第10話 回想、林間学校③

「わ、わたし、ちょっと、行ってくるね……っ」


 宿舎に着いた途端、茜は小走りにトイレへ向かった。女子トイレは個室の数が多いにもかかわらず軽く列ができていた。そわそわしながら最後尾に並ぶ。山頂付近にあった仮設トイレはあまり綺麗ではなかったから、使わずに我慢していた子が多いのかもしれない。

 茜はというと途中で我慢できなくなって物陰で済ませてしまったというのに、到着する頃には再び催してしまいお弁当を食べる前に焦りながらトイレに入った。和式の仮設トイレは一応水洗ではあったもののやはり使用するのに抵抗感があった。それでも生理現象には抗えないのできちんと済ませ、帰り道の途中でまた行きたくなったら嫌だからと下山前にも念のため行っておいたのだ。


 延々と続く下り坂を歩くのは少し怖くて復路も相変わらず遅れ気味になってしまったが、往路よりは早く歩くことができたので最後尾になることはなんとか避けられた。途中からなんとなく尿意も感じてはいたが戻ってくるまで我慢できた。いまもそこまで切羽詰っているわけではない。ちゃんとトイレに入るまで我慢できる。

 茜は時折膝を擦り合わせながらも、自分の順番が回ってくるのを静かに待って個室に入った。


***


「茜、海老フライ食べないの? もらっていい?」

「うん。いいよ」


 向かいに座る柚香にねだられ、茜は快く皿を差し出した。

 夕食は量が多くて箸をつける前から食べ切れるか不安だったのだが、やはり途中でお腹がいっぱいになってしまった。残すのは申し訳ないと思うが食べ切れないのだから仕方ない。柚香が食べてくれるというのなら有難かった。

 手をつけていなかった海老フライ一本は柚香に食べてもらい、半分ほど残っていたポテトサラダをなんとか食べ切る。ご飯はこれ以上食べられなくて、茶碗の三分の一程度を残してしまった。


「柚香、私のも食べてー」

「いいけど……なずな、それで足りるの?」

「足りる足りる。もうお腹いっぱい」


 隣に座っていたなずなが柚香に皿を差し出す。茜以上に食べ残しが多く、付け合わせのキャベツやトマト、ポテトサラダはほとんど手つかずのようだった。ご飯も半分近く残しているが、なずなはすでに箸を置いてデザートのプリンを食べ始めていた。



 夕食の時間を終え、このあとは野外の広場でキャンプファイアーをすることになっている。

 移動する前にトイレに寄るか迷ったけれど、食事の前に済ませたのでいまはべつに行きたくない。時間もあまりなさそうだったので、茜はそのまま外へ足を向けた。

 合唱にフォークダンスと定番のレクリエーションが終わり、しばらくの間は自由時間となった。焚き火を囲みながら、みんな思い思いの場所で友達同士おしゃべりを楽しんでいる。

 男子と手を繋ぐことに少し緊張していた茜は、解放感に安堵しながら柚香となずなとともに広場の隅にある丸太のベンチに腰を下ろして他愛のない話をしていた。


「あ、なずなちゃん!」


 ふいに近くを通りがかった三人連れの女子生徒がなずなの名前を呼んだ。見覚えのない顔ばかりだから、違うクラスの子たちだろう。五組まであるので、普段関わりのない他クラスの人の顔はほとんど知らない茜だ。


