第6話 進路の悩み

「ねえ、茜。高校どうする?」


 月曜日の休み時間、朝のホームルームで配られた進路希望調査票を片手にやってきた柚香に訊ねられて、茜は首を傾けた。


「うーん……なるべく近くのとこがいいかなって、思ってるんだけど」

「一緒の高校行きたいよね。あ、でも茜、頭いいから、もしかして白樹女子しらきじょしとか考えてる?」

「ちょっと、そこは敷居高いかな……それに、私立だし……」


 なんとなく気になっている高校はいくつかあるが、どうしてもここに行きたいという学校はいまのところない。ただ、夏癸にあまり負担をかけたくないから公立の高校にしようと考えていた。


「なずなは?」


 茜の前の席に座っているなずなに訊くと、彼女は迷いもなく応えた。


「私、たぶん白樹女子」

「えっ、うそ! なんで!?」

「お母さん卒業生だから、私にも行ってほしいんだって」

「えー、じゃあ高校別々になっちゃうの……?」

「仕方ないよ、いつまでも一緒ってわけにはいかないんだし。学校違ったって遊んだりはできるでしょ?」

「そうだけどー……」


 不満そうな柚香になずなは苦笑を浮かべている。


(高校かぁ……)


 白紙の調査票を見て、茜はぼんやりと頭を悩ませた。高校進学と、そしてその先。きちんと考えなければいけないとわかっているが、すぐには決められない。


「ところで、茜ちゃん、貸した本読んだ? まだ?」

「あっ、読んだよ。ごめんね、今日持ってくるの忘れちゃって……」

「いいよいいよ。ね、それよりどうだった?」


 貸してもらった本は、読み始めると面白くて土曜日に一気に読んでしまったのだが、面白くても怖いものは怖かった。読んでいて何度も鳥肌が立ってしまったし、途中から一人きりの部屋では読んでいられなくて夏癸に頼んで一緒に居間にいてもらいながら読み終えたくらいだ。

 しかも、明るいうちに読み終えたにもかかわらず、夜になったら本の内容を思い出して怖くなってしまい、夏癸に何度かトイレまで付き添ってもらって、寝るときも一緒の部屋で寝てもらったくらいだ。さすがにお風呂は頑張って一人で入ったけれど、いつもより早く出てしまった。


「やっぱり怖かったよー! 最後とかびっくりしちゃった……」

「でしょー! ああ来るとは思わなかったよね!?」

「なんの話? 小説?」

「そうそう。柚香も読む?」

「うーん……また今度」


 そんな話をしているうちにチャイムが鳴り、柚香は自分の席へ戻っていく。茜は進路希望調査票をちらっと見てから、授業の準備をするために机の中へしまい込んだ。


***


(高校、どこにすればいいのかなぁ。柚香ちゃんと一緒のところに行きたい気もするけど、そんな決め方でいいのかな……?)


 昼休み。図書当番の茜は、返却された本を書架に並べながら頭の隅で悩み続けていた。同じく当番のなずなはカウンターの仕事をしている。


(……あ。この本、ここじゃない)


 ぼんやりしていたら、間違えたところに本を入れてしまっていた。慌てて引き抜き、踵を返す。


「わっ」

「きゃっ」


 すぐ後ろに人がいたことに気付かず、ぶつかってしまった。慌ててそちらを向いて謝罪する。


「ごめんなさい! ……あ、麻倉くん」

「こっちこそごめん。大丈夫?」

「うん、わたしは大丈夫。……あっ、本落としちゃったね。ごめんねっ」


 椋が落としてしまったらしい本を慌てて拾う。テニスに関する本だった。

 そういえば、彼はテニス部に入っているみたいだが、よく図書室で顔を見る気がする。運動部の人が休み時間に図書室に来ることは珍しいが、彼は本を読むことも好きなのかもしれない。茜は思わず口元を緩めて、本を手渡した。


「はい」

「あ、ありがとう。……あ、あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」

「なぁに?」


 本に関することかと思い、首を傾げる。椋はほんの少し躊躇った様子を見せてから、おもむろに口を開いた。


「椎名さん、高校どこにするか決めてる?」

「えっ? えっと……まだ、決められてなくて」

「そうなんだ。俺もまだ悩んでて……」

「なかなか決められないよね。学校案内とか色々見てみようかなって思ってるんだけど」

「……うん、俺もそうする。話、聞いてくれてありがとう。じゃあ俺、これで」


 手渡した本を持って、椋はそそくさとカウンターのほうへ歩いていってしまった。

 椋の様子に少しだけ違和感を覚えたものの、彼も進路のことで悩んでいるのだろうと思って、茜は再び当番の仕事に戻った。


***


「……」


 その日の夕飯のあと、茜は夏癸お手製のフルーツゼリーを食べながら、座卓の向かいに座る彼にそっと視線を向けた。

 放課後に柚香たちと一緒に高校のパンフレットを見比べてみたものの、家から通える範囲だけでも選択肢が多すぎて余計に悩む結果となってしまった。進路希望調査は金曜日までに提出することになっている。担任の橘は、家族ともよく相談するように、と言っていた。スプーンを置き、茜は思いきって口を開いた。


