第8話 回想、林間学校①

 学校からの帰り道。日頃は部活のある日は柚香と別々に帰ることが多いのだが、今日はテニス部の終了が早かったらしく、校門のところでばったり会った彼女と帰路をともにしていた。

 茜色に染まった空を視界に入れながら、通い慣れた通学路を柚香と並んで歩く。途中でなずなと別れたあと、話題は自然ともうすぐ行われる修学旅行のことになっていた。


「部屋割り、一緒になれてよかったよね」

「うん」

「修学旅行早く行きたいなー」

「そう、だね」


 楽しみにしている柚香に対し、茜は一瞬声を詰まらせてしまった。けれどすぐに笑みを浮かべて誤魔化す。柚香はとくに気にした素振りを見せることなく話を続けていた。



「はぁ……」


 帰宅後、今日配られた『修学旅行のお知らせ』という保護者宛の文書を見て、茜は小さくため息を吐いた。

 来月に予定されている二泊三日の修学旅行。決して行きたくないわけではないし、むしろ楽しみにしている。けれど、楽しみなのと同じくらい不安も大きかった。

 はあ、と思わず再びため息を吐いてしまう。


「どうしました?」

「あ、夏癸さん……」


 隣の部屋で仕事中だった夏癸が、いつの間にか居間に入ってきていた。茜が持っている紙に目を止めた彼に、そっとプリントを差し出す。


「ええと、これ、修学旅行の……」

「ああ、そういえばもうすぐですね。必要なものがあれば連休中に買いに行きましょうか」

「はい……」


 頷きながらもどことなく顔が曇っている茜に気付いたのか、夏癸は柔らかな表情でそっと首を傾げた。


「茜? なにか心配事がありますか?」


 問いかけに、小さく頷く。


「その、しちゃわないかなって……」


 もごもごと呟き、それ以上は何も言えずに口を噤む。けれどみなまで言わずとも彼にはお見通しかもしれない。夏癸は何かを思案する顔になってから、口を開いた。


「去年のスキー教室はお休みしたんでしたっけ。林間学校は……夜は、一応大丈夫だったんですよね?」


 夏癸の言葉に、茜は頬を染めて頷いた。二年生のときに行われた泊まりでのスキー教室は風邪をひいたため欠席したのだ。

 一昨年の林間学校では最大の心配事であったおねしょはしなかったものの、恥ずかしいことにそれ以外の失敗をしてしまった。先生やほとんどの生徒に知られることはなかったのだが、柚香となずなには恥ずかしい姿を見られ、隠し通すつもりでいたのに夏癸にもばれてしまった。

 今度の修学旅行でもやはり失敗をしないかという不安が大きかった。おねしょが心配なのはもちろん、移動中や見学のときには自由にトイレに行けないだろうし、もしも我慢できなくなったらどうしようなどと心配事は挙げ始めたらきりがない。


「やっぱり、橘先生に相談しますか? 夜起こしてもらうようにするとか」

「それは……」


 中学三年生にもなっておねしょの心配があることを告げるのは恥ずかしくて嫌だった。

 茜が言葉を詰まらせていると、夏癸も無理強いすることはなかった。おむつなどを持っていくのも万が一誰かに見つかったら恥ずかしいので却下。そもそも家でも使っていないものを修学旅行という特別な環境で使うことにも抵抗感がある。そうすると結局は、自分で気を付けるしかないという結論になるしかないのだった。


「……修学旅行、行きたくありませんか?」

「行きたい、です」


 静かな声に訊かれて、茜は首を振って返答した。夏癸は穏やかな笑みを浮かべて、茜の頭をそっと撫でた。


「なら、あまり考えすぎないでいきましょう? 最近はほとんどしていませんし、普段通りにしていれば大丈夫ですよ」


 それに、と夏癸は言葉を続ける。


「もしもしちゃっても大丈夫ですよ。普段しない子でも修学旅行なんかではおねしょとかする子は意外といるみたいですから、先生も想定していると思いますよ」

「……ほんと?」

「ええ。昔、葵さんから聞きました」

「……そうなんだ」


 高校教師をしていた母がそう言っていたというのなら、本当のことなのかもしれない。ほんの少しだけ気持ちが楽になったような気がした。


「念のため、着替えとか多めに持って行っていいですか?」

「もちろん、いいですよ。なんなら新しい鞄買いましょうか」

「ええと、そこまでしなくても……いまのもまだ使えるし……」


 小学生のときから使っているボストンバッグを持っていくつもりでいたのだが、夏癸が「せっかくですから」と言って譲らないので今度の休みに買いに行くことになった。なんだか悪いような気もするが、夏癸と出かけられることは素直に嬉しい。修学旅行に対する不安も軽くなってきた。


(林間学校もなんとかなったし……きっと、大丈夫だよね)


