第25話 偶然の邂逅②

 墓石の前で静かに手を合わせる。

 十五歳になったよ、と心の中で母に報告する。

 五月二十九日。母、葵の命日。茜は夏癸と一緒に、放課後に墓参りに訪れていた。

 

 今朝はまた夢を見た。母が亡くなった、翌朝の夢。悲しくて不安でどうしようもなくて、泣いてばかりいた茜を夏癸は優しく受け入れてくれた。

 彼がいてくれたから、こうして茜は無事に十五歳まで成長できた。まだまだ子どもな自覚はあるけれど、彼のもとにいられてよかったと心の底から思う。

 もしも夏癸のもとで暮らすことが許されなかったら――児童養護施設や顔もよく知らない遠縁の親戚の家で暮らすことになっていたらと想像すると不安になる。きっと、いまと同じ自分ではいられなかっただろう。

 

 茜はちら、と隣で手を合わせている夏癸の横顔を盗み見た。静かに目を閉じている彼は、葵の墓前で何を考えているのだろう。

 

(お母さん……わたし、夏癸さんに、好きって言ってもいいのかな)

 

 胸の内でそっと問いかける。当然、答えが返ってくることはない。

 修学旅行の夜に、柚香たちと話していて自覚した想い。夏癸とずっと一緒にいたい、本当の家族になりたい。――好きだと伝えたい。

 もちろん、いますぐに告白することはできない。きっと夏癸を困らせてしまうから。自分でも恋愛感情なのかどうかはまだはっきりとわからないから。

 けれど、いつか。大人に近づいたら。夏癸の隣に自信を持って並び立てるような人間になったら、気持ちを伝えても許されるだろうか。受け入れてもらえるかはわからないけれど。

 もしも葵が生きていたら相談したのだろうか。もしかしたら母にはそんなこと話せなかったかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、夏癸がふいに瞼を開いた。

 こちらに顔を向けた彼と視線がぶつかる。夕方になって少し冷たくなってきた風がスカートの裾を揺らした。下腹部が少しだけ重たい。いつの間にか尿意を催していた。


「そろそろ帰りましょうか」

「……はい」

 

 柔らかい夏癸の声に小さく頷く。

 駐車場に向かって歩いていると途中で手洗いの案内を見かけた。まだ我慢はできそうだけれど、できることなら済ませておきたい。

 夏癸さん、とおずおずと声をかける。

 

「あ、あの、帰る前におトイレ行ってきていいですか?」

「行っておいで。そこで待っていますね」

 

 霊園の閉門時間が近いため、ぱたぱたと小走りでトイレに向かう。急いで済ませて戻ってくると、夏癸は嫌な顔ひとつせずに待っていてくれた。

 

 ***

 

 土日を挟んで月曜日に中間テストが行われた。先週は誕生日だったり墓参りに行ったりと少し忙しなかったが、休日にしっかりとテスト勉強をしたので手応えは悪くない。けれど。

 最後の教科である英語のテストが終わり、茜は肩から力を抜いた。チャイムが鳴り響く中テスト用紙が回収されていく。英語は長文読解が少し難しかったので苦戦してしまった。

 

「茜、なずなー。英語どうだった? あたし長文全然ダメだったんだけど」

 

 テストを監督していた先生が教室を出ていくなり、柚香がやってきた。茜の前の席に座っているなずなが、振り返って応える。

 

「私も長文やばいかも。今回英語難しかったよね」

「そんなこと言って、なずなはまた学年一位とか取るんでしょー?」

「いやいや、今回はマジで無理だって。茜ちゃんはできた?」

「わたしも長文は自信ないかも……あとリスニングもちょっと難しかったよね」

「あー! リスニングもわかんなかった。もう適当に書いちゃったよ」

 

 あっけらかんとしている柚香に、茜は小さく苦笑を浮かべた。今年は受験生だというのに柚香のテストに対する姿勢はいままでとあまり変わってないように見受けられる。

 