「誰?」

「あ、えと、小学校の友達……」


 柚香が訊ねると、なずなはどことなく歯切れ悪く応えた。


「久しぶりー! あっちで二小のみんな集まってるんだけど、よかったら来ない?」

「えーと、どうしようかな。いまクラスの子と話してるし……」

「いいじゃん、行ってきなよ」


 迷っている様子のなずなに柚香が告げる。自分たちに気兼ねしているのかと思い、茜も小さく頷いた。


「……それなら、ちょっとだけ」

「やったあ! なずなちゃん、ちょっと借りるね」

「はーい」


 なずなの手を引いて歩いていく女の子たちに柚香がひらひらと手を振って見送る。茜はというと、同級生相手でも初対面の人には緊張してしまうのでほとんど口を開けなかった。


「茜、緊張しすぎ」

「え、あ、う、ごめんなさい……」

「べつに謝んなくていいけど。中学生になっても変わらないねー」


 幼少期から続く人見知りを指摘されて、思わず頬が熱くなる。柚香のコミュニケーション能力が高すぎるのだと思いながらも反論することはできなかった。

 そんなやりとりをしていると、ふと同じクラスの女子が駆け寄ってきた。


「あー! 柚香やっと見つけたー! ね、テニス部みんなで写真撮らない?」

「ああ、うん。でも……」


 ちら、とこちらを窺う柚香に微笑みかける。


「行ってきて大丈夫だよ」

「ん。じゃあちょっと行ってくるね」


 ソフトテニス部の子に連れていかれる柚香を見送り、一人きりになった茜はぼんやりとキャンプファイアーの炎を見つめた。煌々と燃え盛る炎の熱は、だいぶ距離があるこの場所にもはっきりと伝わってくる。けれど、夜ということもあり空気は冷たく、茜はぶるっと身震いした。


(ちょっと、トイレ行きたいかも……)


 夕飯のときに摂った水分がお腹の中で尿意に姿を変えてきているようだった。

 どうしよう。行ってきてもいいのかな。迷いつつも、結局立ち上がることはしなかった。勝手に抜け出してはいけないだろうし、先生に声をかけにいくのは恥ずかしい。暗い道を一人で歩いて宿舎に戻るのも嫌だった。

 まだ我慢できる程度だし、もうしばらくすれば終わりの時間だろう。あとで行けばいい、と考えて膝を抱えて座り直す。


 一人でいるのは少し寂しいけれど、誰かのところに行く気にもならなかった。小学校からの友達や部活で知り合った子など仲の良い子はほかにもいるが、柚香やなずなほどに親しい子はいない。みんな茜よりも親しい子たちと集まっているだろうから、割り込むことなどできない。

 所在なく座ってただ時間が過ぎるのを待っていた茜だが、席を外してからそれほど経たないうちになずなが戻ってきたので目を丸くした。


「ただいま」

「あ、なずなちゃん。もういいの?」

「うん。なんか、あんまり話すことなかった」


 なずなは苦笑を浮かべて隣に腰を下ろした。

 彼女が戻ってきてくれたことにほっとしている自分に気付く。頬が緩み、茜は自然と口を開いていた。


「あの、なずなちゃん。昼間はありがとう」

「ん?」

「えっと、おトイレするの、付き合ってくれて……」

「ああ、べつにいいって。あの状況で一人でするの恥ずかしいもんね」

「うん……」


 話しながら、茜はこっそりと膝を擦り合わせた。この話題を出したのは失敗だったかもしれない。でも大丈夫。まだ我慢できる。自分に言い聞かせながら、必死に意識を尿意から逸らそうとする。


「……そういえば、茜ちゃんに聞きたいことあるんだけど……」

「なぁに?」


 ふいに、なずなが躊躇いがちに口を開いた。首を傾けて言葉の続きを待つ。


「この前の、授業参観のとき来てた人って……日向夏癸?」

「あ……うん。そうだよ」


 彼女の口から夏癸の名前が出てきたことに驚きながらも、否定することなく頷いた。夏癸との関係はとくに隠さなければいけないものではないし、口止めもされていない。ただ、あまり自分から言いふらすようなことでもないと思っていた。

 小学校からの友人は茜の家庭環境を知っているし、なずなにもいずれ話すつもりではいた。けれど、まさか数日前の授業参観で見ただけで彼のことを気付かれてしまうとは思わなかった。夏癸はあまり顔出しをしないほうだが、インタビューなどで何度か写真が載ったことはある。わかる人が見ればすぐにわかるのだろう。


「なずなちゃん、夏癸さんのこと知ってるんだね?」

「うん。結構、ファンだし。……どういう関係なのかって、聞いても大丈夫?」


 頷いて、どこから話せばいいのかなと考えながら茜は口を開いた。


「ええとね、わたしのお父さんとお母さん、病気と事故で亡くなってて……」

「えっ」


 隣から驚いた声が上がる。いきなりこんな話をされたら誰だってびっくりするだろう。


「ごめん……」

「大丈夫だよ」


 気まずそうな表情を浮かべるなずなに柔らかく微笑む。悲しい、ことではあるけれどもう過ぎてしまったことだ。いまでも時々胸の奥がぎゅっとなることはあるけれど、きちんと受け入れることはできた。


「それでね、近くに住んでた夏癸さんがわたしのこと引き取ってくれたの。だから、いま一緒に住んでて、親代わり……みたいな人、なの」


 かいつまんで事情を説明する。なずなは戸惑った様子を見せつつも、「そっか」と小さく呟いただけで、それ以上何かを聞いてくることはなかった。中学校に入学してすぐになずなとは仲良くなったのだから、もう少し早くに話しておくべきだったのかもしれない。


