第7話 家庭訪問

 自宅の居間で、茜は緊張した面持ちで正座していた。

 隣には同じように膝を揃えた夏癸がいて、向かいには担任の橘葉子が腰を下ろしている。

 今日は家庭訪問の日だった。毎年のことだが、学校の先生が家に来るというシチュエーションにはどうしても慣れなくて、つい緊張してしまう。子どもが同席するかどうかは自由なのだが、自分のことを話していると思うと気になって仕方ないので、茜は毎年同席させてもらっていた。


 橘と夏癸は穏やかな様子で茜の学校での様子や家庭での様子などを話している。茜は口を挟むことなく二人の会話を聞いていた。少々複雑な家庭環境であることを自覚しているが、前年の担任からしっかり引き継ぎがされているのか、夏癸に対して不信感を抱いてはいないようだ。


「……では、茜さんが小さい頃から日向さんとは顔見知りだったんですね」

「ええ、そうです。茜は学校ではどうですか?」

「そうですね、普段は静かですけど、授業中にはしっかり発言もしていますよ。一年生のときから授業は受け持っていましたが、テストなどもいつもよく頑張っていますし、部活や委員会での活動もきちんと行っていると聞いています」


 茜としては普通にやるべきことをしているだけのつもりなのだが、褒められるとなんだか気恥ずかしくて思わず俯いてしまう。


「ほかに、なにか気になることなどはありますか?」

「いえ、とくには……茜からは、先生に伝えておきたいことはありますか?」

「だ、大丈夫です」


 俯いたまま、茜は小さな声で応えた。

 夏癸は口が堅いので、彼女がいまだに時々おねしょをしてしまうこと、私生活では歳のわりに粗相が多いことなど、うっかり口を滑らせることは決してない。

 茜自身も細心の注意を払っているので、中学生になってからは学校では盛大な失敗をしたことはなかった。羞恥心もあり、担任教師にトイレの心配を伝えたくはない。

 最後に、進路についての話題になった。


「進路希望は藤森高校が第一志望ですね。茜さんの成績なら頑張れば特進科も狙えそうだけど……普通科でいいの?」

「……ええと、特進科はちょっと難しそうなので、普通科にしたいです」


 少し迷ってから、茜は正直な気持ちを口にした。

 高校生の夏癸はきっと特進科に通っていたのだろうが、茜にとっては敷居が高い。それに、進路希望調査を提出する前に柚香から志望校を決めたか訊かれて、藤森高校にすると答えたら彼女も同じ志望校にすると言ってその場で白紙の調査票に記入していたのだ。

 茜が知っている限りでの柚香の成績では藤森高校は少し難しいのではとも思ってしまうが、彼女が受けるとしたら普通科だろう。柚香がどこまで本気なのかはまだわからないが、小中と一緒の学校に通ってきたので高校も同じになれたら嬉しい。


「藤森高校を受ける子は私立を併願することが多いけど、滑り止めの受験は考えている?」

「そこまでは、まだ……」


 滑り止めとして私立を受けることはまったく考えていなかった。ちら、と夏癸の顔を窺うと彼は目元を和らげて口を開いた。


「必要でしたら併願も考えます。ですが、いますぐに決めなければいけないことではないですよね?」

「ええ。夏休み前から学校見学も開催されますし、最終的に志望校を確定させるのは十二月の三者懇談になるので、焦らずによく考えて決めていきましょう」


 橘の言葉を聞いて、茜は小さく息を吐いた。夏癸ともよく話し合ってどうするか決めないといけない。初めての受験に対して不安は大きいけれど、なんとか乗り越えたい。

 二十分程度で家庭訪問は終了し、橘は立ち上がりながら申し訳なさそうに口を開いた。


「あの、すみません。お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか?」

「どうぞ。こちらです」


 夏癸が席を立って案内する。

 湯茶の用意は必要ないと事前に通知されていて実際夏癸も用意をしていなかったのだが、茜の順番は後半のほうだったので彼女もトイレに行きたくなってしまったのだろう。廊下に出ていく二人を見送り、茜は正座したままそっと膝を擦り合わせた。


 ――実は茜自身も、家庭訪問中、トイレに行きたいのを我慢していた。

 お昼過ぎに家に帰ってきてから一度はトイレを済ませたのだが、訪問時間を待つ間にじわじわと尿意を催してしまった。先生が来る前に行っておこう、とそう思った矢先に予定の時間よりも少しだけ早く橘が来てしまい、結局タイミングを逃してしまった。

 べつに、物凄く切羽詰まっているわけではない。ないのだが、家庭訪問が終わったらすぐにトイレに立とうと思っていたので、先を越されてしまってなんだか落ち着かない気持ちになっていた。


 爪先を丸めてそわそわしてしまう。早く出てきてくれないかな。そんなことを思って待っていると、しばらくして廊下を歩いてくる足音が聞こえた。

 玄関先で二人が挨拶をしている声が漏れ聞こえてくる。見送ったほうがいいかと思ったけれど、立ち上がろうとしたら足に力が入らなかった。ずっと正座していたせいか、足が痺れてしまったみたいだ。

 どうしよう、と焦りに襲われる。このままではすぐにトイレに行くこともできない。

 玄関の引き戸を閉める音が耳に届き、ほどなくして居間に入ってきた夏癸に、茜は縋るように視線を向けた。


「茜? どうしました?」

「あ、足が……痺れちゃって……」

「大丈夫ですか?」

「立たせてください……っ」


 恥ずかしく思いながらも頼むと、夏癸は呆れることもなく手を貸してくれた。彼に体重を預けながら足を崩してそっと腰を上げる。足の裏にぴりぴりと痛みが走ったけれど、なんとか立ち上がることができた。

 けれどすぐに歩き出すことはできなくて、足の痺れが取れるまで立ったまま夏癸にしがみついていた。座っている間は平気だったのに、立ち上がった途端に尿意が強まった気がして思わず膝を擦り合わせてしまう。


「トイレですか? 連れていってあげましょうか?」

「っ、大丈夫です……!」


 以前体調が悪いときにお姫様抱っこでトイレまで連れていかれたことを思い出してしまい、かあっと顔が熱くなった。さすがにそれは恥ずかしすぎるので断り、一人で廊下へ出る。そうはいってもまだ普段通りにすたすたと歩くことはできなくて、壁に手をつきながらよたよたと歩いていった。

 いつもより時間をかけてトイレに辿り着いた。大丈夫、まだ余裕はある。落ち着いて中に入り、鍵をかける。下着を下ろして便座に腰かけ、お腹の力を抜くと、しゅいぃ……と水流が迸った。さほど時間をかけることなく排尿を終え、茜はそっと息を吐いた。

 下着を汚すことも床を汚すこともなく無事に用を足すことができた。当然、これが普通なのだけれど、間に合わないことも決して少なくないのだ。


(もちろん、いつもおもらししているわけじゃないけど……!)


 誰に言い訳するでもなく心の内で思いながら、ざあと水を流してドアを開けた。

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