第5話 悪夢のあと

「茜ちゃん、焦げそう、焦げそう!」

「……えっ、あっ!」


 放課後の調理室。フライパンの前に立っているにもかかわらずついぼうっとしていた茜は、なずなの焦った声を聞いて慌ててフライ返しを掴んだ。フライパンの中のパンケーキを裏返すと、きつね色を通り越して濃い茶色になっていた。ぎりぎり、焦げてはいない、はず。だが見栄えはあまり良くない。


「ごめんなさい、やっちゃった……」

「大丈夫だよ、食べれるし」


 しょんぼりと肩を落とした茜に、なずなはすかさずフォローをしてくれる。今度はフライパンから目を離さないように気を付ける。ちょうどいいタイミングで皿に取り出すと、裏目は綺麗なきつね色に焼けていた。

 調理台の周りには真新しい制服に身を包んだ女子生徒が数名いて、茜たちの手元をどこか緊張した様子で眺めている。

 今日は新入生の体験入部の日だ。茜となずなが所属している家庭科部では、簡単なお菓子を作って勧誘に勤しんでいた。

 焼き上がったパンケーキを皿に載せていく。失敗したのは先ほどの一枚だけで、ほかはすべて綺麗に焼くことができた。冷ましている間にハンドミキサーで生クリームを泡立てる。


「ええと、よかったら一緒にデコレーションしますか?」


 クリームを泡立て終え、見学していた一年生に声をかけると、彼女たちはぱっと顔を輝かせた。用意していたエプロンを貸し、一緒に生クリームを絞ったりフルーツを載せたりする。


「先輩、こうでいいですか?」

「うん、上手上手」

「……あっ、ごめんなさい、崩れちゃいました」

「大丈夫だよ、食べられるから。気にしないで」


 クリームの形を崩してしまった子に、なずなの言葉を借りて励ます。それにしても、先輩と呼ばれると少しくすぐったい。たったふたつしか歳が離れていないのに、中学に入学したばかりの女の子たちは随分と初々しく見える。――もっとも、背は茜のほうが低いのだけれど。


「こっちの班も大丈夫そうね」

「はーい。茜ちゃんがだいたいやってくれました」


 顧問の笹本ささもと香枝かえが様子を見にきて、なずながおどけたように応えた。優しくて教え方も丁寧な笹本は生徒たちに親しまれている。


「早坂さんもちゃんとやらないとだめじゃない」

「私は洗い物を頑張ります!」


 なずなの返答に、茜は思わず苦笑してしまう。なずなは手芸は得意だが、調理には苦手意識が強いらしい。調理実習のときはいつも準備や片付けをメインにしていた。部活での調理実習は普段は三人班で行っているが、今日は一人欠席しているので茜がほとんど作ったことになる。家でよく手伝うので料理は好きだし慣れているので、茜としてはべつに構わないのだが。


「じゃあ、みんなで食べようか」


 デコレーションが完成したパンケーキを新入生に振る舞う。甘いにおいに誘われて来たのか、最初の頃よりいつの間にか人数が増えているのは毎年のお約束だ。

 失敗した分は自分たちでつつきながら、ふいになずなが口を開いた。


「茜ちゃん、今日朝からなんか眠そうだよね? 寝不足?」


 そう問われて、茜は昨夜のことを思い出してしまった。夜中に、廊下でおもらしをしてしまったこと。それも、夏癸の目の前で。あのあと、結局なかなか寝付けなかったのだ。


「うん……昨日、あんまり眠れなくて」

「あー、雷すごかったよね。私も夜中目覚めちゃってさー」


 恥ずかしいのでもちろん寝不足の理由は話さないが、なずなは勝手に納得してくれたようだ。


「あ、そういえば、茅野かやのルリの新刊ってもう読んだ?」

「えっと、まだ、かな。ちょっと読もうか悩んでて……」


 なずなが口にしたのは二人が共通して好きな作家だ。なずなとは入学したときに席が隣で、話してみたら好きな小説や作家が似通っていると知って仲良くなった。小学校一年生の頃から仲の良い柚香とは趣味が違うため本の話をしたことはあまりないので、好きな本の話ができて嬉しかったことを覚えている。