「ごめんね、わたしも上手く話せなくて。べつに隠してたわけじゃないの、なんとなく言うタイミングがなかっただけで……」

「べつに、いいよ。なかなか言えないことってあるもんね」


 なずなは少しだけ笑みを浮かべてそう言った。突然重い話をして困らせてしまっただろうし、もしかしたらいままで話していなかったことについて怒ったかもしれないと思ったけれど、大丈夫、だろうか。


「……私も、だし」

「え?」


 ぼそっと付け加えられた言葉がよく聞こえなかったので思わず聞き返したが、なずなは「ううん、なんでもない」と小さく首を振るだけだった。

 それから、なずなは雰囲気を一変させるように話題を変えた。


「――って、読んだ?」

「……ううん。読んだことない、かな」

「茜ちゃん、きっと好きだと思う。図書室にあると思うから、今度読んでみてよ」

「うん。今度探してみるね」


 なずなと一緒に好きな本の話をしていると自然と表情が柔らかくなる。それは彼女も

同様なようで、こんなに好きな小説のジャンルや作家が似通っている友達は茜が初めてだと以前話していた。目立つ女子グループのように次々と話題が移り変わる会話をするのが苦手な茜は、マイペースに好きなことの話をしていられるなずなとのおしゃべりが心地よかった。


「でも、いいなぁ。日向夏癸と一緒に住んでるなんて」


 ふいに、ぽつりとなずなが呟いた。


「私、日向先生の本全部読んでるんだ。文庫は全部持ってるし、気に入ったのは単行本も持ってるよ」

「ほんと? どれが好き?」

「えっとね、『優しい午後』と『初夏の散歩道』!『木漏れ日の庭』も好きだし……あ、あと、『星空カフェ』も! 続き六月に出るんだよね?」

「うん。この前まで書いてたよ。わたしも『優しい午後』好き。あと『あの日の在り処』もとくに好きかな……」

「あー、『あの日』もいいよね!」


 誰かと夏癸の本の話をするのは初めてで、つい話が弾む。楽しい会話に夢中になっていると意識せずにいられたが、ふいに下腹部の重たさに気付いて思わず身体が硬くなった。どうしよう。本格的にトイレに行きたくなってきた。

 ぴったりと太腿を寄せて、微かに身体を揺らす。隣に座るなずなに気付かれてしまわないように、こっそりと。

 なずなに告げて、一緒にトイレに行ってもらおうかと一瞬考えた。昼間と同じように、二人でなら先生に言うのも恥ずかしくないし暗い道も怖くはないだろう。けれど、そもそも彼女に言うのが恥ずかしい。


「原稿とか読ませてもらえるの?」

「ううん。お仕事なんだし、邪魔しちゃいけないと思うから、本になるまで読まないの」

「そっかー。私だったら絶対我慢できずに読んじゃうな」

「でもね、発売日よりちょっとだけ早く読ませてもらえるんだ」

「あ、それいいなぁ」


 話を続けながらも、段々と尿意が強くなってきて落ち着かなくなってくる。キャンプファイアー、まだ終わらないのかな。視線を巡らせてみるが、自由時間はまだ終わらなさそうな雰囲気だ。どうしよう。おしっこしたい。

