『 悲しい雨 』

@blackrain

『 悲しい雨 』

『 悲しい雨 』











深い森の奥にカウンターバーがある。簡単な廂にディアウォール、背凭れの無い丸椅子十脚。口髭のバーテンダーがひとりウイスキーグラスを磨いている。時折額の辺りに翳し、拭き残しが無いように確認したりしている。バーテンダーの背後には5,60種程のボトルが並べられていた。丸椅子に座している客はいない。徐に続けるバーテンダーを向いて500メートル程離れた辺りから一直線に歩いてくる男がいる。右手にアタッシュケースをゆらゆらさせながらでこぼこした森の中を進んでくる。黒縁メガネをかけた色白短髪シチサンの、そして紺色のビジネススーツを着ている。時折、左の拳を口元に持ってゆき、軽い咳払いをしながらちょろちょろ左右を気にするみたいに足早ともゆっくりとも言えぬ中途半端な速度でカウンターバーに向かって来る。雨が降っていた。土砂降りという程でもなければ霧雨また横殴りという雨ではなく、ただ真っ直ぐと降る極普通の駄雨だ。バーテンダーは向かって来る男に気がついていないみたいな感じだ。男もこれっぽっちもバーテンダーを見ない。ただ一歩一歩カウンターバーに近付いている。バーテンダーもグラスを磨き続けている。

「おひさしぶり。」

丸椅子に腰掛けずに男は唇だけを動かすみたいに呟いた。

「ああ。」

応えたのはバーテンダーしかいないわけだが、男に気が付いていたみたいだ。翳したグラスを斜めに見上げたまま応えた。

「あいかわらずだな。」

言ってから、アタッシュケースを左手に持ち替え右の人差し指で丸椅子を時計回りにクルッと軽回ししてから座り、男はアタッシュケースをカウンターの上に無造作に置いた。

「ん… みたいだな。」

男はこの時少しだけバーテンダーを見たがすぐに視線を横置きしたアタッシュケースへ落とし両手の親指でロックを外しケースを開いた。

「まぁ順調といえば順調なんだが…今回も本命は見つからなかった。」

アタッシュケースの中にぎっしりと枯れ葉が入っている。

「なんでもいいか?」

バーテンダーが尋ねた。

「ああ。ただあまりガツンと来ないやつにしてくれ。今日は。」

「ん。」

バーテンダーは振り返り並んだボトルを一瞬眺め、一本手に取って再び男を向いた。選んだボトルを男に確認させる事なく、男の前にグラスを置いて、静かに注いだ。

「どうするよ。」

注ぎながらバーテンダーが尋ねた。

「さあな。」

サッと返して、男はグラスの中身を煽った。喉を晒すみたいに天を向きながら1/3程をゴクッと流した。

「日没間際の影を見つけた。滅多な事じゃないから叫んださ!〝おまえの帰り道に扉は在るか!〟掴み合いに持ち込めそうだった。もうちょいってとこで月を見つけちまった。」

男は勢いよくカウンターにグラスを置いた。

「はは。そんなに慌てんなって。逃げねえよ…時はもう。」

バーテンダーが俯いたまま笑って続けた。

「おまえは覚えてるか?」

「ん?」

「雨だよ… これ、この雨だよ。」

バーテンダーは右手の人差し指で小さく天を指した。

「知るかよ、そんなの。俺と何の関係もねえじゃん。」

「おら… おら… だぁからダメなんだよおまえは。おまえはいつもそうだ。だからおまえは納得出来ない。いつまでも。いつまで経っても。おまえじゃ無理だ。今のおまえじゃ。」

男は溜めた息を微かに鼻から出し、視線を泳がせた。

「ぁ… のさぁ… 何年くらい前だったっけ… ここ来たの… 俺…。」

バーテンダーがボソリと応えた。

「うん…1時間前だよ。」






井田 徹は五月晴れの公園を歩いていた。雨季の晴天が街の中をキラキラさせている。激しい雨の多いこの季節は、その度に街中の埃を洗い流してくれるからだ。顧客先から顧客先への移動の途中に公園の中を通り抜けるのが近道となっていて、彼はこの公園の噴水の横を週二、三回歩いている。高校を卒業してからの製造業の営業マンはもう19年目を迎えていた。社長との出会いは深夜のラーメン屋だった。

高校を卒業した後…在学中から進学はもとより、就職活動も笑いながらの手付かずは、決して余裕のある家庭に育ったからでもなく、むしろ、良い意味でも虚しい意味でも、世間一般に比べて少し低いところに位置する家庭に暮らしていたからであるような気もしている。親父は直向きだった。自分に与えられた時間の略全てを家族の為に費やしていた。私が目覚める時間には既に姿は無く、また、床に就く際も親父の姿は無かった。夢の中ですら会わぬ親父を日曜日の朝10時過ぎ頃にリビングで見ればいつも眠そうな目をしてソファーに腰掛け、右手に珈琲カップを持ちながら気がつくと目を閉じていた。眠ったまま、右手で胸の辺りに携えたカップを落とさず、微動だにすらしない、そんな親父の頑固一徹な姿を背後から目の当たりにする毎に、なんともやるせない気持ちに胸が締め付けられたりしていた。親父は優しい親父だった。何でも話しかければ穏やかに笑みを浮かべ、じっくりと話に耳を傾けてくれた。しかも真剣に。親父が一番嫌いな事は、誤魔化すという事だった。だから親父は、必ず、こちらの問いかけ以上に、深く、広い解答を投げ返してくれた。そんな親父の無理が祟ってか、私が25歳の時に呆気なくこの世を去った。親父は働き者だったが決して裕福ではなかった。賢くはなかったのだ…そう、要するに、誤魔化すのが何よりも嫌いだった親父は、ライバルを出し抜く所謂ズル賢さに、餘りにも無縁だったのだ。毒も持たなければ持たされた牙すらも敢えて棄てる…そんな親父だった。頭がおかしくなりそうなほど、だらだらと共存について、親父なりの持論を聞かされた事も屡々在った。

社長とラーメン屋で出会ったのは、仲間と夜の街を二輪車で走り回ってる最中の出来事だった。腹が減ったので一旦地元に帰ってきて行きつけのラーメン屋に入ったのだった。腹拵えしたらもう一発カマシに行こうなんてゲラゲラ談笑しながらペラッペラに薄くなって色褪せた赤暖簾を腕押しして店に入った時、一人、太くて短い首をすぼめてレンゲのスープを啜る小太りなスーツ姿の中年ジジイが居た。頭も、額から見事に禿げ上がってた。時節完当だっけ…世阿弥の。思わず吹いた。似合い過ぎで。もう深夜1時を回るか回らないかという時間だったかな。

「オッサン、おれ味噌ね。」

「コッチは塩。チャーシュー2枚。忘れないでね。」

「あ!おれもチャーシュー2枚!ヨロシク。」

1台のバイクに二人乗りで来てた。多人数で連むのが面倒だった互いなので毎度の事。俺達はこのラーメン屋の常連だった。ラーメン屋のオヤジが他の客に頼まれた餃子の焼き目を伺いながらチラリと目線だけで俺らを確認し、

「あい、ミソッカス シオッカス 了解!」

フッ… 毎回だからもう慣れた。最初は客に向かってってな感じでカチンと来たが、まぁ、すぐに、このオヤジなりの優しさなんだろうって感じでどうでもよくなった。

「社長、餃子…あい、お待たせ。」

ラーメン屋のオヤジの声が左手側5メートルくらい離れたところでボソリと響いた。さっきオヤジが焼いてた餃子を頼んだのは禿げ上がったジジイだったらしい。店内を見渡したら元来気にしない性質なので気にしないから気がつかなかったのだが客は俺らとハゲ社長だけだった。社長と呼んでた。やはり常連なんだろうか。これまでに遭った記憶は無い気がする。

「店長ビール追加。」

「あい毎度。」

ハゲ社長、深夜のラーメン屋にてジョッキビール追加の巻。

「さっきの赤信号でチラ見した時、先頭車両の茶色のクラウン、高齢者だったろ。あれぁ流石にヤバいな。」

「ヤバかったな。」

「心臓麻痺で意識不明なんて事になったらさすがに責任感じるしな。」

「助手席の婆さんと談笑してた。真横ガラス一枚、ノーヘル、直管でいきなり吹かしまくったもんなぁ。アハハハハハ!」

「バーババ、バーババ、バンバンヴゥオ〜ン!だよな。アハハハハハ!」

「食い終わったら県境超えてみようぜ。」

「そりゃヤベェだろ、2人だぜ。地元の奴に見つかったらフクロだ。」

「逃げりゃいいじゃん。」

「逃げられるかよ。」

「なら逆にやっちまうか!」

「だから2人なんだっつうのコッチ。」

「関係ねぇーよ!アハハハハハ!」

「ほれ、味噌兄ィ、塩兄ィ… 向こうさんからだ。食っとけ。ちゃんと礼言えよ。」

店長オヤジが餃子一枚差し出した。カウンターの隅に腰かけたハゲ社長の奢りらしい。

「え… … … 」

スゥーっと視線を恐る恐る向けるとハゲ社長がニッコリ笑っていた。2人揃って小さく会釈をした。

「 す…すいません。ありがとうございます… いただきます…。」

〝ぉぃ、なんだよ… ジジイ、粋がるガキに愛の手をって感じか!?〟

〝シィッ!バカ、声がデケぇよ!どの道好意だ!ありがたく食おうぜ!〟

バレないようにチラチラ偶に流し目でハゲ社長の様子を確認しながら不器用な手つきでハゲ社長ゴチの餃子を2人で食べた。ハゲ社長は相変わらずの犬食いで、首を竦めながら左手はジョッキの取っ手を握りしめたまま右手の箸で餃子を挟み切り刻んでいる。

「今何時だ?」

「もう2時か。」

少し上を向いたところの時計を見た。学校の教室にありそうなシュールな時計だ。中途半端な油汚れだけがラーメン屋ぽい。

「食ったら帰るか。」

「ああ、眠くなってきた。」

「おまえんち今日親居る?」

「妹が居る筈だけど彼ピんちに行ってる可能性もある。」

「おまえんちでいい?」

「ああ平気だろ…仮に居ても。仮にムフフタイムカマしてても知ったこたあねえだろ。互いに捌けてる。勝手にヤってろってな感じだよ。コチとら寝るだけだし。即、寝落ち爆睡。」

一枚で7個の餃子を3つずつ、残りの1つを箸で分けて平らげた。

さて帰るべく、モッサリと立ち上がった。意識を晒すみたいに左を見た。

「おじさん、餃子、ごちそうさまでした。」

「ごちそうさまでした。」

先に俺がお辞儀して礼を言い、あとから仲間が続いた。

「うん、どういたしまして。若いってぇのは羨ましいねぇ。オートバイ、気をつけて帰ってね。」

ハゲ社長は赤ら顔だった。一瞬親父の事を思い出した。親父の頭は禿げてはいなかったが、豊富に白髪混じりというところで似たような片鱗を感じさせた。俺は、高校は卒業した所謂プー太郎。ツレは自動車板金屋で働く中卒の勤労青年。奴とは中3の時のクラスメートだった。基本授業中とはお昼寝タイム。1日の中での奴にとってのアグレッシブタイムは放課後だった。メカいじり…それだけが奴の生き甲斐だった。奴の近所に自分の所有するスポーツカーを分解改造して深夜の首都高速を走り回る所謂ストリートレーサーがいたのだ。小学生だった奴はあっという間に影響され、そのストリートレーサーから譲り受けた自動車修理工のバイブル、『自動車工学』を片っ端から読み漁り、中2の夏休みは自動車解体屋から再利用不可となったエンジンをいじらせてもらい夢中になってオーバーホールの練習ばかりしていた。気が付けば夏休みは終わり、誰もが夏期講習などを経て、来たる受験戦争という戦慄の中へ努力という武装を携えて学校という本陣へ帰って来たわけだが、奴の頭の中にはメカの構造だけがギッチリと詰め込まれていた。想像するまでにも及ばず学び舎の中ではすんなりと孤立していった。奴にとってのメカいじりだって努力という範疇を逸脱するものではなかった。しかし奴以外の連中が向いている方角とは少々異なるのは確かだった。奴にとってのメカいじりは遊びの延長線上であり、愉しさの頂だった訳だが、寧ろ奴にとってのメカいじりは奴以外の連中が駆る受験勉強に優っていた要素があった。麻薬的要素、極めて夢中になっていたのだ。狂っていたと言っても過言ではない。奴の部屋はフォーミュラーマシンやらGTカー、サーキットコースマップなどのポスターから、エンジン、タービン、トランスミッション、ショックサスペンション等の構造図解まで車関連の全てという全てが所狭しと張り巡らされていた。しかし愉快なのがプラモデルなんかは一つも無いのだ。奴なりの本気だったのだ。玩具は要らない。だが奴にとっての神秘が、何故か俺には容易に理解する事が出来たのだ。俺の育った家庭環境は世間的に鑑みると少々教育熱過剰気味家庭だった気がする。夏休みはもとより年がら年中塾や自宅の机に齧りつかされていた。夏の詩人である太陽よりもデスクの蛍光灯の薄白い光の方が苦く親しみがあったし、月を見る時折には、其れを怠け者と微かに嘲笑った。清浄なる月をだ。今振り返れば病気だ。だからであろう…奴の興味は、アグレッシブは、常にNowという補語を要求し続けたし、糠味噌に漬けられっ放しだった俺には国数理社の如何に仰々しく打算、絶対零度よりも虚しい凡そなる常温、その悲しさを嫌という程痛感していた。親父は優しかった。そして働き者だった。死に物狂いの。そして武器は全て棄てた。親父は殺し合わずに、所謂、討ち消し合わずに勝ち続ける力を俺に携えさせようとしたのだ。そしてだからか、俺は一瞬一瞬の風の指標を見落とさんとする奴の姿勢に惹かれたのだ。

「ノーヘルで帰りてえなぁ…」

「やめとけよ。お開きなんだぜ。寝る前に面倒はごめんだ。」

奴は冷静なんだ。当たり前といえば当たり前なのだが。8歳に見つけたトキメキをもう10年抱きしめてる。俺とは違い、ガキではないのだ。

「徹、おまえどうすんだよ。」

「変なタイミングで変な事訊くなぁ〜、まぁいいけど。」

「キモいから、心配なんかしてねえけど、気になる。」

「積み上がっちまったもんはお釣りが多過ぎる。図に乗ってるつもりはないが、今はぼんやりさせて欲しいかなぁって感じだ。」

「偏差値70超の使い道ってか。」

「…………」

「俺はおまえのそういうの面白くてしかたねえ。」

「はぁ?」

「旨いもの、美味しいものに、飛びつく前にまず疑い、ガン飛ばして否定してサッサと背を向けるとこだよ。」

「それはおまえだろ。はは。」

「俺は機械いじりが楽しくて仕方ねえ。要するに美味いものなんだよ。飛び付いて飛び付きっぱなしじゃん。」

「ああ、まぁそういう意味なら…まぁ…なら俺は、食いたくねえもんばっかし口の中に放り込まれ続けたせいで食う事自体に敵意を懐くようになっちまったって事なのかもな。」

「…………」

「学校の成績、偏差値、これうめぇぞうめぇぞって呪文みたいに耳元で囁かれてポンポン口に放り込まれて…」

「ははは…巧いな…さすが成績トップ。」

俺たちはノロノロ走った。深夜だし、結局奴に言われキチンとてヘルメットをしてたし。何より虚しかな、急ぐ理由が無い。バイクの前席に跨ってアクセルに掌を乗っけてるのは俺だった。奴のバイクだが、奴は板金屋。肉体労働で疲れてるから奴と会う時はいつも俺が運転だった。5月中旬の土曜だった。GW最終日だった。日曜日、奴は仕事が無い。はは、俺は毎日仕事が無い。無いのは仕事だけじゃなかったか。夢はあるのかもしれないが、何が夢だったか忘れちまったし、ただ不思議だな、夢が何だったのか完全に忘れたのに、自分の中のどこかにあるような確信がまだある。

世の中散財しまくった直後だからだろうか、深夜2時とはいえ大通りも餘りに閑散としている気がする。日曜日とは言え…。まぁ気のせいだろ。呑気なのは俺くらいだ。みんな1週間レベルで思考停止した後の職場復帰に備えてるのと同時に、家族サービスやらレジャー歯車大回転後で疲れてるんだ。バタンキューも無理無い。俺の浮世感は雨に打たれた後の乾いたクシャクシャの千円札みたいに縮れてる。奴はよく付き合ってるよ、俺なんかと。まぁ彼女もいなけりゃ興味も無い、あるのは油まみれの情に流される事は決して無いメカと肉眼でブレる圧巻のスピード。加速。逆に言えば人間的パッションは徹底的に其処に隠す。委ねる。今はノロノロ走ってる。ハハハハハ。はぁ、俺何やってんだろ…。20mおきに頭上で行き過ぎる街灯に窘められているような感覚の中、このままこの状況下で失神でもしねぇかなぁ俺。妙な期待を懐きながら笑った。

〝キキィーッ〟

「ありがとうございました。お忘れ物ございませんか?」

「ぁ、はいはい、うん、ありがとね。運転気をつけてね。お疲れ様、ありがとう、おやすみなさい…。」

〝ん?〟

奴の家まであと500mというところで停車するタクシーがいた。小太り、短首、ハゲ頭。

「アレ…」

ハゲ社長だった。ハゲ社長もこちらに気付いたみたいだ。

「ぁ… ど、どうも… 」

俺が呟くと、俺の背中で鼾をかいていたダチが目を覚ましたみたいで、

「ん… ナァニ。」

「餃子奢ってくれたおじさんだよ。ホレ… アレ… 」

指差した。

「やぁ、キミらココイらかぁ…。」

「ぁ、はい。さっきはどーも。」

「なぁ〜んだ、ご近所さんかい。」

いい感じのほろ酔い加減で笑いながらハゲ社長が返した。

「………… ぁ… はい…。」

ハゲ社長は穏やかに笑みを浮かべていた。返す言葉が他に見つけられなかった間に、ハゲ社長は「じゃぁ。」そう軽く右手で合図してこちらに背を向けた。ハゲ社長の家はまだ真新し目に見える外壁の白い極平均的な一軒家だった。深夜2時を回っていたわけだが2階に明かりが灯っていた。階段辺りだろうか、透かしガラスの向こう側に暖色の灯りが見えた。

「行こうぜ。ふぅぁ〜、眠ぅ。」

ダチが呟いた。

奴の家は両親共働きだった。夕方から働いて朝6時過ぎに帰宅。午後2時頃起床し、午後4時からまた同じ様に働き通しだ。奴の家も一軒家だったがデザインも作りも少々古く、玄関などもガタがきている年季の入った家だ。妹はやはり彼氏を連れ込んでいるみたいだったが物音も話し声も全くしない。熟睡しているみたいだ。奴は無造作に玄関の鍵を開けて中に入ったが、俺は幾分足音に気を付けて続いた。家の中に入ると玄関の内側は電気が点いていた。家の中に入ってからは俺も奴もそそくさと靴を脱いでそのまま奴の部屋に向かった。奴はそうとう眠かったらしく、部屋に入るなりエアコンと加湿器のスイッチを素早くポチポチ押すと即行で薄い絨毯の床に倒れ、2分後には寝息を立てて眠りに入った。奴に連られるように俺も意識が遠のき、あっという間に眠りに入った。






「理由を探してる。誰もが理由を探してる。死んでしまうかも知れない程の…命懸けなら理由を探す。たった一度っきりの人生、誰かの為に命懸けで戦いたいものだ。一度途絶えてしまえば二度と再生しない命の使い方とはそうしたものだと俺は思っている。理由が必要だ…どうしても。だから必死に探すんだ。見つかるまで探す。そしてだから残念な事に、理由が見つかるまでは戦えないんだ、俺はね。殺す理由も無いのに殺すわけにはいかないんだ。理由も無く殺すなら、殺したなら、それは神と正義への冒涜、そして聖域を焼き払うような行為だ。しかし理由を見つけたら、見つけてしまったら、案外あっさり献上してしまったりするもんだ、命ってやつを。それを、〝あっさり〟というのが正しいかどうかは実のところイマイチわからない。それを、〝案外〟と言っていいのかどうかほとほとわからない。それでも何故か、この理由という物を誰もが急ぎ足で探している。その意味が分かった時、地獄の淵に叩き落とされたような気持ちになったよ俺は。要は様々な事が起きる中で、其れを、其れ等を含めたすべてを、可能な限り早く終わりたい、終わらせたいという事なんだよな。うん、ああ、ただ…そう、これは多分、男の話だ。女は違う。少し異なる。これは男の話だと思う。俺は。」

「早く終わらせたいのはその終わる一瞬に、絶命する瞬間に、脅える感覚が面倒臭いからだろ。ダラダラとでも生きてるってのは結構楽しいもんだ。ただ、誰かと喋ったり関わったりしてるのは、様々な事を話しているようで起きて起こしてるようでいて、実はケリがつくまでの、つけるまでの互いの距離を測ったり比べたりする見せ合いっこをしてるに過ぎなかったりする。それは俺にもわかる気がする、今はな。」

雨は降り続いている。

カウンターに勢いよく置いたウイスキーグラスを固く握った侭バーテンダーと話していた。

「珈琲ある?」

またグラスを磨き始めたバーテンダーは手を休めずに一瞬こちらを見た。

「あるよ。」

バーテンダーは応えたままグラスを磨き続けた。

「… そんなに磨き続ける必要あんのか?」

訊いてみた。

「あるよ。グラスは空気で汚れる。汚れ…じゃないな。空気じゃないな。グラスはカウンターの上で人の思いを吸う。拭き続けて、拭い去ってしまう俺はそんな残忍な輩でもないつもりだが…なんだろな、職業病みたいなもんだな。」

「珈琲、なんであんの?」

「そういうもんだろ。」

「そういうもんて、どういうもんだよ。」

「おまえ何で珈琲あるか尋ねた?」

「 … … … … 」

「酒ってのは、逃げる逃がす、要は気を、撒き散らして払い除ける時に使う道具だよ。それに反して、珈琲ってのは真剣に向き合う時に内臓に流す物だ。」

「此処、酒飲むとこだろ。」

「飲むなら出すが、どうする。」

「 … … 淹れてくれ。」

バーテンダーはグラスを拭いていた手を止めて振り返り、背後にあるディアウォールにグラスを置いた。再び男を向くとしゃがみ込み、カウンターの下から珈琲カップを出した。

「水で入れてくれ。インスタントみたいなの無いかな。常温がいい。」

バーテンダーは何も言わず珈琲を入れ始めた。

「はいよ。」

バーテンダーは男の前に珈琲を置いた。

「ああ。ありがと。」

男はクリーム色の珈琲カップの柄を右手で持ち口元に運んだ。

「おまえの命日、雨だったよな。」

「あん?」

「こっち来た日、おまえが死んだ日だよ。」

寝耳に飛来する蚊の羽音のようにバーテンダーが言った。

「 … … … な ぁ … 」

「あん?」

「土砂降りの雨だったよなぁあの日。」

男が喋り始めた。

「 ………… 」

「面白そうだったんだよ。」

「 … … … … 」

「すっげぇー土砂降りだった!ふははははははっ!感動したんだよ!

