第弐話




 あの日から、時は流れて十数年。

 元号は万治から寛文へ、そうして京での災害をもって延宝へと変えられ、数年が経った。


 つまり、あいつが……菊之助きくのすけと名を変えた千菊せんぎくが、光を失って十数年。


 誰が信じるだろうか。あんなにも何不自由なく生活しているように見えるあいつが、めくらだなんて。


「隙あり」


 奥殿の縁側にて。秋めいて来た庭をぼんやりと見つめていた私の後頭部を襲った、軽い衝撃。振り向かずとも、背後に立つのが誰かなんてわかっている。


 私の背後を取れるのも、男子禁制のこの奥殿に出入りできるのも、仮にも陸奥仙台藩四代藩主である私の頭をぶてるのも。


 この世にただ一人、この男しか居ないのだから。


「背後からとは卑怯な。感心せんぞ、きく

「背中にも目が必要ですね。よろしければ、僕の目を差し上げましょうか」

「……千菊、悪趣味だぞ」

「今更ですよ、宗虎むねとら様」


 振り返った私に、菊之助はいつも通りの締まりのない笑顔を浮かべてそう言った。


 すっかり高くなった背と、それに不釣り合いな総髪。濁った眼を気にしてか、菊之助は常に瞼を伏せている。それでも奥の女中たちを騒がせるには充分な、美しい顔立ち。低くなった声で「宗虎」と呼ばれることにも、ずいぶん慣れた。