「……あ、あの、夏癸さん。聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「なんですか?」

「ええと……」


 ほんの少し躊躇いながら、言葉を探す。


「あの、わたしのお母さんって、夏癸さんの担任の先生だったんですよね? どこの高校ですか?」

「……藤森高校ですよ。急にどうしたんですか?」


 夏癸は、少しだけ目を丸くしてから教えてくれた。

 彼が告げた学校名は、家から電車で通える範囲内にある高校だ。確か、結構偏差値が高い進学校だったような。


「今日、進路希望調査が配られて……どうしようかなって、悩んじゃって」

「ああ、そういうことですか。どこでも、茜が行きたいところを選んでいいんですよ。公立でも私立でも構いませんし、説明会にも行ってみて――」

「夏癸さんは、どうして藤森高校を選んだんですか?」


 彼の言葉を遮って、思わず訊いてしまう。


「私は、偏差値が合っていて、家から通いやすかったからですよ」


 夏癸は柔らかい表情のまますぐに応えてくれたが、なんとなく、本当のことを言ってはいないような気がした。けれど、どうしてそう思うのかは自分でもよくわからないし、こういうときの彼にこれ以上踏み込むことはできない。


「そうなんだ……。じゃあ、お母さんって、どんな先生でした?」

「葵さんは、いい先生でしたよ。優しくて、授業もわかりやすかったですし。文芸部の顧問もしていて――」


 母について訊ねてみると、夏癸は昔のことを懐かしむように、穏やかな表情で茜の母親について語り始めた。

 国語の教師をしていて、主に現代文を担当していたこと。夏癸が一年生のときには副担任で、二、三年生のときには担任だったということ。たまに強引なところもあるけれど、優しくて生徒たちから好かれていたこと。

 これは、きっと本当のことだ。茜が知らない母の話をしてもらえることは嬉しい。けれど夏癸の話の中で、彼自身のことはほとんど出てこない。本当はもっと彼の話も聞いてみたいのだが、そのことを口にすることはなかなかできなかった。


 ――何年も一緒に暮らしているのに、茜は夏癸のことをよく知らない。

 名前も歳も誕生日も職業も、好きな食べ物や嫌いな食べ物も、本の趣味だって知っているけれど、それ以外のことは何も知らないのだ。

 どうして学生の頃からいまの家に一人で暮らしていたのか。家族はいるのかいないのか。


 ――どうして、茜を引き取ってくれたのか。


 茜を引き取ってくれたのは母に頼まれていたからだと聞いている。知り合いの弁護士とも相談して、母の葵に何かあったときのために、法的に効力のある遺言書も用意していたと。

 けれど、いくら頼まれたからといって独身の若い男性が血の繋がりもない子どもを引き取ることを決めるものなのだろうか。

 茜の両親と親しい関係にあったことは知っている。

 父は夏癸が作家デビューした頃の担当編集で、母は高校生の頃の担任教師。

 二人の世話になったから茜を引き取ってくれたということはわからないでもないが、子どもを養育するにはお金も手間もかかる。軽々しく決められるものではないだろう。


 どうして、夏癸は茜のことを引き取ってくれたのだろう。

 幼い頃の茜にとっての夏癸は、近所に住んでいるお兄ちゃんという認識だった。物心がついたときにはたびたび椎名家を訪れていたので、よく一緒にご飯を食べたし、遊んでもらったこともある。

 父が亡くなってからは料理が苦手な母を心配して、頻繁に食事を作りに来てくれていた。それから三人で出かけたこともある。

 突然の事故で母が亡くなって、ほかに頼れる大人を知らない茜が連絡したらすぐに来てくれた。これからどうしたらいいかわからなくて泣いてばかりいた茜を引き取ってくれ、一緒に暮らし始めた。


 夏癸はいつも優しくて、何不自由のない生活を送らせてもらっている。

 彼のことは好きだし、信頼もしている。けれど時々どうしても不思議に思ってしまうのだ。――どうしてここまでしてくれるのかと。

 その理由について聞いたことはない。もしかしたら聞けば教えてくれるのかもしれないが、なんとなく聞きにくい雰囲気がある。それは、夏癸の過去についても同じだ。触れてはいけないような気がしてしまう。


 ――迂闊なことを聞いて、いまの生活が壊れてしまうのが怖いのかもしれない。

 いまの茜はまだまだ子どもだから何も教えてもらえないのかもしれない。

 もっと成長して、色々なことを受け入れられるようになったら夏癸の話をしっかり聞きたい。彼のことも、ちゃんと知りたい。知って、受け止めたい。

 いつかそんな日は来るのだろうか。どうしたら、もっと彼に近付けるのだろう。


「……わたしも、藤森高校を受けてみてもいいですか?」


 夏癸の話を聞きながら、茜はぽつりと呟いた。

 母が働いていて、夏癸が通っていた高校。興味を持たないほうが難しい。

 夏癸の顔を見ると、少しだけ驚いたように両目を瞬いていた。


「だ、だめですか?」


 彼の反応に、思わず狼狽えてしまう。


「いえ、だめではありませんが……そんなに、焦って決めなくてもいいんですよ? ほかに茜に合う高校があるかもしれませんし」

「もちろん、ほかの学校も調べてみます。それでも、藤森がいいなって思ったら、受けていいですよね?」

「そうですね。学校のことを調べてみて、見学も行って、茜が本当に行きたいと思うのなら反対はしませんよ」


 口元を和らげる夏癸に、茜は安堵の息を吐いた。

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