第9話 回想、林間学校②
都内近郊にある学校からおよそ二時間半かかる長野の山の中。
宿泊施設に着くまでの移動時間の長さには不安を感じていたが、途中のトイレ休憩を挟んで問題なく到着することができた。乗り物酔いしやすいので気がかりでもあったが、酔い止めが効いてくれたので車酔いもしなかった。
きっと今日は失敗なんてしない、大丈夫だと自信を持ち始めた矢先だというのに。
山道をゆっくりと歩きながら、茜は僅かに冷や汗を浮かべていた。
(なんで、なんで、どうして……さっき、ちゃんと行ったのに……!)
登山の前にトイレを済ませておくように指示され、茜はきちんと指示に従った。
道中にトイレはなく山頂付近に仮設トイレがあるだけだと聞いてもいたので、水分を摂るのも気を付けようと思って水筒の中身は利尿作用の少ない麦茶にした。それだってここに来るまでで二、三口くらいしか口にしていない。
きちんと気を付けているのに、それなのに。
トイレに行ってから三十分も経たないうちに茜の身体は尿意を催していた。
(どうしよう……まだ着かないのに……我慢できるかな……?)
まだ物凄く切羽詰っているわけではない、けれど。
一度尿意を覚えてしまうとそればかりが気になってしまう。すぐにトイレに行ける状況ではないことにも不安が増す。
山頂までは歩いて一時間から一時間半だというが、茜のペースでは確実にあと一時間はかかってしまうだろう。それまで我慢できるのだろうか。
ただでさえ遅かった足取りが重くなる。
クラスごとに出発したときは周りに何人も生徒たちがいたというのに、ペース配分を考えてのんびりと歩いていたら何度も追い抜かれてしまい、茜はすっかり最後尾と思われるところを歩いていた。
一人だったら心細かっただろうが、運動部で体力はあるものの茜と一緒に歩いてくれている柚香と、茜と同じく体力に自信のないなずなが傍にいてくれるので寂しくはない。
寂しくはないものの、催してしまった生理現象のことを二人に話すわけにもいかないので、茜はただひたすら耐えるしかなかった。
一時間歩けばトイレに行ける。それまで我慢して、とにかく足を進めるしかない。
――そう決意したのだが。
(うぅ……おしっこ……我慢できないよぉ……っ)
それから十分としないうちに、茜の膀胱ははっきりと存在を主張してきた。
一歩足を進めるたびにお腹の中がたぷんと揺れるような気がして、思わず足を止めそうになってしまう。柚香となずなからは気付けば数歩ほど距離が空いていた。
落ち着かない両手が太腿の辺りを何度も擦ってなんとか尿意を誤魔化そうとするが、まったく効果が見受けられない。それどころか一分一秒と時間が経つごとに、限界がどんどん近付いてくる。
それでも懸命に足を進めていた茜だが、急に全身にぞくぞくと震えが走って、たまらず足を止めてしまった。思わずズボンの前を押さえてしまうが、二人に見られてはいけないと慌てて離す。幸いまだ下着に濡れた感触はないが、再び足を踏み出す勇気は出なかった。
「……ん、茜? だいじょーぶ? 疲れたー?」
茜が足を止めたことに気付いた柚香が、数歩先に進んだところで立ち止まり振り返った。
口を開こうとしたが、喉が凍り付いてしまったかのように声が出ない。思わず俯いてしまうと二人は困惑した様子で踵を返し茜に歩み寄った。
「茜ちゃん、どうしたの?」
「具合悪い?」
なずなも柚香も心配そうに声をかけてくれるのに、友達の前で生理的欲求を訴えることが恥ずかしくて言葉が出てこない。何年もの付き合いがある柚香の前でも言い出しづらいのに、仲良くなってから日が浅いなずなに対してはなおさらだ。
けれど、自分のせいで足を止めさせていることが申し訳なくて、早く言わなければと気持ちばかりが逸る。
「あ、あの、あの……っ」
震える唇を開いて、ぎゅうっとリュックの肩紐を握り締める。
じわり、と視界が滲む。
こんなことを言ったら余計に二人を困らせてしまうかもしれない。だけどもう、我慢できない。こんな状態で歩き続けるなんて不可能だ。
「……どうしよう……トイレ行きたい」
泣きそうになりながら、やっとの思いで茜はその言葉を呟いた。
「えっ」
「えーと、上にトイレあるって言ってたけど、そこまで我慢できない?」
なずなからの問いかけに茜は小さく首を振る。
「そんなに我慢できない……」
「んー……、じゃあその辺でしちゃったら? あたし見張ってるし」
「えっ、で、でも、誰か来たら恥ずかしいよ……っ」
柚香の提案を聞いて、みるみる顔が赤くなる。そもそもそれ以外の解決策などないとわかった上で告げたのだけれど、いざ外で用を足すことを促されると羞恥心や不安に襲われて躊躇ってしまう。
「私たちだいぶ後ろだし大丈夫じゃない? 少なくとも男子は来ないと思うよ」
「でも……」
なおも躊躇っていると、ふいに後方から声が聞こえた。
「お前たち、そんなところでどうした?」
三人が一斉に振り返ると、そこにいたのは担任教師の荻野裕一だった。確かしんがりを歩いて遅れている生徒がいないか確認しているはずだが、彼が追い付いてきたということは茜たちが本当に一番後ろにいるらしい。
「あっ、先生! あのね、茜がトイレ我慢できないって。どうしよう」
柚香が荻野に駆け寄り、困った現状を告げる。
(なんで柚香ちゃん先生に言っちゃうのぉ……!?)