「初岡から文が来ていたろ。読めたのか」

「ええ。筆の跡は紙がよれますから」

「息災か、初岡は」

「ええ。我が母ながら感心致します」


 私と菊之助が元服してからしばらくして、初岡は出家した。


 張りつめた環境の中、女手一つで懸命に私を守ってくれた初岡は心労が祟っていたらしい。その反動か、尼寺では随分と楽しんでいるという話だ。


「出家ってなんでしたっけ」

「さあな。羨ましいならお前も行けばいい」

「ご冗談を、宗虎様」


 そう言って、菊之助は私の肩に羽織をかける。寒くなどないのに、酷い寒気と頭痛が続いていた。ままならない身体に嫌気がさす。


「夜のうちに喀血があったと女たちから聞きましたよ。体調が優れない日は、庭にも出ないようお願いしていたはずです」

「大袈裟なんだ、あいつらは」

「ご自分の立場はお分かりですね?」

「……すまない」

「ご立派です」


 戻りましょう。ここは冷えます。

 そう言って私の手を引く、菊之助の大きな手。私の、今にも折れてしまいそうなものとは似ても似つかないそれに唇を噛んだ。


 刀に引きずられているようだと揶揄されるほど小さく、月に二度は床に臥せってしまう軟弱な私の身体。家臣にいらぬ心労ばかり抱かせる、役立たずの器。

 いつでも息苦しい胸がよけいに痛んで、前合わせを握り締める。


 ああ、いっそあの時、本当に――。


 そう、血が滲むほどに唇を噛んでいた私を、菊之助が「宗虎様」と低い声で制す。


「また、馬鹿なことを考えているでしょう」

「……なぜそう思う」

「そういう顔をしているから」

「見えるのか」

「見えませんよ。見えないから、それ以外のことがよく見えるんです。人よりね」

「……わけがわからん」

「あなたにはわかりませんよ」


 そう言って私を見つめる菊之助の目はギヤマンのような不思議な色で、やはり見えていないのだと思い知らされる。


 それでも菊之助は迷いなく私の唇の血を拭い、座敷までの廊下を進む。そうして襖を開け、茶の仕度まで始める始末だ。その手さばきに迷いなど少しもない。


 茶道や書道だけじゃない。剣術も、それ以外の武術も。私の知る限り、菊之助以上の腕をもつ男はこの藩に存在しない。


『あれで、めくらでなければなぁ』


 誰もがそう、菊之助を見て溜息をつく。そのたびに私は叫び出したくなるのだ。


「宗虎様」

「……すまん」

「茶をどうぞ。それから、合わせと帯を少し緩めましょうか。呼吸が浅いみたいだ」

「ああ」


 すまん、と。何度目になるかも分からない言葉を口にして、盆に乗った茶碗で茶を飲む。じんわりとした温かさが喉から腹へと落ちて、身体が少しだけ楽になった気がした。


「失礼しますよ」


 そう言って、菊之助は女中のように私の足元へと膝をつく。


 自らの帯を緩めてくれる男は、見目だけならば他の家臣と何も変わらない。しかし、菊之助は目が見えぬのだ。


 私のせいで光を失い、私のせいでその人生を伊達に捧げるはめになっている、哀れな男。

 これで私がもう少しまともな藩主であったなら、この男も少しは浮かばれたであろう。


 しかし、私はこのざまだ。きっとこの先、父のように隠居を企てられるだろう。そしてそれは、おそらくそう遠い話でもない。


 私はそれでも構わない。元より、藩主になどなれる生まれではないのだ。

 だから私は、正当な後継が……従弟の村千代むらちよが大きくなるまで、ここを守ればそれでよい。


 村千代、あの子は聡明だ。そして、心身ともに強いの子だ。私とは違う。


「虎ちゃん、これで苦しくない?」

「このままではならぬ」

「え、もう少し緩めます?」

「菊之助、祝言だ」

「は……?」


 久々に……いや、ここまでのものは初めてかもしれない。かぱ、と開いたままの口。間の抜けた顔で、菊之助は私を見上げている。


「祝言って……、誰と、誰が」

「こんな身で私が嫁を娶れるわけがなかろう。祝言を挙げるのはおまえだよ、菊之助」

「はあ?」


 今度こそ大口を開けて、菊之助は私を見上げた。いや、違う。わずかに滲んだ苛立ちを隠しもせず、男は顔を歪める。


「どこからそんな話になったんです」

「おまえも今年で二十一だろう」

「ええ、まあ。そうですけど」

「そろそろ嫁を貰ってもいい頃合いだ」

「そんな、僕のような身分の人間が、」

稲葉いなば氏が薦めてきた話でな、今年十五になる娘がいるのだ。一度茶の席で会ったが、肌の白い、美しい娘だったぞ」

「ええ。ですが、僕には、」

「琴の名手で、唄を詠む声も美しい。おまえに似合いじゃないか、なぁ、菊之助、」

「宗虎様!」


 びり、と震えた首筋。聞き慣れない菊之助の怒声に、私は口をつぐむしかない。


「僕は、嫁など娶りません」

「……おまえも一端の武士なら、」

「そのような建前、必要ありません」


 そもそも、稲葉様からのお話なら、宗虎様にという話でしょう。僕の出る幕じゃない。

 そう、落ち着きを取り戻したらしい菊之助が手早く帯を締め直しながら呟く。無意識だろうか、力のこもった腕で強く締められた帯のせいで、胸がまた、苦しくなった。


 菊之助の言う通り、稲葉の話は私にということだろう。しかし、痛々しいまでに忠実なこの家臣に、私は何を与えてやれた?


