第参話
どこかで音がする。猫の子か、鈴虫か。
いや、違う。足音だ。鶯張りの廊下を鳴らす、男にしては軽い、しかし女のものではない足音。それも、菊之助のものではない。
あいつの音はもっと軽やかで、重心が少しばかり前に倒れているはずだ、と。そこまで考えて、私は跳び起きた。
なぜ、男子禁制のこの奥殿に菊之助以外の男が入り込んでいるのだ。
「何者だ!」
身体を急に起こしたせいでくらりとめまいがする。そんな私の視界に入った、見知らぬ男。咄嗟に掴もうとした枕元の刀を足蹴にされ、その勢いのまま畳に転がった。
瞬間、視界が闇に包まれる。行燈の火を消された、と気付いた時には身体に何かがぶつかり、屏風ごと薙ぎ倒された。
腹を蹴り上げられたのか。重く痛む下腹部をそのままに闇に手を伸ばすも、空を切るばかり。襖を開けたとて、あの雲だ。月明かりも無いだろう。
常闇で、何度も何度も手を伸ばす。空を掻く指先には何も感じず、自分がまっすぐ立っているのかさえ定かでない。
怖い。声を上げねばと、菊を呼ばねばと分かっているのに声が出なかった。
ぜえぜえと耳障りな音が響く。知らず荒くなっていた呼吸と、全身が脈打つほどに早鐘を刻む心臓。
何も見えない。これが、菊之助の世界。
「死ね、伊達宗虎!」
は、なんだそれは。暗闇に響いたしゃがれた男の声に、思わず口元に笑みが浮かんだ。
これは私を知っての狼藉か。
ならば、おまえの雇い主はだいたい分かるぞ。
「虎千代様!」
乱暴に襖を開ける音。そのあとに響いた耳慣れた声に涙が出そうになって、死にたくなった。
これで助かる、なんて、一瞬でも思った自分を殺してやりたい。
「菊、来るな!」
「何を馬鹿なことを!」
暗闇の中、菊之助が鞘を投げ捨てた音がする。菊、菊、と。何度も名を呼ぶ私をよそに、刀と刀のぶつかる鈍い音が続く。
相手方も闇に目が慣れているというのか。
「菊、下がれ! 相手は陰の者だ!」
「いいですね、そうやって呼んでてください。あなたまで切ってしまいそうだ!」
「菊之助!」
「これでも人様より暗闇には強いんですよ」
何がおかしいというのか。暗闇の向こうから響く声に滲む愉悦に、混乱する。
菊之助は強い。しかし、相手はおそらく仁木たちに雇われたその道の者だろう。剣術武術が習い事と化した、人を切ったことも無い門下生とは訳が違う。
「菊! 菊之助!」
伸ばした腕は空を切り、私の声は闇へと吸い込まれて消えた。畳の擦れる音と、重い何かがぶつかる音。何が起こっている?
無我夢中で畳の先を追っていた指先に、慣れた硬さのものがぶつかる。つるりとしたそれは確かに鞘の先で、私は、使い慣れたその刀を抜いた。
重い刀。それでなくとも上手く扱えないそれが、暗闇では一層重さを増すようだった。
刀の切っ先どころか、自分の手さえ見えない。もし、この刃が菊之助を切り裂いたら? そんな考えに至った瞬間、地に縫い付けられたように足すら動かせなくなった。
暗くて冷たい、菊之助の世界。私はこんな所におまえを突き落とし、置き去りにした。
ああ、いっそあの時、本当に入れ替わっていたら。
私が菓子を食べて死に、代わりに菊之助が宗虎として家督を継いでいたら、おまえはきっと上手くやったろうに。
あの時死ぬべきだったのは、やはり私の方だったのだ。
「虎千代!」
これはきっと、その報いだ。
胸に走った重い衝撃にぼんやりとそんなことを思う。畳が倒れるような重い音がした、と思ったときには頬に畳の感触があった。
……ああ、そうか。切られたのは私か。
「この……!」
ど、と鈍い音がする。頬に触れた畳の振動からして、もう一人、男が倒れたのだろうと容易に想像がついた。
「……生け捕りにしようなど、考えが甘かったな……、なあ、菊之助」
「喋らないでください!」
「誰か来てくれ!」菊之助の声が響いたかと思えば、彼の足音はまっすぐに私の方へとやって来た。そうして抱き起こされる。
ふ、と浅く息が漏れた。
「ああ、こんな……酷い血だ」
「……血が、出てるのか」
「酷い匂いです。痛みは?」
「いや……むしろ、なんだか身体が楽だよ」
真っ暗闇で何も見えやしないが、菊之助が言うのだから出血しているのだろう。確かに血の匂いが立ち込めている気がする。が、それはおまえが切った曲者の物じゃないか?