 膝を抱える両手にぎゅっと力を込める。必死に我慢をしていて、思わず上の空になっていた。


「茜ちゃん、大丈夫?」

「えっ、あ、なぁに?」

「や、なんかそわそわしてるから、どうしたのかと思って……あ、トイレ?」


 小声でそっと訊ねられて、瞬時に頬が熱くなった。いま、絶対顔が赤くなっている。暗いからわからないかもしれないけれど。

 なずなに言い当てられたことに内心慌てふためきながら、何か言わなきゃと口を開いた。


「えっ、えっと、あの、わたし、あの、その……っ」


 トイレに行きたいから、一緒に来て。

 たった一言、そう言えば、きっとなずなは嫌な顔ひとつせずについてきてくれるだろう。それはわかっているのに言葉が出てこない。


「一緒に行こ? 私、先生に言ってあげるから」


 戸惑っているうちになずなのほうからそう言ってくれ、茜は一も二もなく頷いた。

 なずなは立ち上がると、近くに佇んでいる養護教諭の榎本仁美えのもとひとみに歩み寄った。その後ろを茜もおずおずとついていく。


「榎本先生」

「あら早坂さん、と椎名さん? どうしたの?」

「トイレ行きたくなっちゃったんですけど、行ってきていいですか?」

「いいわよ、行っておいで。戻る道暗いから気を付けてね」

「はーい」


 こともなげになずなは告げて、許可もあっさりと下りた。

 行こう、と手を引かれ、茜は榎本に小さく頭を下げてから足を進めた。

 明かりのない夜道を手を繋いで二人で歩いていく。暗いのはやはり怖いけれど、恐怖よりも尿意のほうが勝った。

 頬を撫でる風が冷たい。火の側を離れると、山の中の肌寒さを一層実感した。足を進めるたびにお腹の奥がたぷんと揺れるような気がしてくる。ジャージの上衣の裾をぎゅっと握る。正直かなり切羽詰まっているけれど、こんなところで限界を迎えてしまうわけにはいかない。


「結構寒いね」

「……うん」

「茜ちゃん、手冷たい」

「なずなちゃんも」


 応える声がどうしても固くなる。足取りも重くなってくるが、必死に前に進めた。立ち止まってはいけない。歩きながら、なずなが気遣うような声色で言った。


「……大丈夫?」

「え……?」

「我慢、できる? 結構やばい?」

「ま、まだ、大丈夫」


 気丈に応える声は震えてしまった。本当は大丈夫ではないのだけれど、そんなことを言ったってどうしようもない。なんとしてでもトイレまで我慢しないと。


「ちょっと急ぐ? 走ろうか」

「ゃ、だめっ、走ったらもれちゃうっ」


 思わず口走ってしまう。なずなはほんの少し呆れたように呟いた。


「やっぱりやばいんじゃん」

「うぅ……」

「あ、建物見えたよ。あとちょっとだから、頑張って」

「うん……」


 僅か数分の道のりなのに、体感時間はやたらと長く感じた。暗くて周りがほとんど見えないせいだろうか。宿舎の玄関に入ると、屋内の明るさに思わずほっとした。


「おトイレどこだっけ……」


 茜はもじもじと膝を擦り合わせながら視線を彷徨わせた。

 じっと立っているのがつらくて、その場で小さく足踏みしてしまう。確かこっちだったような気がする、という方向に歩いていこうとすると、なずなに強く手を引かれた。一瞬、身体の力を抜きそうになってひやっとする。とっさにジャージの前を手で押さえた。大丈夫、まだ濡れてはいない。


「茜ちゃん、こっちこっち」

「あ、ごめんなさい……」

「いいよ、早く行こう」


 なずなについていき、ほんの少し早足になって廊下の突き当たりに見つけた手洗いの表示に向かう。走ると振動で我慢しているものが溢れてしまいそうだから、あくまで慎重に。

 女子トイレに足を踏み入れると、茜は慌ててなずなの手を離して一番手前の個室に駆け込んだ。


「……!」


 白い便器を目にした途端、しゅ、と下着が熱くなった。ぎゅうと押さえる手に力を込める。


(まだ、だめ!)


 少し出てしまったけれど、この程度ではおもらしにはならない。けれど僅かに濡れた下着が切羽詰まった尿意を一気に強くした。早く脱がないと。気持ちばかり焦るが、脱ぐためには手を離さないといけない。しかし手を離すとすぐに出てきてしまいそうで。


(はやく、はやく!)


 ばたばたと足踏みをしながら、便器に背中を向けて中腰になる。片手でジャージと下着を掴んで太腿の途中まで下げる。なんとかタイミングを見計らって股間から手を離し、一瞬で膝まで下着を引き下ろした。


「あっあっ」


 しゃあっと雫が迸り、慌てて腰を下ろす。間一髪セーフ。溢れた水流は水面にぶつかり、ぱちゃぱちゃと激しい水音を響かせた。


(間に合ったぁ……)


 下着は少しだけ濡らしてしまったけれど、ジャージや床を濡らすことだけは避けられた。段々とお腹の中が軽くなっていく。冷えたせいか随分とおしっこが溜まっていたらしく、水音はなかなか止まらなかった。


(……どうしよ、なずなちゃんに聞かれてるよね)


 古い施設のためか、個室内に水洗音を流すような装置はついていなかった。これまでトイレに入ったときは複数の女子が使っていたから常に水を流す音が聞こえていて気にならなかったのだが、静かなトイレ内では思った以上に音が響く。

