第26話 彼の正体
「葉月先生……?」
トイレから戻る途中、廊下で葉月眞也と遭遇した茜は戸惑ったままその場に立ち尽くした。
どうして出版社に葉月がいるのか。その理由がわからなくて混乱する。けれど、頭の片隅に何か引っかかるものがあった。
「椎名さん……どうしてここに……?」
「君は確か、日向先生のところの……葉月先生、お知り合いですか?」
「ええと、教育実習先の学校の生徒さんです」
目を丸くしていた茜の顔を見ていた葉月が、隣に立つ編集者らしき男性に問われて頷いた。男性は茜のことを知っているようで、確かによく見ると見覚えのある顔だった。以前、夏癸に連れられて編集部に来たときに少しだけ顔を合わせた覚えがある。
そんな彼と一緒にいて、学校でもないのに先生と呼ばれているということは、葉月も小説家なのだろう。
(葉月眞也先生……眞也……ま、や?)
思い至って、しまった、かもしれない。
初めて教室で会ったとき、彼の名前に覚えた既視感の理由に。
「葉月先生って……もしかして、葉月マヤ先生……!?」
思わず声に出してしまう。
「……うん。実は、そうなんだ」
葉月は困ったような笑みを浮かべながらもはっきりと頷いた。彼の返答を脳が認識して、茜の頬は一気に熱くなった。
(どうしよう……!!)
どうしようどうしようどうしよう。憧れの作家が目の前にいる。てっきり女性作家だと思い込んでいたから男の人だったことにはびっくりしたけれど、そんなことは些細な問題だった。
けれどまた疑問が湧く。彼の著作は全て少女向けライトノベルのレーベルから刊行されている。文芸とは編集部が違うはずだ。
「二人とも、立ち話もなんですから。中で座りませんか?」
「――中山さん。……いいんですか?」
「ええ。君も、日向先生を待っているんでしょう?」
中山と呼ばれた男性に訊かれ、茜は小さく頷いた。
編集部内に戻り、先ほどまで座っていた応接スペースに今度は葉月と向かい合って座ることになる。中山は二人の前にお茶を置くと「なにかあったら呼んでください」とだけ言って自身のデスクに戻ってしまった。
いきなり二人きりにされても何を話したらいいのかわからない。手持ち無沙汰になってしまい、出されたウーロン茶にそっと口をつける。向かいに座る葉月も同じようにお茶に口をつけていた。
なんだか気まずい。何か言わなければいけない。茜は両手に紙コップを持ったまま、意を決して口を開いた。
「あ、あの、わたし、『伯爵様の花嫁』いつも読んでて、大好きです……!!」
まるで恋の告白のような勢いで告げた言葉に対し、葉月は口元に柔らかい笑みを受かべ、持っていた紙コップを静かに置いた。
「ありがとう。この前手紙もくれたよね」
「は、はい……! あっ、お返事、もらえて嬉しかったです。ありがとうございます……!!」
「よかった、ちゃんと届いてたんだね。……実は実習初日のとき、椎名さんの名前を聞いてびっくりしたんだ。ファンレターをくれた子と同じ名前だったから。やっぱり本人だったんだね」
「あ……はい。そうだったん、ですね……」
自己紹介をしたときの葉月の様子を思い出す。確かに茜の名前を聞いて驚いたような顔をしていたが、その理由に納得がいった。
「……驚かせちゃったよね。葉月マヤが男だって知って。がっかりした?」
「そんなことないです……! びっくりしましたけど、でも、がっかりなんてしてないです! お会いできて嬉しいですし、すごく感動してますっ」
ふいに眉を曇らせた葉月に対して慌てて首を振る。
確かに驚きはしたけれど、がっかりなんてするはずがない。大好きな小説を書いているのが、いま目の前にいる人だという事実に変わりはないのだから。
「でも、どうして文芸の編集部にいらしていたんですか? いつもラピスラズリ文庫で書いていますよね?」
「実は今度、文芸の方でも本を出すことになって。その打ち合わせで来てたんだ」
「本当ですか!?」
「うん。でも、まだどこにも情報出てないから、誰にも言わないって約束してもらえる?」
しーっと唇に人差し指を当てる仕草をした葉月としっかり目を合わせて、こくこくと必死に頷く。大好きな作家との約束を破ることなんてできない。
