#16 母親
「おかえり。大変だったでしょう」
出迎えた母の声音には心配が浮かんでいた。
「ただいま。心配かけて、ごめん」
「思ったより元気そうで良かった」
「ひととおり検査してもらった。なにも問題ないって」
ただ、突然あらわれた謎の刀と急に冴えだした第六感以外は。
すべてを明かせない苦しさに胸が締められる神崎をよそに、彼女は安堵した表情を浮かべ大村に頭を下げた。肩までの黒髪が重力にしたがって揺れる。
「息子がお世話になりました。細かくご連絡もいただいて、ありがとうございます」
「とんでもありません。こちらこそお忙しいところお時間をいただいて」
「立ち話もなんですし、どうぞお入りください。お車にいる方も」
「大人数で押しかけるのも恐縮ですし、僕だけで」
リビングにはカレーの匂いがただよっていた。夕飯どきに申し訳ない、と大村が詫びる。
彼へ席につくよう勧め、母は飲み物を淹れるためにキッチンへ立った。手伝おうとしたが、怪我人は座ってなさい、と軽く言われて戻される。
どこに座るか迷ってから、大村の隣の椅子を引いた。湯がわきはじめる音と、食器が触れあう音が響く。
「ジャーヴィス、クラシックかけて」
『かしこまりました』
手を動かしながら彼女が言うと、天井のスピーカーからAIアシスタントが男の声で返事をした。控えめな音量で、ショパンの「ノクターン」が流れはじめる。
神崎家には母・琴美たっての希望でAIシステムが導入されている。風呂の給湯や電灯のオンオフ、窓の開閉や施錠確認などをAIがサポートする。
彼女はAIの名前を「ジャーヴィス」にすると言って聞かなかった。例の、彼女が前世から大好きだという映画シリーズで天才発明家の主人公をサポートするAIの名前がそれなのだ。映画が好きだからAIシステム導入に踏みきったのではと思うくらいだった。
親の権力というものを振りかざす行為を嫌がるタイプの彼女が「いいでしょ、私が全部払うんだからさー」と駄々をこねまくる彼女を見、呆れ半分に頷いたのは数年前の話だ。
自宅にいるのに手持ちぶさたな気持ちになり、リビングを見まわす。
テレビの前にあるガラス製のローテーブルには、仕事の資料と思しき本が散らかっていた。仕事に行き詰まると、それらを散らかしっぱなしにして別のことを始めるのが母の癖だ。そして、とちゅうでふと散らかったままのテーブルを見、「あー、仕事したくなーい」と大きく独り言をこぼす。
どこか大ざっぱで子どもっぽい面を持つ母と13年、二人きりで暮らしてきた。
コーヒーと茶菓子がテーブルに置かれる。
まず大村は自己紹介をした。母は端末に送られた情報を見るなり、お若いのに室長さんなんですか、と感心の声をあげた。
国立記憶科学研究所の組織構成を神崎はよく知らないが、母が仕事の関係で何度か関係者とやり取りをしていたのは知っていた。前世の記憶を継いでいるとはいえ、大村ほど年齢で室長の地位にいるというのは珍しいことのようだ。
「失礼ですが、大村さんはおいくつなんですか?」
「今年で32になります」
第一印象や振る舞いで20代か30代そこらという印象を持っていたが、予想よりも正解が上でやや驚いた。母のちょうど一回り下ということになる。
母も自らの情報を大村の端末に送った。ちらりと盗み見る。
『
三神法律事務所は、母が弁護士仲間と立ちあげた。創設時のメンバー3人が
母もまた前世の記憶により大学まで飛び級をした。父と出会ったときには既に弁護士だったらしい。企業法務と債務関係をおもに担当し、それなりに名の通った企業の顧問弁護士も務めている。
「弁護士さんなんですか、すごいなあ」大村は感嘆の声をあげた。「真悟くんはこちらがどんな話をしてもすぐに理解してくれたり、先回りして言いたいことを察してくれたりしたので、人の話を聞くのがうまいなあと思っていたんです」
