかぬまま18の歳を迎え、前世なしルーキーだったという診断に戸惑った。


「真悟、そういえば遡臓検査はどうだったの」こちらの心情を見透かしたかのように母がたずねた。

「前世はなかった」

「うそ。男だったと思うって、よく言ってたのに?」


 面食らった顔の母に、むかし読んだ本がそう錯覚させたのだと説明するも彼女は首をひねっている。大村にも、なにかの間違いではないのかと念を押した。


「再検査もしましたが、結果は同じでした。気になることがおありですか」

「気になるというほどのことなのか、ちょっと」

「聞かせてください」大村が食いさがるので、彼女は観念したように言った。

「勘違いかもしれないですよ。……この子、昔から剣道をやっていて」

「はい」

「真悟、きっかけは覚えてる?」

「父さんがやっていて、勧められて始めたんじゃなかったっけ」


 母はそれを聞き、首を振った。


「違う。父さんもやっていたけど、あなたが生まれてからは離れていた。家で剣道の映像を見ることもなかったし、道具も物置にしまいっぱなしだったし。あなたが2歳半くらいのときかなあ。旅行先でお土産屋さんに寄ったら、店先にあったオモチャの刀指さして、欲しい欲しい! って」

「物珍しかったんじゃないの」

「それがね、お店の人が子供用を持ってきてくれて、持たせたらキレイに構えたの。さやにおさめる仕草も抜刀もサマになってて。型通りだよ、って父さんが一番びっくりしてたんだから。きっと前世の記憶だろうねえって店の人も驚いて、お侍さんかなあ、剣道の先生だったのかなあ、なんて盛り上がった。……あ、ちょっと待っててね」

 彼女はそう言い残して2階に上がっていった。大村がそっと耳打ちする。

「覚えてる?」

「初耳です。父の影響で始めたとばかり」


 いったい自分は何者なのかと頭を抱えたくなる。気まずい空間に、ドヴォルザークの「新世界より」が流れはじめ、より重苦しい雰囲気になる。

 少しして戻ってきた母はタブレットを手に持っていた。


「これが、そのときの写真」


 画面に映しだされたのは、幼い自分。

 刀を構えて満面の笑みだ。刀の持ちかたは剣道のそれで、きちんと正眼せいがんの構えを取っている。全身を映したかったのだろう、背後に立って神崎の頭に手を乗せている人物は肩から上が見きれていた。背格好からして父だろう。


「これ……」


 大村が興奮を抑えきれない声音でつぶやいた。その興奮が伝播でんぱしたかのように、心臓が早鐘を打ちはじめる。

 幼き日の自分が持っているおもちゃの刀は、柄から刀身まで、すべてが真っ白だった。


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