第6話 かつての妃、そして皇后成立

「…あんた馬鹿と違う?その顔!また悩んでる!」

「…馬鹿とは何よ馬鹿とは」


 招待状を手にした、燃える花のような真紅のドレスをつけたコンデルハン侯爵夫人は来て会話を始めるなりそう言った。

 そして新妃さまことあたしは、こんな場所にも関わらずそう返してしまった。

 しまったと思ってももう遅い。あっけにとられた他の招待客―――以前あたしの住んでいる館を訪れた人々――― は一斉にあたし達に視線を向ける。


「まあまあそういう話は向こうでした方がいいんじゃないですか?」


とおっとりと彼女の後ろに居た若い侯爵が言う。

 おや、とあたしは気付いた。確かに変わった声だ。意外と低音。皇帝陛下よりは高いけれど。それでもこの顔とこの姿にしたら、全然釣合いが取れないくらいの。

 容姿は確かに綺麗だった。整っているだけでなく、何処かに可愛げがある。身体付きも妙と言えば妙にしなやか。リュイと並ぶと…… こう言ったら何だけど、下手すると「姉妹」だわ。


「お初にお目にかかります。ルカノ・イドゥ・コンデルハンです。新妃さまには御機嫌うるわしゅう…」


 さらにあたしはおや、と思う。そしてああそうか、と思う。耳をくすぐる様な声だった。確かにリュイの好きそうな声だ、と思う。

 だからあたしは彼女の方を見ると、にっと笑ってみせた。


「なるほどね」

「でしょう?」


 そしてその女二人の話を判っているのか判っていないのか、にこにこと笑いながらリュイの旦那は聞いていた。

 宴会、だった。あれからさらに二ヶ月が経っている。さすがに気分の悪くなるようなこともなくなってきた。

 宴会なぞ実に久しぶりだ、と今朝、女官長は喜びいさんであたしの飾り付けをした。


「…そんなにしなくても…」

「いいえ!」


 彼女はぴしゃりと言う。


「新妃さまはちゃんといろいろな所お手入れなさればもっと綺麗になれるんですよ。ずいぶん怠っていましたね?」

「興味なかったんだから仕方ないでしょう?」

「…まあそうでしたね」


 とか言いながらも、女官長は実に誠意を尽くしてくれた、と思う。おさまりの悪い、ただ長いだけの髪を器用に結い上げて、季節の花の小さいものをとりどり合わせて。それなりに見られる髪型。

 さほどに起伏のない身体には、もともとラインがはっきり出ない、ゆったりしたデザインの紺色のドレスを用意してくれて――― だんだんお腹が目立ってきたから、ちょうど良かったかもしれない。


「新妃さまはどちらかというと濃い色の方がお似合いですね」

「そうかしら?」

「ええ。ですから第一中等の制服はよく合ってらしたですわ」

「…あら、女官長知っていて?」

「はい」


 鏡の中でにこやかに笑う彼女にあたしは問いかけた。朝から上機嫌の彼女は、あの刺客の入った夜の険しい表情など嘘のように柔らかな表情だった。


「陛下が写真をお持ちでしたから。第一中等の制服は、あの大きな三角の襟以外、全身真っ黒でございましょう?もともと写真は色など写し出しませんから、はっきりしたお顔の方、はっきりした色のものが美しいと思います。新妃さまは非常に写真うつりがよろしゅうこざいますわ」

「…そ、そう?」

「新妃さまは御自分では綺麗じゃない綺麗じゃないとおっしゃいますが、非常に印象的ですもの」


 確かに写真は撮った。

 最近ようやく、普通の人々でも気軽に撮れるような値になった写真。学生達もこぞって撮った。

 ただ時間はかかるし、じっとしていなくてはならないからあたしはそう好きなものではなかった。

 だけど本家の当主さまへ手紙を出す時に、もしそのまま高等女子専門への推薦が可能だったら、と思ったので、入学願書と一緒に必要だった健康診断書と一緒に写真も入れたのだ。