 その作家もなずなに勧められて読んでみたら好きになったのだが、最近発売された新刊を読むのは躊躇っていた。


「図書館でも予約待ちだったし」

「私買ったから、よかったら貸すよ。面白かったから感想話したいし」

「う、ん……でも、怖くない?」


 いままでの作品はすべてファンタジーだったのだが、新刊は著者初の怪奇小説なのだそうだ。茜はホラーが苦手だと知っているなずなは、口元に苦笑を浮かべた。


「そんなに怖くなかったから、茜ちゃんでも大丈夫だと思うよ。ね、今度持ってくるから」


 なずなに押し切られ、結局「うん」と頷いてしまう茜だった。



 翌日、なずなはさっそく件の小説を持ってきた。「返すのはいつでもいいから読み終わったら感想教えてね」と念を押されて本を受け取ってしまったが、すぐに読む勇気が出なくて自室の机の上にひとまず置いておいたが。

 いつでもいいと言われても何日も借りっぱなしではさすがに悪いと思ってしまう。今日は金曜日なので、休日の間に読んで月曜日には返したい。

 茜は寝る支度を整えてから、布団に入って分厚いハードカバーを開いた。怖くなって行けなくなると困るので、トイレはちゃんと済ませておいた。

 ぺら、ぺら、と一枚ずつゆっくりページをめくる。導入はまだ怖くはないのだが、文体の雰囲気がやはり普段の作品とは異なっている気がする。


「……明日に、しようかな」


 ぽつり、と呟いて本を閉じた。怖いものは、夜には読まないほうがいいだろう。きっと明るい時間に読んだほうがいいに決まっている。怖くて眠れなくなっても困るし。

 そう自分に言い聞かせて、茜はぎゅっと目を瞑って布団に潜り込んだ。


***


 ふと目を開けると、暗闇の中に一人佇んでいた。

 何も見えない。誰も、いない。目の前にはただ深い闇だけが広がっている。


「……?」


 不安になって辺りを見回していると、ふと声が聞こえた気がした。

 あかね、と名前を呼ばれたように感じて思わず振り返ると、暗闇の中にぼんやりと見覚えのある人の姿が浮かんで見えた。

 ――幼い頃に病気で亡くした父の姿だ。幼すぎたので顔も声もほとんど覚えていないから、写真に残っている姿しか知らない。


「お父さん……?」


 父が口を開く。けれど、何も聞こえない。何を言っているのかわからない。


「な、に……?」


 声をはっきり聞こうと足を踏み出す。けれど、次の瞬間、父の姿は闇の中にふっと掻き消えてしまった。

 ふいに、ぞくりと肌が粟立った。ひどく寒い。思わず両手で自分の身体を抱き締める。

 周りを見渡した。やはり真っ暗で何も見えない。


「……茜」


 突然、優しく名前を呼ぶ声が聞こえた。女性の声だ。何年も前に二度と聞けなくなった声。


「お母さん……!」


 声が聞こえたほうへ顔を向け、目を凝らす。けれど母の姿は見えなかった。目の前に広がるのは深い暗闇だけ。

 続けて耳に入ってきたのは、悲鳴と、泣き声。

 息を呑んで振り返ると、闇の中にぼんやりと浮かんだ光景が見えた。

 血だまりに横たわる女性に取り縋って泣く子どもの姿。あれは、小学生の茜だ。

 ぴくりとも動かない母親の傍らで、何もできずにただ泣きじゃくっている。


「やだ、やめて……」


 身体が震える。見たくない。こんなもの、見たくない。

 ぎゅっと両目を瞑る。耳も塞いで、その場に蹲る。何も見たくない、聞きたくない、思い出したくない。あんな気持ち、もう二度と味わいたくはない。


「茜」


 耳を塞いでいるのにもかかわらず、その声ははっきりと届いた。

 聞き慣れた、耳に心地良い声。いつもは優しく響く声。けれど、いまは無機質で冷たく響いた。

 はっとして顔を上げる。震える両手を耳から離す。

 目の前に、夏癸が立っていた。


「な、つき、さん……?」


 夏癸は、何の感情も感じられない双眸で茜のことを見下ろしていた。


「さようなら、茜」


 低い声が小さく呟いて、踵を返す。

 見慣れた背中が、暗闇の中、遠ざかっていく。


「まって……」


 震える手を伸ばす。のろのろと腰を上げると、茜は弾け飛ぶように駆け出していた。


「夏癸さん、待って、行かないでっ! 置いてかないで、夏癸さん、夏癸さん……!」


 全力で走っているつもりなのに、足がもつれて上手く進めない。遠ざかる夏癸の背中には少しも追いつけない。


「な、つきさん……っ」


 声が掠れる。息が上手くできない。苦しい。苦しい。嫌だ。ひとりになりたくない。置いていかないで。独りにしないで。

 ひとりに、しないで。

 夏癸の姿が闇に紛れて見えなくなる。

 伸ばした手は、空を掴んだ。



「……っ」


 はっと目を開ける。目の前に広がるのは暗闇ではなく、豆電球の明かりにぼんやりと照らされた見慣れた天井だった。


(……いまの、夢……?)