「ところで明日遊びに行かない? カラオケとか」

「あ、ごめんね。明日は夏癸さんと買い物行く予定で」

「そっかー。なずなは?」

「……ごめん。私もちょっと用事あって」

「えー、なずなもー?」

「ごめんね、また違う日に行こ?」

 

 明日は創立記念日で学校は休みだ。茜は夏癸と一緒に都心の百貨店へ買い物に行く約束をしている。夏癸と二人で買い物に出かけるのは大体一ヶ月ぶりなので、テスト後の楽しみにしていた。普段の買い物は近場で済ませてしまうので都心に出かけるのも久々だ。

 

「はーい。ホームルーム始めるよ」

 

 担任の橘と教育実習生の葉月が教室に入ってくると、柚香を含め立ち歩いていた生徒たちは慌てて席に戻っていった。

 

「皆さん、中間テストお疲れ様でした。それではホームルームを始めます。まずは連絡事項があって――」

 

 今日の帰りのホームルームは葉月がメインで進めるらしい。少し緊張の滲む表情で教壇に立ち、手元のノートを見ながら連絡事項を伝えてくれる。

 

(明日、なに着ていこうかなぁ。あのワンピースにしようかな……)

 

 必要なことはメモを取りつつも、茜の意識はすでに明日のことに向いていた。

 

 ***

 

「――というのが当日の流れになります」

「わかりました。当日はよろしくお願いします」

 

 菱川出版文芸編集部内にある応接スペースで、茜はほんの少し緊張した面持ちで夏癸の隣に座っていた。買い物の前に編集部に寄ると彼から知らされたのは昨日の夜のことだ。

 編集部に連れてきてもらうのは初めてではないのだが、数えるほどしか来たことがないため、未だに緊張してしまう。

 向かいに座る担当編集の篠原が説明してくれたのは、来週末に行われる直林文学賞授賞式の当日スケジュールのことだった。

 茜も一緒に行けることになったのだが、本当にいいのだろうか。

 思わず夏癸の横顔を窺ってしまう。彼女の不安げな視線に気付いたのか、彼はこちらに顔を向けて柔らかい表情を浮かべた。

 

「茜? どうしました?」

「あ、あの……本当にわたしも行っていいんですか? 邪魔になっちゃうんじゃ……」

「大丈夫よ! ご家族を連れてくる方もいらっしゃるし。ね、日向先生?」

「ええ。茜が嫌でなければ構いませんよ」

「ね、茜ちゃんも、日向先生のかっこいい姿見たいでしょ?」

「は、はい……!」

 

 篠原の言葉に夏癸は軽く苦笑を浮かべたが、茜は思わず頷いてしまった。

 普段見ることのできない彼の姿を見てみたい。不安や緊張感よりも、その気持ちのほうが勝った。

 

「それでは、さっきも言った通り当日は正装でお願いしますね。中学生なら制服でも大丈夫だけど……せっかくなのでかわいいドレスとか用意するのはどうですか? 日向先生?」

「そうですね。このあと買いに行くつもりです」

 

 にこやかに応える夏癸の声に、今度は茜が驚いた。

 今日は夏癸が事前にオーダーメイドで注文していたスーツを受け取りに行くついでに、少しだけ買い物をする予定のはずだった。まさかドレスを買いに行くことになるとは思ってもみなかった。

 

「え、え、そんなの、悪いです……」

「そんなことありませんよ。それに制服だと浮いてしまうかもしれないでしょう?」

「そうですか……?」

 

 そう言われるとそうかもしれない。確かに中学生が参加するのは珍しいだろうし、会場で変に目立ってしまうことは避けたい。

 

(でも、ドレス……? ドレスなんて、着たことない……)

 

 せいぜい七五三の撮影のときに着たくらいだ。あのような撮影用の派手なものではなくてパーティードレスのことだとはわかる。けれど、それを着た自分は上手く想像できなかった。どうしても、結婚式などで大人の女の人が着ているものだというイメージが強い。

 茜が考え込んでいる間にも、夏癸と篠原は会話を進めていた。

 

「あ、そうだ。日向先生、できれば例の企画の資料をお見せしたいのですが、お時間まだ大丈夫ですか?

