第22話 偶然の邂逅
修学旅行が終わってから一週間と少しが経った、ある日の月曜日。
茜たちのクラスに教育実習生がやってきた。担任の橘から紹介を受けたスーツ姿の青年が、緊張を滲ませた面持ちで口を開く。
「
葉月は穏やかな声で挨拶をし、丁寧にお辞儀をした。
拍手をしながら、茜は内心で首を傾げた。何故だろう。彼の名前になんとなく既視感がある気がした。けれど初対面のはずなので心当たりはない。
橘が連絡事項を伝えたあと、一時間目は英語なのでとそのままクラス全員が自己紹介をする流れになる。部活と趣味や好きなものを言うことになり、順番が回ってきた茜は緊張しつつ立ち上がった。
「椎名茜です。えっと、部活は家庭科部に入っています。趣味は読書です」
よろしくお願いします、と続けて頭を下げる。顔を上げると、こちらを見ていた葉月はほんの少しだけ驚いたような表情を浮かべていた。
「椎名、茜……さん?」
「は、はい。えっと、わたし、なにか……?」
「ああ、ごめんね。いい名前だなと思って」
「? ありがとうございます……」
不思議に思いながらも、それ以上追求することはできずに静かに席に着く。
もしかして彼とどこかで会ったことがあるのだろうかとも考えたけれど、やっぱり心当たりはなかった。
その後の自己紹介はつつがなく進んでいき全員分が終わると、橘が教壇に立ち、実習生の葉月は見学という形で英語の授業が始まった。
***
「ね、葉月先生ってさ、ちょっとシン先生に似てない?」
昼休み。図書委員の当番でカウンターに並んで座っている最中に、ふとなずなが話しかけてきた。図書室を訪れる生徒の数は正直あまり多くはない。カウンター業務が忙しいということはほとんどなかった。今日は返却本を戻す仕事もあまりない。
「『エトワールと秘密の宝石』の?」
「そうそう!」
「そういえば、似てるかも……」
“シン先生“とは、二人とも好きな作家、茅野ルリのファンタジー小説シリーズに登場するキャラクターのことだ。
ヒロインの家庭教師をしている青年だが、言われてみれば確かに見た目の雰囲気や穏やかな言動が小説に描写されている人物と似ている気がした。そういえば名前も似ている。彼の名前に覚えた既視感はそれなのかもしれない。
「このシリーズ、なずなちゃんに教えてもらったんだよね」
「林間学校のあとだったよね。なんか懐かしいなぁ」
時々やってくる本の貸し出しや返却の手続きをしては、合間にひそひそと抑えた声で本の話を楽しむ。そうしているうちに昼休みはあっという間に終わりに近付き、予鈴が鳴る数分前になっていた。
午後の授業に遅れてはいけないので、余裕を持って教室に戻れるように図書委員の仕事はいつもこのくらいのタイミングに終わる。
「あ、わたし、トイレ寄ってくね」
「はーい。先戻ってるね」
教室へ戻ろうとするなずなにそっと声をかけて図書室の前で別れる。
本当はお昼を食べる前に済ませておくつもりだったのだけれど、女子トイレが混んでいたので諦めてしまったのだ。
午前中の休み時間にも一度トイレに行ったので図書室にいる間はそんなに気にならなかったのだが、一人になった途端、一気に尿意が押し寄せてきた。
そっと膝をすり寄せて、ほんの少し足早に、図書室からほど近いトイレを目指す。
トイレ、早く行きたい。おしっこしたい。急がないとまずいかも。
焦るあまりに周りをよく見ていなくて、曲がり角を曲がろうとした瞬間、向こうから歩いてきた誰かと思いきりぶつかってしまった。
「きゃっ……」
「おっと」
反動に負けて思わず尻餅をついてしまう。身体に震えを感じて、茜はとっさにスカートの上から両手で足の付け根を押さえつけた。なんとか決壊は免れたけれど、このままでは立ち上がれそうにない。どうしよう。漏れちゃいそう。
「ごめんね、大丈夫? 怪我した?」
差し出された手と聞き覚えのある声に顔を上げる。ぶつかった相手は教育実習生の葉月だった。怪我はしていないこと伝えるために首を横に振るが、彼の手を取ることもできない。とはいえ、おしっこが漏れそうだと、知り合ったばかりの彼に告げることもできるはずがなかった。
「椎名さん? どうし――」
一瞬困惑した表情を浮かべた葉月だが、茜の様子を見て、それから廊下の先にある扉を見て、彼女が向かっていた場所を察してくれたらしい。彼はふとしゃがみ込むと、茜の背中と膝裏に手を回してきた。
「あと少し我慢してね」
そう言いつつ横抱きで抱き上げられ、早歩きで廊下を進んでいく。何が起こったのか理解できない。ただ、我慢しているものが溢れてしまわないように、必死に押さえる手に力を込める。
ほんの十数歩で辿り着いた女子トイレの前でそっと下され、茜は混乱しながらもトイレの中へ駆け込んだ。
手前の個室に飛び込み、なんとかスカートから離した手で鍵をかけて、もたもたと下着を下ろしながら和式トイレを跨ぐ。しゃがむのと水音が迸るのはほぼ同時だった。
(間に合ったぁ……)
ほう、と息を吐きながら、お腹の力を抜く。しゅいいぃぃ、びたびた、と音を立てながら我慢していたおしっこが白い陶器の中に落ちていく。
(葉月先生に、恥ずかしいところ見られちゃった……)
そのことを意識すると一気に顔が熱くなった。夏癸以外の男の人に、抱き上げられてトイレまで連れてこられたのなんて初めてだ。
恥ずかしいけれど、これ以上に恥ずかしい姿を見られることは避けられたのでよかった。
膀胱の中身を空っぽにし、スカートを整えて水を流す。手洗いを済ませ、ハンカチで手を拭きながら女子トイレから出ると、廊下に佇んでいた葉月とばっちり目が合ってしまった。
「せ、先生……あの、すみませんでした」
顔を合わせるのが恥ずかしくて、思わず勢いよく頭を下げてしまう。おずおずと顔を上げると、彼も気まずそうに苦笑を浮かべていた。
「僕こそごめんね。大丈夫だった? って、そんなこと訊いちゃだめか」
「い、いえっ。大丈夫でしたっ」
かああっと頬が熱くなる。彼とぶつかったためにピンチに陥ったが、彼が機転を利かせてくれたおかげで助かったのも事実だ。もしもほかの先生や生徒の前で粗相をしていたらと思うと背筋が冷える。
きちんとお礼を言わないと、と口を開こうとした瞬間、予鈴が鳴り響いた。
「っと、早くしないと授業始まっちゃうね。廊下は走っちゃだめだけど、少し急ごうか」
「は、はい」
葉月に促されて、走らない程度の急ぎ足で廊下を歩き始める。
三年生の教室まではギリギリ間に合う、はずだ。彼も午後は二年生の授業を見学するようで、実習初日から授業に遅れることなどあってはいけないと、少し焦った様子を見せている。
「じゃあ、椎名さん、またホームルームで」
階段の前で別れてお互いの教室に向かう。
五時間目が始まる前に教室には戻れたけど、お礼を言うタイミングは完全に逃してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます