第24話 あの日の追憶

「ん……っ」

 

 ぼんやりと意識が浮上して、茜は重い瞼を持ち上げた。ぼやけた視界に見慣れない天井が映る。一瞬自分がどこにいるのかわからなかったが、夏癸の家に泊まったのだとすぐに思い出した。


「お母さん……」

 

 布団に横たわったまま天井の木目を眺めていると、昨日目にした光景が脳裏に蘇ってきた。

 もしかしたら、全部悪い夢だったのかもしれない。

 そんなことを考えたくなるが、まだ頭の中に鮮明な記憶が残っている。あれは確かに現実に起こったことだ。夢ではない。

 血の海と、横たわる母。救急車のサイレンの音。何が起こったのか分からなくてずっと泣きじゃくっていた自分。

 ――交通事故で母が亡くなったのは、紛れもない事実だ。

 

 茫然としたまま寝返りを打つと、下半身に違和感を覚えた。冷たい。なんだか濡れている、ような。

 驚いて飛び起きる。掛け布団を捲ってみると、シーツにはお尻の下を中心に大きな染みが広がっていた。

 

「……っ」

 

 茜は思わず息を呑んだ。

 パジャマも下着も濡れて肌に張り付いている。よく見ると掛け布団も濡れている。うっすらと黄色くシーツが汚れていて、きっと敷き布団も被害を受けているに違いない。――おねしょ、という単語が脳裏をよぎった。

 

「どうして……」

 

 こんなこと、もうずっとしていなかったのに。急に、なんで。

 借りた布団なのに汚してしまった。片付けないと。でも、どうやって。

 混乱した頭の中で、なんで、どうして、ばかりがぐるぐると渦巻いている。泣きそうになっていると、ふいにぶるっと身体が震えた。

 

(……おしっこしたい)

 

 おねしょで布団を濡らしてしまったにもかかわらず、寝起きの身体は強い尿意を訴えていた。早くトイレに行かないと。

 布団から出てトイレに向かおうとするが、おしっこを吸ってぐっしょりと濡れたパジャマを見て顔をしかめた。

 

(どうしよう。夏癸おにいちゃん、怒るかな)

 

 泊めてもらったというのにおねしょをして布団を汚してしまったと知られたら、普段は優しい夏癸でもさすがに怒るかもしれない。茜はもう四年生で、小さな子どもではないのだから。

 どうしようどうしようと困惑している間にも、重たい下腹部は切羽詰まった尿意を訴えてくる。とにかく、いまはトイレが先だ。はやくおしっこがしたい。

 

 そっと襖を開けて廊下へ出る。客間からトイレは近い。無意識のうちに足音を殺して廊下を進もうとした茜だが、床を見つめる視界に入ったスリッパを履いた両足を見て、思わず足を止めた。

 

 ***

 

「ああ、茜ちゃん。起きてきたんですね」

 

 客間に向かっていた夏癸は、廊下に出てきた茜を見て少しだけ目を丸くした。少し遅めの朝食の準備ができたので、ちょうど起こしに行こうとしていたところだ。

 優しく声をかけてから何気なく視線を下げると、彼女のパジャマが濡れていることに気付いた。どうしてなのか瞬時に考えて、思い当たったことはひとつだけだった。

 

「……おねしょ?」

 

 思わずその単語が口をついて出た途端、目の前にいる少女の瞳にぶわっと涙が溢れた。

 

「ふ、ぅ、うぇぇ……」

 

 桜色の小さな唇から嗚咽が漏れる。茜はパジャマのズボンをぎゅっと握り締めて、ぼろぼろと涙を零してしまった。

 突然泣き出されて、日頃動じることの少ない夏癸もさすがに慌てふためいた。

 

「わっ、す、すみません。嫌な思いさせちゃいましたね。いまのは俺が悪かったです。ごめんなさい、泣かないでくださいっ」

 

 膝を折り、頭を撫でて慰めようと手を伸ばす。

 すると急に、ぴちゃぴちゃと床を叩く水音が耳に入ってきた。思わず視線を下に向けると、茜の足元に小さな水溜まりが広がっていくのが見えた。

 一瞬驚いたものの、トイレに行きたくて起きてきたのかとようやく察する。

 泣いたせいでお腹に力が入って出てしまったのだろう。せめてこれ以上は彼女を傷付けまいと、表情筋を総動員して顔色を変えることはしなかった。

 なんとか茜を落ち着けようと、優しく頭を撫でる。

 しかし、下を向いて脚に伝うものに気付いた茜は、目を丸くするとともに余計に頬を紅潮させてしまった。

 

「ご、ごめ、なさ……おしっこでちゃったぁ……っ」

 

 ひっくひっくと泣きじゃくる茜に視線を合わせ、夏癸は優しい表情と声色になるよう心がけて口を開いた。水音はすでに止まっていて、ぽたぽたとパジャマの裾から雫が滴り落ちている。

 

「大丈夫。大丈夫ですよ。そのままだと気持ち悪いでしょう? 早く着替えておいで?」

 

 そっと背中をさすって浴室へ行くように促したものの、茜はただしゃくり上げるだけでその場を動こうとはしなかった。

 困った。早く着替えさせてあげたいのだが、どうしたものか。

 僅かな時間悩んだ末に、夏癸は茜をそっと抱き上げた。そのまま浴室へ足を運び、タイル張りの床の上に静かに下ろす。優しく髪を撫でながら、泣き続けている茜の顔を覗き込んだ。