 恥ずかしいことに粗相をしてしまったけれど、あのときはなんとか乗り切ったのだから今度もきっと大丈夫なはずだ。そんなことを考えながら、茜は二年前の林間学校のことを思い返した。


***


「忘れ物はありませんか?」

「うん、大丈夫」

「トイレは?」

「行きましたっ」


 夏癸からの問いかけに茜は頬を染めてむっとした表情を浮かべる。


「すみません、つい心配で。じゃあ行きましょうか」

「はぁい」


 普段の登校時間よりも一時間以上早い朝の六時四十分。学校指定のジャージに身を包んだ茜はリュックサックとボストンバッグをトランクに載せてから車の後部座席に乗り込んだ。

 運転席に乗った夏癸がエンジンをかける。車が走り出してからほどなくして、茜は小さなあくびを漏らした。普段より早い時間に起きたのでさすがに眠い。

 軽く瞼を擦っていると、運転中の夏癸が気遣わしげに声をかけてきた。


「ゆうべ、ちゃんと眠れました?」

「んー、一応……」

「体調悪くはないですか?」

「それは大丈夫ですよぉ」

「ならいいですけど……」


 心配そうな夏癸の声にほんの少し苦笑する。

 朝は苦手なので、頑張って早起きした今日はいつも以上にぼんやりしてしまっているが、朝食はちゃんと食べられたし熱もないし体調は問題ない。

 今日からの林間学校に備えて昨晩は早めに布団に入ったのだが、寝付くのには少し時間がかかってしまった。なかなか寝付けなかった理由はとある気がかりのせいで――急に不安な気持ちが湧き上がってきて、茜はひそかにため息を吐く。

 そんな彼女の心境を見透かしたかのように、信号待ちで止まった夏癸が口を開いた。


「あまり心配しすぎないほうがいいですよ。小学校のときは大丈夫だったでしょう?」

「そうだけど……でも、昨日やっちゃったし……」

「でも今朝はしなかったでしょう。だから大丈夫ですよ」

「うん……」


 安心させてくれようとしているのがわかる夏癸の声に曖昧に頷く。

 小学校の林間学校や修学旅行では幸い夜の失敗をしなかったが、それは担任教師に事前に相談しておいて夜中に起こしてもらっていたからだ。

 まだ小学生だったので旅行前の事前調査にも夜尿についての心配が項目に入っていて、担任も女性だったから話しやすかった。


 だが茜はもう中学生だ。

 担任が男性ということもあり、林間学校前におねしょの心配を学校側に話すことは恥ずかしくてできなかった。できることなら夏癸以外には知られたくないことだ。

 いっそのこと不参加も考えたが、入学式の日を除いてここ最近シーツを濡らすことはなかったのできっと大丈夫だと自分に言い聞かせていたのだが、昨日久しぶりに失敗してしまったので大層落ち込んだ。

 おねしょの心配以外にも、登山やオリエンテーリングなど、すぐにトイレに行くことができない野外活動には不安を感じている。


(結局休まなかったけど……)


 悩みはしたものの、学校行事はなるべく休みたくないので、とにかく色々と気を付けようと心に決めて参加を決めたのだ。

 自宅から少し離れたマンションの前で夏癸が車を止める。窓の外を見ると、茜と同じ学校指定のジャージを着た柚香がいた。隣には母親の姿もある。


「おはよう、茜! 日向さんも、おはようございまーす!」

「おはよう、柚香ちゃん」

「おはようございます。荷物、後ろに載せてください」

「はーい! よろしくお願いしまーす!」


 荷物を載せた柚香が車に乗り込み、茜の隣に座る。半分ほど開けた窓越しに柚香の母が会釈した。


「すいません、うちの子まで乗せていってもらっちゃって」

「構いませんよ、近所ですし」

「柚香、茜ちゃんも、気を付けていってらっしゃい」

「はーい。いってきます!」


 手を振る母親に、柚香が手を振り返す。茜は軽く頭を下げて応じた。


「柚香ちゃん、朝から元気だね……」

「だって林間学校楽しみにしてたし! 茜は元気ない? 眠いの?」

「う……ん、ちょっと眠いかも」

「朝早いもんねー」


 夏癸が再び車を発進させる。徒歩だと二十分近くかかる道のりだが、車だと数分で学校に到着した。集合時間にはまだ少し余裕があるが、駐車場には保護者の送迎と思われる車が何台も止まっている。


「それじゃあ二人とも気を付けて。いってらっしゃい」

「いってきます!」

「いってきます」


 トランクから取り出してもらった荷物を受け取り、学校まで送ってきてくれた夏癸に見送られる。


「茜、あんまり不安にならないで、楽しんでおいで」


 くしゃりと頭を撫でて、夏癸が微笑む。眼鏡の奥から覗く優しい眼差しに見つめられて、不安に凝り固まっていた心が解きほぐされる。


「はいっ」


 茜は淡い笑顔を浮かべて、しっかりと頷いた。

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