……………………………………………………………………………………

フロントガラス、まるで誰彼数人でバケツの水を右から左から勢い任せにぶっかけられているみたいでよおっ!腹抱えて笑ったさ!何十年振りだろ?生まれて初めてかな?って思うほど笑った!夜中の3時!午前3時半くらいだよ!いい大人が人里離れた山奥の崖っぷちで… 」

「お代わり、飲むだろ…もう一杯…珈琲。」

「 … … … … ああ。」

男の言葉を斬るようにバーテンダーが2杯目を誘った。

「後悔や痛恨なんてのは無い。そんな誇り高くない。ただあの夜、あの時、奇襲のような雨がフロントガラスに叩き付けてるのを見てたらなんか俺の代わりに復讐してくれてるような、或いは泣き叫んでくれてるような、そんな風に感じたんだよ。幾らかデキる男みたいに見られながら生きてたが味方なんかひとりもいなかったし、バカみたいに嬉しくなっちゃったんだよ。」

バーテンダーは2杯目の珈琲を入れながら返した。

「嬉しくなって自殺か。」

「 ………… 」

「 ………… 」

「面白いよな魂って。本能。煩悩。嫌に前向きな一瞬の爽快感、コレがヤバいはは。頭の隅っこで結構徹底的に計算してるんだよ。裏本能とでも言うのかな。肉眼で見映ってる現実の景観が精神にとっては幻になる。そして瞼が開いた侭、頭の中の眼球が現実には存在しない何処かの広い砂漠を眺めてる…いや、眺めてた。視界いっぱい入り切らない広さ。そして其処には、その砂漠には、千にも万にも及ぶシーソーが置き放たれてた。ゆらゆら揺れてた。ギーコギーコ音を鳴らしてた。全てのシーソーが揺れてたからそれは大変な大音量だった訳だが、俺の心が既に死んでたからなのかも知れないが、其れ等を煩いとは感じなかったんだ。有り体な言い方だがレクイエムみたいにすら聞こえた。静寂の情景の中の、微かなレクイエムみたいな…そんな風に俺には感じた。」

バーテンダー再びグラス磨く。

「なぁ… 自殺ってなんだろな。妙に悲し気な響きがあるけど…実のところそうでもないよなぁ。身勝手。軽薄。意気地無し。行き着く果てにゃギャグまたコミック。あははははははは。」

「当人はな。周りは過酷だよ。後始末だとか、まぁやはり、遺された側の募る想い。還らない日々。」

「48歳だった。100年て根拠無く思い浮かべると半分も来てない。」

「 ………… 」

「自殺じゃない。他殺でもない。ノリノリの乗り気大炸裂って感じで思いっきりアクセル全開にしたよ。車の床が抜けるんじゃないかと思ったくらいに。ケツや背中、シートからの押される感覚にホッとした。その直後にフワッとした…〝 ワァオ! オーイェイ! 〟浮遊感が堪らなく気持ちよかった。その時、雨って邪魔臭いよなぁって感覚も久し振りに思い出したりした。元来、雨、大っ嫌いなんだよね本当は。ついさっきフロントガラスに打ち付ける大雨に歓喜したのに…それから、うん、ふっ… 所謂、身体が下がっていく、要するに落ちていく感覚に次第に変わったわけだけど…悲壮感など微塵も無かったし、ただぁ…〝へぇ〜 。〟気が付いたら… 」

気が付いたらカウンターの向こう側にバーテンダーの姿は消えていた。






午後2時過ぎに目が覚めた。時折聞こえる物音はダチの両親だと思われる。

「ぉぁょ…コンコン。 」

軽く肩を叩いた。

「ン…ぁ、ぉぁょ。オヤジ達起きたか。徹メシ食ってくだろ。」

「ん、いいや。腹減ってないし。」

「ん〜、そか、わかった。じゃ気をつけて帰れよ。」

「おう。」

短い廊下を辿って玄関で靴を履いた。一つ欠伸が出た。

「お邪魔しました。」

「あら?徹君ご飯食べていきなさいよ。」

2階のキッチンからヤツのお母さんの声がした。

「ぁぁ、いや、今度ご馳走になります。お邪魔しました。」

昨晩軒先に置いた自転車に跨りヤツの家を後にした。

テレっと自転車を漕いでとりあえずコンビニで缶コーヒーでも飲もうと思った。日曜の午後の閑散とした住宅街を風に撫でられながら走る。出来るだけ遠くを眺める癖がついていた。カラカラと自分の自転車のチェーンの回る音が虚ろいを茶化すみたいに小さく轟く。足元で輝く真っ白なペイントが幾つもの住宅や交差点を突き抜けて遥か遠くまで延びるのを見つめると、本当は此処が天国なのではないかという錯覚を懐かせた。光と影。光の、太陽の下に在る光と影のように、抑も照らされて存在を映し出されている白線の白とアスファルトの鼠色に想いを馳せたりした。昨日の夜、訊かれたから答えた俺の返事は 〝 今はボンヤリさせてほしいかな…。 〟空を見上げれば夏までの時間を距離のように感じられた。

「お!よく会うね!今日は1人かい?」

「ぁ… こんにちわ。昨日はご馳走様でした。」

「うーん、いやねぇ、白々しいかなぁとは思ったんだが、自分の若い頃思い出してね。」

「はぁい…」

「いや懐かしいなぁ。君は…18、19…まぁハタチ前くらいだろ?」

「ぁ、はい、18っす。」

「うんうん、そうだろ、そうだろ。わぁっかいなぁ〜。」

昨晩ラーメン屋で餃子を奢ってくれたハゲ社長だった。ラフな半袖のカジュアルシャツは薄ピンク色、ベージュのチノパンに若草色のニューバランスを履いていた。使い古した感じの茶色いリードを手にした先には成熟した頃合いのハスキー犬が静かにオスワリをしていた。

「飼ってるんですか…オスですか?」

「うん、オス。丁度10歳だね。」

「羨ましいですねぇ。」

しゃがみ込んでニッコリ笑って見つめてみた。

「可愛い。触ってもいいですか?」

「うん。噛まないから平気だよ。首なんか撫でると大喜びするよ。ハハハハ。」

「何て名前なんですか?」

「フゥン、ハハ。ハスキーでハスキン。コイツには悪いが簡単に付けちゃったよ。ハハハハ。」

「ハスキンですか!でも精悍な名前ですよ!似合ってる!」

「ハスキン!よぉーしよぉーし!」

言われた通り耳の後ろ辺りから両手で何度も首回りを摩ると悦に耐えられないみたいに呻いた。

〝 ゥゥウ〜 ワンッ ワンッ 〟

「わはははは!」

揺れたハゲ社長の額が5月の太陽に照らされて閃光を放った。

「カァーワイーですねーっ!」

「うーん、ありがとう!」

笑みを返した。

「丁度犬の散歩でね、出て来たとこなんだよ。」

「そうなんですか。僕のうちは、猫は飼ってるんですが、犬は飼った事ないので…。猫も可愛い事は可愛いんですが、犬みたいに帰ってきた時の毎回の大歓迎みたいなのは無いから、羨ましいなぁ。」

「いいじゃないか、猫がいるなら。動物はなんでも可愛いよね。…ゴキブリは苦手だけど。ふふ。」

ハゲ社長のおじさんは、典型的ないいオヤジさんタイプだった。

「僕もゴキブリだけは苦手です。ハハハ。これも一つの差別だとは思いつつ。」

「うんうん!想像しただけでも怖い!」

「ハハハハハハハハハハ!」

二人して笑った。

「あの…」

「ん?」

「あのラーメン屋、あんなに遅い時間、よく行くんですか?」

何となく尋ねてみた。

「うん、たまあにね。週2回くらいかなぁ。あんなに遅い時間てのはなかなか無いけど、仕事で遅くなったりするとね…まぁ事前に女房に電話で伝えておいてね、遅く帰って食事並べさせるのも悪いし、折角作ってくれたのを冷めてからってのもちょっとね。まぁレンジで温められるんだけど、序でに私の分も無ければ女房の定休日に出来るから。」

「や、やさしいんすね。」

「いやははは、歳だよ歳。人間弱くなれば助け合い無しじゃ生きて行けないなんて情け無い悟りを開く。ははは。誰だって。」

「お子さん居ないんですか?」

「ああいるよ。ただもう独立っていうか、一人で暮らしてるけどね。」

「娘さん…ですか?」

「ほお、鋭いねぇ。一人娘。」

「さ、さみしくないっすか?あ、生意気言ってすいません…。」

ハゲ社長は目を細めて微笑みながら返事をした。

「ああ、いいさ。君も先々知る事だけど、家を出て行ったあと、娘がいない家の中をうろちょろ笑いながら、ちょこちょこ走りまわったり、テレビを観ながら床に寝っ転がってお腹抱えて笑い転げてる、幼少の頃の娘ばかりを思い出すんだよ。それが、懐かしくもあり、まぁホロ寂しくもあり、またそんな頃を女房と静かに語り合ったりというのがまたこれはこれで結構楽しいんだよ。そして偶には娘も帰って来る。そしてまた都会へ戻っていく。我々夫婦も、いやぁ思いの外、遠くへ来たもんだねぇなんて話しながらさ。」

ハゲ社長はとっても嬉しそうに話していた。ばったり道端での立ち話で長くなってしまったが俺的にはボンヤるというタイマー無しな上にこの手の年増トークは嫌いじゃなかった。寧ろ好んで興味も有ったのだが、付き合わせてしまったかなと思い始めた頃、真っ黄色な陽が少し豊潤なオレンジ色に向かい始めた。一人娘を語る生真面目な父親の語り口にピッタリはまるロケーションだ。

「ああ、ああ…ごめんね、若い子に何青臭く語り入れしちゃったよ、ごめんごめん。へへ。」

微笑んで返事をした。

「いえ。昨晩、っていうか今日か…夜一緒に居たアイツと、僕らもあのラーメン屋、結構行くんですよ。悪い事ばっかしててダラしないんすけどその後に。あ、でも、何か盗んだり、女の子傷付けたりは絶対してません。これは神に誓えます。俺も一人っ子なんす。ラーメン屋でおじさん見かけた時、ちょっと自分の親父思い出しました。未だ勿論、自宅に住んでますが、昨日みたいにあのダチん家に泊まったりって親に心配ばっかかけてます。話…聴けて良かったです。ありがとうございました。」

途中頭を掻いたりしながら最後は深く頭を下げた。

「ああそう?それなら良かったけど…抜けねぇからなぁおじさん、いい歳して。いや面目無い。」

「いえいえ… そんなそんな…。」

社長はニッコリ笑って小さく会釈した。

「それじゃ、ありがとうございました!失礼します!」

もう一度深くお辞儀をして、ハスキー犬のハスキンとその場を後にするハゲ社長を見送った。

5月はもう陽が長くなっていたが、夕方3時半を回る頃になっていた。

さて、コンビニで缶コーヒーを飲んで帰るべく俺も自転車を漕ぎ始めた。


コンビニに着いて駐輪場に自転車を置いた。店内に入ると休日の午後持て余し的な客が4,5人居た。本棚では誌面に穴が開きそうなほど週刊誌のスクープネタを見つめて凝固する銀縁眼鏡、高身長、太めの男性、化粧品コーナーでは乳液を物色する若い休日風OL、艶々した栗毛色のヨークシャテリアを抱きかかえて目を白黒させながら缶入りのウェットフードの成分表示を確認し続ける主婦に、道路工事のガードマンは無精髭と指先まで真っ黒に日焼けしたその右手の甲、掌にはオニギリを握り、左手には缶コーヒー2本、親指、人差し指、中指を器用に使って持っている。レジでは黒縁眼鏡の店長らしきが在庫チェックをしながら精算客を待っている。俺はホットにするかコールドにするか迷っていた。どうしてコンビニには常温の珈琲が無いのか考えたりした。温めてあるか冷やしてあるか。珈琲は常温が一番好ましいと俺は思っている。しかしもてなすというのはそういう事である。考えるだけバカバカしいわけである。こんな時、改めて自分の抜けている部位を見つけて確認してはホッとしたりする。〝 偏差値70超の使い道ってか… 〟。偏差値70超の使い道なんか無い。偏差値70超の使い道を、考え、そして使うのは俺じゃない。俺以外の、それは、社会であったり、要するに、俺で一儲けしたい人の範疇であろうし、その人等にとっての俺は大切なアイテムになるのであろうし、戦闘員になるのであろうとは思う。〝 人生はゲーム 〟このセリフは申し開きなのだろうか、それとも堂々たる正解なのだろうか。だが社会は、掘り進め、そして登り詰めた岳に確固たる報酬を用意してくれていたりする事実はある。それはわかる。報酬… 夢… 自由… 少しだけズレている。少しずつズレて行く。今は虚ろいという自由の中にいる。空洞に閉じていた羽を広げて夢は大きく弧を描きながら飛び回る。報酬で出来る事がある。報酬で出来ない事もある。飛行機に乗れば大空へ羽ばたき雲の上を飛ぶ事も出来る、それでも雲の上に立ち、そして歩き回る事は出来なかったりする。飛行機に乗って、必要に押されて移動手段として航空機の窓から雲を見下ろす。それで何となく納得する。所詮現実はそれ以上は無理。心という入り口から入り、魂も其れで手を打つ。折れる。魂が新品だった頃は、雲の上を歩きたかったのに…。現代の鳥は自ら等が何故背に羽が生え、飛べるようになったのかを知ってるのだろうか…理由が齎され、神が応えた。天敵より身を守る致し方無し、その究極の術とし魔法をかけた。神の思いという物は難解にして深いものだ。人が神に頼みを重ね過ぎぬよう、怠け堕ちせぬよう、科学、化学また物理を齎せた。神の力を隠すその便宜を図る為に。

俺はコンビニで購入した缶コーヒーを手に店の外の喫煙スペース近くの壁に寄りかかって飲んだ。人一人分のスペースを空けて灰皿のすぐ側では中年サラリーマンが左手の指に煙草を挟みながら耳に当てた右手の携帯電話で真剣な目をして会話をしている。日曜出勤だろうか。商談みたいな雰囲気が漂っている。鼠色のスーツにネクタイ姿だ。

「ぁ、もしもしママ… うん、今近くのコンビニに居るの。もうすぐ行くね。うんうん、はぁーい。」

若い女が店内に入って行った。マロンカラーの髪、ペンダントネックレス、真っ白いトップス、ミントグリーンのパンツ、シルバーパンプスで携帯電話を耳に当てながらゆっくりとした足取りで俺の前を行き過ぎた。缶コーヒーの真っ赤なラベルに目線を戻した。一瞬女に目を奪われたが、そういう瞬間の自分が嫌いだった。女嫌いという訳でもないつもりの女嫌いなのだと思う。だからといって無論同性愛好家ではないが女性特有の母性と嫋やかさの延長線上で許される曖昧さといい加減さに僅かながらだが敵意を携えていた。女はATMの前で立ち止まり画面を覗き込んでいた。お金を下ろしているようだ。さっき話していたあのハゲ社長の一人娘もこんな感じなのだろうか…。

「さて帰ろ。」

缶コーヒーを飲み終えて空虚の息も吐いたか呑んだか取敢えず今日分の憂鬱は体内に流れたカフェインに滲ませて捨て去る事が出来たような気がしていた。

〝 … … … … 〟

〝 はぁ? 〟

何なのだろう。昨夜初めて遭ったハゲ社長と、ダチの家で爆睡し一晩明けたら道端で再会し思いの丈を交換したのはついさっき…そして三度、再々会。

「あららららら、面白いねぇ…こんな事あるんだねぇ。」

ハゲ社長が気付いた。

「ぁ… ぃゃ… すいません何度も。」

「ハハ… 君が謝る事じゃないよ。しかし、相当縁があるんだねぇ。」

「ぁぁ… ぃゃ、すいません…。」

なんとなく、邪魔をしているような罪悪感を感じた。

コツコツと近付いて来る靴音が聞こえた。

「ん?」

先程、一瞬目を奪われた若い女だった。

「あれ?パパ迎えに来てくれたの?」

「うん、いや… 犬、散歩してたんだよ。」

女と一瞬目が合った。

「 ……… 」

「 ……… 」

「ぁ、じゃあ失礼します。」

「ああ、うん、じゃあまたね。」

「失礼します。」

ハゲ社長の娘…だったらしい。何故か…逃げるかのように立ち去って来た。びっくりした。びっくりしたのは、剰りにもタイムリーだったので。自転車を漕ぐ足が猛烈に急いでいるのを自分で感じた。

「ふぅー、バカバカしい。」

一瞬目を奪われた若い女にハゲ社長の娘を想像したらドンピシャだったから。それに自分が女に気を取られた事に嫌悪感を懐いた。ハゲ社長に縁があると言われたのも歯が浮いた。そういう岐路に連れて来られるほど素直じゃない。いやバカバカしいバカバカしい。


「パパごめんね、父の日繰り上げで。やっぱり休み取れなかった。」

「ああいーよいーよ。今時、律儀に父の日を覚えといてくれただけでも有難いよ。」

「ハスキンも元気そうだね。」


ハゲ社長とその一人娘…コンビニからの帰り道…


一瞬足を止めてしゃがみ込み頭を撫でた。

〝 クゥ〜ン クゥ〜ン クゥ〜ン クゥ〜ン … ワンッ!ワンッ!ワンッ!ワンッ! 〟

尻尾を振り回して再会にはしゃいでいる。

「ハスキン元気だったぁ。ん〜ヨシヨシ。」

「あ、そうだ、ママも元気?」

「うん。家で葵(※あおい)の大好きな豚のトマトソテー用意しながら首長くして待ってるよ。」

「わぁー!さすがママ!パパ!早く帰ろ!早く早く!」

「あははは、そんな慌てなさんな。ハスキンもビックリしちゃうだろ。ハハハハ。」

「そう言えばパパ、さっきの子、知り合い?近所の人?」

「ああさっきの男の子かい?」

「うん、見た事あるような無いような…」

「うん… 昨晩ね、ラーメン屋で初めて会ったんだよ。もう…そうだな…深夜2時にもなる頃だったんだけど、今居なかったけど友達と二人でね…。なぁ〜んか、ハハハ…若さっていうのかなぁ、どうやらオートバイで夜の街を吹かして走り回ってたみたいだよ。」

「あら、フフ、暴走族ね。」

「うん、まあな、そんな感じだろ。見えなかったろ?目、そんな感じに…。」

「うん… マジメ君な目ぇしてた。」

「少しは騒がしくラーメン屋に入って来たけど、悪意というか殺意というか…そういうの、感じなかったんだよ。」

「いつものあのラーメン屋?」

「うん。」

「 ………… 」

「だから餃子ご馳走した… ハハハハハ。」

「ウフフフ。パパ好きだから… そういうの。昔から変わらないね。」

「男にはロマンがある。ああ女には理解出来ないであろうくっだらない拘りが。それに一番振り回される年頃だよ彼は。18って言ってたなぁ。」

「ちゃんといただきますごちそうさま言った?あの子。」

「ああ。礼儀正しいもんだよ。やりたい事をやる。其れを、臆する事なく全うしてこそ誇りが生まれる。だから当たり前の事が出来ない侭では居られなくなる。いただきます…ごちそうさま…ありがとう… … … しかしこの 〝 ごめんなさい 〟… これを悟り、自らの物とするのが…はははは…なかなか難しいもんなんだよな。はははははは。」

「はいはい。本当パパ相変わらずね。」






「ただいま。」

「おかえり。」

家に帰ると親父がいつものようにリビングのソファで寛いでいた。

「おかえりなさい。何か食べる?何も食べてないでしょ?」

「うん…。」

お袋が微笑を浮かべながら尋ねてきた。親父は相変わらずこういう時は無表情だ。

「スパゲッティじゃ重いかしら?」

「いや、スパゲッティでいい。」

最近俺は粗食なので、スパゲッティでも重いと感じたのかも知れない。栄養バランスを考えると、重いからとかではなく、摂取しなければならない分はあるわけだが、並べても俺が食べないから訊くようになった。俺はキッチンに向かい珈琲カップを食器棚から一つ取り出して自分で珈琲を淹れた。

「徹君、最近珈琲多いね。飲みすぎじゃない?身体に悪いよ。」

さっきもコンビニで微糖の珈琲を飲んだばかりだったが、家で自分で淹れる珈琲にはミルクも砂糖も入れない。カップに粉末インスタントを入れて水道水を注いでスプーンでグルグルかき混ぜるだけ。

「落ち着くんだよ。」

「珈琲も中毒性があるのよ。気を付けてね。」

「うん。気を付ける。」

お袋が心配した。

「あ、中島君元気だったか?」

「ああ、いつもと一緒だよ。」

「立派だよな。高校なんか出てなくたって、彼は将来出世するぞ。」

「うん、俺もそう思う。あいつ夢中になった事、飽きにくいんだよ… それが羨ましい。」

「徹は…どうだ?最近は。」

親父が中島の事を尋ねてきた流れで俺の話に繋いだ。俺は親父が好きだったから訊かれて嫌な気はしなかった。

「親父…親父はいつからそんな直向きだったの?昔から?」

「ハハハハ… なんだ突然。」

「俺さぁ、同じ場所に寝て起きてって所謂一緒に暮らしてる親父と、なんで毎日会えないのか不思議でしょうがなかった。日曜日会えたと思えば、そうやってソファ腰掛けていつのまにか目を閉じてる。それなのに手に持ったカップを落としたとこなんか一度も見た事ない。なんかまるで植物みたいだなぁって。そういながらにして、話しかければ瞑っていた目をパチって開けて俺の話を真剣に聴いてくれる。それは嬉しかったけど… 親父の、この人の、安らぎの場所って、そういう時って、一体何処にあるのかなぁって。家族の為、子供の為っていうのもわからなくはないんだけど… 俺自身此処まで、それまで塾だ予備校だって時間に追われながらそれなりに積み上げて来て、いよいよ高校も最終学年で進学だ就職だ専門学校だって周りもざわつき始めた中、おまえは優秀だからあすこを狙える…バラ色の人生が約束されてる…とか…金だブランドだって、そんな後のステータスシンボルばかり見据えて目をキラキラさせてる。メカいじりを一つ覚え二つ覚えその度にはしゃいで目をキラキラさせる中島と同じような目をしてそんな、見栄の張り合いみたいな話をしてるクラスメートを傍観しながら、一体自分が、この分かれ道のどれに向かったら最良なのかわからなくなっちゃったんだよ。………… 日曜日…ソファで目を閉じてる親父は、そんな俺の脳ミソの中にあるデッカい天秤の真ん中にある支柱の様に感じた。」

「 … … … … 」

「いつまでもフラつきみたいな事してて悪いんだけどさ… 。」

親父は真っ直ぐ前を見た侭、瞳孔すら動かさなかった。黙って、俺の話を聴いていた。

親父が口を開いた。

「自分の目に、唯一映らない物は、自分自身だけなんだよな。」

「 ………… え ? 」

「産まれたばかりの赤ん坊だってそうさ。徹もそうだった。パパもママも世の中の全ての人が皆同じように… 笑う、泣く、叫ぶ… 日々繰り広げられ、続いている一喜一憂は、自分の目で、世界中で自分一人だけを除いた所謂自分以外の一切、その動向を見て、感じ、嬉しくなったり悲しくなったりする。そうしながら、価値観や、概念… 性質とでも言うのかなぁ… 性格ではない性質… 所謂、魂を形成していくのだと思う。だから一人で、自分だけがコソコソ喜んでいるのは、誰の幸せも齎せないし、そして、そんな一人ぼっちの中の嬉しい人は、実は必ず、背中に身動きをし難くさせる十字架を背負っているかのように苦しんでいたりする… 何も罪を犯してなんかいないのに。学生時代というのは、いや、若い頃というのは、皆、巨大な迷路の中に閉じ込められている。いや、実は若者達だけじゃなくて、人間死ぬまで、永久に迷路の中だな。パパやママだってそうさ。ただ、若者達と違うのは、若者達は、勇んで急いて、迷路から出る事を考える。自由になりたい。巨大な迷路の上空高く飛ぶ鷹を恨めしそうに眺めながら、羽ばたきたい、どこか知らない遠い所へ飛んで行きたい… そう、急くんだ。でもね、段々変わってくるんだ。巨大な迷路は実のところこの世界そのもので、要するに、膨大な数の人々が歩いている。そうした中でやはり、沢山の関わりや、衝突もあればその衝突を乗り越えた末の友情や絆や、そして、恋もしたりする。愛する人との間に子供まで生まれてしまう。抜け出したかったこの迷路の中で、涙が溢れて止まらなくなるほどの幸せが大きく大きく膨らんでしまったりするんだ。いつか、死んで終わる… 幕が降りてしまうこの物語の経過を、進行を、恨めしいと感じるようになってくるんだ。なんとか、なんとかして、時の流れを止める事が出来ないだろうか… まだ一緒にいたい、ずぅーっと一緒にいたい… そして、だから、要するに…この迷路が愛しい故郷になり、ずぅーっとこの迷路の中にいたい!この迷路から追い出されないようにみんなと上手くやりたい!この世界がどうして、こんな迷路みたいになっていたのかを、それを理解出来た時、背中に生える羽よりも、もっともっと自由にしてくれる、心の羽がはえるんだよ。魂の羽が生えるんだよ。分かれ道…根拠無き自信て解るか?自信とは、根拠が有るなら、それを自信とは言わないんだよ。それは、その根拠に阿ているのであって、自分を信じる事が出来ているのとは違う。根拠の胸ぐらを掴み、〝 俺はこんなに努力した!こんなに頑張った!なんで!どうして届かない! 〟そんな風に、御門違いな訴えを、シュプレヒコールを揚げているようなものだ。自分を信じたければ、最良だと考慮出来る判断材料を探したりはせず全身全霊の直感で道を選びなさい。根拠無き自信こそ、いや、其れのみが、たったひとつの本当の自信なんだ。」

「 … … … … 」

「パパは徹が生まれた時、誓ったんだ。立派な凡人に育て上げると。」

「凡 … 人 … ?」

真っ直ぐ前を見つめて、俺を見ない親父を一瞬見た。

親父の視線は動かなかった。その侭親父は続けた。

「そうだ。凡人だ。しかし立派な、凡人だ。」

「 ……… 」

「凡人に… 凡人には… なかなか、そう簡単には、なかなかなれないもんなんだ。」

「 …………… 」

この時、初めて親父は俺を一瞬見た。ただ直視ではなく、本当に微かに瞳孔を動かす程度、目尻で視界に少しだけ侵入させたという程度だった。

「ママ、珈琲、おかわり淹れてもらっていいかな。」

「はぁい。」

キッチンで俺のスパゲッティを作ってくれているお袋に親父が頼んだ。

「パパも食べるでしょスパゲッティ?」

「うん食べる。ありがと。」

「みんなで食べましょう。ふふ。」

いい大人二人が午下り、公園で紙ひこうき飛ばしてはしゃいでるような雰囲気…親父とお袋はいつもそんな感じだった。親と子である俺との空気は違うが、親父とお袋、二人の間の空気はいつもそうだった。仲の悪い揉め事三昧の両親よりはマシだし妙な疎外感を懐いた事は無かった。ただ仲が良過ぎるのを呆れた事は何度もあったが。

「凡… 人て、親父… 」

「ムカついたか。」

「ぁ… ぃゃ… ただ、」

「人に理解出来る事が自分に理解出来ない… 劣等感というやつだな。それは実のところ裏を返せば個性の種。所謂、実体は個性の発芽だ。単純に議題に価値を見出せないから其処に注視出来ず他を見る。例えば窓際の生徒が眼下の光り輝く校庭を見下ろすみたいに。教壇で教義を展開し続ける教師の目に一瞬視点が戻る。吹聴の様に回り続けるその教師の口元、唇を眺めながら葉の裏の白さの様なあらたかさの無さに項垂れる。〝 それがどうかしたのかよ 〟そう思い得ても仕方無いほど、窓の外は、風景は、〝 今 〟という解釈を閃光の如く眩く伝え放って来る。さてどちらが重要か…。先を見据え安堵を探し結論は巷を見下ろしていたいという隠された魂胆に甘んじないそうした窓の外を眺める魂 … … … … ふむ、それは詭弁だが、そして誰もが後の身を案じてばかりとは限らないが、少なくとも、窓際の学生は自らなりに極めて時の流れを、極めて本当の意味で、一瞬一秒たりとも無駄にはしたくない鬼神の魂とも見方によっては判定出来たりもする。… … … … 個性的である事を悪いとは言わない。個性を無駄に色鮮やかなペンキだとは決して断定しない。だからこそ、勤勉である事を徹底させたのは然し其処にある。しけた海の船上で顳顬(※こめかみ)一つ動かさない決定的な冷静さを徹に身に付けさせる為に。それでも、徹に抑制を促す事柄を極力少なくしながら、此れを推し進めるのはとても難しかった。」

「努力し続ける事に対しての…」

「そうだ。勤勉であり続ける事に対しての憎しみを懐かせては元も子もない。」

「……」

「やりたい事をやらせる。やりたくない事は押し付けない。しかし、やりたいと思い込んでいる事が本当にやりたい事であるか否かを、自分自身で厳粛に判断出来る力を身に付けさせる為に必要な事は…」

「 ………… 」

「何故、パパが、徹に話す時、徹を見ないか解るか?」

「 … わ … からない … 」

「人と話す時は人の目を見ろと言うよな。学校の先生だって、世の中の大人達の殆どは皆そう言うだろ。ケースバイケースだが、いや、特異な考え方かも知れない。そして正しいかどうかも不明だ。いや、恐らく間違いだろ。不正解。」

「 ……… 」

「きっと徹の目を見て話せば、聞けば、きっと徹の今の、心の温度を知る事は出来るだろ。でも徹の、心の、立っている場所、居場所は逆に見定められなくなるんだよ。」

「親父 … それって … 」

「人の心を揺らすのは、また動かすのは、対峙また遭遇する、人間のみではないんだよ。風向き、風の強さ、足元の地べたの広さ、気温また季節…。そいつこいつで其々心を、魂を包囲してる風景は違うものだ。それは徹にも解るだろ。誰にでも解る。特別な事じゃない。ただ、其れを、徹底的に確認しに、一歩一歩近付いて行く者は…こういう言い方もまた誰が口にしても偉そうで嫌なのだが、なかなかいないと思う。でもそれをしないと、人を守る事は、心を守る事は絶対に出来ない。」

「 … … … … 」

「 〝 おまえの気持ちはよくわかる。 〟こうした言い回しを、セリフを、徹もこれまでに聞いた事、幾度となく有ったろうし、徹自身、友達や仲間に言った事が有ると思う。パパだって有る。でも本当はね… 〝 わかったわかった、わかったからもういい加減にしてくれ。〟腹の中の本音はこうだったりするのが殆どだと思う。産声を上げながらこの世に生まれて来て、一分一秒とズレなく時を重ね合う者など一人も居ない。心は、魂は、一瞬一秒で曲がる。曲がる時はな。それを、人の気持ちなど、解ったような気になれたりしても、実は解り得ない… だから… わからないからこそ、よーく話を聞く。一生懸命追いかける。心を。」

「相手の目を見ずに話して、いや、見ない方が相手の事がより理解できるというのが解らない…。」

「目の輝きには〝 今 〟が映るんだよ。そしてその〝 今 〟に重なって見え難くなってしまうんだ。〝 過去 〟という二文字にしてしまうと収まりきらない気がする。仮に、例えば涙とは、〝 悲しみ 〟を、受け入れないと、溢れて来ない物なんだ。誰か愛しい人が死んだとする。不慮の事故でも病気でもいい、要は想定外の早い時期に遠い世界に去って行ってしまう… 諦める事が出来ない… こんな時、涙は流れない。しかし面白くもまた、世界が上手く出来ているのは、嬉しい時の涙は少し異なっていて、想定外の幸せが舞い降りて来たと同時に、突発的に溢れ出したりする。」

「 ……… 」

「やりたいと思い込んでいる事が本当にやりたい事かを見極める厳粛な判断力…それを身に付けさせる為には… 其れをして、徹が、興奮してる時…所謂、ときめいている時だ…そしてはしゃいでる時…その瞬間のみ、笑って見守ってあげる事だよ。」

「 … … … 」

「徹はしっかりしているが、それはそれでしっかり者なりにパパとママの顔色を確認している。うん… これは徹の、責任感だな。責任感の範疇だと思う。」

お袋がアロエ柄のお盆にスパゲッティを盛った皿を三つ乗せてキッチンからやれやれという笑みを浮かべながら近づいて来た。

「はいはい、ママ特製の美味しいスパゲッティが出来上がりましたよ。」

親父は俺の目を見つめて小さく笑った。






バーテンダーが消えたカウンターバーで一人佇んでいた。話の途中だったが突然消えた。

「はぁ…」

男はカウンターの上に両肘を着き、顔の前で左右の手の指をクロスさせ、ぼんやりと真っ直ぐ前を見詰めていた。

「意外と大した事なかったな。いや、大した事ないとは薄々思っていたが、本当に大した事なかった。」

ボソリと零した。

向こうに居た頃、期待していた事も、ある程度覚悟していた事も両方無かった。ただやはり、時の流れが好都合にも不都合にもかなり違っていた。逢いたい人にもすぐ逢えると思っていた。

「 … 」

真っ直ぐ前を見つめていた目を閉じた。

後悔は無い。

「 … … … … … 」

開け放った侭にしてあるアタッシュケースの中の枯葉を見た。

「ん?」

バーテンダーが立っていた。

「いつ戻って来たんだよ。なんで消えたんだよ。」

何もせず、ただ突っ立っていたバーテンダーに訊いた。

「おまえの話が範疇を逸脱したからだよ。此処に、無いものは無い。其れにおまえが触れようとしたからだよ。そうすると俺は消える。消されると言った方が正しいかな。はは。」

「この雨はやまないのか?」

「やまない。」

「永久に?」

「永久にやまない。此処はな。」

「なんで?」

「この場所に降るこの雨は永久にやまない。」

「なんでなんだよ。」

「おまえうざったいのか?この雨…。」

「雨はうざったいだろ、誰にとっても。」

「ふぅ〜ん、うざったいんだぁ。ははは。」

「 ……… 」

「この雨は、此処におまえが居る限り永久に止まねえよ。」






「お袋、粉チーズとタバスコ…」

「あ、ごめんなさい!はいはい、今持ってくる!」

「辛い物は食欲が増すんだよなぁ。」

親父は無言で食べていた。

「ママ、でもこの時間食べて中途半端だなぁ。夕食どうしよう…。」

親父がお袋に言った。

「そうねえ、… … … ねえ!レイトショー行かない?なんかいい映画やってないかしら…。家族三人で映画なんて久し振りだし!映画って意外とお腹空くでしょ。」

自宅から車で15分も走れば大型ショッピングモールがあるのだが、その中に映画館もB級グルメスポットも備えられている。

「徹、どうする?」

「行ってもいいけど、観たい映画が無いなぁ。」

「なによぉ… 確かに10本あれば1本ハズレって事はあるけど、最近の人はジャッジが厳しいからハズレ以外は皆どれも面白いのよぉ。そのあとの外食だって家族三人なんて久々じゃない!ね!行こう行こう!行こうよ徹君!」

「… 行ってみようか、徹。」

「うん、分かった。」

夕方5時を過ぎた頃だった。結局お袋の提案で家族三人での久々の外出をする事になった。お袋が言い出したら親父は何が何でもお袋の願いを叶えようとする。親父はお袋が大好きなのだ。レイトショーなんてお袋は言っていたが親父は明日も仕事だ。18時20分から始まる映画を予約した。映画館に問い合わせして、上映している映画を確かめ、親父とお袋と三人でスパゲッティを食べながら話し合った。『幾つもの果て達』という映画を観る事になった。家族で観る映画という事でラブストーリーは無し。アクションも気乗りしない。ホラーやオカルトで無駄に浮き沈みしたくない。結論は、〝 シュールな人生観 〟。他にも病死物、青春物、コメディ物等あったが、結局うちの風味だと、スカスカどっしり、最後はサラッと…で、映画館を出る間際辺りでジワァー… … … … 映画を観終わったらそんな感じだった。

「変わった映画だったな。」

親父がボソリと言った。

「変な映画だった。」

俺が言った。

「ぇえーっ!素敵な映画だったわよ!」

お袋が鼻の穴を大きくして小さく叫んだ。

映画館を後にしてレストランエリアに向かいながら話していた。21時を回るところだった。ビュッフェ…中華ビュッフェ、洋ビュッフェ、それか寿司或は海鮮物にするか迷っていた。カレー、カツ丼…パスタはついさっき食べたばかりだし蕎麦、うどんの提案も無かった。映画の後の夕食…食べる物が観た映画に因って変わったりするのが映画鑑賞の面白いところでもある。海賊物なんかを見た後はカレーか海鮮物なんかをがっつきたくなりそうだが、今日は…結論は中華ビュッフェだった。中華の店は2,3軒あったがやはりその中のビュッフェ形式の店を選んだ。時間も時間だったので人気店だったが並ばずすんなりと入れた。お袋は少しウキウキしているみたいだった。親父は相変わらず寡黙。俺は取敢えず腹を一杯にしようととか考えていた。日頃の俺は粗食だが、外食時は躊躇しない。そう決めていた。理由は外食だから。外食だと何故躊躇しないのかと尋ねられると、〝 外食だから 〟…それ以外は無い。

「ママ先に行っていい?」

「行ってらっしゃい。」

「行ってらっしゃい。」

親父が応えて俺が続いた。

席に着くとお袋が真っ先に料理を取りに行った。

「冒頭の… 〝 砂丘にバス停を置いて、僕は、君か神の裁きを待っている… 〟」

「うん… 何もかもを失ってしまったと嘆く時はあるが、自分を失う事は無い。実は無い。自分を見失う事はあっても、失う事は無い。…死んだ時かな…その時くらいだ。今日観た映画の主人公は、自分を失ったという話だったと思う。自分が死んでいるのか生きているのか自分自身で判別付かない侭に…。…変な映画だった。」

お袋が中華料理を物色している間に、親父と今日観た映画の内容についての会話が、なんとなく始まった。

「場面は砂漠からだったよな。」

親父が続けた。

「徹、安部公房の砂の女って読んだ事あるか?」

「ん?名前は聞いたことあるけどその本は知らない。」

「中年大学教授の主人公が新種の昆虫を捜しに休暇を使ってとある海沿いの部落へ旅する物語だよ。」

「ふぅーん。」

「海岸の、水際、砂浜に住居って、想像出来るか?」

「砂浜に家が建ってるの?木造でも、まぁ鉄筋でも錆びるし、木なら尚更すぐ腐りそうだけど。潮風。」

「併し若し其処で生まれ育ってしまったら、故郷なら、守りたいだろ。」

俺は顔が歪んだ。

「どうだろ。維持出来ないでしょ。」

「己の魂の生まれて、育った土地だ。」

「そういう物語なの?」

「そういう物語だ。」

「 ……… 」

「海岸に深い穴を掘り、縄梯子で穴の下に降り、其処を住居として暮らす。居住食に必要な物資は基本配給。まぁ部落は漁が生業の主としているわけだがな、そこへハンミョウという虫を採取しに来た末にこの部落の存続の為に監禁されてしまうという話だ。」

「部落の、所謂土地の人に?」

「そうだ。」

「今日の幾つもの果て達と…」

「うん、似てないが、似てる。砂の女を書いた安部公房と、今日観た幾つもの果て達の作者…誰だっけ?」

「忘れた。」

「作品自体は似てないが、作品が醸し出している色と空気が、似てるというよりほぼ同じだ。少なくとも、両方の作者が見ている景色、いや、同じ景観を眺める時、その景観の中の、特に何処に最もな注意を払うかが酷似している気がする。機会があったら…」

「今度読んでみるよ。」

「お待たせぇ〜。一杯取って来ちゃった。海老チリぃ、小籠包ぉ、フカヒレすぅ〜ぷぅ。酢豚、八宝菜、茄子豚四川風炒め、青椒肉絲ぅ〜。」

お袋が戻って来た。女の人の男とは異なる利点は、過ぎた事終わった事を延々と考え続けないところだ。済ませられる。質の違いだ。なので惹かれ合える時があるし、人類も継続する。

「おかえり。じゃ徹、行くか。」

「うん。」

親父と俺は料理を運んで戻って来たお袋と入れ替わるように席を立った。

「徹は常識に対する憎しみって無いか?」

麻婆茄子をトングで挟み、取り上げながら親父が訊いてきた。

「常識に対する憎しみ?」

「そか。少し安心した。」

「 … … … … 」

「パパにはある… いや、正確に言えば、在った… だな。

… …

… … …

… … … …

… … … … … 大体オンナが口にする。殆ど浮かばれてる奴が口にする。真っ直ぐ歩いて来た奴が口にする。親や家系の器量というか面目に培われて、謂うなれば、まるで舗装された道を歩いて来た或いは、5ミリとズレのないよく調えられた芝の上ばかりで戯ばされて来た人間が好んで口にしたがる所謂 〝 常識 〟という言葉だ。」

移動して俺が黒胡麻麻婆豆腐をお玉杓子で掬っていた。

「努力し続ける事に対しての憎しみを懐かせないように努めて来たと話したが、常識に対する憎しみを携える事の是非は、詳解させる事が出来なかった。」

「親父はお袋が大好きだよね。」

「男と女は違う動物だ。パパはママが大好きだ。ああ、人間だと思ってない。神様だとさえ思っている。口論をした事が無いわけじゃない。だから、揉めた時には必ず言われた…〝 私の事を二度と女神だなんて言わないで! 〟と。もう…5年くらい喧嘩なんかしてないな。徹に見せた事無いから、喧嘩なんかした事無いと思っていたかも知れないが、長年連れ添って、一度も喧嘩した事が無い夫婦なんてのも、逆にちょっと気持ち悪いものだと思う。」

俺は親父の話が昔から好きだった。親父の話を聴いていたらカレーの香りを一瞬憶い出したが、店内に充満している中華料理の香辛料の匂いで即座に消し去られた。カレーの香りと中華料理の香辛料の匂いには分かり易い違いがひとつだけある。カレーには甘い香りが僅かに混ざっているのだ。中華の匂いには其れが無い。覚悟…親父はこんな言葉も口癖だったりした。〝 根性より覚悟 〟。親父の持論は、〝 根性という言葉には勢いというものを必要とする匂いがプンプンする。逆説的に考えれば怯えが起因となっているわけだ。そうした意味で言えば覚悟には存在しない弱さと、〝 時としては逃げる 〟という手段も用意されている事が同時に見透かせる。今更ながら見返す、〝 人が生きて行くを人生 〟と端的に纏め、其処には様々な目的を発見する起因となる出来事が次から次へと有難くも巡って来る。だがその目的へ向かう最中の足枷となる物、また、自らが〝 邪魔 〟と判断してしまう物者への攻撃を企てたりする。目的を成し遂げる為に必要な攻撃として。隔てたる壁を粉砕壊滅する為に。しかし〝 邪魔 〟…なんという無礼な言葉だろうか。邪に魔…魔とは辞書を開けば〝 修行をさまたげ、善事を害する悪神 〟…この世に齎されている凡そながらにでも何かを指して高々生身の人間である徒が口にして善しとは云えぬ言葉だ。邪…正しくないとされるが、物事の全てに於ける正否を断定する力を有するのは神のみだ。さしずめ全容を鑑みて神の示唆を辿れば、目的を達する事が主ではなく、道程にて得る覚りこそが、してそれは、それこそが、それ自体が、天神(※あまつかみ)からの最重要な凡そなる各々に送られる有難い貢ぎ物だ。仕掛ける強さなど無い。逃げない強さ、受け止めよう為に凡ゆるを開いて待つ覚悟、これこそが、そしてこれのみが、真の強さだ。〟そして親父はこう繋げる。〝 逃げる道理は無い。刃を振り下ろす腐敗の怨念に呪縛されし者と遭い向き合わば、殺られてしまえばいい。それこそ最もな修行だ。正義は曲げるな。いや、正義とは曲がらぬ物だ。真っ直ぐ行け…それが正解だ。〟

少しこんな事を思う。カレーとは、なんか、大人の離乳食のように感じる。引き締めたい時、喉にその味覚を流したくなる。母乳も甘々しい。まぁ赤ん坊の離乳食が辛いわけではないが。但し、幼い子供がカレーを好み、そして食す事が出来ても、中華料理を好んだり、食す事は殆ど無い。中華料理の辛味は厳格なのだ。カレーの、微かなる甘味が秘められた辛さは冒険を脳裏に炙り出す。親父の物言いは、俺には、海賊の其れ等に似つかわしく思えた。今日の映画『幾つもの果て達』は、〝 生と死 〟ではなく〝 生とか、死とか… 〟そんな感じだった。親父は極め付ける…〝 歯向かわない、そして決して逃げない。〟そう言えばガンジーも同じような事を云い、そして後の最期は、自らの言葉通りの如くピストルで撃ち殺された。アインシュタインはこのガンジーの事を、〝 後世の人類は挙って驚愕するであろう、こんな人間が現実にこの世に居た事を。〟こう言い遺している。

「ママは、常識という言葉を口にしない人だったんだよ。だから大好きだという事でもないのだけど… パパに言わせれば、常識とは、在ってして実は無い物、時代背景如何で変わるし、また、この世の中の薄鈍というのは、法律と倫理、強さと弱さ…その最中に生きる人間という徒の中の誰に常識など語れるものか。そして序でに告げずにはいられなくなる〝 正義だけは変わらない 〟という事だ。パパはそう考えている。」

「それで常識に対する憎しみ… 」

「今は無い。特にはな。ママと知り合って… どうでもよくなった。」

「お袋って… 凄いんだなぁ。」

「ああ、お前の母親は、凄い人なんだよ。」

親父は麻婆茄子の他にチンゲン菜のニンニク炒めや揚げ餃子を大量に盛ってテーブルに向かった。俺も一緒に戻った。

「おかえりなさ〜い。お先に頂いてま〜す。」

お袋が箸で摘んだ八宝菜にフゥフゥ息を吹きかけて冷ましながら機嫌良さそうに言った。

「ただいま。」

「ただいま。」

… … … … … … … … … …

胃袋の中で龍が火を噴いている…そんな気分だった。多分親父とお袋も同じだと思う。俺達家族は中華料理を鱈腹食べた後会計を済ませて、駐車場へ向かって歩いていた。

「っぷぁーっ、食った食った。」

俺が呻いた。

「さて帰るかぁ。」

親父が唸った。

「そぉねぇー、あー楽しかったぁ。」

兄弟がいない事を寂しいと思った事が何度もあった。親父とお袋は記憶に残る限り幼い頃から俺の事をよく見てくれた。お袋との口論や喧嘩を、俺に見せた事は無いと親父は話していたが、さすがに親父がお袋に手を挙げたりという事は無かったが、幼少だった俺が原因で言い合いになったところなんかは、実は何度も目の当たりにしている。遠い昔の事なので親父は覚えていないか、或は俺に気兼ねして忘れたふりをしているだけなのかも知れない。鬼の化身となる親父。お袋の涙。浮世に来て間もない幼児だった俺にしてみれば当然想像にすら持ち合わせない地獄絵図だった。鮮明な記憶となって蘇る事も滅多にはないが偶にある。これも悲しさを分け合う兄弟がいない一人っ子の特徴だろうか。何もかもが壊れて崩れ去っていく情景。夏のひまわり畑に突然の雷鳴と共に真っ黒い雨が降り始めてしまったような悲しさ。こんな時、率先して親父とお袋の間に割って入り、真っ先に喧嘩を止めようとしてくれる兄、また、何とかしようと強請む弟、大丈夫だよと抱きしめてくれる姉、泣きついてくる妹でもいてくれたらどれ程心が救われただろうとその都度思った。男の割には情けないが、一人涙で枕を濡らす夜も有った。但、喧嘩の原因が常に自分だったので、何も言えず俯くばかりだった。だからかも知れない、18歳にもなって親と一緒に映画だ外食だなんてのは剰り聞かない。スカしてるみたいにしていても内心ショボい照れ隠し気半分で、こんな風に家族水入らずで出かけるのが実は結構嬉しかった。

「そぉだぁ、そういえば、徹君は彼女とかいないのかなぁ〜まだぁ?」

おふざけ混じりみたいにお袋が訊いてきた。

「いねーよ、興味ねーし。」

「あらぁごめんねぇ、ママ美人だもんねぇ。なかなかママ以上は見つからないもんねぇ〜。」

「はははは。」

親父が笑った。

「うるさいなぁ…今は興味が無いだけだよ。女って結構面倒臭ぇーし。はは、お袋と親父見てりゃわかるよ。はははは。」

「まぁ徹は今、恋人より自分を見つけたいんだろ…なぁママ。」

親父が言った。

「そぉかぁ、そぉねぇ。ママがあんまり美人だから若い女の子なんて興味湧かないもんねぇ。ウフフ。」

「だから違うって!」

「はははははははは。」

お袋は確かに美人かも知れない。でもそれ以上に親父の英知と志しを刈り取って自らの内に植える事の方が今の俺には大事だった。しかし頑なが過ぎて浮世離れしていた親父に空の青さを思い出させたのはお袋だったのだろう。〝 ねえ、紙ひこうき飛ばしましょ 〟と誘うみたいに。






「おまえが一番会いたかったのって誰だよ。」

「ん?そんな事言ったか?俺…」

「此処は向こうとは違う。腹に据えた思いは全部筒抜けで聴こえてるよ。」

「そうなのか?」

「そりゃそうだよ。」

「じゃなんで訊いたんだよ。」

「おまえの口から言わせる為だよ。」

「 …………… 」

「おまえの葬式は見事だった。… … … 罪悪感、のしかかるだろ。」

「辛そうだったよな… みんな… 。」

「後の今に甘えた事言ってんじゃねえよ。終わらせた事だ。おまえが自分で。自分で終わらせた。終わりにした。」

「〝 自分 〟てなんだろうな。欲や葛藤に、悪い意味ですらそう揺らされる風じゃなかった、特に最期の方は。何かに対する嫌気に押されて景色を消したわけじゃない。疲れ果てて鉄の扉を落としたつもりもない。幕引きを飾れるタイミングなんか量ってない。」

「おまえは、笑いながら … 逝った … はは、いや … 来たんだよな。」

「ふぅ。ああ。そうだ。」

男は、どうして死んでも魂が無にならないのかを念った。同時に、バーテンダーのコイツが一体何者なのか少し気になり始めた。

「なぁ、おまえはいつ来たんだよ…こっちに。」

男がバーテンダーに尋ねた。

「おまえ、俺の事が気になるのか。はははははは。」

「此処ってなんだろうな。知らないおまえと馴染みみたいに話すのが全く気にならなかった。」

「死ぬと、魂は過ぎた時の本当を知るからな。」

「ん?」

「過去ってのは、今は、もう何も無いっていう事だよ。それを知る。それを感触として明確に得る。」

男は何かを、軽くあきらめるみたいに目を閉じた。そして少し黙ってから、また目を開いた。

「なぁ… 」

続ける前にバーテンダーが言った。

「辿ってみりゃいいじゃん。」

訝しげに尋ねた。

「どうやって。」

「さあな。こんな風におまえと話してても俺は仙人じゃない。辿れるんじゃねえかなって、かもなって、適当に思っただけだよ。」

「俺 … 親父と会いてぇんだよ。」

「会ってどうするんだよ。」

「会って、訊きたい事がある … 沢山。」

「その訊きたい事を訊いて、訊いた後、納得した後、納得出来た後、どうなるんだよ。」

「どうなるって… どうにもならねえよ。訊きたいだけだ。」

「ほら、そんなこったろうと思ったよ。」

「あん?何がいけないんだよ。」

「突然死んだおまえの親父… 裏切りのように突然消えたおまえの親父… おまえが原因じゃなくても、それじゃ親父には会えねえよ。言ったろ、此処は向こうとは違うんだ。」

「どういう意味だ。」

「おまえの親父は、おまえの、元親父なんだよ。そしておまえも、元おまえ自身なんだよ。おまえは死んでる。おまえの親父も死んでる。要するに終わった事なんだ。既に幕を閉じた時間なんだ。此処と向こうは違う。そういう事だ。」

「じゃあ … やっぱりもう会えないって事か?」

「フ… 会えるよ。… いや、会えるんじゃねえかな。はは。」

「おまえ俺をからかってるのか。」

「だって会いたいんだろ。」

「あん?」

「戒律とはなんだ。」

「 ……… … 宗教の話か?」

「向こう界隈での言い方みたいになるが自然界の戒律ってのがあったろ。戒律ってもんには猶予なんか微塵も無い。向こうに在った科学だ化学だっていう神力隠しの口実… まぁこっちから眺めるところの必死な悪足掻きというやつだな。突き詰めてる途中としてはソコソコ的外れでもないが、蟻の軌跡の5キロ半てとこだな。」

「何が言いたいんだよ、まどろっこしいなぁ。一言で言えよ。」

「理由だよ。」

「理由?」

「理由。」

「なんだよ理由って?」

「理由 … 物事がそのようになった、わけ。筋道。また、それをそう判断した、よりどころになる、またはする事柄 … フフ、向こうの文献じゃこんな事書いてあったろ。だが 〝 本当 〟真実なんてものはそんな説明じゃ足りない。理由ってのは、〝 理りが発破して弾け飛び、バラバラに分解されて、自由になった時のみ、初めて成立する。〝 よりどころ 〟ってのだけスレスレ正解を掠めてるかな。しかし拠り所ってなった途端に忘れ去られたりするのも理由の特徴だな。向こうじゃ簡単に言ってた理由だが、理由ってのは、理由ってのもまた、深く、難解なんだよ。理りが自由になれなければ〝 理由 〟には成らない。〟… という事だよ。」

「 …………… ……… 」

「理由ってのは、理りを自由にした後ゼロにならなければならない。即ち、理由とは、それ自体の存在が、存在や寸法が明確になった瞬間に過去となり、言い訳という呼ばれ方に変わらなければならないという事だ。」

「 …………… 」

「おまえが此処に居る限り、此処に降る雨が永久に止まないのと同じ。」

「 … … … … 」

「この雨も此処も、そして、今おまえと向き合っている俺も、おまえの念いが拵えているすべての中の一端て事だよ。」






井田 徹治は会社からの帰宅電車の中だった。22時半過ぎ、終電間際の車内は帰宅ラッシュのピークから外れた過労気味サラリーマンの徹治にとっては不幸中の幸い的憩いの場だった。吊革を右手で、左手はズボンのポッケに入れ、見飽きた車窓からの夜の街を眺めながら今日の終わりと明日の始まりまでの隙間を苦く心地良く彷徨うひと時を過ごしていた。憂鬱を濃くする為に徹治は会社を出るとすぐにあるコンビニで180ミリのパック酒を買いストローで一気飲みする。飲みながら歩いて10分も行くと駅に着く。100円もしないパック酒を空きっ腹に流し込み、1時間も電車に揺られれば、何処で寄り道したのかと自負出来る程度のほろ酔い加減になる。徹治は 〝 フフフ 〟と笑みを浮かべて、可愛い家族の為に働いて得るなけなしの稼ぎを椅子と夜の蝶に渡さず重ねて来た長年を振り返りながら、今宵も上機嫌で立ち尽くしている。徹治は電車の車内でも椅子には腰掛けないと決めていた。理由は三つあった。座ると寝過ごして降車駅を過ぎる可能性がある。最も大切な時間を無駄にしてしまう。そして運動不足解消の為。動かなくても、立っているだけで座っているよりは運動になる。そして三つ目は、座りたい人に空けておく為だ。妊婦、老人、子供連れ、それに身体の不自由な人。若い頃徹治は、些細な事を切っ掛けに知り合った車椅子の女の子が口にした 〝 朝起きて、自宅を出てから一番最初に発する言葉は、毎日、「すいません」なんです。 〟その女の子は照れ臭そうに、それでも毎日生きている事の幸せを噛みしめてるみたいな眩しい笑顔で徹治に話していた。その情景が、柔らかく徹治の脳裏に染み込んでいたからだ。徹治は一瞬苦笑いを浮かべて小さく俯いた。そのあと、以前テレビのニュースで、大勢の観衆が見守る中、引退する旧式の列車がプラットホームからラストラン発車をするシーンを見た事を徹治はふと思い出した。観衆が口々に叫んでいた。〝 ありがとう! 〟〝 お疲れ様! 〟〝 ゆっくり休んでくれ!ありがとう! 〟。徹治はテレビの画面を見ながら思わず涙ぐんだのだった。生身の人間じゃない。体温の有る犬猫でも無い。動物また生物ですらない。勿論植物でもない鉄の塊だ。しかし、沢山の人間が想い想いを馳せて、そしてそうした中、鉄の塊だからこそ、この必ずしも何もかもが上手くいくわけではないそして誰もが誰とでも分かり合えるわけではない世の中と人生の紆余曲折の中で、決して語りかけてくるわけでもなく必ず同じ様に毎日同じ場所で迎えに来てくれて送り届けてくれる、この列車という鉄の塊に、そして決して家族をはじめとする愛する者達を裏切らない、裏切れない自分自分を投影し、そんな同志との別れという想いに掻き立てられるのであろう。朝の通勤では仕事が始まる前だったり、どっぷり通勤ラッシュなので虚ろいと戯れる余裕など無いが、だからこんな帰り道の一瞬が堪らなく徹治は好きだったのだ。

金曜日だった。路線を変える乗り換えの際に一旦駅前ロータリーを掠める一瞬がある。若者を中心とした賑わいが群鳥のように徹治には映った。彼方此方から奇声が上がる。中高年ビジネスマンやキャリアウーマンも金曜夜ならではな笑みが無数に散らばっている。赤ら顔になった七福神みたいだ。其れ等以外にも、デートエンドを惜しむカップル。頭を抱きしめる彼の胸に顔を埋める彼女、将又、唇を尖らせて彼氏にお説教している彼女に、手の皺と皺を合わせたら、それ幸せじゃなくて皺寄せだろと言いたそうに平謝りを繰り返す彼氏。そして別離の情景。賑わいの夏の夜の駅に冬を置く男女。様々な風が流れている。その合間合間を縫うように固く表情を仕舞い、足早に行き過ぎる人々がいる。徹治もその中の一人だ。徹治は付き合いの悪い中年ビジネスマンだったが酒や宴が嫌いだったわけではない。ただ、徹治はそれよりも家族が好きだったのだ。他人介入の場には、それが気心知れた会社の同僚や友達、所謂仲間でも、僅かながらとは言え有り体な駆け引きが在る。個々の社会性とはそんな空間の中で育まれていく物だったりするのだが、徹治はあまり好まなかった。僅かながらの駆け引きも、徹治はどうしても好きにはなれなかったのだ。

徹治の家族は、世帯主の徹治、妻の小百合、息子の徹の三人家族だった。徹治は大手造船会社のエンジニアだった。大手と付くと、さもエリートだ金持ちだと思われがちだが、徹治に言わせれば、〝 誇りだけは自分次第だが磨けば磨くだけ光り輝く。大金持ちになりたい奴がやる仕事じゃない。それがエンジニアだ。〟徹治は良い意味でも悪い意味でも自分主義者だった。自分より優秀と評価される者を妬むも奉るも無くまた、自分より劣等と見做される(※みなされる)者を、蔑むも、そして慰撫する等は絶対に無かった。徹治は、自分が認める自分自身を志しているわけで、絶対的に負けたくない敵とは、己の内に燻る怠惰心のみと確信していた。他者がする他者の評価、他者がする徹治の評価、何れに於いても全く興味を示さなかった。〝 風は好きだ。真っ青な夏の空が好きだ。そこに訪れる真っ白い雲も、そして悠然と聳え立つ入道雲も大好きだ。でも鼠色の雲、雨雲、雨は嫌いだ。称賛も酷評も、所謂批評は私に言わせれば全てその暗雲に同じ。私が褒められる姿を見て陰に影を隠す者が出る。私が扱き下ろされれば、私以外の秀逸な賢者を悪戯天狗に化けさせてしまう。私は真っ青な空だけを見つめる。雨雲に用は無い。〟我々の生きる糧の主である農作物は雨の恵みから成るのを徹治だって当然理解しているし絶えぬ感謝を携えている。だからこそ、そんな矛盾の中だからこそ、永久に図に乗らずに居られるという事らしい。

「悪いねママ… 毎日毎日。」

毎日毎日、徹治は同じこのセリフを同じ場所、同じタイミングで口にしている。妻の小百合が駅前ロータリー内の、もう終バスも過ぎたバス停で徹治が改札から出て来るのを自家用車の車内で待っていた。

「パパお疲れ様。」

後部座席のドアを開けて運転席と対角線の座席に座った徹治に小百合が返した。

「居た堪れないよ。こんな甲斐性無しの亭主に毎日送り迎えなんて。況してやママはこの広い大宇宙一の美女だ。神様に叱られちゃうよ。」

「もぉー、パパったら毎日毎日同じ褒め言葉。わざとらしいわよ!」

言いながらにして小百合の頬っぺは丸々と変形し耳に近づくみたいに釣り上がる。

「わざとらしくなんかないよ本当だよ!パパは世界一の、いや、宇宙一の幸せを一人占めしてしまっている!はぁー、もっと稼がなきゃなぁ…。」

「もぅ… パパったら…。」

徹治と小百合は結婚20年。出逢ってからは23年になる。ちょっとしたバカップルならぬバカ夫婦だった。

小百合の運転で駅から自宅までは僅か7分弱だった。毎日迎えで顔を合わすとこの遣り取りから始まる。徹治は、愛らしい小百合に、23年間夢中なのだ。徹治は自分に妙な決め事というか、縛りも作っていた。〝 2秒目を合わせない。〟小百合以外の女性と、2秒経つ前に必ず一旦目線を外して、必要な場合は、その後再び目を見る。そしてまた2秒経つ前にまた視線を外す。これも徹治は小百合と出逢ってからの23年間欠かさず貫いているのだ。もう本能的に染み付いていて身体というか瞳孔は自動に移動してくれるようになっている。徹治には… 徹治にも… 恋の沙汰に因る古い傷みたいな過去はあった…。19歳の時に初めて彼女が出来た。。無論、27歳で小百合と出逢った時、その時の彼女との恋が散った痛恨を小百合は出逢った瞬間に壊滅させてくれたわけだが、それまではどっぷり引きずり続けていた程の惚れ様だった。小百合と出会えるまでの間に数人、凡一定期間に渉る恋を踏んだが、その19ページは頭髪に隠される耳の後ろのホクロの様に居続け、傷縫いの痕は、時折赤色灯のように痛みを放った。その彼女とは、交際丸1年を過ぎようとしていた間際に、10歳年上の男性に寝取られてしまったわけだが、それ以前の交際の最中でその娘は、徹治が一瞬でも他の女の子に目移りしようものなら、また、二人でテレビを見ている時でも、ジィーっと徹治が画面に映し出されている女性タレントでも見つめようものなら、いつの間にか静かに泣き出しているような娘だった。しかし最期、別れを告げる際、徹治に言ったセリフは、〝 徹治君は浮気するから。他の女の子を見つめたらそれは浮気だよ。私、やっと見つけたの。徹治君じゃなくても私を愛してくれる人を。〟キッとした睨みつけるような目をして言い放ったのだ。徹治にとってその一言は、まるで頭の天辺から刀で股下まで真っ二つに斬られたような錯覚までをも醸し出す程の強烈さだった。なので徹治は、しかし決してそれがトラウマなのではなく、きっと、この子以上以外は有り得ないと思っていた徹治の19ページに刻まれた娘を完全に忘却させてくれた女性という意味でも、究極の真心を小百合に手向けたいというのがこの縛りの真意だった気が徹治はしていた。

「パパお風呂入っちゃって、ご飯用意しておくから。」

「うん、ありがとう。」

自宅の駐車場に車を入れ、一瞬家の前の住宅道路を我が家の壁沿いに10歩ほど歩いて玄関先で小百合が言った。玄関を開けると徹治は靴を脱いで揃えた後、真っ直ぐ数歩廊下を伝った先の脱衣場に向かった。もう午前零時を回るか回らないかという時間だった…まぁ毎日だが。徹治自身の疲労もあるが、徹治は小百合が心配だった。〝 男はいい。男は死に物狂いに働いて死ねばいい。女はだめだ。女は咲いていなければならない。それも出来るだけ永く。可能なら永遠に咲いていなければならない。そしてキラキラ輝き、眩しさを放ち続けなければならない。〟小百合は夫である徹治の言い付けで専業主婦をしている。子供が帰宅して玄関を開けた時、其処に母親の笑顔が常に咲いていなければならないという徹治の方針だった。徹治に言わせれば専業主婦とは、皿回しの様であり、また、巨大な水風船を頭上に上げて持ち続ける様なもので、決して楽なんかではなく、それどころか、会社で働く自分なんぞの比ではない程の大変さだと確信している。先ず労働の場に子供は居ない。〝 え〜、だって、やだ、面倒臭い… 〟こんなセリフは存在しないのだ。しかし家庭や教育、子育てという事柄を主とする専業主婦の現場には、この鶏を追いかけて捕まえるような過酷さが其処あそこに散乱する。その他に炊事、洗濯、掃除、所謂家庭内のルーティーンがある。食材の買出しもある。何を作って出す、その為に必要な食材の選択また分量。日頃通して家族に摂取させている食事との折り合い、バランスも考えながらだ。そして其れ等は私が家庭に齎す収益というバリケード内で収めなければならない。潤沢な資産を家庭に流し込める優秀な世帯主なら論無用なのだろうが、我が家は私の不甲斐無さの所為で文字通りの庶民だ。崖の上である。この、資産、財産等の事柄を考えると、これを崖の上に喩えて絵が頭に浮かぶ。見晴らしの良い、また稜線、尾根の並ぶ澄んだ空気の中、岩の中途に突き出た、また或は頂の、野草の敷く其れが庭となる小ぶりな赤い屋根の家。仮に犬が跳ね、子供がはしゃぎ、そして甘くも苦くもないただ深く透き通る景観に恍惚を得る女がこの高台を守る男の意中の女神である。そうなのだ。家庭とは、家族とは、人生とは、全ての人にとってこの崖の高台の如し夢であり、幻なのだ。勿論、犬も走り間違えれば崖から転落する。子も然り。捨身で其れを助けよう女、所謂母親も同じだ。その一つ一つの端折りを作り出してしまうか否かが…要するに男の、世帯主の器量というやつであろう。男が無謀な賭けをして富を得て持ち帰るを続ければ、我が子にも遺伝し、それが危険な戯びに手を伸ばす性の芽を生み出す。犬もその危うい戯びをしたがる子に合わせんとする。転落のスパイラルはジリジリとその瞬間に滲み寄って行く。そんな手描き油絵も巧かれ下手かれ、決して休む事の無い時の潮に押されて進行し、守る男は自らの危惧に従い賭けの手を控えては飢えと貧困が襲い、いずれは憂鬱の末に自棄停止が思浮し黴の決断、自殺などを思い描いたりしてしまう。徹治は、小百合が、本当に大好きだった。

徹治はハンドルを回してシャワーを閉栓した。

「ふぅー。」

バスタオルで髪の毛をシェイクしながらドレッサーに立った。手を止めて、一瞬、鏡の中の自分を眺める。明日の事を考える自分を感じた。

〝 最近はいつもそう 〟

若い頃、鏡を覗き込む時は自分を見ていた。15年も前くらいからだろうか…鏡に映るのは常に明日だ。鏡の中の自分が見れる余裕など男には要らない。甘露は、愛しさ止まぬ妻と子に降ればいい。自らの自信や誇りの分まで、其れに注ぐ甘露に代わってしまえばいいのに…。

「パパお疲れ様。」

食卓に夕食を並べ終えた小百合が改めて投げてくれた。

「うん、ありがとう。」

テーブルクロスには6つ7つにも及ぶお皿小皿が並べられている。毎晩の事だ。繰り返す有難いこの一瞬、徹治には並べられた小百合の手料理が、小百合の笑顔にしか見えなくなるようになって数年来だった。






「悪いな中島、んじゃ来週には返すから。」

「ああ。返すのはいつでもいいから。それより事故しないようにな。バイクが壊れんのは構わないけど、死ぬなよ。」

「ははは、おいおい恐ろしい事言うなよ。ただ遠くにツーリングしに行くだけだし。討ち入りに行くわけじゃねえんだから。はははははは。」

良い天気だった。火曜日の午前11時過ぎ。中島の勤める板金工場に居た。前日月曜日の夜に、何となく突然思い立って中島に電話した。一人で遠くに行ってみたくなったのだ。電話をかける前に週間予報を調べた。一週間晴天が続く。

「タイヤ換えたばっかだから溝は平気だな。マフラーも純正のを付けたから捕まる心配も無し。雨合羽は?徹、持ってたっけ?無きゃそれも貸すぞ。」

「ありがと。でも合羽はいいよ。雨なら濡れて走りたい。それも今回は愉しみに含めてる。」

「甘いなぁ。」

「フハハ、うん、甘いんだよ、俺。」

「ふぅ。まぁ徹のやる事だからな、わからなくはないが。」

「 …………… 」

「アタマはアるんだからさぁ徹ちゃん、何処行くんだか知らないけど高原辺りでイカした姉ぇちゃん見つけて、使える頭使って早よ幸せになれや。ハハハハ。」

「平日平日、エーンド興味なしオンナ!Just Now!ハハハハ!」

中島に借りたバイクに跨ってヘルメットの顎紐を締めながら話していた。今日も街は輝いていた。見上げる。今日は神様が地球の青さをアピールする日だったみたいだ。青い。濃く深く青い。乱れる雲の千切れ目は海岸の寄せる白波のようでもあり、また、こんもりと膨れ上がった真っ白い頂は、元気な真冬のゲレンデも憶い浮かばせる。巨大なフォトグラフの様な空の下で俺はエンジンを始動した。

「じゃ行くわ。」

「おう、気をつけろよ!」

実は何処に行くか決めてない。煮え切らない自分と代わり映えのない毎日が、街から出て行けとお尻を蹴飛ばした気がしただけだった。本当なら、普通なら尋常なら、彫って埋め込んだ頭脳回路を利用して適当に鱈腹稼げる基地…はは、会社か…其処に潜って金で遊べばいい…今更になって、不思議と自分探しのツーリングなんかに出ようとする寸前に、自分に向けて思ったりする。特別だったんだろうな。孤独だったんだろうな。同じくらい勉強した奴等とデスク並べて或は同じキャンパス歩いて、ケラケラ笑いながら〝 俺ら勝ち組、さぁハイグレードな遊びで楽しもうぜ! 〟。それが、〝 気に入らねえなあ 〟俺の内側が貧乏臭いんだよな。俺に云う。偏差値が突出していた事じゃない。其れに拠って湧出し、俺を包囲した黴の様な白さの孤独が、其れに尻込みせずに向かい合って得たストイックが、いや其れから、どうしても離れられなかったのだ。自分の内側から湧いた憎しみにさえ懐かしさを覚える。自分探しじゃない、捨てに行くのだ。

東南西北(※トウナンシャーペイ)あ、これは麻雀だったか。東西南北。こういう時、どっちの方角に向かうべきなのか。〝 東方に宝あり 〟。文献じゃない。酒のテレビCMだったなコレは、はは。ちょっと自論だ。しかしこの〝 東方に宝あり 〟はダテじゃないなと思った記憶がある。東京。古い言い方なら江戸だが確かに、歴史との絡みがあるとは言っても、これまた神の成したシナリオ隠しが歴史ってもんだ。なかなかどうして、宝は確かに東に集まり易い。宝に集まる優秀な人材がまた東を目指し更なる宝を生み出し盛られ続けている。今の俺には宝に興味は無い。では逆向きの西。晒すとは日に西と書くが西と酉はよく似ている。太陽を目がけて飛ぶ鳥を思い浮かべる。いいねえ。イメージが近い。今の俺に。南。南無という言葉を思い出す。語源はサンスクリット語だらしいが、簡潔に言えば仏教の帰依、また帰命…だがね、俺はこの南無に関しても勝手な自論が在るのだ。俺は、俺の自論を最優先する。俺は勝手だ。勝手な人間なんだ。ただそれ以前に、アテに出来ないんだよ。物事の、極致、底の底まで掘り下げて考えれば、人間が人間の話など信用し切れないだろ。それでも信じる。その意味の〝 信じる 〟は思い遣りだ。其れは持たなきゃいけない。今俺は一人だ。だから自論だけを信じる。南無だけど、仏教の経は必ず南無から始まる。それは、そのまま〝 南、無し 〟と俺は感じる。南と言って、見て、直ぐに俺が思い浮かべるのは楽園だ。仏教でしょ…釈迦如来でしょ…南、無し… … … 考えなくても一目瞭然だと実は最初から思った。〝 楽園、そんな物は無い。〟そこから、当然そこから始まるのが仏教でしょ。今いる此処が、楽園と思えるまで、確信が持てるまで、辛くても、苦しくても、その修行を止めない。腕に火の灯った蝋を立て、蝋は溶け、肉肌に滴り激痛が走り、してしかし、その蝋燭の炎の滅するまで、無とは何ぞかを悟れるまで…仮に此れは昔何処かで聞いた事のある仏教の苦行の中の一つであるが、要するに、移動して、行ける楽園など無いという事だ。楽園という、〝 場所 〟など無いという事だ。そして北。北に関しては、ちょっと俺に関しては根拠が無いのだが、何となく、〝 戻る 〟というイメージがある。時間的逆行。例えば故郷というと、俺は、俺はだが、北をイメージするんだよな。南じゃなく北。南が故郷の思浮する一番に来ない原因の中に先ほどの南無の自論が含まれたりする。しかしイメージは大切だ。少なくとも俺個人にとっては、イメージとはただの印象ではなく…というか、じゃあ、何の根拠も無くイメージという物は出来上がらないわけで。たかがイメージでも、辿って掘り下げればやはり嵌りたい深みに嵌れるものだ… … … 。さて、何方に向かおうか…。

中島に借りたバイクはホンダのCBXだった。400cc。日本列島を縦断するようなつもりはないから充分だ。結構中島と二人で深夜の街中を吹かしまくってたからエンジンを心配してたけど、あいつこっそりレストア染みた事もしてくれていたらしい。かなり調子がいい。燃調だとかタペット調整なんかもやってるっぽいな。気持ち良くフケる。

今取敢えず向いてる方角は南だと思う…。

〝 は。逃げてるんだな気持ちが。〟

まあいい。少し気の向くまま転がしてみよう。この間まで黄緑色だった新緑が、逞しく濃厚な深緑になっている。薄鼠色のアスファルトが不敵に笑っている。

〝 見つけに行くぜ。すべてを捨てながら。〟






「地球平面説って、よく知らないんだけど…」

おかわりを繰り返した。もう何杯目だろうか。珈琲を流し込みながら話を続けている。

「今度はソレか。案外、気長だな。」

バーテンダーも付き合っている。

「だって時は逃げないんだろ。あんたが言ったろ。」

「ん。死んでるからな。」

変わらない雨と雨音が、サシで向き合う二人とカウンターバーを、変わらず包囲していた。

「俺は、相当未練たらしい奴みたいだな。この雨。」

「同じようなもんだろ、誰も。」

ポチョンポチョンという滴が弾ける雨音だけが際立って耳に付くような気がして来ていた。

「あんたに言われて、少しシラけちまった気分だ。」

「ぇ へ?盛り上がってたのか?何かに?」

「フン、笑うか。」

「はは、いや、いいけど。」

「なんだよ、あんたが、いいけどって、なんだよ。はは。」

「…………」

「地球が平面なら…」

「平面なら…?」

「辿る先の、辿った先の、崖…海水なんかが落ちる、滴る…崖…」

「ん。で。?」

「平面な地球の断面と… 」

「うん。」

「時間の … 断 … 面 … 。」

「フフフフフハハハハハ。」

「笑…うか。」

「馬鹿にしてるわけじゃない。予想通りだったから。言い出すんじゃないかなって、おまえが。いずれ。」

少し強い風が吹いた。

「地球平面説…おまえが口にした時、実はピンと来たよ。」

「地球平面説…その、説自体は、実はどうでもいいんだよ。いや、どうでもよくない嬉しい事は一つはある。地球が、平面なんじゃないかって、想像して、期待しちゃいけない妙な期待感…いや、期待なんか出来ないもんなんだけど、一瞬ワクれる。ワクワクする嬉しい妄想が見れる。でも地球平面説自体は、やっぱりどうでもいいんだよ。」

「… …… ……… … 」

「量子力学、一般相対性理論、特殊相対性理論、万有引力…古典物理学、現代物理学…そういう事じゃないんだよね。そうした話じゃないんだよ。学問は徒の怠け落ち抑止の為の神通力、括って神学、含む死学、生学それらを密として隠しておく為の口実だ。決して近付けない。距離を縮める事は出来ない。悪戯に、縮められそうな気にさせるのもまた意図した神の仕掛けだ。偉大なる口実であり嘘だ。嘘…なんとミステリアスな響きだろ。ミステリアス…mysterious…ミス、照らす、明日…。は。まぁジョークだ。(※ミスは嘘…ではないが。嘘(うそ)とは、事実ではないこと。 人間をだますために言う、事実とは異なる言葉。 偽りとも。)」

「要は、」

「親父、元親父に、」

「会いたい…だろ。」

「そういう事だ。」

バーテンダーは一瞬目を閉じて俯き、そして再び顔を上げ静かに瞼を開いて呟いた。

「上手いジョークだな。美しいジョークだ。だが、明日は無い。明日だけじゃない、明後日も明々後日も、そして今この瞬間すらお前には無い…本当は。在るのは、お前の記憶のみだ。勿論、さっきも話したように、過去ってのは、今は、もう何も無いという事に変わりはない。繰り返すが在るのはお前の記憶だけだ。そして、お前自体も、元お前自身。」

「自覚 … 。なかなかしない、出来ないもんだな。」

「まぁそういうもんだがな。」

「なぁコレって、今の、今此処に在る全てっつうか、例えば俺個人、俺一人が、今感触してる一切全ては、全部俺の記憶の範疇って事か?」

バーテンダーの姿が一瞬モザイクでも掛かり始めたみたいに滲んでボヤけた気がしたが、直ぐにくっきりと見えるように戻った。

「お前の記憶が創ってる景観であり情景だが、過去とは些か異なるな。いや、フフ…全く異なるとも言えるかな。元お前自身になってしまったお前が、終わりたくなくて、終わらせたくなくて、それで、終わる前までに経験した事、覚えた事、悟った事…そうした凡ゆる事柄をバラバラに分解して、未来とは言えないもんなんだけど、所謂、其の続きをバラバラにした部位や部分を、部品と見立てて組み直してるみたいなもんだな。強引に、怨念というセメダイン、接着剤でくっつけて組み立てて、でも未来には成れない、未来とはさせられない妄景…幻だな。」

「この雨も… か… ?」

「そうだよ…ああ。」

「ちゃんと冷たいぞ。」

「集中して、目を閉じてちゃんと感じてみろ。冷たいと感じる時間が若干、して然し、しっかりと短いだろ。」

「… …… 確かに … 。」

「お前の記憶だよ。終わりたくないお前の記憶の中の、雨の雫は、冷たかった… という記憶、その遺された情報に従って、お前は、冷たいと感じていると、お前自身に、元お前自身に命令してるんだよ。」

男は目を閉じた。そして、黙った。… 意を決したように再び口を開いた。

「親父と、元親父と、会っても…なんにもならないっていうの… … 」

「ん? … ああ … 」

「わかった気が、したけど、… 」

「う ん、… ああ…。」

「じゃあ、… 俺はこの後、どうすりゃ…いいんだよ…。」

耳から遠去かっていた雨音が少しずつボリュームのツマミを回すみたいに耳に付いてきた。

シトシト … シトシト … サァー サァー …

「生まれて来て間もない赤ん坊が寝つく時、まるで暗い穴に落とされる恐怖に取り囲まれるみたいな形相をして泣き喚いたりするのを、お前、知ってるか?」

「ああ、知ってる。」

「それから、若気の至り尽せりって話じゃ済ませられないのが本当ってやつで、これも誰彼の話ってわけではないが、中絶すると、天(※うえ)から降りて来る…まぁ、今、此方側に居る俺等が話している以上、降りて行くって云わないと可笑しいか…兎に角その、人間の赤ん坊として生まれて行く筈だった子、魂は、泣きながら帰って来る…いや、引き返してくる。こっちに来て、其れを俺が目の当たりにした事はまだ無いがな。」

「なんとなく、あんたが俺に云おうとしてる事がどんな事なのか判るような気がする。」

「自分。自。己という意識すら、なくなるという事に対する怖さとでもいうのかな。」

「点となり、いずれその点としての自らも縮み、そして消える…。」

「赤ん坊の寝入りの際、赤子の顔に、相応しさの伴わない大人びた焦りの形相は其処に通ずる。癇癪(※かんしゃく)もまぁ同様だ。」

死んだという事の、夥しい(※おびただしい)程の無様さ、虚しさ、或は汚らわしさまでをも男は感触してしまっている気がした。

「親父は、もうバラけた…かなぁ。」

「怖いか。」

「知ってるのか?」

「フ。知らんよ。知るわけないだろ … だが、息子のお前と会う前にバラけないだろ。たった、一人の息子のお前と会わずに。」

「 ………… ……… … 」

男は、深い溜息を、ゆっくりと吐いた。

「終るという事が、こういう事… なんだよなって… 今、感じてるよ。」

「何を以って終りとするか … 。」

バーテンダーが言った。

「何度も言って、繰り返して悪いが、お前が終りにした。自分で。」

「うん。」

「終りは始まりとも言うが、お前は、何が終わって、何が始まったのかな。」

「何も終わってない気もするし、何も始まってない気もする。」

「だが現実には終わった。終わってる。そして始まっている。」

「始まる前にはバラバラになるんだろ?」

「普通に考えればな。」

「じゃあやっぱり親父は既にバラけてる筈だよな。」

「どうだかな。俺が何かを知っているわけではないが、どうだかな。」

「そういえば親父は親父が自分で決めていた2秒ルールに関してこんな事も話してた。今、憶い出したよ。」

「ん?」

「お袋以外の女性と2秒以上目を合わせ続けないのを死ぬまで全う出来たら… 」

「出来たら?」

「こっちに来てからも必ず逢える。そして、また伴侶となる事を神様に許してもらえる…ような気がしている…だからママ以外とは絶対に2秒以上目を合わせない。合わせるわけにはいかない。そう話してた。」

「お前の母親は確かまだ…」

「うん、下というか、まだあっち。うん、まだ人間 … … バラけてないよな … まだ … 親父 … 」

「終り。始まり。バラけてなきゃいいな。祈っててやるよ。」

「 … フ … ハァ、ありがと。」

男は俯いて目を閉じた。






「来てよかったぁ、ありがとう。」

葵(※あおい)は丘陵地帯を一望出来る高原のテラスに居た。

「こういう所、葵、来たがってたよな。俺もこういう場所が大好きだ。立ち去りたりたくなくなる。いつまでも永遠に眺めていたい。ずっと此処に居続けたくなる。」

「うん、本当だね。」

恋人の哲(※さとし)と二人で来ていた。天候にも恵まれた山々の上空は、真っ青な空と陽光に映えて目前の緑が巨大なブロッコリーを憶わせる。来たる夏に備える元気の収穫にはピッタリの風景だった。

この高原テラスに葵と哲が訪れたのは初めてだったが、二人を夏が迎えに来るのは四回目だった。

「きっと葵も、この高原と同じように、いつまでもキラキラ輝いてるんだろうな。」

「ぇえ?なぁ〜にそれ、突然。フフ。」

「アイシテル…の告白、だったりする…ハハ。」






薫る。空気の味が変化している事に気が付いた。高速道路を走っている。下道(※一般道)でゆらゆら気を散らされながら向かう先を定めていこうかと一瞬思ったが、天空の扉を開くような気を纏いたかったので、早々高速に上がった。高速道路上という物もよくよく考えると不思議な空間である。悩ましさという空気の濃度が、一瞬、非常に薄いように思えるのだが、逆転解釈を見つけるとこれ以上悩ましさの充満している場所は無いという事を確認できる。殆どの車両がほぼ100km/h以上という、現代ではあまり警戒されないが、実は命懸けの速度で、そして目的の場所に向かって驀地(※まっしぐら)に移動しているわけだ。ふむ。面白い。バクチ … 博打 … 驀地(※あまりこうした読まれ方はされないが 〝 バクチ 〟とも読む。)。そうなのだ、様々な部門また分野に於いての努力と発展の報酬であり、またある意味報復でもある文明に靡かれて、この危険な 〝 バクチ 〟を、世の中は日常的に、そして大した躊躇も無く繰り返すようになったのだ。決して死んでもいいだなんて誰一人思っているわけではないだろう。能率と目的、そして超速という刺激のおまけが付いて、生死との対比を量る天秤は平行になり、いよいよ生死という所謂、命の乗った皿の方が前出の其れ等よりも高い位置にのし上げられ、そして同時に引力の中枢から離らかされ続けているのだ。人に夢と書いて儚いとは読むが、命とは、物語である。人、ひとりひとり、物語である。話の主の両親となる二人、所謂父母にとっては、与えられた大切な一つの物語であろうし、主は物語そのものである。死ねば0(※ゼロ) … ではない。でもない。ですらない。ゼロというものは、それだけでもそれ自体でそれなりのそれなりながらも僅かながらにでも個性というものがある。黒と無色、白も無色…とは異なるのと同じだ。死ぬとは、終わるとは、それすら無い、それすらも無いという事なのだ。透明ですらない。the 〝 無 〟なのだ。

ひとりというのはこういう事なんだよな。高速道路上で12,30km/hの風を浴びながらただ真っ直ぐと進んでいた。人は人を求め続ける。そうでない人でも何かしらを求め続ける。ひとりになると、自らの尽くを確かめ始めたりする。中島のCBXは静かに唸り続けた。俺は高速に上がる前の時間を思い出し始めた …


中島と暫しの別れを交わしてから1時間くらい経過していた。やはり地図に眼を通すのは嫌だったので、高速入口の手前で一旦バイクを停め、バイクに跨った侭、念のキャッチボールでもするみたいに想い無き想いを籠めて強く瞼を閉じて、現(※うつつ)を制して自らの心に耳を澄ませ、微かに聞こえて来た己の怨霊に頷いた。やはり牧場みたいなところに行くべきだと感じたが、そこにいる牛や羊が今はちょっと違う気がした。戒律を頑なに守る生物に今は惑わされたくない。植物も生物に含まれるが発声しない。寡黙 … いや、沈黙か … これは動物とは異なる。牛や馬、羊、また豚に限らず鳴き声を持っている生物とは遭遇したくないタイミングだと思った。しかし何故か昆虫なら許せる。そんな気がした。極小だからとかではない。鳴き声を持つ昆虫もいるわけだが、なんというか…そうだ、目で訴えて来るような感触が無いのだ。だから許せる。許す許さないを許されている立ち位置など無いのだが…神様ではないわけだし。でもこの、何かしらを訴える目の圧力に、自分の居る物質界ならではの柵(※しがらみ)が不敵に蘇り、そして立ちはだかるのだ。此れは、此の場合、時間の流れに罅(※ひび)がシットリと入っていく。今回は、今は、亡霊のように眺め、そして見定めたいのである。平坦で広々した景観も駄目だ。穏やか過ぎる情景では魂が立ち尽くしてしまう。牧場では駄目だ。

路肩で瞑想し続ける自分の横を勢いよく行き過ぎる自家用車や大型トラックを確認する度にほんのりと苛つく。

〝 そうそう、此れを超越したいんだ。脱却じゃない超越。〟

試験、勉強、偏差値、制限時間…比較と制約。試練はいい、試験という響きからは隷属を想い得てしまう。勉強という言葉からは、強制また矯正、収監、監禁という嗅ぎ付けたくない香りが漂う。アスベストのような埃と、屁泥(※へどろ)も浮かび上がってくる。教養には嫋やかな母性、知性、思い遣りを心中に描いてくれる。自由を探してるわけじゃない。場所なんか求めてない。吹く風には色も姿も無い…これだよ。風を求めてるのではなく、風になりたいんだ。其れを〝 自由 〟と、どうしても呼称させたいなら、俺は歯向かう。徹底的に歯向い続ける。〝 自由 〟の中の〝 自 〟は要らない。無くていい。感じている、生きている、それだけでいいのだ。証なんか要らない。そんな物は転寝の誘いにすら足らない。






「何なんだろうな … 」

「ん … ?」

「ん〜、コレを、言いたくないもんなんだけどなぁ … まぁ誰でもそうだろうけど … 。」

「 ……… 」

「ジンセイ。」

「 ………… 」

「… … … … 」

「どうしたの?」

「四年も付き合っててこういう所来るの初めてなんてな … 。」

「愛してる…の告白の直後にしては…急展開。あはは。面白ぉ〜い。」

「面白いか?」

「え?」

「はぁ … 面白いと感じてくれるだけ有難いよ。」

「ねぇ、何かあったの?可笑しいよ、哲君。」

「何も無いさ。何も。」

「もしかして、私に飽きた … とか …」

「葵に飽きないよ、そんな男はこの世にもあの世にも存在しないさ。


… … … …


自分自身に飽きたら、男なんておしまいだな。」

「自分に … 飽きたの?」

「なぁ葵、自信が持てる持てないっていうの … そういう話 … 」

「うん … 」

「子供だった頃、葵も誰彼周りの大人によく言われたろ。」

「うん。」

「人の、他人の … 要するに自分以外の人や物の所為にしてるんじゃなくて … でも仮に、自信が無い、持てないって人を勇気付ける時、俺は、今まで自分に自信を持てと鼓舞してくれて来た人達とは少し異なった尺度で伝えたくなるんだよ。」

「うん … それで?」

「ナルシズム、或はナルシシズム(※narcism・自己愛、自己陶酔)って言葉あるだろ。この間、調べ物していてふと気付いたんだよ。自己陶酔する時というのは、自身の中でほぼ完成していて、しかし其れを骨組の状態からなかなか先に進められず、結果として顕せない。無論知る由も無い世の中は反応のしようが無い。そんな時に、自己陶酔するんだと思った。此れを、仮に言葉にしようとしたら … リフレインしたんだ。narcism … ナルシズム … 成る … 沈む … そんな風に。人は、ひとりじゃない。人間は、人の、間と書いて人間と読む。する。人がひとりなら、自分だけを信じてればいい。信じる事は出来る。でも、人はひとりでは生きていく事が出来ない様になってる。当たり前の事に気が付いた。当たり前の事で、目から鱗を見つけてしまったよ。他人の所為にしてるんじゃない、世の中の所為にしてるんじゃない。だけど、自信とは、其れ自体が、既に自分ではなくて、いや、自分という物自体が、実は、自分だけを除いた一切すべての集帯なのであって、要するに自信とは、世界を信じる事が出来るか出来ないかという事なんだよ。自分の目には、自分だけが映らない … 其れを、人は、憶い出せない。なかなか、憶い出せない。ああそれこそ、100人いたら100人が憶い出せないのが大抵だ。そして出逢うその101人目と出逢えた時、そいつは人生の終焉まで、その出逢えた101人目の為に、またその出逢いを伝える為の伝説を彫り続ける。其れを始める。億万超一切の覚悟を身に携えて。」

「 … … 」

「葵は、俺にとっての101人目だ。」

「 … … … … あ〜あ、男の人って、みんなそう。ボロボロに破けた油汚れのシャツ着て、夢を語る目だけが朝陽に照らされてキラっと光る朝露みたいに濡れて輝いてる。つまんないなぁ … 男の人ばっかり。いいなぁ、私も男に生まれて来たかったなぁ。」

「女は、男のきんとうん(※觔斗雲・『西遊記』に登場する雲に乗って空を飛ぶ仙術、及びそれに拠って呼ばれる雲の事。)に同乗して人生という時を辿る空を歩く。女の人生だな。志。男の志の高さや深さが至らなければきんとうんは呼べない。雲もまた、そこまでお人好しでも、聞き分けがいいわけでもない。きんとうん … 葵を幸せにする手段も、この世に居たら、出す手探りも、待つ手薬煉(※てぐすね・十分に用意して待ち構える。)も金と運だ。夢は虹のように彩られていても報酬は換金され、追求し続けて得た誇り、そして勲(※いさお・手柄を立てたという名誉。)も、実は探し求めていた物はこの、自己満足であったと気付く虚しい瞬間と遇う。壁や紙に絵を描くのは容易だ。夢を叶えるとは、空中に色を着けるのと同じだ。そういえば俺には妙な特技があるんだ。音楽家やミュージシャン、バンドマン … そう、音だけで世界や物語を描いて伝える人を、一見で見分ける事が出来るんだ。足を見れば判る。すぐ判る。ドラえもんの足をしている人は先ず必ずミュージックアーティストだ。」

「ドラえもん?」

「うん。ドラえもんはタイムマシンで未来からきた猫型ロボットだが、ドラえもん開発時にバナナの皮などを踏んだ際に滑って転んだりしないように実は僅かに浮いているんだ。そんなドラえもん自体がミュージックアーティストと関係あるわけではないが、便宜上、そう著した方が庶民的で朗らかだからそう云ってるだけだが、要するに、音楽家の足は、実際には無論浮き上がってるわけはないのだが、そう、見えるんだ。凝視する。しかし見る標的が、照準が、逆にぼやけるくらいに凝視する。そうすると見える。そうそう、どちらかと言うと、いや更に言うとちゃんと云うと、外界的に見るのではなく、内側を覗く。しっかりと覗く。魂をガン見するみたいな感じだな。でもだから、逆に、その凝視は、実際には第三者の目線から鑑みると、俺の目線はまるで相手から外れた場所に向いている。左の耳の後ろ辺りに眼が在ると見立てて想像してもらえば最もその瞬間の俺の体制に近いだろ。目尻の端の端辺りで一瞬見て即座に視線をずらす。そして視界から相手を外す。そして左耳の後ろの眼で捕らえ続けて、臍の内側にある更にもう一つの眼で相手を念う。所謂、心眼と呼ばれるやつみたいなものだな。そうするとはっきりと、くっきりと見えるんだ。足は浮いてる。確実に浮いてる。」

「どうして音楽家だと足が浮くの?」

「画家や彫刻家を侮辱しているわけではないが、が然し、この解釈は画家や彫刻家には少々申し訳ない気もするが、が仮に、眼は二つ目の脳ミソだというセリフもある。葵、目に映らない、所謂音と言葉のみで描かれる世界で人の心に伝える、届ける、響かせるという行為は、それは雲の上に立つという行為に等しい。では雲の上に立つには、立てる人とはどういう人か … 信じてる人だよ。100%信じ切ってる人だよ。」

「何を?」

「その立っている雲の、その足元の雲が、絶対に抜けないと信じてる人だよ。」

「 ! ……… 」

「うん。一瞬でも、いや、疑った瞬間にその足元の雲は抜けて、地面へ真っ逆様に落ちる。確信。逆に残念ながら、だからこの人の立つ足元の雲はフワフワなんかしてない。頑丈なコンクリート、それどころか鉄筋のように強固だと思う。… … … 結局、だから、現実の世界の中では、俺の目を通して、そうした人等の足は浮き上がって見える。また時には、半透明に、薄まって見えたりもする。雲の上だから、その、抜けないという怨念に支えられた地面に立ってるから、所謂危ういんだよ。」

「 ………… … … 」

「お互い忙しくて、こんな、街を見下ろせる高台に来れなかったね、なかなか。私に、話したかったのね。」

「誰でもそうなのかどうか知らない。でも、人を愛すると切なくなるのは、必ず人は死ぬから。必ず、離れ離れになる時が来るから。」

「うん。」

「葵に聞かせたり伝えたい事は、本当はいつだって、誰かに聞いたり何かを見たりして知った事じゃなくて、俺が自分で見つけた事。」

「 …………… 」

「ダラダラ話したが、聞いてくれてありがとう。食事にしよう、葵。」

「うん。」





雨が降り続ける森の中、カウンターバーの二人はいよいよ話しの底が尽きて黙り凝る寸前という感じになっていた。

「なぁ … 俺たちの今いる場所は、あっち … 所謂、そうだなぁ、例えば … お袋がいる場所からすると、何処ら辺りに在る場所なのかな … 」

「おまえは、場所が、在ると思いたい。」

「し … つこい … か …。」

「まぁ … しかたねえよな。」

「そう … なる … か … 。」

「ん〜、… … そう、なるな。」

「辿るも辿らねーもねえじゃん。」

「あー、… … ねーよ。」

「おめーは誰かに頼まれてそうしてんのか?そこで。」

「わからねえ奴だなと言いたいとこだが、すべての奴が皆わからねえから、仕方ないが … 」

「 … … … … 」

「おめーに頼まれてるというより、おめーの独り言ってとこだよ。」

「 ひ と り し ば い … 」

男の目に映る景色の全てが滲み始めた。

「辿るというか、彷徨ってみりればいいだろ。」

「あん?」

「有り体に言えば此処 … 的な場所 … 的な此処 … はは、要は、重なってんだから。前居た界隈では、船なり飛行機なりで海を渡る手間のある世界だったろ。今は乗り物なんか用無しだ。」

「はぁ … なるほどね。」

「思い浮かべりゃ行く。思った其処に行く。小馬鹿にされてる気にもなるかもな。人間だった頃に憧れてた自由ってのとよく似てる。ああ … 馬鹿にされてるような気にはなるかもな。」

「今更、何とも思わねえよ。ざまぁ〜ねえな … 終わった奴のボヤキなんか。」






様々な事に想いを馳せながら何となく帳尻を合わせて適当な宿に辿り着いた。小振りで素朴な和荘(※自組造語・わそうと読んで下さい。・意味は日本旧家風の宿と捉えて下さい。)だった。身の丈にまずまずという感触で逆に問題無し … 抵抗無く受け入れられた。8時半。番頭さんに部屋へ通してもらった後、軽く会釈を交わしてから番頭さんを見送った。

通常そうした物なのだろうか … 部屋に入った時、西側の窓の障子が開け放たれていた。いや、本来なら客を招き入れる時は閉じているイメージがあったけど … まぁどちらにしても自分的には好感触だった。でも自分以外なら、あまり良い印象を懐かなかった思う … 時間的に、外は真っ暗だし都会でもなければ山岳地帯 … 街灯やネオンも皆無だ … 気持ち悪いと思う人も少なくないだろう … 。オカルト、怪談、幽霊、亡霊、自殺 … 日暮れ後にチェックインで外界の景色が即座に目に入る其処が、ただ真っ暗な景観となるとちょっとね … だが何故か、今の俺には調子の沿う瞬間だった。

窓から見下ろすと間近に湖が確認出来た。水際には遊歩道が在り、僅かながらだが街灯も有った。其処を囲む様に雑木林が広がり、その中もきれいに舗装された遊歩道になっていた。その遊歩道にも僅かに街灯が有る。そう皆無でもなかった。でもひとっ風呂浴びた後、少し歩いて … 散歩でもしながら風に吹かれに行こうなんて気になる様な雰囲気ではないと思った。街灯から街灯の距離はパッと見20メートル置き。街灯の光の強さは不気味なほど弱くはないが、この宿同様、街?町 … 村かしら?まぁ古い地域だと思われる。付近に目立った観光スポットも無い辺鄙(※へんぴ・中心地から離れて開けていないこと。かたいなか。)な地域に相応しい平凡な緑地公園の街灯と街灯の隙間は、歩けば毎に真っ暗な一瞬が巡る。歩くなら日中だな … そういう雰囲気の雑木林だ。遊歩道の幅も大の大人なら横並び三人詰め。

「ふぅ … 違う意味で日常を忘れられる。はは、気持ち悪りぃ。」

はは … 結局気持ち悪くなった。好感触とか思いながら。

八畳ほどの部屋の中心に年季の入った木彫り座卓がある。卓上には煎茶のティーパックと和菓子が二つ、盆に乗せられていた。年季こそ入っているが扱いがかなり良いのかピカピカに輝いている。窓から眼下の真っ暗な湖と雑木林を眺めるのに飽きて、お茶でも飲もうと振り返って卓上に手を伸ばした。ティーパックを一つ摘み上げて一瞬ジィーッと紙に記載された文字を見つめた。白い袋に薄黄緑色、コミカルチックな丸文字で 『 煎 茶 』と書かれていた。そそくさとシールを剥がして、〝 そうそう、こんな風に俺は何時も、ついせっかちで横着になっちゃうんだよな。〟と落胆して手が止まり、周りを見渡して湯沸かしポットを探した。無論即座に見つけられたが、道理的には先ず湯を沸かしてから湯呑み茶碗を探し、ティーパックを摘み上げてシールを剥がす … そうした隙に湯が温まり、スムーズに茶を煎れられるのに。こうした一つ一つが、所謂世の中のジワジワとこびり付いて行くストレスなんかともよく似ている。湯呑み茶碗は壁沿いに置かれた棚のガラス戸の中に有った。並べられていた二つの湯呑み茶碗の一つを手に取り、小脇に有った湯沸かしポットを見詰め、手に取り上げた湯呑み茶碗をまた棚に戻してポットの電源ソケットを外し、ポットを手に持ってドレッサーに向かった。ドレッサーの端に飲料水用の蛇口が有るのは何となく予測していた。本当に頭の良い人間と、そうでない人間の違いみたいなものを一瞬思った。頭の良さとは勘所だと思った。英会話と英語の違い、知恵と知識の違い … 偏差値、学力、成績とは謂わば記憶であり、叙情的な言い方をすれば所謂根性や根気であろう。それに引き換え、例えば発明とは、いつかのノーベル化学賞受賞者の名言である … 〝 情熱 〟。勘所、勘の良し悪しを分け隔てる要素、材料は、所謂、配慮であり、やさしさであり思い遣りだ。人が他人に対するそれなりの気兼ねであったりまた見返りを然りげ無く期待した強かな他者に請う自己援護誘導だ。俺は今、横着を纏っていたから、二度手間三度手間を繰り返した … というか日頃から俺は横着者だ。俺の頭は決して優れてはいない。頭の問題ではない。心が、心意気がショボいのだ。捨てに来た自分の中の一部を早速少し捨てられた気がした。

やはりドレッサーの右端に飲料水用の蛇口があった。ポットに水を入れ、一瞬鏡の中の自分を見て、そしてサッと逃げる様に部屋の中心に飲料水を入れたポットを持って戻った。ポットに電源ソケットを繋いでから電気湯沸かし器にポットを置いた。

「ふぅ。」

再び湯呑み茶碗を棚から一つ取り出して、その中に先程シールを剥がした煎茶のティーパックを入れて電気湯沸かし器の横に並べて置いた。お茶を煎れる準備が整ったところで手が空いた為か今一度窓の外が気になった。顎から微かに移動する感じで顔を窓のある広縁の方に向けた。お湯が沸くまで少し時間があるし、ローチェアーに腰掛けようと思い窓の方へ向かった。

「はぁー、疲れた。」

ドカっと腰掛けた。窓の外を見下ろした。

「風が出て来たか … 」

つい先ほどまで静止画でも眺めてる様な気になる程、湖の湖面も闇中鏡(※造語・あんちゅうきょう・暗闇の中に鏡)の様に沿いの街灯を反転させて映していた。広がる雑木林の樹木も眠っている様だった。今は湖面も緑面も纏めて時化た海原の騒めきその物だ。

「雨の予報なんか出てたかなぁ、まぁ宿に入ってからでよかった。さすがに一日目からびしょ濡れじゃ気を下げられる。ラッキーだった。」

窓は閉まっていたが遠くの方から櫃(※ひつ・此処ではこめひつを著しています。)に米を流し込む様な音が微かに聞こえて来た。少しずつ音が大きく、そして響き渡って来た。

「降り始めた … 」

こうした静かな町で、遠くから近づいて来る雨の襲来に、無論経験など無い、人の話や記事から見聞きしただけの認識だが、戦時中の戦闘爆撃機の襲来に因る戦慄と少し似通った感覚なのかしらと微かに笑えながら僅かに首筋が冷えた。知らぬ土地、一人旅が初めてだからだろう…ただ、雨の降り始め…近づいて来る雨の降り始めというだけなのだ。有り体な言い方だがオーケストラの除幕の様でもある。見ている景観の手伝いもある。雷鳴でも付け加わればそれは丁度ティンパニーだが、其れは今は無い。真っ暗闇の窓の外を一人で眺めている中、ほんのりと楽しい気分を見つけた気がした。窓からの景色全体を埋めるみたいに眺めた。ガラスが濡れる前に雨粒を確認したい理由が自分でもわからなかったが、其れを探しているような気もした。

「ん … 」

高台の宿の階上窓から、目線真っ直ぐを向いていたが、眼中下方に移動する何かを感じた。雨雲はまだ付近に到達していなかった。気になって真下を見た。

「ん … なんだあれ … 人?」

ジィーっと見つめた。雑木林の樹と葉に覆われた合間に見える遊歩道に、尋常とは考え難い程、それこそ足を引き摺っているようにすら思えるゆっくりとした足取りで歩く … おそらく男性?と思しき(※ おぼしき・思われる。) … 背広姿の、ネクタイも締めた男性が歩いている。左手には黒いアタッシュケースを握っている。右手はポケットに入れている。

〝 こんな遅い時間に… しかもこんな山奥に。通勤圏内とは言えないこんな地域にあんな格好して… 付近に民家だって無い … … … 都会ビジネスマンの自殺前か? まぁ … いいけど … 。〟

雨がジワジワ近付いて来ていた。男性の処遇…いや、境遇は扨措き…よりも、このままでは雨でびしょびしょになってしまう。ずぶ濡れだ。そちらの方が心配になった。いや、心配なんかしてないな。気になるだけだ。気になるだけだが…まぁ気になる。

…………… …… ……… …

少し見入ってしまっている …

「 ! 」

立ち … 止まった …

男性は誰かを、何かを、見つけた様に … ですらもなく、足を止め、右手にぶら下げたアタッシュケースの揺らめきも静止し、そして右手もポケットに入れた侭真っ直ぐ前を見据えた … そして一瞬後、ポケットから右手をそろりと抜き、やはり、ゆっくりと、その右手の掌を顔面中央の方に持ち上げるみたいに移動し、鼻の頭に在る眼鏡のブリッジに開いた手の中指で触れ、僅かに上方に向かって押した。そういえば男性は黒縁眼鏡をしていた。髪は真っ黒で白髪は見当たらない感じだ。首の後ろが隠れる程度のビジネスマンとしては少し髪の量が多い … 然し平凡な髪型だった。無意識にいつの間にか眼下のその男性に目が釘付けになっている。男性の所にも風が届き始めたらしい。髪と背広の裾が偶に微かに風に靡く。アタッシュケースも時折揺れる。男性は立ち尽くしている。立ち尽くした侭だ。

どこかで … 見かけた … いや、気のせいか …

男性が静かに下を見た。右手はポケットの中に戻していた。

「ぅぅ …」

益々気になって来た。

男性は下を向いた侭立ち尽くしている。変わらず風が髪や衣服を揺らしている。

… … … … … ……………

男性の頭が動いた!

戦慄が走った。ゆっくりだが、それは男性の頭がこちらに向かって動き始めたからだ。思わず怖くなって一瞬釘付けになっていた目線を外し、背後を振り返った。部屋の玄関を見た。誰も居る筈が無い侭、誰も居なかった。靴置き場の灯りは点けっ放しだった。靴も自分の靴だけ左右きれいに並べて左隅に置かれていた。番頭さんが帰る際に揃えたのだろう。馬鹿みたいだが胸を撫で下ろして、窓に向き直った … 下を見た …


〝 ! ! ! ! ! ! ! 〟


男性は、相変わらずアタッシュケースを左手に握ってぶら下げ、右手はポケットに入れた侭、吹く風に後ろ髪と背広の裾を揺らされながら、黒い縁の眼鏡のレンズの奥から … 真一文字に唇を閉じた侭 …


… こっちを見上げていた …


目が、合ってしまった 。


「 ぁ … 、はっ … はっ … はっ … はっ … はっ … はっ … 」


体の全ての体温が一瞬で奪われたかの様に寒くなり、ブルブルと身震いがして止まらなくなった。男性はジィーッとこっちを見た侭動かない。叫びたい衝動をグッと抑えるだけで微動だに出来ない。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、」

目線を外す事すら出来ない。遣り様も無く固まっていると男性の口元が僅かに緩んだ。心臓が爆発しそうになりながら目の照準が男性の唇に合ってしまい … 何か言っている。喋り始めた。此方に言っているのか … 此方に何か伝えようとしているのか … 分からない侭、矢なり槍なり此方目掛けて飛んできそうな妄想に恫喝されながら動けずにいると男性は一言二言呟く様に唇を動かした後、再び唇を真一文字に結び、男性の方から目線を外し、そして下を向いた。一瞬間を置いて、居直す様にまた真っ直ぐ前を向き、歩き出して公園の遊歩道の先を辿り雑木林の影に消えて行ってしまった。

「はぁー はぁー はぁー はぁー 」

男性が居なくなって我に帰ると、全身汗びっしょりになっていた。

〝 何だったのだろう … 聞いたり想像した事はあるが … 幽霊⁉︎ まさか … いや別に驚く事もなかろう、辺鄙な山岳地帯の民宿だ。はは … こんなの普通だろ … ははは … はぁ … 。〟

息を切らしながら自分に弁解したりしている。嫌いだったり不得意ではないつもり … 寧ろ得意なつもりだったが、いざ、身の上で直面するとかなり勝手が違った。窓の外はすっかり雨模様に変わっていた。ガラスにも無数に雨粒が叩き付けている。自分は宿内に居て雨を逃れているのに頭髪から足の裏までびっしょりだ。雨ではなく汗でだが。

「ふぅ … 結局一日目からずぶ濡れだ。洗濯機あるかなぁ … どの道ひとっ風呂浴びよ。浴衣 … どこだっけなぁ〜。 」

煎茶を飲もうとして沸かしたポットに一瞬目が行った。やれやれと項垂れながら浴衣、タオル、下着を抱えて勢いよく部屋を後にした。






言われて… ではなかったか… 所謂、自問自答。カウンターバーを出た。


そう言えば昔、友達のバイクを借りてツーリングに出た事があった。18歳の頃だったな。行き先を決めずに暮らしている街を飛び出してみたんだった。初めての一人旅だった。高速道路を使って。辿り着いたのは古い作りの和荘だった。適当な宿が見つかって泊まったんだよな…


アイツ、バーテンダー… アイツって… アイツは、いないんだよな… いなかったんだよな。アイツは俺自身。アイツの、姿も言動も仕草も示唆もすべて俺の… 裏本能? … とでも言うのかな… 白と黒、YESとNO… いや、その中間かな… 或はミックスかな… 何れ其れ等全て以外ではないな。俺の内側内の想像範疇… 。


それでもアイツ… バーテンダーのアイツは言ってた。俺の投げ捨ての跳ね返りが組み上がって亡霊と化したバーテンダーのアイツは言ってた…


「 思い浮かべりゃ行く。思った其処に行く。」


宿の広縁の窓から湖畔が見下ろせたんだよな。宿入したのは夜だった。雑木林、遊歩道。地べたの余る田舎の公園にしては細々しい遊歩道だった。三人並んで歩けば端の片足がはみ出る細幅だった。


… そういえば、あの日 … あの時 … 誰だったんだろう … … … 黒縁メガネ、背広ネクタイ、アタッシュケース … 何、喋ってたんだろ …


幽霊みたいだった。目が合ったんだよな。憎しみというか、憎悪の漲っているような様ではなかった。ただ、静かに俺を見ていた。見ながら、何か喋ってた。其の、その時の唇も、何か文句を、ケチをつけるような尖った感じでもなく、そうだなぁ… 何かしら尋ねてくるような口元に似てた… 誰だったんだろう … … …


男は静かに立ち止まった。真っ直ぐ前を見据えて立ち尽くした。

「 … ったく、しつこい雨だ。俺か、ははは、しつこいのは。」

風も強くなって来ていた。スーツの裾が偶に捲れる。パンツの膝下辺りがバサバサ音を立てる。ポケットに入れていた右手をゆっくりと抜き、顔に近付けてメガネを直した。

〝 …………………… 〟

何も無い或は、何もかもが無くなるという事を考え始めた。

「思惟 … 〝 シイ 〟とか言うんだよな。」

それも無くなる。此れ、もまた無くなる。死んでも魂は無くならない…が、無くなる…その、時が来る。来る時が来る。魂…。定義だよな…個々の、そいつコイツ其々の…其れのみが、遺る… のか… 。

右手をポケットに戻して、左の顳顬(※こめかみ・耳と目の間にある、物をかむと動く部分。)辺りに僅かだが光を感じたのだが、どうせ雲間から覗く月灯りだろうと思ったが、どうせだから拝んでおこうと思い静かに顔を向けた。

〝 雨の冷たさを抱いて見る白い月など寒々しいだけだが、これも俺の未練が無ければ小石の降るですらない。〟

頭上左上の月に呟いた…

「 おい、生きていた… それってなんだ… 死んで、今ってなんだ… 」




落滴に、悪戯ばれつつ睨む月の清浄なる今宵。


其れ此れも、無き在るもまた問うて虚しき清浄なる月。


雨、滴。此れ、是れ等また、自らを欺う嘘か真実か。





落滴(※〝らくてき〟と読んで下さい。本来は〝おちこぼれ〟と読む。此処では、個人的に、雨の滴を表したつもりの造意です。俗に言う〝落ちこぼれ〟とは意味は異なります。)


悪戯ばれ(※〝あそばれ〟と読んで下さい。本来は〝いたずら〟と読みます。)


欺う(※ 〝わらう〟と読んで下さい。)


真実(※ 〝まこと〟と読んで下さい。)



唇を、感触を確かめながらの如く真一文字に結び直し、そして俯いた。蹲み(※ 〝しゃがみ〟・しゃがむの意。)そうな気を渾身の覚悟で隠し、次いで素意(※ 〝そい〟・かねてからの願い。)の凡ゆるを慮えば崩散(※ 〝ほうさん〟と読んで下さい。造語です。崩れて散るの意。)の心を馳せては、其れを如何にして無とし、無き灼た(※〝あらた〟・はっきりと見える様。)を集め前を向き直した。

「 …………… 。」

男は歩き始めた。






「ふぅー、よっこいしょ。」

徹は大浴場の洗い場の風呂椅子に腰掛けた。鏡に映る自分と目が合う。

「バタバタしてたけどやっとほっとしたなぁ…。」

〝 バタバタ … してたけど … 〟… してたけど … そうなんだよな、いつからバタバタしてたんだろ。ははは…俺、未成年なんだよな未だ。小学3年生の時から月毎に親から貰っていた小遣いは使う時間が無くて放置してたらいつの間にか一端の纏まった金額になっていた。親父もお袋もヒーヒー言っていたのだから小遣い貰うのを拒否るだの返すだのしてもよかったんだが、特に親父の男気だか親心なのか金銭管理も大切な勉強の一つだと通帳を持たされ、其処には駆け出しのサラリーマンが覗き込めば少しヨダレが出るくらいの数の0(※ゼロ)の整列がイタリア兵人形みたいにきれいに並んでいた。それで今回の様なガキの生意気単身旅行という運びになったのだ。それにしてもさっきの…初っ端からレアジョーカーを引くとはね。まぁ幽霊じゃないんだろうけど…違うよなぁ〜まさか。大浴場には徹ひとりだった。


ガチャ …


男性が一人入って来た … 無論、女性が入って来たりはしない訳だが。徹はシャンプーを垂らした頭を両手でシェイクしていた。額から垂れて伝う泡を頬肉など畝らせながら避けて右目を瞑り、左目の目尻で、鏡に映ったその男性を確認した。男性は中肉中背の平凡な男性だった。まあ場所が場所だからであろうし、自分とその男性以外はいない閑散とした浴場内だからだろうが、背中にどっしりと疲れを纏った中年サラリーマンみたいな足取りで徹の後ろを白いタオルで前を隠しながらゆっくりと右から左に歩いて通り過ぎた。特に気に留まるところも無い平均的な男性との平凡な遭遇だが、徹からすれば恐らく歳上の男性らしく見えた。但し中高年という感じではない。23,4歳くらいに見えた。しかし何故男子、前を隠したがるものなのか… そんな風に見せぬ小笑はしたが、自分もそうなので、小笑した事を少々失敬な気になったりした。身体を洗い終えた徹は木桶の中に、タオルと、蛇口を開いて湯を落とし、石鹸が染み込んだタオルをそそくさと濯いだ。

〝 ぁ〜、腹減ったなぁ… 〟

宿に来る前に缶ビールを5,6本買い溜めして持ち込んだ。素泊り食事無しのつもりだったが逆にまどろっこしくなりそうだったので食事付きにしたが、今夜はコンビニ飯を適当に買って宿に来た。時間を気にしたくなかったのだ。濯いだタオルを硬く絞り、畳んで頭に乗せて湯船に向かった。先程の男性はタオルの端と端を持って後ろ手に回し、黙々と背中を洗っている。

〝 一人で来たのかなぁ… 俺と同じ… お兄さん… 寂しい土地だけど… … … 〟

先程見た、場に不似合いなビジネスマンを一瞬思い出した。学生… いや、落ち着いてるな。季節外れの平日というのが気になる… 但、うん… 友達と来て一人で風呂ってのは無いだろう… 恋人と来たのかなぁ… でも女性の好む雰囲気の土地とは考え難いけど。湯に浸かりながら暇潰しか場繋ぎかチラ見しながらいい感じに体が温まって来た。湯けむりにも微睡んだ。満足。納得した。

「さっ … てっ … とっ … 」

ポチョンポチョンと湯を僅かに揺らしながら静かに湯船を後にした。この茹蛸になった様な感覚が堪らない。心地良さを纏って徹は脱衣場に向かった。






浴衣に着替えると徹は少し心細くなった。温まった身体と、その肩先からほんのりと立ち昇る湯気が細やかに勇気付けてくれた。古ぼけた宿だったが、一端のドレッサーが有り、ドライヤーやリキッド、トニック、保湿液等が並べられてあった。

「 へぇ〜、繁華街の健康センターみたい。」

小脇にあった扇風機の首を自分の方に向けて、少し涼む序でに、滅多に使わないドライヤーで髪でも乾かしてみるかと竹細工の椅子に腰掛けてドレッサーの鏡に向かった。

ドライヤーのスイッチを先ず真っ先にコールドに入れて顔面に浴びさせた。

〝 はぁーっ、堪んねえ、気持ちいーっ。〟

湯船の温度が高めだったので顔がポッポしてた。2分間程冷たい風を顔に浴びせ続けて、スイッチをホットに切り替えた。鏡の中の自分を見つめながら …

〝 ははは … ガァキィ。〟

心の中でそう小さく呟いて笑って、髪の毛をシャカシャカ乾かし始めた。


… ミシ … ペタ … ペタ … ペタ … ミシ …


一瞬ドキッとしたが、さっきのお兄さんだった。脱浴(※ だつよくと読んで下さい。・風呂をあがる事。・造語です。実際にはこんな熟語はないみたいですが。)して来た様子だ。賑わっている騒々しい宿の脱衣場だったり今回の様な初めての一人旅でもなければそんな事もないのだろうが何となく人と遭遇すると一々気になる。決して嫌悪感を懐いてる訳ではない。まあ寂しいのかも知れない。偶にチラチラ横目で確認したり、耳を澄ませて動向を伺ったりしてしまう。お兄さんは今、頭を拭いている。慌てる感じではなく、落ち着いてゆっくりと。慣れた感じだ。徹は相変わらずブゥォーン、ブゥォーンという音を立てながらドライヤーで頭を乾かしている。

お兄さんが近付いて来た。

浴場内の洗い場の時同様、鏡に向かう徹の背後を、無論、徹を一見すらせず凡速で行き過ぎた … そして右隣の席を一つ空けたその隣の椅子に座った。


… ミシッ …


男性は静かに座った。真っ直ぐ鏡を覗き込んでいる。まるで鏡の中の自分と見つめ合っているみたいに。僅かながらではあるが意識が釣られてる事を悟られないように、徹は、仕草に句読点を入れないようにでもするかの様に、変わらずドライヤーの騒音を同じ様に起て続けた。男性は暫く鏡の中を真っ直ぐ眺めている。両手両腕を膝の上に乗せすらせず真っ直ぐ、ぶらぁーっと肩から真下に吊り下ろしているかのようにしながらぼぉーっと鏡の中を眺めている。徹も気にしてないみたいに前髪にドライヤーを当て続ける。死んでいる…人形の様に思えるまではあと僅か…そんな感じで、未だ、戦慄を覚えるまでには至っていない…が、あと、未だこの後この侭だと、〝 だ、大丈夫ですか?体調が優れないとか … 平気ですか? 〟とか話しかけない訳にもいかないかしらという警戒心は生まれて来た。未だ動かない … 未だ眺めてる … … … ぅ … ぁ、ぁぁ … ぅー … …

「ハァー。」


ブゥオーン ブゥオーン


ブゥオーン ブゥオーン


ブゥオーン ブゥオーン


男性は極めて小さい、そしてほんの一瞬という感じの素速い溜息を吐いた直後に両手両腕を一斉に上げ、ドレッサーの台の上のトニックの瓶に左手を伸ばし、手に取り、胸元近くまで寄せて右手の人差し指と親指で蓋を外し、其れを台の上に置いて、左手に握ったトニックの瓶を逆さまに傾けて、その隙に構えた右手は杓子の様に窪ませた(※窪む・くぼむ・一部分が落ちこんだ状態になる。そこだけまわりよりも低くなる。)その掌に数滴垂らし、左手で握っているトニックの瓶を台上に戻し、先に頭髪の中で既に弧を描いている右手に、やっと親兄弟の群れの隊列に追いついた遅れ子鴨みたいな感じで右手同様左手も頭髪の中で弧を描き始めた。トニックの瓶を中心に両手両腕を右往左往させていた最中の目線は終始俯き加減の伏し目がちで全てを把握していた感じだった。今再び鏡の中を眺めているが、先程より、少しだけ精悍(※精悍・せいかん・〝 動作や顔だちが 〟荒々しく鋭いさま。)な目に変わっていた。シャカシャカとシェイクして、髪全体にトニックが染み渡って来た辺りでまた、目は少しトロントして来た。左右の手の動きも次第にスローリーになった。… 手が止まる。男性の左手がドライヤーに伸びた。

「 あの、すいません … 」

男性の全身がフリーズしたみたいに停止し、首から顔と視線だけが左側の徹を向いた。

「 はい … 」

話しかけておきながら続く言葉が見つからなかった。言葉が見つからなくなる事を徹は想定してなかった。想定せずに話しかけてしまった事を後悔しながら焦り始める自分を感じた。男性の目は徹を見た侭、徹の次の言葉を待っている。

「 自分 … いや、僕 … 未だ18で、ひとりでバイクで来たんですけど … えーっと … えーっと … 」

「 … ああ … なるほどね。」

「 ぇ … 」

無意識にドライヤーのスイッチをオフにしていたた事を今になって思い出した … 話しかける直前に意識無く消した事を。〝 なるほど … 〟。男性の顔は笑顔とも顰めっ面(※顰める・しかめる・〝 不快・不機嫌などのため 〟顔・額の皮をちぢめて、しわを寄せる。)とも、また、それでいて穏やかとも言えない、然し静かな表情をして呟いた。

「 やたらめったら(※本来、滅多矢鱈・めったやたら・〝 やたら 〟を強調した言い方。 または〝 滅多矢鱈・めったやたら 〟の転。〝 やたら 〟は節度なくめちゃくちゃであるさまなどを意味する表現。/ 鱈*漢字で大口魚とも書くように口の大きい魚で、魚の中でも特に大食漢として知られています。 〝 たら腹食う 〟の語源にもなっています。)話しかけるのは若い頃の特権みたいなものだけど … うん … いや失礼。なんだろう … どうぞ、何かな。」

微かに、嫌な言い方だなぁと思ったが … そりゃそうだよなとも、同時に思った。

「 … いや … その … … なんていうか … … … … 」

蹴り込んでおいて困惑してしまった俺を見兼ねてか、男性が繋げた。

「 要するに自分探し。要するに一人旅 … は、初めてかな?あなたは … 。… で、気になった … 僕の事が。GWが終わって、梅雨入りを待つ、来る夏もまだ遠い水平線の端の米粒みたいに見える貨物船の如し。人気の有る無しどころではない辺鄙な村の忘れ去られそうな古宿に自分と似たような一人、男。」

「 ぁ、… 」

「 然も平日だしね。」

自分が18歳で、男性を23,4歳と予想したが言葉を交わしたら想像を遥かに超える大人の雰囲気を感じた。逆に言えば老けた空気とも思えた。

「 お幾つな … ぁ、すいません … 」

1秒に満たないくらいの一瞬、男性は唇を強く一文字にして、その後更にへの字口になったが … 其れを直すみたいに口元を緩め微かに笑みを作り …

「 ああ、はは、27歳だよ。」

「 ………………… 」

「 まだあれこれ、訊きたそうだけど … やめておいた方がいい。」

男性は俯いて、そして伏し目がちな目をしてぽつりと告げた。一瞬間を置いて男性は手に取ったドライヤーのスイッチを入れた。ブゥオーンという騒音がまた鳴り響き始めた。徹は少しの間呆然としていたが、男性に続いて徹も再びドライヤーのスイッチを入れた。スイッチを入れたドライヤーを髪に当てる前にほんの僅かの間、スイッチの入ったドライヤーを手にした侭、髪には当てずに鏡の中の自分を覗き込んだ。心の中で隣に座る男性と自分を少し較べて見るような気持ちになった。


〝 高野豆腐みてえ。〟


白い痩せた自分の顔を見ながらそう思った。出会った27歳の男性も白くほっそりした顔をしているが、草に寝転んでいるようなソフトな野性味が醸し出されている様な気がした。タイミングかも知れない … 。呆然としたし … たった今。目が、点になっている。男性は鏡の中を眺めながら、左手で握ったドライヤーからの風を髪に当てながら、右手の五本櫛(※櫛・くし・髪の毛を溶かすブラシ。)で大雑把に髪を乾かしている。

「 御法度だが … 18かぁ … 酒は飲んだ事あるの? 」

男性が髪を乾かしながらこちらを見ずに、鏡の中を覗き込んだまま話しかけて来た。

「 ぁ … はい。実は此処に来る前に5,6本ビール買って来ました。」

「 はっはっは。……… 少しは話せそうだな。はは。じゃあ風呂上がったら俺の部屋で一緒に飲もうか。」

「 えっ? 」

思わずドライヤーのスイッチをオフにして男性の方を向いた。男性は変わらず髪を乾かしている。手の動きも変わらない。鏡を見ている。

「 はは。ホモでもなけりゃ変質者でもねえよ。そんな立派な奴さんじゃない。だがこんな食わせどころの無い土地の平凡な宿に … 気になったんでしょ … 俺が。更に勇気を出して話しかけて来た。俺もその勇気と … まぁ、この時節の此処に20歳前の君 … 面白そうだとは正直思ったよ。ああ気になる。」

「 あ … あははは … そうでしたか。なんだぁ … ビックリしたぁ。」

「 さて終わり。」

男性は鏡を真っ直ぐ見つめながらドライヤーのスイッチをオフにして、鏡を見つめた侭、左右の手を台上に下ろした。

「 さ … て … 君は、終わった? 」

男性が流し目をするみたいにそろりと左に座る徹を向いて、微笑を浮かべながら云った。

「 ぁ … はい … 終わりました。」

「 じゃ行こうか。」

男性と徹はドレッサーの大きな鏡の前からスクッと立ち上がってロッカーの方へ向かった。徹は一瞬、目尻でドレッサーの鏡に映る去り際の自分と男性に目が行った。見ず知らずの男性の後ろを歩く自分 … 。徹は人生初の一人旅での出遭いに、此れは未体験ゾーン突入という思いに駆られてワクワクしながら、風呂道具を小脇に抱え男性の後に続いて暖簾を潜り、大浴場を後にした。男性は黙ってスタスタと歩くが、その歩速は決して急ぐ感じではない。迷い無く、それでいてのんびりとした速さで徹の前を歩き出した。






男性の部屋は徹と同じ階の二つ部屋を跨いだ所にあった。徹の部屋のドアを左手に見ながら通過して、男性は自分の部屋の前に着くと慣れた手付きで鍵を差込みドアを引いた。

男性から中に入って室内灯のスイッチをパチっと点けると、

「 適当に座ってて。メシはもう食べたの? 」

「 いや、これからですが、今日ここに来たんですが今日は途中で買って持ち込みで来ました。」

「 空きっ腹か … まぁいっか。」

部屋の真ん中にある座卓の、右手に西側の窓を置く感じで徹は胡座を掻いて座った。男性は部屋に入ると少し離れたところで皮の黒い旅行鞄の中をガサゴソやっていたが、いずれ少しして、備え付けのテレビの近くにある冷蔵庫の中から缶ビールとスパークリングワインの小瓶を其々2つ持って、徹の向かい側に座卓を挟んで、卓上に其れ等をコトンコトンという音を立てながら置いて身体を屈めながら回り込むみたいに徹の向かい側に徹同様胡座を掻いて座った。

「 並べるんだよ。飲みゃしないんだけど … あ、飲んでもいいんだよ。ただ、飾るっていうか、置くんだよ。……… … … 立ち合い人みたいなもんかな。」

ちょっと、目を白黒させていた俺に男性は説明をした。

「 あの … いつ 」

「 いつもじゃないよ。でもこうするのは多いかな。」

気が付かなかったが、男性は右手にもう一つ酒の瓶の様な物を握っていた。

「 さて。よっこいしょ。」

ビールやスパークリングワインを、男性は卓の端に突っ立たせるみたいに並べたわけだが、男性は、そして卓の中心あたりに、白いラベルに毛筆の黒くて太い、そして勇ましい文字で 『 南 』 と書かれた瓶を、ドンッ … と置いた。

「 お酒、大好きなんです … か … ? 」

少し横を向いて、ニヤリと男性が笑った。鼻から微かに息を出して小さく笑った。

「 話し相手だから。大好きって感じ … とは違うと言いたいところだな。ごめんね … だから、君は … 今日、俺にとっての君は … 合いの手みたいな感じだな。 」

「 合いの手? 」

「 ああ。見下したり揶揄ってるわけではないんだけどね。気に召さなかったかな? 」

「 いえ。なんか、面白そうです。 」

「 うん。はは。そうでしょ。」

「 ええ。でも … 結構話しますよ … 僕も。 」

「 うん … それでいいんだよ … はは … 。それだから、合いの手は。 」

「 酒が話し相手って … なんか … 気になります … 。 」

「 … んんまぁ … 有り体に、自分以外に言わせれば … ただ人の話を聞かない、聞けない奴って … それだけの事なのかなぁ。自分でも思うし。」

男性は南と書かれた瓶の首を右手で強く握り、左手で蓋をキュルキュル音を立てながら回し始めた。

「 あ、コップ忘れた。」

「 ああ、僕持ってきます。 」

「 ああ悪いね。」

スクッと立ち上がり、男性の背後の棚からコップを2つ取り上げて、ドレッサーに行って水道で一応洗浄してから卓のところに持ち帰り、再び胡座を掻いて座った。

「 いいねえ。」

男性が、この時初めて、クッキリと此方を直視した。腰を下ろした位置からの、立っている此方を少し見上げる感じで。

「ああ、いやいや。」

「 うん、訊かないあたりが。黙ってグラス、2つ持ってくるあたり。」

「 あっ … 」

「うん、当然って言やあ当然なんだけど、それがいい。それでいいんだ。」

「 す … すいません … 」

「 あはは、それはだめ。ははは、まあいい。気にしないで。」

男性が南の瓶の口を向けて来たので、両手で掴んで、グラスを差し出した。サッと、徹のグラスの6分目辺りまで、男性は一気に注いだ。注ぎ返そうと、南の瓶を受け取ろうとした …

「 うん、ああ、いい。」

男性は手酌で自分のグラスに注いだ。

「 これはこだわり。まぁ、今日の、今夜の、拘りかなぁ … 。」

酒を注いでいる時の男性の顔に、寂しさのような翳りを一瞬感じた。

「 缶ビール買って持ち込んだって話してたけど、酒は飲んだ事あるの? 」

男性が尋ねた。尋ねて返事を待たずに、男性はグイッと煽った。

「 酒って … ビ … あ、日本酒ですか。日本酒は、七五三の時と、正月のお屠蘇とか … 親父が御祝いだからって未成年だけどとかって … 。」

男性はグラスを顎の下まで戻して小さく笑った。男性が。伏し目がちに。

「 苦汁。苦味。具体的だよね。若い頃。」

「 日本酒も苦いですよね … 一応。」

そう言ってから小さく声にしないいただきますを心中で呟きながら微かに会釈し、軽く口に含んだ。

「 物足りないだろ。」

「 え? 」

「 うん … ドスが効いてないような感覚に散らされて気付かない。若いってのを小馬鹿にしてるわけじゃない。そうしたものだよ。ビール。酒は … 日本酒は、苦味を浮かぶ絵に喩えるなら、材木の板目を舐める様な感じだな、俺に言わせれば。だが重い。喉を潜ると、重い。さらりとした感触で始まる。そして重い。思わずにやりとして、気が付いたら腰が抜けてたりする。酔っ払って。」

「 深いですね。」

そう返して二口目を飲んだ。

「 馬鹿にされながら、笑みを絶やさずに頭下げて、結局騙されて大損したりして、不貞腐れて八方当たり散らして跳ねっ返されて … 最後は身包み剥がされてズタボロにされたりしながら … ああ … ごめんごめん … 君は … 学生さん? 」

「 徹って言います。今年高校卒業した後はフラフラしてます。」

一瞬表情を曇らせた。男性のその表情を確認して、徹はグラスの残りを一気に煽った。

「 ま … 遊んでるみたいには見えないが … 。」

目を伏せた侭、前頭葉辺りに目があるみたいに、そしてその前頭葉辺りの目で睨みつけられてるような雰囲気を感じた。

「 遊んでます。」

男性の顔が緩んだ。

「 フフ … ほっとした。」

「 えっ? 」

小さく驚いた目をして男性を見た。男性も徹を見た。

「 ふざけてる男の顔じゃないな。遊んでる。でも、少し違うな。ふざけてはいない。」

反旗を掲げるようなつもりではないが、偽りたくはないという気概で静かに〝 遊んでます 〟と口にしたが、その返しはやわらかかった。

「 ええまあ、中途半端な気持ちでやたらに飛び込んで、関わる他人の足を引っ張るのも … ちょっと違う気がしています。」

「 自分を、探してるんだもんな … 徹君は。」

「 はい。」

「 煙草、吸ってもいいかな? 」

男性が訊いてきた。

「 あ、はい。」

男性は小さく頷くと、立ち上がって鞄に向かい、サイドのポケットからタバコとライターを取って戻って来た。

「 あれ … そう言えば、メシ食ってなかったんだよなぁ?腹減ってんだろ? 」

男性は再び立ち上がるとスタスタと冷蔵庫に向かい中から何かを取り出し、そして割箸二つ持って来た。

「 コンビニ弁当か何か知らないがそれは後で自室で食べなよ。今はこれで勘弁してくれ。」

鯖の水煮缶詰二つと鰯の缶詰を一つ、男性は座卓の上に置いた。

「 酒のつまみにピッタリなんだよな。」

野暮な仕切りだが、手際の良さに徹は目を白黒させた。

「 あ、すいません。」


カプッ … クチャッ … クシャッ …


人差し指を穴に入れて引っ張るタイプの缶詰をお互い一つずつ其々開けた。鯖の缶詰だ。

「 村井だ。名前は圭一。俺の名前ね。」

「 あ、井田です … ですので井田 徹です。」

「 ですのでって … ハハ … あ、いや、ごめんごめん。」

箸で鯖を摘んで口に持っていきながら村井は小笑い気味に呟いた。

「 あの … 村井さん … あ、圭一さんと呼んだ方がいいですか? 」

「 ああ、そうだね。その方が距離を感じない。」

「 あ、はい。じゃあ … 圭一さん … は … その … どんな人なんですか? 」

少し回ってきた酔いにも手伝わせて思い切って訊いてみた。

「 ふぅーん。はは。愈々来たか。」

「 ………… 」

「 いや … このタイミングにその質問てのがベタだなと。まあベタでいいタイミングなんだろうけど。ははは。」

村井の表情が静かに凍り付いた。

「 自分の記憶が蘇らない場所を探してたらここに辿り着いた。」

「 … どういう意味ですか … ? 」

村井は卓上に置いた煙草の箱を手に取り、中から一本取り出し … 唇に近付けて手を止めた。

「 何処へ行っても被る。重なる。夕陽一つ美しければそれで蘇る。如何にも覧映りの良い景色また観光スポット、其れが無くも人の他愛も無い笑顔 … それだけであの頃この頃と温もりを纏って思い出のシネマは転がり始めてしまう。」

「 思い出したくない事が、… 沢山 … あるんですか … ? 」

村井は右手の人差し指と中指の間に挟んでいた煙草を静かに卓上に置いた。

「 忘れたくない事で、忘れられない事で、忘れられたらそれ以上楽になれる事は無いだろうなぁなんて思いながら … 忘るようとしてるのか、どっぷり浸ってるのか、わからなくなったまんま、其れを考えるのもやめようとかやめられなかったりとか … 色々だよ。」

村井は再び先程置いた煙草を、今度はあっさりと手早く口に咥えライターで火を灯した。

「 身近な人が … 何かあったんですか? 」

「 ああ死んだ。うん、死んだんだよ。嫁と息子が。」

今度は軽くリズミカルな口調で村井は徹に伝えた。火を灯した煙草を勢いよく吸い込んで、その直後、幼児番組に出てくる妖怪みたいに、煙草の煙を思い切り細長く吐き出してから。

「 … 遊園地で死んだんだよ。夕焼けが油絵の名画のように美しかった。ポップコーンとソフトクリームを買いに行って、手を振りながら戻ってくる最中だった … 。もうすぐ冬本番っていう少し手前の十一月中旬だった。息子の誕生日だったんだ。にこにこしながら、嫁の手を引っ張りながら、嫁は、待って待ってと急く息子に引っ張られて … 俺も、嫁も、息子も、夕陽に染められた橙色の顔が満面の笑みで … 翌年は小学校入学だった。」

「 それで … どうして … 」



運 命    っ … て …




                           」

「 … 運  … 命 … 」

瞼に皺が寄るほど、村井は目を強く瞑っていた。

「 観覧車のゴンドラが落下してきたんだよ。」

「 えっ … ! 」

「 野球帽を被った息子と長く美しいロングヘアーの、左手と右手を繋いで、笑顔で小走りする二人の脳天にゴンドラの床が激突する一瞬が、未だに何千回何万回リフレインする。コンクリートの地面に叩きつけられてゴンドラに押し潰された二人は、まるで暴漢に襲われて殺されたみたいな、信じられないっていう感じのぱっちり見開いた目をした侭、小さく震えた後二度と微動だにしなかった。」

「 即死 … で 」

「 即死だった。」

障子がパチンッ!と閉じるような空耳を感じた。徹は凍った。

「 ふぅ … もう六年も経つ。あんな事が無ければ、小学校5年生だな。何を見ても何処にいても憶い出す。未練たらしいって言われりゃ、もう口答え出来ないよ。男だし、六年も経ってるんだからなぁ。」

「 いや … あ … いや … そりゃ … そりゃ無理でしょ … そりゃ … 」

村井が手にしている煙草の先の灰が落ちた。

「 いやね … フ … 生きている … 男だから … 俺は、未だ … 。」

「 ぁ … でも … それにしても27歳じゃ … 」

村井は苦笑いをした。

「 34だよ … 本当は。俺の時計は止まってるんだ。27歳の侭 … 隆志の … パパどうして? … 鳴り止まないんだ … 。」

「 隆志君て … 名前だったんですね … 。」

「 いや、すまん … だった … じゃなくて、隆志なんだ。ごめんね。」

「 いや、すいません … 僕の方こそ … 。」


……………………………………………………


二人、黙ってしまった。静寂が流れる。


「 こんな風についさっきまで見ず知らずだった君に、己の人生の、結構大きな分岐点だった過去を話してる今って … どんな時間なんだろうね … 。」

目前で揺れながら昇る煙草の煙を見ずに俯いた侭、目を伏せて村井がぽつりと口にした。

「 わかりません … わかりませんが … この話を聴くのが、僕の人生の一部だったというのも事実だったという事ではあると思います。」

村井が手にしている煙草はフィルター近くまで短くなっていた。

「 でも、すいません … 遊園地のゴンドラが落ちるって … 」

村井が、侘しそうな、それでも、その気を隠すみたいに精一杯の穏やかさで装って見せている様な、そんな微かな笑みを作って徹を見た。

「 うん … 後の実況見分だとか様々な取り調べだとか色々あったけどね … 遊園地側の日頃の整備や点検の様相、詳細、またゴンドラやゴンドラとワイヤーを繋ぐジョイントやローラーの製作会社や販売業者、使用している金属の種類、出所、流通ルート、そうした経緯の隙に違法金銭授受等の有無を調べるだの金属疲労またその検査会社の内訳、詳細、会社設立時の資本金また創業者社長の出身地、経歴等々 … あれこれ … なんでそんなとこまで自分が聞かされたり関わらなきゃならないのかって … 警察官や検察官の … そんな熱意に満ちた目で語りかけて来る姿と対峙すればする程、悲しみだの虚しさだのを感じる余裕など更々失せて、次から次へと、まるで人海戦術で働かされ続ける引っ越し屋の運び士にされてしまった様な気分になったり、結局この人達は、己等が正々堂々と使命を全うしているという誇りを守る為の … 俺自身やこの事故は、そんな彼等の生甲斐を顕示する格好なネタって事だけだったりしたりもするだとか … そうやって、俺自身の内側だけに留まらず、世の中ってのはどうしてこう … 狐と狸の化かし合いみたいな事の繰り返しの中で、何が愛だ … 何が思い遣りだって何もかもが馬鹿馬鹿しく感じて来てさ。最後は、いいから … 捜査は適当に貴方方の都合の良い様に、示談なら示談で早く終わらせて下さいって … そう申し出たんだよ。」

徹は黙って聞いていた。踵を返す気にならない … 重い話だ … と、茶化す気にもならない。村井は短くなった煙草を灰皿で揉み消し、俯いて黙った。

「 酒の小瓶を並べて、話の立会をさせるのは … 圭一さん … もしかして … 」

「 ん? … ああ、いや … 昔からだよ。」

我に帰ったみたいにキョトンした目で徹を見返して村井が答えた。

「 人、ひとりひとり、同じ空間に居てして、実は違ったりするもんだ。」

「 …………… 。」

「 運転免許センター、行った事あるでしょ? 」

少し驚いた目をして徹が村井を見た。

「 あ、はい。取得試験の時に … ですけど … 。」

村井が小さく笑った。

「 ふ … 未だ一回だよね、18歳じゃ。」

「 はい … 。」

「 違反してるしてないでよりけりだけど、免許の更新で数年毎に誰もが足を運ぶ … かなりの無差別で、見ず知らずの沢山の人間が一つの教室に集って肩を並べる。」

「 ええ … そうですね … 。」

「 県、地域 … まぁ、街に因って異なるんだろうけど … 不思議な空間なんだよ。」

「 ……………… 。」

「 集う人々の共通点は運転免許を持っている … 或は取得する為という事だけ … あ、あと返納もあるか。その共通点だけで多種多様な人が一箇所に集まって、まあ、自動車運転に因んでという事に限ってではあるけど … じっと椅子に腰掛けて講話を聴きながら … 何の共感も無い。自己紹介も無ければ気に留める隙も興味も生まれない。当たり前と言えば当たり前だが … あ、互いに無関心という共感は在るか。」

徹が少し間を置いてから小さな笑みを浮かべて言った …

「 あ … 早く終わらないかなぁ〜という共感も有りますよ … 多分。ふふ。」

「 そうだねぇ … ははは、忘れてた。そうだそうだ! 」

村井が楽しそうに返した。二人して一瞬笑った後、村井が静かに続けた。

「 蓋をした顔をしてるんだよ。世の中にそういう場所って、他に無いよな。あんまり無い。病院の待合室 … 待合所って言うのかなぁ … あの診察を待つ長椅子が15脚20脚並べてある場所 … これがさぁ … この場所と診察を終えて会計を待っている人が座ってる場所とで微妙に空気が違うんだよ。また、病院の中に薬局がある病院なんかで薬が出来上がるのを待っている場所はまた更に少し空気が異なる。」

「 ああ、わかりますわかります! 」

「 うん、薬局で待っている人は診療の会計が終わった後の更なる待たされでイラついてる人が多いんだよ。二度手間を喰わされた的イラつき。」

「 はいはいはいはい!凄くわかります! 」

当初徹は、村井の話の流し方に僅かな疑問を懐いたが、今となってはさすが大人だなぁ … 上手いなぁ、乗せられてると感心していた。

「 で、言いたいのはさぁ … あ、ごめんね … 免許センターに話を戻すけど … … … 」

「 はい、… 」

「 3年 … 4年 … まぁそのくらいのスパンで免許センターに … 次第にね、戻って来るというか、帰って来た … そんな感覚になって来るんだよ。」

「 ………… 」

「 3,4年置きに、要するに数年置きに … 格好付ける言い方をしようとする訳ではないんだが … その間に起きた事を、様々な事を纏って、所謂背負って … でね、滑稽なくらい、其れ等を露呈する隙が穏やかに全く無い空間である事にシュールな不気味さを心地良く感じるんだ。」

「 心地良い … ですか … 」

村井は小さく笑った。

「 そう、そこなんだよ … 。心地良いんだ。心地良いのが … そしてまた気持ち悪かったりもするんだよ。」

「 そうですよね!何となく、何となくですがその感覚分ります! 」

徹は … 自分自身ですら、何故なんだろう … と思いながら驚いたみたいに目を丸くして返した。村井もそんな徹を見てほくそ笑んだ。

「 コレはさぁ … いや、それってさぁ … … … ちょっと極端に比喩るけど … 敢えて … 」

「 はい、」

徹は喋る村井の口元に食い入るみたいに注視し、続く言葉に迫る勢いの体勢になった。

村井は俯いて、告げる様に呟いた …

「 自分を含めて、其処に集う、所謂、免許センターに集まる沢山の人々が … まるで、深夜の闇に包まれて包囲された … 公園なんかに集まる幽体 … 亡霊というイメージとは違うんだよね。亡霊という物のイメージは、本当は違うのかも知れないけど … 其処に出現するにあたって、僅かながらにでも意志や意味や価値を携持( ※ けいじ:身につけて持つ事。)している感触がしてならないんだよ。本当は、幽体や幽霊という呼称の方が悩ましい物としての意味らしいんだけど … 逆に謂えば、様々な経験を経て … 謙り … じゃないか、何というか … 逆にね … 怨念とか、遺恨とか … そうした物が無いのに幽出して来るという意味で亡霊の方が、実は魂の底の底、裏の裏に隠制 ( ※ 造語:いんせい。)しているという気が在る様で不気味だし、ある種の重力を感じる。抜け殻を目にして得る重量感。そんな方向性、引力の無い幽体。陽の光の注ぐ昼間に、自分らが、そうした幽体に、其処に集まる時だけ変貌してしまうような … … … 」

徹は、この村井という、つい小一時間前に知り合った一回り以上歳上の男性の饒舌に、一瞬、痛々しさを覚えた。一瞬 … というか、覚えた … 感触した … というか、その痛々しさに、今、やっと気が付いたという感じだった。

「 圭一さん … いや、村井さん … 」

村井は少し驚いたように目を丸くして、

「 ん? 」

目を伏せる様にしていた村井は我に帰ったみたいに徹を見た。

「 ほじくり返すみたいで申し訳ないんですが … 人が死んだという事は、僕は、この地球上の何処をどう歩き回っても、隅から隅まで巡っても … もう其の人はいないって事だと思ってます … 。」

村井は再び表情を凍らせて目を伏せたが、その直後に、今度は吐き捨てる様に小さく笑った。徹が見る初めての村井の表情 … 顔だった。

「 ふっ … はは。わかってるよ。知ってるよ … でも、なかなか良い相槌をするもんだ。18歳だよなぁ。18年。俺は34年。大した … 徒者じゃないな … 君は。」

「 ぇ … いや … いや徒者です。… 徒者ですよ、勿論。」

先程浮かべた笑みの侭村井は返した。

「 そうかなぁ … ふっ … そうは思えないなぁ … 俺には。少なくとも … 俺なりにだが … 俺なりのこの世で34年間息を吸って吐いて来た俺には、徒者とは思えんなぁ … はは … 君は。」

村井が … 徹を見た侭、笑みだけを落として続けた。

「 でも … ね … 、世界中隅々、何処まで探し回っても居ないという事は … … … … 逆に、何処にでも居る … 何処に行っても … 居る … 何処に居る時、行く時でも … 常にそばに、くっ付いて居続けてるって事でもあるんだよ … … … 此れは、此の事は … 愛する人、愛した人が死んでしまった … 遺された、置いてかれてしまった人間にしか分からないと思う … 。」

〝 … 置いて … … … 枯れて … … … 〟ふと、徹はそんな事を思った。

「 ぁ … それからもう一つ … 僅かながらだけど、遠い、知らぬ頃程の遠い昔にタイムスリップした気持ちになるんだよ。気持ちじゃない。気分ですらない。確実にタイムスリップした。」

「 タイムスリップ? … ですか? 」

「 はぁー。」

村井は分かり易い感じの溜息を吐いて小笑みに戻りながら目を伏せて俯き、そして卓上の煙草の箱を左手で静かに摘み上げて箱の中を覗き込んだ後、上下に一振り二振りして顔を出した1本を直接左の口尻辺りに咥えた。

煙草を咥えた侭火を灯けずに村井は続けた。

「 嫁と息子と出逢う前 … いや、嫁と出逢う前か … いや違う、要するに極端にというか、はっきり言ってしまえば、息子を産んだ嫁がこの世に未だ居なかった頃 … この世に上 ( ※ 天 ) から降りて来る前の … 空気 … 匂いを感じた。」

「 …………… … … 」

「 この歳になった俺の口が云う以上どうしても情けない頃的な言い方しか出来ないが … 男のくせに恋焦がれていたりだとか … ははは … 妙に女の裸だとか所謂白い柔肌だとか、そうした温もりだとか … そんな事ばかり頭の中で渦巻いていたりだとか … 将又不用意に人や世の中だとか社会だとかに反抗的だった頃。そんな頃に感触してた空気に、匂いに包囲された。まぁ一時だけどね。」

村井が咥えていた煙草に火を灯けた。部屋の中なのに村井は火を灯ける時は風を避けるみたいに両手を翳す。煙草の先を包む様な仕草が徹には印象的だった。

「 村井さん … 村井さんは、明日はどんな風に過ごすんですか? 」

喋り通した後の脱力感みたいな … そんな雰囲気で煙を吐き出す村井に尋ねた。白い歯を少し覗かせてニヤリとした村井が返した。

「 君は … 徹君はどう過ごすの? … 明日 … 。」

時計を見たいような気に押されたがグッと堪えた。村井という男に対しては、其れが剰りに失敬な仕草であるような気がした。

「 考えてませんが、兎に角ぼんやり過ごしたい気分です。」

村井は仕切り直すみたいに再び小さく笑った。

「 俺は … どうしようかなぁ … 。」

「村井さん … 今際の際って … どうも自分には、チャラチャラした物に感じられてならんのです … 。」

村井が徹を睨み付けた。

「 本当に18歳か? … 」

村井が言った後、引き続き徹を見つめた侭、飲み干されるのを待っていたみたいなコップの南を一気に飲み干した。

黙っている徹に村井は続けた。

「 君が言わんとする事が伝わって来た。今の … チャラチャラしてるっていうのを聴いて。」

徹もジィーッと村井を見つめて … そして一気に南を呷った。

「 村井さん … 僕は18歳です … 。所謂18年です … この世に降りて来て … 。勉強ばっかりして来たんです。僕は、常々、机の上という小さな港に居ました。テキストや参考書に記されている文字が、言葉が、時々鴎 ( ※ カモメ ) の鳴き声に感じたりしました。」

「 …………… 」

「 僕は経験がありません。僕には、経験が足りません。ただ、考えていたのだと思います。問題を解きながら、テキストのページを進めながら、考えていたのだと思います … 。ずーっと。」

「 … うん … 。」

「 物語の、人の、人間の長い長い物語 … その生命の火の滅するその瞬間である今際の際は … 剰りにも呆気ない一瞬である様な気がしてならないのです … 其れが仮にその際、長時間病苦で悶え、堪える情景で在ったとしても … 。」

一瞬、二人を静寂が包んで … その静寂を、音を立てずに和紙を千切るみたいに村井が静かに返し始めた。

「 君の、徹君の此れ迄の人生は、18年間は … 痛々しいくらい遊びが無かったんだろうねぇ … 。いや馬鹿にしてるんじゃない。遊びの無いハンドルの様な … という意味での遊び。君がさっき、明日の予定を … 兎に角ぼんやりしたいと言ったのがとてもよく解る。」

忘れていた右手のタバコの灰を、村井は灰皿の中に落とした。

「 死んでしまったら … 呑む食べる … 味の、味覚の共感すら無くなっちまうんだもんなぁ … 。それどころか、声もしない、聴けない … 帰って来ない … 仮に棺に、行ってらっしゃいを云えたとしても云っても、お帰りなさいを言う事は無い。存在してた証は、俺の記憶と、一緒に、共に生きてたから受けた影響で変わった俺自身の、精々資質また仕草か … 。」

灰皿に手にした煙草でぽんぽんと2回小さく叩いて村井は灰を落としてから咥えて深く煙草を吸い込んだ。

「 地球平面説のへた … 滑り落ちる滝の、水も飛沫も … 其れ等に意味も価値も無いを知る哀しさまた虚しさ … 膨らむ物のないエンドロール … 穴の空いた風船程すらも無い。未だその方が訴える物がある … 。」

村井は煙草を揉み消して南を注ぎ足し、そして一気に飲み干した。

「 6年でしたよね … 。」

「 うん … 6年前。」

徹は村井の小脇の南を掴んで自分のコップに勢いよく注いだ。

「 村井さん! … 呑みましょう! …… 忘れるんじゃなくて、その平面な地球のへたから滑り落ちる滝の水の飛沫になりましょう! … 今夜は! 」

徹は一気飲みをした。そして缶の中の鯖を大き目に箸で切り取り摘み上げて丸く開いた自分の口の中に放り込んだ。

村井はびっくりした表情をして笑った。

「 … ちっ! … 本当に18歳かよ! … やるなぁー、若僧っ! 」

「 負けませんよっ!やるときゃあやります!呑むときゃ呑みます!未成年だって!ははは!未成年の意地です! 」

「 わっはっはっはっはっ! 」

村井と徹は明け方近くまで南を酌み交わした侭村井の部屋でいつの間にか眠ってしまった。2人が雑魚寝する村井の部屋は朝焼けのやわらかい朱色に染まっていた。そして2人の寝息、時計の秒針音と鳥の囀りで夜明けのカルテットを奏でていた。






「 ママーっ、あれパパじゃない? 」


「 パパかなぁ … パパかも知れないねぇ … 行ってみようか … 。」


「 パパだよーっ!じぇったいパパだぁっ!ママ、早く行こう!早くーっ! 」


「 あっ、たかしくん … ママ転んじゃうよ、待ってぇ … ほら、待ってよたかし … … … 」






男はベンチに腰掛けて朝焼けの湖を眺めていた。小雨が降っていた。太陽が顔を出しても眺めている男の頭上からは僅かながらではあるが水滴が落ちて来ていた。

「 はぁ 。」

ぼぉーっと湖面を眺めている男の左目尻辺りに近付いて来る人影が映った。

「 ママ! … 早く! … ママ! … ママ! … ママ! …早く早く! … ママ! 」

幼い子供だ。男児の様だ。

「 ん … 」

痩せた髪の長い女性と一緒だ。男児は女性の手を引っ張っている。男児は右手にソフトクリームを持っている。女性の左手には箱詰めのポップコーン … かなり側まで来ている。





ぱぱぁ … ぱぱ、ぱぱぁ … ぱぱ … ぱ … あ … れ … ぱ ぱ … あ れ ぇ …




う … ん … ごめんね … … たかしくん … ごめん … ね …





ぱぱじゃなかったね … ごめんね … ほんと、 ごめんね …






ごめんなさい … ほんとう … ごめんなさい …





たかし … … … …






ベンチに座っていた男は痩せた髪の長い見てくれ30歳前後の女性と野球帽を被った幼い男児の方へ首を回して … 見上げた。

「 … … … … 」

女性は静かに微笑みを浮かべながら男を見つめた。男児は、目を大きく見開いて食い入る様に男の目を見つめた。

「 …… … ぁ …… ぁぁ … ぁ ぁ … 」

女性は表情を変えない侭、男を見つめ続けた。男は、男の目を見つめる女性と男児の顔を交互に繰り返しゆっくりと見た。

「 …… おじしゃん、ぼくのパパ知らない?ねえぼくのパパ知らない?いなくなっちゃったんだ! 」

男は尋ねる男児の目をジィーっと見つめた。男児は相変わらずの食い入る様な、それでいて責め立てるとも見受けられる様な目で男の目を見ていた。

「 … ぁ、 … パパさがしてるのか … 」

男児の右側に立つ、微笑んで直立不動の女性の左目からスゥーっと透明な線が下りた。男の瞳孔が一瞬、女性の目に向いた。

「 … ぁぁ、さっき … 向こうのほうに歩いて行ったよ … トイレにでも行ったんじゃないかな … 」

男は二人が向かって来た方とは逆側を右手の親指で指して云った。唇を尖らせていた男児の顔が一瞬で笑顔に変わった。

「 ママっ!パパ、トイレだって!もぉーっ待ってるって言ってたのにぃーっ! ……… ママっ!行こっ!早く行こっ!もぉパパったらっ!しょーがないなぁーっ! 」

男児は話しながら笑顔で女性の顔を見上げた。女性も笑顔で頷いて左目の下頬辺りを左手で拭った。繋いだ女性の手を引いて走り出そうとした男児の手を、女性は引っ張り返して、

「 あ、ほら … おじちゃんにお礼は? 」

「 あ、エヘ … あ、ありがとうおじしゃん! 」

男は小さく笑みを拵えて小さく頷いた。

「 あ、ほら待ってたかし! … ぁ、ありがとうございました! …… 」

勢いよく走り出した男児の手に引っ張られて女性の体が激しく揺らいだ。

もうあっという間に走り去って行った … 母親とその息子だったのだろう … 女性の長く白いスカートが靡いていた。男児の野球帽を被った小さな頭が揺れている。左側から射す朝焼けが、男には夕焼けに見えてならなかった。男児も、母親も左半身だけが朱色に染まっていた。湖面も朱色に染められている。そういえば親子と話していた時は雨が止んでいた。今はもう男の肩に、頭に、再び雨が降り注いでいる。… とその時 … 、もう男児に遅れて繋いでいた手が離れていた女性が突然急ブレーキをかけたみたいに立ち止まった。振り返って見送る男の方を向いた … 。

〝 … …… …… 〟

微かに風に髪が揺れている。見つめている。男も女性を見つめ返した。離れていたが、女性の目が濡れているは確認出来た。… … 女性は両掌を膝の上辺りで重ねて、男に勢いよく頭を下げた … … … 。男は、この一瞬は微笑まなかった … … … 。女性は下げた頭を上げて男を見た。女性の両方の目から涙が溢れ返っていた … … … 。


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『 悲しい雨 』 @blackrain

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