 

「身体、洗いましょう? 自分でできますね?」

 

 柔らかな声で問いかける。しかし返ってきたのは首を振る返答だった。おまけにぎゅっと袖口を掴まれる。

 夏癸は困惑しつつ再び口を開いた。

 

「俺が洗ってもいいんですか? ……嫌じゃありません?」

 

 今度は小さな頷きが返ってくる。

 果たして十歳の少女の身体を洗うことは倫理的に許されるのか。逡巡するものの、目の前の茜は下肢を濡らしたままぐすぐすと泣き続けている。一人にしたところでずっとこのまま泣いているかもしれない。

 どちらにせよ、精神的に不安定になっているいまの茜を一人きりにするのは良くないだろうと判断した。

 夏癸は軽く息をついてから、すでに濡れているシャツの袖とパンツの裾を軽く捲った。

 

 パジャマを脱がせてぬるま湯を張った洗面器に浸けておく。洗濯は後回しだ。

 一糸纏わぬ姿になった少女を目にしても特別な感情は湧いてこなかった。どうやら自分にロリコンやペドフィリアの気はないようだと安堵しつつ、なるべく身体を直視しないように視線を逸らす。

 温度を調節したシャワーを自分の腕にかけて熱すぎないか確かめる。大丈夫だろうと判断して、茜の足先に軽くシャワーをかけた。

 

「熱くないですか?」

「……ん」

 

 茜が小さく頷くのを見て、全身を軽く流してから薄手のタオルに石鹸を泡立てた。汚れた下肢を優しく洗ってやり、シャワーで泡を洗い流す。

 湯冷めしないうちに、とバスタオルを被せて全身の水気をしっかりと拭った。

 昨日のうちに数日分の着替えは持ってきていた。昨夜の入浴時から脱衣所に置きっぱなしになっていたボストンバッグから適当に見繕った下着とワンピースを着せる。

 湿った髪をタオルで拭いていると、茜は涙の混ざった声でぽつりと呟いた。

 

「……ごめんなさい。お布団汚しちゃった」

「大丈夫ですよ。あとでちゃんと綺麗にしますから」

 

 しかし、おねしょの後片付けなど初めてなのでやり方がよくわからない。あとでインターネットの検索に頼ることにする。

 

「お、おもらしもしちゃって、ごめんなさい……」

「気にしなくていいんですよ。そういうこともあります」

 

 声を震わせる茜に、夏癸はただ優しい声で応えた。濡れた廊下は雑巾で拭けばすぐに片付く。

 タオルの上から頭を撫でると、茜は深く俯いた。どんな表情を浮かべているのか、夏癸からは見えない。

 

「……夏癸おにいちゃん。わたし、これからどうなるの」

 

 ぽつりと、小さく呟かれた言葉。

 瞬時に答えるべき言葉が出てこなかった。夏癸は少しの間考えを巡らせてから、優しく問い返した。

 

「……どうって?」

「だって、お母さん、死んじゃった……」

 

 消え入りそうな声に胸を突かれる。

 ――葵の急な死は、夏癸にとっても受け入れがたいことだった。

 

 正直、まだ現実感がない。悪い冗談だと思いたい。

 昨日の昼に電話がかかってきて、彼が病院に駆けつけたときには葵はすでに息を引き取っていた。

 茫然とした。信じられなかった。けれど心のどこかには冷静な自分がいて、病院の職員や警察官と事務的なやり取りをしながらも、泣きじゃくっている茜のことを一番に気にかけていた。

 茜は幸い――と言っていいのかはわからないが、軽い擦り傷程度の怪我しかしていなかった。信号を無視して横断歩道に突っ込んできた車に気付いた葵が、とっさに娘を突き飛ばして庇ったらしい。

 

 唯一の肉親を突然失って混乱している茜を一人にするわけにはいかなかった。自分と茜と葵の関係性を説明して、なんとか一時保護施設に連れて行かれることは避けて、家に連れて帰ることができた。アパートの合鍵を預かっていたから、着替えなど最低限必要なものは持ってきて。

 葵にはすぐに頼れる近しい親族がいない。葬儀などは警察から連絡がいった親戚――夏癸も一度だけ会ったことのある遠縁の者が手配をするそうだ。本来は他人である夏癸にも、やらなければいけないことは山ほどある。

 茜のことは葵から託されていた。――万が一のときなど、来てほしくはなかったけれど。彼女から『お願い』されていたから、ただ悲しみに暮れている暇はなかった。

 

「大丈夫。俺が傍にいます」

 

 静かな声で夏癸は囁いた。

 力になると、約束した。彼女の『一生のお願い』は叶えなければいけない。

 

「絶対に茜を一人になんてしません」

 

 しっかりと言い聞かせるように、力強い声で言葉を紡ぐ。

 顔を上げた茜は、夏癸の表情を見てくしゃりと顔を歪めた。泣き腫らした目から新たな涙が零れ落ちる。

 縋りつくように抱き着いてきた茜を受け止める。

 声を上げて泣く彼女の涙が止まるまで、ただ優しく抱き締めていた。

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