そう思ってしまうくらい、身体に痛みはなかった。興奮しているせいかもしれない。
「大丈夫です、絶対にあなたを死なせない。この身に変えても、僕が、」
「……な、菊。あの時、本当に入れ替わっていたら、私たち、上手く生きられたのにな」
「なに、を……」
掠れ切った声を上げながら、菊之助は私の胸を押さえつける。
「あの時……私とおまえが入れ替わって、私が千菊としてきちんと死んでいたら……おまえは眼も失わず、私なんかよりよっぽど上手く、伊達の藩主をやったんだろうな」
「なにを、馬鹿なことを!」
「あの時死ぬべきは、私だったんだ」
望まれてなどいなかった。ただ、正室から生まれたというだけで藩主になった。父は私なんかに興味はなかった。
だから私などに家督を譲ったのだ、あの男は。
「馬鹿なことを言うな、虎!」
暗闇を引き裂くような悲痛の叫び。
胸を圧迫する菊之助の腕に力が籠って、呻く。
「目なんかどうでもいい。身体だって魂だって、お前にくれてやる。暗闇なんて怖くない、お前が居ればそれでいい! だから、死ぬな! お前が居なくなったら、僕は、」
僕は、今度こそ、光を失う。
「あの日からずっと、お前が僕の光なんだよ、虎千代……!」
だから、そういうのは女に言ってやれ。
そんな言葉の代わりに激しく咳き込んだ。胸が痛い。皮膚の下が甘痒くて、苦しい。
股を伝った温い感覚に、ああ、と息を吐いた。まさかとは思ったが、やはりそうか。
よもや、この性に生かされようとはな。
「菊、もういい」
「嫌です! 絶対に嫌だ!」
「違うんだよ、菊」
切られてない。そんな私の言葉に菊之助は間抜けな声を上げる。ああ、確かに。見えなくとも、今おまえが口を開けてることはよく分かるよ、菊之助。
男の力でもってずっと押さえられていた胸が解放される。
朝、女中がやってくることを見越し、眠る時でさえも厚く巻く習慣のついたさらし。切られたそれが解け、年頃になった頃から膨らみ始めた胸が戒めを失う。
ふう、と息を吐けば新鮮な空気が胸を満たした。
「切られていない……?」
「ああ。切られたのはさらしだけだ。この暗闇だろう、踏み込みが甘かったな」
「じゃあ、この血の匂いは……、」
「言っただろ。昨晩、喀血があったって」
「あ……」
言葉を失う男に、乾いた笑みが漏れた。気遣うように肩に添えられた手を払う。
私を藩主に仕立て上げたのは、母の意地か、父の酔狂か。もしかしたら、父は私の性別すら知らなかったのかもしれない。
だから、たった二つだった私などに……母によって嫡子と偽った娘の私なんかに、家督を譲ったのだろう。
『虎千代様、この病のことは、私と菊以外の誰にも気取られてはなりませぬ』
乳母が私に刻んだ、最初の言いつけ。
初岡が恐れたのは、なにも毒殺だけではない。
私が女だとバレぬよう、彼女は私を奥殿に閉じ込めた。
羽織袴に髷を結い、刀を携えたとて、女は女。身体は小さく、弱く、月に一度は股を血で汚す。それを病と偽って、私は生きて行かねばならない。
「触るな、菊。穢れがうつる」
本来ならば、月のものが来れば女は部屋に閉じこもる。腕を突っぱねる私を、むずがる子でもあやすように、菊之助は殊更に強く抱き寄せた。
「宗虎様、ご存じないのですか? 子は皆、女の股から血と共に生まれるのですよ」
「そんな風に言うのはおまえくらいだよ」