「楽しみにしています……!!」
ありがとう、と葉月は優しく微笑んだ。それから、と言葉を続ける。
「僕が作家だってことも、学校では内緒にしてもらえるかな?」
「はいっ。絶対誰にも言いません……!」
学校といえば。ふと、気がかりだったことが脳裏を過ぎった。
そういえば助けてもらったときのお礼をまだちゃんと言えていない。
「あの、あのときはありがとうございました」
「あのとき?」
「えっと、学校で、廊下で、……あの、お手洗いに連れていってもらった……」
話している途中で恥ずかしくなってきて、語尾はごにょごにょと濁してしまう。けれど葉月はすぐに思い出したようだった。
「ああ、あのときね。お礼を言われる筋合いないよ。ぶつかっちゃってほんとごめんね」
「い、いえ、わたしこそ急いでたせいで、ちゃんと前を見ていなくて……」
少し思い出しただけでもやっぱり恥ずかしいので話題を変えたくなった。ほかに何か話すことはないだろうか。しどろもどろになりながら頭を働かせる。
「あ、えっと、この前のキャンペーンの短編読みました! 短いお話なのにすごく面白くて、シャーロットと伯爵の会話にすごくときめきましたっ」
「あれも読んでくれたんだね、ありがとう。読者さんと直接話すのって初めてだから感想聞けて嬉しいな」
「そうなんですか……?」
「うん。サイン会とかやってみないかって言われたことはあるんだけど、顔出しして作品のイメージを壊したくないし、やっぱり緊張しちゃうしね」
そう言って葉月は軽く苦笑を浮かべた。彼の穏やかな雰囲気にほんの少しだけ翳りが見えた、ような気がした。何故だろう。
「……あの、質問してもいいですか?」
「もちろん。答えられる範囲でだけど」
気になって、口を開く。けれど口を衝いて出たのは違う問いかけだった。
「葉月先生は、どうして、あんなに素敵な恋のお話を書けるんですか?」
自分でした質問に自分で驚く。けれど言ってしまった言葉は取り消せない。
葉月はぱちぱちと両目を瞬いてから、言葉を探すように首を傾げた。
「えーと……どうして、かぁ。改まって訊かれると難しいな」
「ごめんなさいっ。答えにくい質問、でしたよね」
「いや、ちょっと待ってね。んー、登場人物の気持ちに寄り添って感情の機微を丁寧に描写するようにしているから、かな……こんな答えでいい?」
「は、はい。ありがとうございます」
頷いたけれど、いまいち納得していないのは表情に出ていたらしい。葉月は再び苦笑を浮かべると、一度お茶を口に運んでから、茜に問いかけた。
「訊きたかったのは、僕の恋愛経験とか、そういうこと?」
こくん、と小さく頷くと、葉月は落ち着いた声で再び口を開いた。
「椎名さんも、誰かに恋をしているの?」
「……はい」
思わず、頷いてしまった。
「わたし、好きな人がいて……でも、その人はわたしよりずっと大人で、すごく優しくて、とっても素敵な小説を書いてて。全然、釣り合わないなってわかってるんですけど、いつか気持ちを伝えられたらなって思ってて。でも、告白とかしたら困らせちゃうんじゃないかって不安で――」
喋りながらいつの間にか俯き気味になっていた茜は、はっとして顔を上げた。
「それって……」
「あっ、違うんです! 葉月先生のことじゃないんです! って、ごめんなさい、こんな言い方、失礼ですよね」
目を丸くしている葉月を見て、自分の話した人物像が彼にも当てはまることに気が付いた。慌てて誤解を解こうとして余計に焦ってしまう。
「いやいや、大丈夫だよ。僕にも大事な人がいるから、椎名さんに好意を向けられていたらちょっと困るところだった」
「大事な人って……」
「一応、お付き合いしている人、かな」
葉月は気恥ずかしそうに呟いた。釣られて茜の頬もほんのりと熱を帯びる。
「その人は、気持ちをまっすぐに伝えてくれて……最初は戸惑ったけどすごく嬉しかったんだ。だから――あまり無責任なことは言えないけど、気持ちを伝えることは悪いことじゃないと思うよ」
「そう、ですか……?」
