第23話 雨の誕生日
夢を見た。十歳の誕生日の夢。
あの日は朝から雨が降っていた。しとしとと降る、柔らかい雨音に起こされたことをいまでも覚えている。目覚ましが鳴るより早く起きられたのは珍しかったけれど、それ以外はいつもと同じ朝だった。
布団から出て、キッチンで朝食の支度をしている母に「おはよう」と言う。葵は「おはよう、茜。お誕生日おめでとう」と微笑んでくれた。
トイレを済ませて、顔を洗って。着替えをして、父の小さな仏壇にいつもと同じように手を合わせてから食卓についた。トーストと少し焦げた目玉焼きとプチトマトとインスタントのコーンポタージュ。
いただきますと手を合わせて、朝のニュースが流れるテレビの音声を聞きながら食べ始める。毎朝似通ったメニューだったけれど、不満を覚えたことはなかった。
むしろ朝ごはんくらい自分で作れるようになりたいなと思っていたけど、早起きが苦手なのと、一人で包丁やコンロを使うことは危ないからまだダメだと言われていたから、実行には移せなかった。
葵は手早く朝食を食べ終えて身支度を整えていたけれど、茜を急かすようなことはしない。自分のペースで食べ終えて、食器を下げてから茜もランドセルを背負った。
家を出るタイミングはいつも葵と一緒だ。お気に入りのピンク色の傘を差して、雨の中を並んで歩く。アパートから出て少し歩いたところで、茜は小学校へ、葵は駅へ向かうために別れた。夜にはささやかな誕生日パーティーをする約束をして。
学校から帰ってくる頃には雨は止んでいた。けれど、急な仕事が入り、葵は夕飯時には帰ってこられなかった。勤務先の高校で生徒同士のトラブルがあり、対応に追われて残業をしているらしい。
夕飯は先に食べていてと連絡がきたので、夏癸が用意してくれたごちそうを彼と二人きりで食べた。ハンバーグとフライドポテト、ミモザサラダにミネストローネ。茜が食べたいとリクエストしていた料理を、夏癸は全て作ってくれて、盛り付けも可愛くしてくれたのが嬉しかった。誕生日プレゼントとしてリボンのついた可愛いヘアゴムも用意してくれていた。
母が一緒にいないのは寂しかったけれど、お仕事なら仕方ないと、納得したつもりだった。葵が予約していたケーキも夏癸が受け取ってきてくれていた。苺がたくさん載っているバースデーケーキ。
夕飯を食べ終えて、しばらく待っても母は帰ってこなかった。ケーキを食べるかと夏癸に訊ねられて、茜は首を振った。せめてケーキは葵と一緒に食べたいから、帰ってくるのを待つつもりだった。
先にお風呂を済ませて、パジャマに着替えて。歯磨きはまだしないで母の帰りを待っていたけれど、葵から「遅くなってごめんね。いまから帰るね」と連絡がきたのは二十一時を過ぎてからだった。普段ならそろそろ布団に入る時間だし、実際、睡魔に襲われてうとうとしかけていた。葵が帰宅するまで起きていられる自信はなかった。
「ケーキは明日の朝、お母さんと一緒に食べたい」と頼むと、夏癸は快諾して、ケーキには手をつけずに冷蔵庫にしまっておいてくれた。
翌朝、顔を合わせるなり、葵に謝り倒された。実は誕生日プレゼントもまだ用意できていないと告げられて、ちょっとショックだったけれどなんとなく予想はしていた。四月に新しい勤務先の高校へ異動してから、連日母の帰りは遅かったから。忙しいことはわかっていた。
朝食にケーキを食べるのはなんだか特別な感じがして嬉しかったけれど、やっぱり、誕生日当日に一緒に食べられなかったことを拗ねている自分も心の中にいた。
でも、そんな不満はおくびにも出さずに、大丈夫だよ、お仕事ならしょうがないよね、と葵に笑いかけた。母のことが大好きだから、自分のことで顔を曇らせたくはなかった。
埋め合わせとして翌日の土曜日にプレゼントを買いに行く約束をして、いつもと同じ時間にいつもと同じように並んで家を出た。
そんな日々が当たり前のように続くと信じて疑っていなかった。――たった一日で、この日常が失われるなんて。そのときの茜には知る由もなかった。
***
アラームの音で目を覚ました。ぼんやりと目を開けて、起床時間を知らせるスマホを手探りでタップして音を消す。寝起きのぼうっとした状態で天井を見つめていると、窓の外から静かな雨音が聞こえてきた。雨が降っている。夢で見たあの日と同じだ。