「何も見えてやしない人間の言葉など、あなたが気にする必要ありません」
呆れ笑った拍子に、再び股から血が漏れる感覚があった。また女中たちに叱られてしまうだろうな、と独りごちる。
「一緒に叱られて差し上げますよ」
「は。この血はなんと言い訳する気だ?」
「死人に口なし。そこの下手人のものと言い張るもよし、まぐわうのに失敗して大惨事だと言うもよし。むしろそうすれば、普段より大事に扱ってもらえるのでは? 僕はしばらく裏で下手くそって呼ばれるでしょうけど」
「……おまえがそんなだから、」
そこまで言って、怒るのも馬鹿らしくなった。痛むこめかみを揉みながら、息を吐く。
「私とおまえが裏で女中たちから何と呼ばれているか知ってるか、菊」
「どれですか? 衆道、菊契、男狂い……、あ。あなたが陰間呼ばわりされていた時は、さすがに咎めておきました」
「……知っていたのか」
「ええ。特別、否定も肯定もしておりませんが。……なぜ頭を抱えてらっしゃるんです?」
「……頭が痛いんだ」
「それは大変だ。すぐに薬をお持ちします」
「この大嘘つきめ」
「心外だなあ」
そう、からからと笑う声が暗闇に響く。
やっと行燈に火をつける気になったらしい男が蝋燭を扱う音に、思わず声を上げた。
「菊、明かりをつける前に……女たちがやってくる前に、亡骸を処分せねば」
部屋を満たす血の匂い。菊が曲者のどこを切りつけたのかは知らないが、きっと畳や襖には血飛沫が飛んでいるだろう。そんなものを奥の女たちに見せるわけにはいかない。
私の言葉に菊之助は呆れ返ったように笑い、そして続けた。
「ここに居る女たちを集めたのは母ですよ?伊達の初岡が、血に怯えるような可愛らしい女を雇うとお思いで?」
「……ああ。いやに納得がいった」
「それから、宗虎様」
「なんだ」
カン、と甲高い音が響き、部屋が一瞬明るくなる。何度目かの火打ちで行燈に火を灯した菊之助が、私を振り返った。
夜着を纏ったその姿すら、相も変わらず美しい。
「僕らの噂を信じているのは、なにも女たちだけではありませんよ。家臣に腰や尻の心配をされた覚えはありませんか? 言ってはなんですが、稲葉様からの縁談も、あなたが女に対して使い物になるのかどうか試されたのだと思いますよ。それで僕がその話をお受けしたら、いよいよもって真実味が増してしまいますので、いかがなものかと」
「…………」
「ああ、お虎ちゃん。いよいよ頭痛が酷そうだ。すぐに薬をお持ちします」
ああ、くそ。頭と腹と腰が痛い。
襖の後ろから、千菊を抱く虎千代が呆然と私たちを見上げてくる。
なあ、聞いてくれ、虎千代。千菊は生き永らえ、おまえはその千菊に振り回されて、月に一度の腹の痛みにのたうちながら、それでも生きてゆくしかないんだ。
なぜならおまえは……私は、陸奥仙台藩四代藩主、伊達宗虎なのだから。
「菊之助。私は、伊達を守る。もうしばらく手を貸してくれるか」
「ええ、もちろん。言われずとも」
「手始めに、記録係を呼ばねばな」
夜が明けたら、一番に。藩主とその臣下の色ぼけた記述を残さぬよう、しっかりと言い聞かさねばなるまい。
終
裏・伽蘿先代萩 よもぎパン @notlook4279
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