 眼も人生も投げ打ったこいつに私がしてやれること。

 武士として、良き道を歩ませてやるのが、私の役目ではないのか。


「稲葉との血縁を結んでおけば、もし……もし、私が失脚しようとも、おまえは、」


 おまえだけは。そう続けようとした言葉を、指先で止められる。

 見えてなどいないはずなのに。一寸のずれもなく私の唇に人差し指を突きつけた男は、どこか満足げにゆるりと笑った。


「そんなこと、僕がさせません」

「……馬鹿なことを」

「どちらがですか。あなたはもう少し、ご自分の力と僕たちを信用すべきだ」


 目に映らぬものを恐れられる人間は、存外強いものですよ。そんな菊之助の言葉の真意が分からず、首を傾げた。


「……もののけの類か?」

「僕、あなたのそういうところ好きだなぁ」

「馬鹿にしてるのか」

「まさか。好きだって言ったでしょう?」


 そう言って笑う菊之助の目線が、丸窓へと移る。正確には、その先にある表殿へと。


「……しばらく休んだら、戻るさ」

「いえ、そういう意味では。今晩は月が陰りますから、早めにお休みになって下さい」

「……月が?」

「陰りますね」


 そう、くん、と鼻を鳴らして菊之助は頷いている。雨の匂いでもするのだろうか。

 竹馬の友の発言に襖を開けるも、奥殿をぐるりと囲む高い塀の向こうに見える空は見事な晴天だ。


「……陰るのか、これが」

「僕の鼻が嘘をついたことがありますか」

「鼻は知らんが、本人は大嘘つきだろ」

「おや、僕は一度だって虎千代ちゃんに嘘なんてついたことないですよ」

「よく言う」


 そうやって笑い合っていたのが、申二ツの刻限のこと。

 時は亥の刻。夕餉を終え、湯殿から寝屋へと向かう廊下を歩いていた私は、どんよりと厚く濁った雲に隠された月に声を上げた。


「……月が」

「だから言ったでしょう?」


 そう、提灯を持って私の前を行く菊之助が勝ち誇ったような声で応える。


「……おまえ、見えてるんだろう」

「まさか。そんな事より宗虎様、髪はきちんと拭いてください。お風邪を召します」


 そんな母親のような物言いに文句を言う気力もない。念のため、と。菊之助が前を向くのを確かめてから舌を出すも、「宗虎様、子供じゃないんですから」と笑われた。


「おまえくらいになると、目なんか要らないんじゃないかと思うよ、菊」

「まさか。買いかぶり過ぎですよ。僕に分かるのはあなたの事くらいだ。何年一緒に居ると思ってらっしゃるんです」

「……そういうのは女中にでも言ってやれ」

「生憎、人生の大半を共にした女中がおりませんのでね。誠に遺憾ですが」


 鈴虫の鳴き声が微かに響く廊下を、二人して言葉尻を笑みに震わせながら歩く。


 すっかり秋めいた空気。分厚い雲が空を覆っているせいで多少水っぽくはあるが、それでも湯に火照った身体に冷たい風は心地よく、目を細める。そんな私に倣ってか、菊之助も小さく息を吸って、満足げに吐き出した。


 同じ空気を吸って、同じ空の下で声を上げて笑い合う。


 心を満たすそれが幸せで、それでも、それを幸せだと感じてしまう自分を草間の影から虎千代が睨みつけてくる。


『おまえが千菊をこんなにしたんだぞ』


 畳を転げまわり、血の泡を吹く千菊を抱く虎千代は、いつもあの世から私を見張っている。なぜおまえがのうのうと生きているのだ、と。


「差し出がましいようですが、あまり難しいことを考えていると夢見が悪くなりますよ」


 寝屋に着くや、提灯の火を行燈に移しながら、菊之助は穏やかな声でそう言った。


「夜泣きしても知りませんからね」

「おまえは私をいくつだと思ってるんだ」

「僕と同じ二十一だったかと」

「それを踏まえてもう一度聞こうか?」

「添い寝くらいなら致します」

「……そういうのは女中に言ってやれと、私は何度おまえに言えばいいんだろうな」

「生憎、床を共にしたいと思える女中がおりませんのでね」


 誠に遺憾なことに。その一言を待てど、菊之助は薄い笑みを浮かべたまま黙ってしまう。

 揺らめく行燈の炎に照らされた美しい横顔。静まり返った部屋に息苦しくなって、「おまえがそういう事ばかり言うから、一部の女たちが騒ぐんだ」と慣れない冗談を言うも、「言わせておけばいい」と嫌に真剣な声で返されて、余計に無音が苦しくなった。


 菊之助は目が見えない。そんなこと、私が誰より知っている。それでもその瞳がこちらを向くのに耐えられなくなって、私はごろりと布団に転がった。


 そんな私の背に、菊之助の、抜けるような笑い声が小さく響く。


「差し出がましいようですが、」

「うるさい」

「その物慣れなさでは、女に笑われてしまうかと。大変可愛らしいとは思うのですが」

「やかましい」


 おまえは笑われないというのか。そんな言葉を喉の奥に押し込めて、夜着を引き上げる。

 と、突然うなじに触れた大きな手の感触に、びくりと大袈裟に肩が跳ねた。


「不貞腐れるのは結構ですけど、髪だけは拭いて下さいよ。襟足が濡れています」

「わかった」


 菊之助は何か言いたげに、それでも何も言わずに膝を立てて立ち上がる。そうして、静かに寝屋から出て行った。

 蚊帳の擦れるわずかな物音。静かに閉まった襖のあとには、もう虫の声以外の音はしない。じっと耳を澄ますも、菊之助の足音どころか猫の鳴き声ひとつ聞こえなかった。


 あんなに重い色をしていたのに、雨は降らないようだ。


 揺らめく炎に照らされた部屋の中。濡れたうなじが熱を持つのに知らぬふりをして、私はそっと、目を閉じた。







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