まだ眠たいけれど早く起きないと。ゆっくりと身体を起こすと、ぐしょ、と嫌な感触を下肢が捉えた。シーツが濡れている。なぜか、なんて考えなくてもわかった。
どうしよう。寝起きの頭が一瞬で真っ白になる。
今日は五月二十七日。茜の十五歳の誕生日、だというのに。
ひとつ歳を重ねた日に、幼い失敗をしてしまった。
「茜? 起きていますか?」
ふいに襖のすぐ外から夏癸の声が聞こえてきて、びくっと肩が跳ねた。足音が聞こえてくるはずなのにまったく耳に入っていなかった。
「開けても大丈夫ですか?」
続けて聞こえてきた声に、はい、と小さく返す。
その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、夏癸は少し間を置いてから襖をそっと開いた。部屋の中を覗き込んだ彼から思わず目を逸らして、俯いてしまう。
「ああ、起きていたんですね。……どうしました?」
心配そうに声をかけてくれた夏癸に、返答することができなかった。ちゃんと言わないといけないのに言葉が出てこない。自分が泣きそうな顔をしていると鏡を見なくてもわかる。
夏癸は静かに部屋の中に足を踏み入れて、布団の傍らで膝をついた。温かい手に背中を優しく撫でられて、茜はおずおずと口を開いた。
「な、夏癸さん……」
「ん?」
「ごめんなさい……おねしょ、しちゃったみたい……」
「ああ、今朝は少し冷えましたしね。洗えば大丈夫ですから、気にしなくていいんですよ」
柔らかい声音に小さく頷きを返す。
夏癸はきっとわかっていて、茜が口を開くのを待ってくれていたのだと思う。
大丈夫だと言ってくれたけれどこんな天気では洗濯物を乾かすのも大変だ。相変わらず防水シーツを使っているから敷布団こそ濡れていないけれど、汚れたシーツを洗濯するのはただでさえ手間がかかるのに。
ごめんなさい、ともう一度そっと呟いた。
「雨、降ってるのに」
「大丈夫ですよ、乾燥機も使いますから。早く着替えておいで」
「はい……」
着替えを促すと、夏癸は先に部屋を出て階下へ下りていった。部屋にいるままでは茜が布団から出にくいとわかってくれているからだ。
夏癸の姿が見えなくなってから、そっと布団から出た。濡れた下着とパジャマが肌に張り付いて気持ち悪い。急がないと学校に遅刻してしまう。染みの広がったシーツを見てため息を零しつつ、手早くシーツを剥がして浴室へ向かった。
***
今朝の失敗のせいで落ち込んだまま登校した茜だけれど、柚香となずなに誕生日を祝ってもらって、なんとか気持ちを持ち直した。朝から降り続いていた雨は放課後になる頃には上がっていて、教室を出る足取りも自然と軽くなっていた。
中間テストが近いため部活動は停止期間だ。柚香となずなと一緒に昇降口へ向かって歩いていると、突然、背中に声をかけられた。
「椎名さん、ちょっと待って!」
呼び止められて足を止める。少し驚きつつ振り返ると、椋が鞄も持たずに立っていた。
「あの、これ、よかったらもらって! 誕生日おめでとう!」
椋は一息にそう言うと、後ろ手に持っていた巾着袋でラッピングされた物を差し出してきた。反射的に受け取ってから、どうして彼が誕生日プレゼントを渡してくれるのかと、不思議に思って首を傾げる。
「えっ……あ、ありがとう! でも、どうして?」
「いや、なんか、よくお世話になってるし。お礼がしたいなって思ってて」
「そんな、たいしたことしてないと思うけど……。でも、嬉しい」
ありがとう、ともう一度口にする。
「お返しするね。麻倉くんの誕生日っていつ?」
「九月六日。でも、気ぃ遣わなくていいよ」
「ううん。なにか考えておくね」
茜が頬を緩めると、椋はなぜか顔を赤くして「じゃあ、また明日」とそそくさと踵を返してしまった。何か急いでいたのだろうか。そこで、柚香となずなを待たせていたことに気付いて慌てて振り返る。
「あ、ごめんね。待たせちゃって」
「ううん。まさか麻倉がプレゼント用意してるなんてねーそっかぁ」
「うん。びっくりしちゃった。どうしてだろう?」
「……茜ちゃん、意外と鈍いよね」
「?」
なずなの言った言葉の意味がよくわからず首を傾げる。けれどなずなはそれ以上言及せず、「そういえば今度の英語のテスト範囲さー」と話題を変えてしまったので、茜もあまり深く考えはせずに二人とともに帰路についたのだった。