異性の担任教師におしっこが我慢できないことを知られてしまい、茜の顔がますます真っ赤になった。恥ずかしくて彼と目を合わせることができない。
「ん、そうか。仕方ないからその辺りで済ませてきなさい。滑らないように気を付けてな」
荻野もほかに言いようがなかったらしく、道から少し外れた木の陰を指差した。
「は、はい……」
頷いてみるものの、茜はまだ躊躇ってしまう。
こうしている間にも刻一刻と限界が近付いてきているのはわかっている。実際、じっとしていることができなくてもじもじと膝を擦り合わせてしまう。でも、こんなところでおしっこをしなきゃいけないなんて、恥ずかしい。したくない。だけど。
どうしようどうしようと戸惑っているうちに、ふとなずなに腕を引かれた。
「私もしたいから、茜ちゃん一緒に行こ」
「えっ、なずなちゃんも?」
「うん。上まで我慢するつもりだったけど、やっぱり無理みたい」
えへへ、と恥ずかしそうになずなは苦笑を浮かべる。
自分一人だけが尿意を催しているのだと考えると物凄く恥ずかしかったけれど、なずなも同じだとわかると少しだけ気持ちが楽になる。
なずなに手を引かれて登山道を少し外れ、木立に向かった。
(でも、先生が近くにいるのに恥ずかしいな……見られたりしないよね……?)
覗かれることはないと思うが、万が一、用を足している姿が視界に入ってしまわないかと不安に駆られてしまう。心配になってちらっと後ろを顧みると、目が合った柚香が安心させるように親指を立てた。
「大丈夫、先生が覗かないようにあたし見張ってるし!」
「こら、河野」
荻野はたしなめる素振りを見せたが本当に怒っているわけではないのだろう。二人とも茜たちが視界に入らないように後ろを向いてくれた。
「私あっちでしてくるね」
腕を離したなずなは茜と距離を取って、別の木の陰に隠れるようにしゃがみ込んだ。躊躇いなくジャージを脱いで用を足そうとしている。
ほどなくして地面を叩く水音が聞こえてきて、それに誘発された茜の身体はぶるっと震えた。
「やっ、まだ、だめっ」
恥ずかしがっている場合ではなくなり、慌ててジャージと下着を一気に膝まで引き下ろしてその場にしゃがむ。途端に水流が迸った。
しゃあああ……と水音を立てて足元の地面におしっこが広がっていく。顔が熱い。心臓がばくばくしている。
(うぅ……はやく、はやく終わって……!!)
水溜まりが広がっていく地面を見ていたくなくて空中に視線を彷徨わせていると、なずなのほうが先に済ませてジャージを履き直しているのが視界の隅に映った。
あまり見てはいけないと思い、俯いてぎゅっと目を閉じる。ぴちゃぴちゃと雫が滴り落ち、ほどなくして水音が止まった。実際には数十秒にも満たない時間だったのに、茜にとってはまるで永遠のように感じられた。
そのまま下着を上げるわけにはいかないのでティッシュを取り出そうとして、ズボンのポケットではなくリュックサックの中に入れていたことを思い出す。
先に出しておけばよかった、と後悔しながらもたもたとリュックを下ろし、膝の上に抱えてポケットティッシュとウェットティッシュを取り出す。
濡れた下肢を拭いて、やっと下着とジャージを穿き直して立ち上がる。使ったティッシュをその場に捨てるのはいけないことなので、ゴミ袋用に持ってきたビニール袋に入れた。
手を洗えないのも気になるのでウェットティッシュでしっかりと拭き、同じ袋に捨てて口を縛り、リュックの底に押し込んだ。
はぁ、と息を吐いてリュックサックを背負い直す。
恥ずかしかったけれど、お腹が軽くなってすっきりした。安堵感に包まれて元の場所に戻ろうと足を踏み出す。
「茜ちゃん、終わった?」
離れたところにいたなずなが近付いてくる。用を足した跡を近くで見られたら嫌なので、茜も足早に歩み寄った。
「なずなちゃん、見てた……?」
「茜ちゃんだって私のほうちょっと見てたでしょ」
「うぅ……恥ずかしかったぁ」
「でもすっきりしたね」
「……うん」
小さく頷く。茜は恥ずかしくてたまらないけど、なずなは意外に平気そうな顔をしている。
恥ずかしくないのかな、と不思議に思ったけれどさすがに訊ねることはできなかった。
「柚香ちゃん、お待たせー」
なずなが声をかけると、荻野と何やら話していた柚香がこちらを振り向いた。
「茜、大丈夫?」
「うん。ありがとう」
心配そうに訊ねてくる柚香に、気恥ずかしいけれど笑みを返す。
幼い頃から付き合いのある彼女の前では何度も粗相をしてしまったことがあり、度々フォローされていたので、今回も彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。
若い男性である担任に生理現象のことを告げられてしまったのはとてつもなく恥ずかしかったけれど、おかげで最悪な失敗はせずに済んだ。
「なずなちゃんも、あの、ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ行こっか」
「河野は大丈夫なのか?」
「やだー先生セクハラー!」
「す、すまん、そんなつもりじゃ……つい心配で……!」
「柚香ちゃん、先生からかうのやめなよー」
友人たちの話し声にほんのちょっとだけ笑いながら、茜は先ほどよりも軽い足取りで山道を再び歩き出した。
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