世辞ではなく本心から言っているようで、素直に嬉しく感じる。『物分かりが良い』『聞き上手』と担任教師や友人たちからよく言われてきたが、間違いなく母の影響が大きい。
彼女の実際の仕事ぶりを目にしたことは多くはないが、近隣住民とのやり取りでその傾聴力がいかに優れているかは分かった。人当たりよく差し出がましくない程度にアドバイスをしていくうち、いつの間にか「なにかあれば琴美さんに相談」という図式が近所で成り立っていた。
兵庫に住む母方の祖父母は無用なトラブルに娘と孫が巻きこまれるのではと心配していたが、杞憂だった。近隣住民は、単に丁寧に話を聞き、置かれている環境を理解したうえで最も適切な言葉を届ける彼女に話をすることで安心を得るようだった。
そのおかげで母は「夫が幼い息子を置いて蒸発してしまった可哀想な神崎さん」という目で見られることはなく周囲から愛され、その目はそっくりそのまま息子にもそそがれた。
このご時世では珍しく、神崎はずいぶん近隣住民に目をかけられて育った。
短縮授業の日には隣家の老爺が代わりに迎えに来てくれ、学校が終われば真向かいの家で大学生の息子に勉強を教わり母の帰宅を待った。
成長したいまでは、双子の赤ん坊が生まれたばかりの向かいの家のために買い物を代行し、隣家の老爺の孫娘に勉強を教える日もある。翼や祐梨をたまに預かるのも、その流れの一つだった。
「自分のことを話しているあいだは、なんの情報も得ていない」と母はよく説いた。まずは情報を集めることを心がけ、分からない領域は見識の深い人から話を聞いて理解を深めなさい、とも。
母の傾聴力は大村との会話でも発揮された。
怪我をした状況、事件の概要や身体検査の結果、ICTOに興味を持った経緯。時おり見せられる資料にもきちんと目をとおし、疑問に思った点はためらいなく切りこんだ。
大村は大村で、母が話を飲みこめていなさそうだと見るや疑問点を聞きだして詳しく解説をくわえた。それが誠実な印象として映ったのか、彼女も質問を重ね、途中からはちょっとした軽口が互いの口から出るくらいには打ちとけた。
そこから話は具体的な職務内容にうつった。
組織形態は自衛隊や警察官に似ている。基本的には前世の記憶に関する研究の補助、前世が犯罪者である人間の監査をおこなう。不審人物がいれば警察と連携して対処する。
就職扱いになるが、国の定める特例に該当するため支払い済みの大学入学金と諸費用は全額返金される。大卒検定も希望すれば受験できるし、必要な教材やオンライン授業の受講を希望するなら補助制度もある。実際に、加入しながらも大卒検定を取った者はおおい。
加入すれば敷地内の寮で暮らす。休日は帰宅許可が出るが、状況によって帰れない日も出る。
職務に従事するにあたり秘匿義務が生じ、重大な違反を犯した場合は日本の法律ではなく国際法で処罰されることもある。
給与に話になり、大村は新人への支給額の例を提示した。その額は小遣いや短期アルバイトで得た賃金とは比べ物にならないほど高かった。にも関わらず彼は「実働ですと、ここに危険手当が加算されます」とタブレットを操作した。金額がさらに跳ねあがり、病室で彼の言っていた『給料はビビるほど高い』というのが出まかせなどではないのが証明された。
「
母がひときわ真剣な声音で問うた。大村はうなずき、昨年の殉職者数を告げた。警官比べると半数以下ではあるが毎年殉職者は出る。怪我によって業務内容の変更を余儀なくされた者や退職した者もいると加えた。
聞いた情報を頭で
「どうして興味が湧いたのか聞かせてくれる?」
二人の目がこちらをじっと見ている。まだ明確な答えを出せたわけではなかった。上手く言えないけど、と前置きし、思いのたけを話す。ショパンの「別れの曲」が流れている。
「話を聞いていくうち、自分が知っていた常識が、ひとつの側面に過ぎない気がして」
「側面」母はつぶやくように繰り返す。
「本当は見えていない面があったのに、知らなかったり、知られないように配慮されていたりしたのが分かって」
「もっと、世界のことを知りたいってこと?」
「前世の記憶がある、とか、夢は前世の記憶を映し出している、って、いまは常識だろ」
「うん」
さえぎることなく聞いてくれる。頬杖をつき、穏やかな温かさをたたえた瞳がこちらを見ている。
父もそういう人だった。いつもニコニコしていて、声を荒げて怒ることは一度としてなかった。
「その常識で辛い目に遭っている人もいる。前世で味わった苦しい記憶を持って生まれてきて心に傷を抱えている人も、人となりで勝手に前世を決めつけられて肩身の狭い思いをしている人とか」
「多いね。私も仕事で、前世にまつわる名誉棄損を扱うこともある」
「そういう事態が、こうして一つの側面しか知らされていない状態で起きているなら、他の面をさぐって新しい常識を確立すれば傷つく人を減らせるんじゃないかって思った。具体的になにがどう、って言えるわけじゃなくて、まだなんとなくだけど」
たどたどしくなり、語尾が小さくなる。母もまた小さく言った。
「翼くんちのおばあちゃんのことも関係ある?」
束の間、目をそらす。視線を戻し、はっきりとうなずいた。
熊岡の前世が犯罪者だという噂が流れた。おばあさんがそれを
前世の噂が流布することがなければ、熊岡はもっと別の手段で保護できたかもしれない。救えたのはおばあさんだったかもしれず、また熊岡であったかもしれなかった。
前世の記憶を取り戻しさえしなければ、熊岡が実直に生きる一般人でありつづけた未来だってありえただろう。
前世を思いだすということは、ひとつの業にも思えた。過去の記憶に引きずられてしまうのなら、いまを生きる意味とはなんなのか。記憶に苦しめられる人々は、なぜ今世で前世の
苦しむ人々を救いたい。これ以上の犠牲者を出したくない。自分の力が役にたつのならば使いたい。命を懸けるのは怖いが、なにも知らなかったままで生きていくのはもっと嫌だ。
解明されていないあらゆることを突き止めたいという、好奇心と探求心の入り混じった深い感情。それが昨日からずっと、心の中に渦を巻いている。
その中心に、父の姿がある。彼について思い出せばなにかが分かる。確信に近かった。薄々と、彼はなにかを知って姿をくらませたのではとも思いはじめている。
「……親子だねえ」
神崎のつっかえながらの決意表明に、母は眉をさげ、どこか困ったふうに笑う。
「真悟くんのお父さんは……」
「この子が5歳の時に蒸発しちゃいました。いま生きているのかどうかも分かりません」
「父さんは、俺と同じことを言ってたの」
その問いに、記憶をたぐるように彼女は宙をあおいだ。
「『知ってしまったから、もう一緒にいられない』。いなくなった日、それだけメッセージが送られてきた。ほかにも不思議なことはたくさんあったけど」
「知ってしまった、って、なにを?」
「たぶん、前世の記憶じゃないかな」
「ご家庭の事情に立ち入るようで申し訳ないのですが、教えてもらえませんか」大村が切りこんだ。「もしかすると、お父さんがなにか重大なことを掴んだのかもしれません。我々が研究していることに繋がるなにか、という可能性も」
母は黙って神崎を見た。
あなたにも関係することだから、あなたが決めて。そう言っているふうに見えた。
「俺も聞きたい」
母はゆっくりと一度まばたきをして、口をひらいた。
天井のスピーカーから、ベートーベンの「月光」が流れはじめた。
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