冷たさと痛み(エッセイ)

深海冴祈

本編

 カーテンを開けると、窓の外の景色は結露の白いベールを纏っていた。水滴たちが生み出した白の向こう側からは、冷寒と静黙の気配がした。

 お湯を沸かすポットの音。この小さな部屋の中で懸命に熱を作っている音だ。

 ドアを開けると、昨晩降り注いでいた雨の冷たさを孕んだ空気が、足元から一気に私の全身を包みこむ。そんな朝が続いている。

 寒さを感じさせる季節がまた巡って来た。冷たい風が私の頬を撫でる。頬に微かな痛みが走った。どうやら、冷たいを痛いと感じてしまうことがあるのは、痛みを感知するたんぱく質が敏感になると、冷刺激も痛みとして感知されてしまうからだそうだ。

 私は今のような寒い時期になると、先輩の手を握って温めてあげたことを思い出す。私の尊敬する先輩は、この時期になると手が氷のように冷たくなる。注射の際は必ず迷走神経反射めいそうしんけいはんしゃを起こすような人だから、もしかすると血液循環量がそもそも人より少ないのかもしれない。先輩は私よりも肌が白く、体調も崩しやすく、食も細い。意志がハッキリしていて、媚びず、少々ものぐさで、とてつもなく利発だが、そんな儚さのある女性ひとだった。

 この時期の先輩は、出勤直後しばらくは手が凍えすぎて、まともにタイピングができなくてよく困っていた。手袋をして外出しても変わらないそうだ。私も手がよく冷える方だが、先輩の手は私よりももっとずっと冷たく、「こんなにつらい体なんだな」と、言葉通り骨身ほねみみて理解した。

 私は静かに、だけど先輩の手が温かくなるように念じながら、その手を握る。しかし、私の手もそんなに温かいものでもなく、先輩の手に私の僅かな温もりがじわじわ伝わるにつれて、私の手にも先輩の冷たさがじわじわ伝わってくる。その冷たさこそが、先輩の生きづらさを象徴しているかのようだった。――冷たさは痛みを伴う。だけど、私は熱を奪われ凍えていく手よりも胸が痛かった。私の大好きな先輩が抱える生きづらさの断片を感じ取って、とても胸が痛くて堪らなかった。涙腺が熱を帯びはじめたが、私は唇を真っ直ぐにして堪えた。先輩に堪える顔を見られたくなくて、俯いて床と泣いたら駄目な睨めっこをしていた。泣きそうになっていることも、気取けどられたくはなかった。

 そこにはカイロもなかった。手袋もなかった。ストーブもなかった。私は考えた。ここにあるものを使って先輩の手を温められる方法を私は見付けられるはずだ、と。私よりも小さく細く冷たい先輩の手を握りながら思考を巡らせた。

 ――ポットと来客用の湯飲みがあることを思い出した。私は先輩に一言声をかけてから、ポットへと向かった。湯飲みにお湯をいれて、先輩に熱い湯気の立つ湯飲みを手渡した。

 先輩は私への申し訳なさと、自分への情けなさが入り交じったような顔をした。

「自分で……」

 後に続く言葉は出ず、先輩は湯気の立つ湯飲みを両手で包み込むようにして受け取る。そのまま先輩は、湯飲みの中に視線を落とした。

 自分で気付くことができなかったことに、酷く落ち込んでいるようだった。先輩は普段から「自分は無能だ」と、しばしばこぼしているような人だった。きっとこの時の彼女も「自分は無能だ」と思っていたのだろう。でも、私はそうやって落ち込む先輩も先輩の一部として認めていた。先輩が何かを失敗して、先輩が自責の念に駆られていても、私が先輩を嫌いになることはなかった。項垂うなだれる先輩に、私は一所懸命、先輩は無能ではない証拠となり得そうなエピソードを、いつもいつも先輩の隣の席に座って語っていた。

 だが、この時の私は、いつもみたく先輩が無能でない証拠のエピソードを語れなかった。

 違うな。今、必要なのは言葉ではないな。

 そう思った。お湯の入った湯飲みを自分の分も用意して、先輩と同じように両手を温めながら、私は黙って先輩の隣の席に座っていた。

 冷たさは痛みを伴う。

 もしも私の手がもっと温かければ、何か変わっただろうか。

 私は自分の手を温めながら、ずっとそんなことを考えていた。

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冷たさと痛み(エッセイ) 深海冴祈 @SakiFukami

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