 ばくばくと心臓が早鐘を打っている。全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。

 のろのろと身体を起こす。枕元に置いてあるスマートフォンを見ると、まだ日付が変わったばかりの時刻だった。


「夏癸さん、いるよね……?」


 掛け布団をぎゅっと握って、呆然と呟く。

 急に、家の中に自分一人しかいないような気がしてならなかった。そろそろと立ち上がって、隣の部屋へ向かう。

 襖をそっと開く。室内は明るかった。夏癸は襖が開いたことに気付かず、真剣な表情でノートパソコンに向かっている。

 その横顔に少しだけ安堵する。けれど、心臓が凍りつきそうな恐怖はいまだに全身に残っていた。

 仕事の邪魔をしてはいけない。それはわかっているのに。


「……な、つき、さん」


 声が震えた。

 夏癸が顔を上げた。こちらを見て、僅かに目を丸くする。茜はよろよろと足を踏み出すと、彼の傍らでぺたんと腰を落とした。彼の、寝間着の裾を弱く握る。


「茜? どうしたんですか……?」


 夏癸は戸惑った様子を見せつつ、震える茜の身体をそっと抱き寄せてくれた。温かくて大きな手が、背中をゆっくりと撫でる。

 そのぬくもりに、夏癸は確かに目の前にいるのだと実感できる。


「……どこにも行かないで」


 掠れた声で呟き、彼の胸に顔を埋めた。おずおずと腕を伸ばして、ぎゅっと夏癸に縋りつく。彼の存在を確かめるように、腕に力を込める。

 ――大丈夫、夏癸はちゃんとここにいる。


「……っ」


 息を吸うと、短い嗚咽が唇から漏れた。


「……っ、ぅ、……ぇっ」


 ぼろぼろと涙が零れてくる。少しだけ顔を上げて、手の甲で目元を拭った。しかし、拭っても拭っても涙は止まる気配を見せない。

 夏癸は黙ったまま、茜の背中をそっとさすってくれた。何度も何度も、優しく。

 しばらく泣き続けていると急に気持ちが落ち着いてきて、おずおずと彼から腕を離した。頬が熱を持ってくる。顔を上げると夏癸と目が合い、思わず逸らしてしまった。


「……ご、ごめんなさい。もう大丈夫」

「いいんですよ」


 夏癸は優しく口元を和らげた。


「怖い夢でも見ました?」


 こくん、と頷く。


「どんな夢だったんですか? 話すのが嫌でなければ、聞きますよ」

「あ、あのね……」


 茜はおずおずと口を開いて、夢の内容をぽつぽつと話した。


 暗闇の中にひとりぼっちで、お父さんとお母さんの声が聞こえたんだけど、すぐに消えちゃって。お母さんが事故に遭ったときのことも見えて、怖くて。そしたら夏癸さんも出てきて、わたしのこと置いて遠くへ行っちゃって、走っても全然追いつけなくて。怖くて、寂しくて、苦しくて。


 途中で途切れ途切れになりながらも、覚えている夢の内容をゆっくりと話す。

 夏癸は先を急かすことも途中で口を挟むこともせず、時々相槌を打ちながら茜の話を最後まで聞いてくれた。

 話し終わったらなんだか胸が軽くなった。眦に溜まっていた涙をそっと指で拭う。


「……落ち着きました?」

「うん。ありがとう、夏癸さん」

「ええ。……私はどこにも行きませんよ。ずっと茜の傍にいます」

「……うん」


 目の前にいる夏癸の声は穏やかで、優しくて。

 大切な人が絶対に自分の前からいなくならないという保証はないともう知ってしまっているけれど、それでも夏癸の傍にいると安心できる。ここが自分の居場所なのだと思える。

 この人だけは、失いたくない。絶対に、何があっても。


 ――安心した途端、急に下腹部の重さが気になった。思わず、うっと顔をしかめてしまう。寝る前にトイレに行ったにもかかわらず、彼女の身体は新たな尿意を催していた。さすがにこのまま布団に戻るわけにはいかない。