「うん。もちろん、好意を理由に相手が嫌がることをしてはいけないし、その人が大人なら、椎名さんが未成年のうちは付き合ったりはできないと思う。でも、気持ちをしまい込んだまま後悔するのはよくないから……気持ちを伝えたいタイミングが来たら、伝えていいんだよ」
葉月の言葉は柔らかくて、当たり前のことを言っていても説教臭さは感じず、素直に受け止められた。
「――って、なんか偉そうに色々言っちゃってごめんね。僕も恋愛経験は大してないから本当に一般的なことしか言えないんだけど」
「いいえっ、お話聞いてもらえて嬉しかったです。ありがとうございます」
葉月に話を聞いてもらって、悩んでいた気持ちが少し楽になった気がした。
もしかしたら、気持ちを伝えることすらいけないのではないかと思い込んでいたから、肯定してもらえて安心したのだと思う。
茜の表情が和らいだことに気付いたのか、葉月もほっとしたように小さく息をついた。
「よかったら、ちょっとだけ、僕の相談も聞いてもらっていい?」
「わたしなんかでよければ……!」
今度は葉月から相談を持ちかけられたことに驚きつつも首を縦に振ると、葉月は少しの逡巡ののちに口を開いた。
「……実は悩んでいるんだ。このまま作家を続けるか、それとも教師になるべきか。教員になると副業は許可が必要だったりするから、仕事として小説を書き続けるのは難しいかなって――」
「やめないでください!」
思わず、彼の言葉を遮って懇願してしまう。
職業として作家を続けることは難しいということはなんとなく知っている。生活がかかっているだろうし、彼にも将来設計があるのだろうから無責任なことは言えない。でも、それでも。葉月が小説を書くことをやめてしまうかもしれないと思うと、黙っていることはできなかった。
「物語を創るのって本当に大変だと思いますし、お金のこととか将来のこととか色々あると思います。……でも、でも、葉月先生の小説大好きだから、もっとたくさん読みたいです。『伯爵様の花嫁』も、ほかの作品も。本当に読者としてのただのわがままなんですけど、やめないでほしいです」
必死に言葉を重ねる。彼のことを困らせてしまっただろうか。
おずおずと葉月の顔を窺うと、少し呆気に取られているようだったが、やがてゆっくりと表情を緩めた。
「うん……。そうだよね、楽しみにしてくれてる読者さんがいるなら頑張らないとね。小説を書き続けられるように、就職のことはよく考えてみる」
ありがとう、と葉月は優しく微笑んだ。
茜はほっと胸を撫で下ろした。よかった。勝手なことを言って困らせてしまったのではないかと思ったけれど、彼が作家を続ける道を選んでくれるならとても嬉しい。
「――茜、お待たせしました」
いつの間にか編集部内に戻ってきていた夏癸に横から声をかけられて、肩がびくっと跳ねた。全く気が付かなかったのでびっくりした。
「夏癸さん……!」
「そちらの方は?」
夏癸はにこやかにしながらもどこか怪訝そうに葉月に視線を向けた。
「えっと、この人は……」
どうしよう。勝手に話していいのかな。悩みつつ葉月のほうに顔を向けると、彼は立ち上がって口を開いた。
「初めまして、葉月眞也と申します。椎名さんの中学校で教育実習をしています。一応作家として、葉月マヤというペンネームで何作か書かせていただいています」
「ああ、茜が好きな小説の……初めまして、日向夏癸と申します」
「日向先生! 作品、読ませていただいています。お会いできて嬉しいです」
二人は名刺を交換して軽く言葉を交わす。それから、葉月は夏癸に軽く会釈した。
「それでは、僕はこれで失礼します。椎名さん。また明日、学校で」
「あ、はい。ありがとうございました」
小さく頭を下げて葉月を見送る。彼は中山のデスクに向かい挨拶をしたあと、静かに編集部を出ていった。
「葉月先生となにを話していたんですか?」
「えっと……っ、学校のこととか、小説のお話とか、です」
何気なく夏癸から訊ねれらて、茜は内心焦りつつも平静を装ってそう答える。
――まさか恋愛相談に乗ってもらっていたとは、口が裂けても言えなかった。
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