***
「――それでねっ、柚香ちゃんは苺の香りのリップクリームをくれて、なずなちゃんからはポーチをもらいました。リボンがついててかわいいのっ」
海苔の上に酢飯を広げ、サーモンとイクラを載せて巻きつつ夏癸に話しかける。今夜のメニューは手巻き寿司だ。座卓の上の大皿にはマグロやサーモン、イクラ、海老にきゅうりに厚焼き玉子と色とりどりの具材が並んでいる。
夏癸は直林文学賞を受賞してから、インタビューやエッセイなどの仕事が増えて忙しそうにしているので、なるべく調理に手間がかからないものをと考えてリクエストしてみた。もちろん、茜も夕飯の準備は手伝った。
「よかったですね。その……麻倉くんからはなにをもらったんですか?」
「紅茶のティーバッグです。入れ物の缶が本の形をしてて、かわいくって」
「……茜が好きそうですね。あとでケーキ食べるときに淹れましょうか」
「うん。薔薇のフレーバーなんですけど、夏癸さんも飲みますか?」
「私ももらっていいなら、いただきましょうか」
「一緒に飲みたいですっ」
夏癸と二人きりで過ごす誕生日は今年で五年目だ。全く寂しくないというと嘘になるけれど、それでもすっかり慣れてしまった。
食後に食べるケーキは苺のシフォンケーキを買ってもらった。淡いピンク色のクリームが表面に塗られ、ケーキの上には苺が飾ってある。ホールではなくカットケーキだけれど、茜の分にはチョコプレートが添えられている。
二人だけでは持て余すので、誕生日にホールケーキを買ったのは夏癸と暮らし始めてからは二回しかない。十一歳のときと、せっかく休日だからとお昼に柚香を招いて誕生日会をしてくれた十二歳のとき。ケーキに蝋燭を立てるのも、中学生になってからはなんとなく気恥ずかしくてやっていない。
大きなケーキがなくても、蝋燭の火を消さなくても、誕生日を祝ってもらえるだけで幸せだった。
「……茜。改めて、十五歳の誕生日おめでとうございます」
ケーキを食べ終えて、一旦席を立って隣室へ行った夏癸が、可愛らしくラッピングされた包みを手渡してくれた。
「ありがとうございますっ。……開けていいですか?」
「ええ、もちろん」
リボンを解いて、包装紙を丁寧に剥がす。中に入っているものはふたつ。ひとつは毎年くれる図書カード。小学生のときは三千円分だったけれど、中学生になってからは五千円に増額してくれた。
そして、もうひとつは、一冊の文庫本。厚さは普通の文庫本と比べるとだいぶ薄いが、マットPP加工が施された表紙カバーが巻かれ、タイトルは金の箔押しになっている。本の下部には、印象的な一文が書かれた帯が巻かれていた。なんだか去年もらった本よりも装丁が凝っている。――どこの本屋にも置いていない、世界に一冊しか存在しない本だ。
母を亡くした翌年から、夏癸は毎年、茜のためだけに短編小説を書いて誕生日プレゼントにしてくれた。本にも雑誌にもネットにも載っていない物語。読者はただひとり、茜だけ。
夏癸の小説のファンであるなずなにも、このことだけは内緒にしている。とくに口止めはされていないけれど、これは茜だけの秘密にしておきたかった。
最初は手作業で製本したものだったけれど、翌年からは個人で注文ができる印刷所に頼んで作ってくれている。ちなみにデザインは豊にしてもらっているらしい。
「今年も読めて嬉しいですっ。……あとでじっくり読みますね」
「ええ。楽しんでもらえたら嬉しいです」
手触りのいい表紙をそっと撫でる。今年は一体どんな物語が詰め込まれているのだろう。いますぐに読みたいところだけれど、読み始めたらきっと止まらなくなってしまうので先にお風呂と寝る支度を終えるつもりだ。
テスト前ではあるけれど、土日にしっかり勉強するつもりなので今夜だけはこの物語に浸りたい。
ふと気付くと窓の外から雨音が聞こえてきた。夜遅くから再び雨との予報だったけれど、少し早く降り始めたみたいだ。
雨はあまり好きではないけれど。いまだけは、そんなことは気にならないほど、幸せな気持ちで胸がいっぱいになっていた。
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