「茜?」

「あ、あの、あの……夏癸さん、ついてきて」


 どこに、とは言わなくても夏癸は察して腰を上げてくれた。

 先に立って歩く彼の袖をちょこんと掴んで廊下に出る。暗さに一瞬足が竦みそうになったけれど、歩みを進める夏癸のあとについてなんとか足を踏み出した。階段を下りるために電気を点けてもらい、少しだけほっとする。

 夜の廊下は苦手だ。この歳になっても、一人で夜中にトイレに行くということがどうしてもできない。電気を点けても昼間のような明るさではないので、そこかしこが薄暗い廊下はなんとなく不気味でどうしてもびくびくしてしまう。


「怖いですか?」

「……ん」

「大丈夫ですよ。ちゃんと傍にいますから」


 怖がる茜を安心させるように夏癸の声は優しく響く。

 夏癸に縋ったままトイレの前まで来たけれど、すぐにドアを開けて入ることができず茜は足を止めてしまった。もじもじと膝を擦り寄せながら、助けを求めるように彼を見上げる。


「……開けましょうか?」

「お願い、します」


 恥ずかしくて首を竦める。電気を点けてもらったから中が明るいことはわかっているのに、トイレのドアを開けるのが怖い。そんなことはありえないのに、中に何かがいたらと思わず考えてしまう。

 夏癸はほんの少し苦笑を浮かべつつ、ドアを開けてくれた。

 当然何かがいるわけはなく、茜はほっとして彼の袖を掴んでいた手を離し、トイレの中に足を踏み入れた。

 ドアを閉めようとして、少し躊躇う。一人になりたくない。


「ちょっとだけ、ドア開けててもいい……?」

「いいですよ。好きなようにしなさい」

「あ、でも、こっち見ないでくださいねっ」

「はいはい」


 少し呆れられたかもしれないけれど、夏癸は茜の頼みを聞き入れてくれた。

 こちらに背を向けた夏癸が視界に入るように少しだけドアを開けておく。そのまま下着とパジャマを膝まで引き下げて便座に腰を下ろした。


(恥ずかしいけど……でも怖いんだもん……)


 身体から力を抜く。滴が迸り、しょろろ……と水音が水面を叩いた。

 この恥ずかしい音が夏癸の耳にも入っているのかと思うと、頬が熱くなる。ぴったりと膝をくっつけて、なるべく音を立てないようにと気を付けて用を足した。

 水を流して、バタンとドアを閉める。


「終わりました?」

「は、はいっ」


 子どもに確認するかのように訊ねられて、余計に恥じらいを覚える。慌てて頷くと、壁のほうを向いていた夏癸は静かにこちらを振り向いた。

 彼の顔をまともに見ることができなくて、思わず俯いてしまう。


「茜?」

「ご、ごめんなさい……恥ずかしくて……」


 耳まで真っ赤になっているのが自分でもよくわかる。中学生にもなって何をやっているんだろう、と自己嫌悪に陥っているとぽんぽんと優しく頭を叩かれた。


「早く戻って寝ましょうか」

「……はい」


 頷いて、洗面所に足を向ける。恥ずかしいので、茜は俯いたままだ。


「……はぁ」


 手を洗って一息つく。無事にトイレを済ませたので、このまま安心して眠れるかというと決してそうではなく。


「一人で眠れますか?」


 茜の心を見透かしたかのように夏癸は問いかけてきた。小さく首を振って応える。


「……一緒のお部屋で寝ちゃだめですか」

「ええ、構いませんよ」


 茜の返答は予想されていたみたいだ。二階に上がって、夏癸の部屋に布団を並べる。ぴったりとくっつけた布団に潜り込んで、おずおずと口を開いた。


「……夏癸さん」

「なんですか?」

「また、怖い夢見ちゃったら起こしてもいいですか」

「いいですよ。トイレに行きたくなったでもなんでも。だから安心しておやすみなさい」

「……はぁい。おやすみなさい」


 心配事を見抜かれてしまいまた恥ずかしくなる。さすがにもう大丈夫だとは思うけれど。顔を隠すように掛け布団を引き上げると、伸びてきた手に優しく頭を撫でられた。

 部屋の照明が落とされる。次第に眠気に襲われてきて、茜はそっと瞼を下ろした。

 悪夢はもう、見なかった。

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