 女の子同士とはいえ、排泄の音を聞かれていると思うとどうしても恥ずかしい。けれど途中で水を流すのもあからさまなようでできなかった。


 黙って用足しを続けていると、なずなもトイレに入ったのかちょろちょろと水音が聞こえてきた。彼女もとくに水を流すことはしないようだった。

 ようやく膀胱が空っぽになり、後始末を済ませて水を流す。下着を穿くと冷たい感触がして、思わず顔をしかめた。思った以上に濡れてしまったみたいだ。

 個室を出て手を洗うが、どうしても濡れた感触が気になった。


「間に合った?」

「えっ、あ、ぅ、うん。大丈夫だよっ」


 茜よりも短い時間で個室から出てきたなずなに訊かれて、蛇口を締めながら慌てて頷く。

 間に合ったには間に合ったのだが、下着は汚してしまった。においとかしたらどうしよう、と不安になってくる。



「……もしかして、ちょっとちびった?」


 またしても言い当てられ、茜は耳まで真っ赤になって狼狽えた。


「なずなちゃん、なんでそんなにわかるのぉ……!?」

「……ごめん」


 なずな自身も失言だと思ったのか、すぐに謝ってくれた。


「ごめんね、余計なこと言っちゃった。デリカシーなかったね、ごめん」


 真剣な面持ちで口を開いたなずなに、動揺していた気持ちが落ち着いてくる。そもそもなずながトイレまで連れてきてくれなければ、大勢の前で余計に恥ずかしい思いをすることになっていたかもしれない。


「ううん、そんなに謝らないで……。大丈夫だし、その、なずなちゃんのおかげで助かったから……」


 あのままだったらおもらししちゃったかも、と小さく呟く。


「えっと、ごめんね、戻ろっか」


 気分を変えるように頭を振り、茜は笑みを作った。連れ立って女子トイレから出ようとするが、なずながふと首を傾げた。


「あ、でも、着替えたりしなくて平気?」

「……ぅ、それは、その」

「ごめん。そんなにパンツ持ってないか」


 確かに、普通は一泊二日の宿泊行事にそう何枚も下着の替えを持ってきはしないだろう。けれど、茜の鞄の中には下着の替えが三枚と、ジャージが二枚入っていた。

 茜は首を横に振り、そっと呟いた。


「それは、持ってるんだけど……」


 なずなの表情が、一瞬だけ驚いた顔になる。茜はもじもじと躊躇いながら言いづらそうに口を開いた。


「……戻るの遅かったらなにか言われないかな」


 着替えたい気持ちはあるのだけれど、戻るのが遅いとサボっていたと思われるのではないかと不安になってしまう。


「ちょっとくらい大丈夫だよ、いざとなったら適当にごまかすし。さっと着替えてきちゃおう?」

「う、うん。じゃあそうする、ね」


 明るく言うなずなに勇気づけられて、茜ははにかみながらもしっかり頷いた。

 二人で、走らない程度の急ぎ足で自分たちが泊まる部屋に向かう。なずなは廊下で待っていてくれ、あまり待たせないようにと急いで下着を穿き替えた。濡れた下着はビニール袋に入れて鞄の奥底に押し込む。

 濡れ感触の気持ち悪さから解放され、ほっとして部屋を出た。お待たせ、と待っていてくれたなずなに声をかける。


「着替えた? 大丈夫?」

「うん、ありがとう」

「じゃあ、ちょっと急いで戻ろう」

「うん」


 またもや足早に廊下を歩いていく。少し時間を食ってしまったが、このくらいなら問題にはならないだろうか。

 建物を出て、キャンプファイアーをやっている広場まで少しだけ急いで歩き出す。暗いから走るのは危ない。

 足を進めながら、ふとなずなが口を開いた。


「……茜ちゃんって、いつもそんなにトイレ我慢してるの?」

「えぇっ! そんなことないよ、今日だけ、たまたま、だよ……っ」

「ほんとに?」

「……な、ないしょっ」


 恥ずかしくなり、茜はふいとそっぽを向いた。中学生になってからこんなに我慢することになったのは、本当に今日が初めてだ。唇を尖らせて、拗ねたように呟く。


「なずなちゃん、優しいけどちょっといじわる……」

「えへへ。バレた?」


 なずなは悪戯っぽく笑ったけれど、嫌な気持ちにはならなかった。

 離れた位置に見える炎の明かりを頼りに、二人は暗い夜道を歩いていった。

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