「ええ、時間は大丈夫ですが……」

 

 ちら、と夏癸の視線が茜に向いた。茜は慌てて我に返り、彼と視線を合わせた。

 

「わたし、待ってますよ」

「ごめんね、茜ちゃん。まだ社外秘な内容だから、少しだけここで待っててね」

 

 はい、としっかり頷く。

 そのまま二人は連れ立って席を立ったが、ふと夏癸が振り返って「茜、ちょっと」と手招きした。茜が歩み寄ると、夏癸は彼女を入口近くまで連れていき、廊下の奥を指差した。見慣れたピクトグラムが見える。

 

「お手洗いに行きたくなったら、あそこにありますから。とくに誰かに断らずに行って大丈夫ですからね」

「は、はい……」

「スマホは見れるようにしておくので、なにか困ったことがあったらすぐに連絡してください」

「わかりました」

 

 トイレの心配をされたのは少し恥ずかしいけれど、場所を覚えていなかったので安心した。いまは行きたくないのでもとの場所に戻り、静かにソファに座る。

 編集部内では何人もの人が忙しそうに働いている。どのような仕事をしているのか興味津々だが、部外者の茜が邪魔になってはいけない。あまりまじまじと見てはいけないものも置いてあるかもしれない。

 持ってきていた文庫本を開き、読みながら大人しく待つことにする。いつの間にか集中して読んでいたが、ふと下腹部の重さに気付いてページをめくる手を止めた。

 

(……おしっこ)

 

 ちら、と腕時計を見る。さほど時間が経ってないのにトイレに行きたくなってしまった。入り口のほうを窺うが夏癸たちはまだ戻ってきそうにない。

 

(トイレ行ってきてもいいよね?)

 

 仮に手洗いに行っている間に二人が戻ってきたとしても、茜が席を外している理由はわかってくれるだろう。ショルダーバッグの中に文庫本をしまい、荷物を持ってそっと席を立った。

 静かな廊下を歩いていき女子トイレへ足を踏み入れる。個室が全部空いていてほっとした。待つ余裕はあるけれど、出版社の社員の人と遭遇するとなんとなく気恥ずかしい気がする。

 

 一番奥の個室に入り、下着を下ろす。便座に備えつけられているボタンを押して流水音が流れ始めたのを耳にしつつ、お腹の力をふっと抜いた。しょろしょろと小さな水音が擬音に掻き消されながら便器の中に落ちていく。

 

(結構出る……)

 

 なかなか止まらなくて少し驚く。そういえば家を出る前に済ませたきりだった。都内郊外にある自宅から編集部に来るだけで車で一時間弱かかったので、それから更に時間が経っていることを考えると催すのも不思議ではなかった。

 先に流水音が止まってから、追いかけるようにおしっこも終わった。後始末をして個室を出る。

 手を洗いながら、タイミングを逃さずトイレに行けたことに安堵した。まさか出版社で粗相をするわけにはいかない。夏癸の評判にもかかわってしまうのだから。

 

 女子トイレを出て編集部へ戻るために歩き出す。静かな廊下で、ふと男性の話し声が聞こえてきた。

 

「――それでは、葉月先生、今日はご足労いただきありがとうございました。またご連絡いたします」

「はい。ありがとうございました」

 

 突然耳に入ってきた聞き覚えのある名前と声に、思わず足が止まった。

 廊下の向こうから男性二人が歩いてくる。恰幅のいい編集者らしき男性の隣には細身の男性がいた。少し距離があるが、その姿には見覚えがあった。

 

「えっ……椎名さん?」

 

 向こうもこちらに気付いたのか、驚いたような声でそう呟いた。

 そこにいたのは――茜のクラスに教育実習生として来ている葉月真也その人だった。

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