「…そう? 変わっているからじゃないの?」

「いえいえ、それだけじゃございません。私はすぐにそのお顔を覚えることができました」


 自信を持って彼女は言う。何となく複雑な気分。そうしたらやっぱり顔に出るらしく、彼女は付け加える。


「綺麗な方ってのは確かに綺麗だと思いますが、頭に残らないんですよ。だから陛下ではございませんが、陛下があなた様をお選びになられた時、不遜にも私も『面白いことになった』と思ってしまいましたよ。陛下と私は昔馴染みですから、あの方がいちいち綺麗な方々の顔なんていちいち覚えていないことも知っています」

「…」

「誉めているのですが。これでも私にしては珍しく」

「…ありがとう」


 「印象的」が誉め言葉だとは思う。「二度目」以上があった訪問客も時々その言葉を使った。だけど、妙にそれが引っかかる自分に気付いている。

 あれから皇帝陛下は滅多に来なくなった。

 いや滅多に、じゃない。二ヶ月間、ずっと顔を合わせていない。

 忙しいんだろうか? それともあの日気を失ってしまったあたしを嫌いになったのだろうか?

 倒れ込む寸前、何か聞いたような気もするんだけど、そこだけがどうしても思い出せない。それを聞きたくて仕方ないのに。

 いろいろな想像が頭の中をぐるぐると回る。女官長は「お忙しいのですよ」と鏡の中のあたしに言った。

 忙しいと言えば、あの刺客が来てから、辺境局局長が五回もやってきた。どうやら先日の刺客は辺境草原民族らしい、と。


「困ったものです。まだ一人見つかりません」


と局長は言った。軍人らしく、姿勢のいい人である。詰め襟の軍服に、座ってもぴっと背筋が伸びている。


「捜索はさせていますが、おそらく帝都市中に逃げ込んだ模様です。…無駄なことをする輩です」

「無駄?」


とあたしは問い返した。


「ええ、無駄です。本当に無駄です。陛下に関しては。…ですが新妃殿下に関しては、警備が必要でしょう。これから多少この館の周りが騒がしいかもしれませんがお許し下さい」


 そんなやや謎めいた言葉を局長はあたしに告げた。

 何か変だ、とあたしは思う。

 考えてみれば、皇帝陛下が歳を取らないことがそもそも不思議なんだけど、最近はそこに疑問を持つ暇すらなかった。

 とにかくここの宮廷の人々は、皇帝陛下に関しては何も心配していない。全く心配していない。何があっても陛下だけは大丈夫だから、とあたしやジュータンや窓ガラスの心配をする。

 何か、釈然としなかった。

 宴会は立食形式だったので、立ち歩きながら、時々飲物をもらったり、疲れたら椅子に適当に座りながら、やってくる人々の相手をしていながらも、あたしはつらつらそんなことを考えていた。

 答が出ない。釈然としない。それが妙にあたしを苛立たせていた。

 ふう、と端の柔らかな椅子に座ってため息をつく。


「…主賓がため息とはまたどうしたの?」


 柔らかな声がした。

 いつの間にか、右隣にまだ見たことのない年配の女性が座っていた。

 母様――― よりやや上に見えた。だけどとても美しい方だった。ふんわりした銀の髪をゆるやかにまとめ、華奢な身体を白と紫のドレスでくるんでいる。

 若い頃はもっと綺麗だったのだろうな、とあたしは思わずみとれてしまった。何? と言いたげに彼女は優雅に首をかしげる。


「…あ、あの…どなたでしたか?」

「ファレ・ウォナと言う名を御存知ない?」


 声もまた、素敵に美しかった。鈴を転がすような声、というのはそういうのを言うのだろうか。身体は年老いていくとしても、声はきっと深みを増していくのだわ。

 だけどあたしはそこまで考えてからはっとした。ファレ・ウォナ――― ウォナ!あの時皇帝陛下が挙げた三人の「残った」夫人の名だ。


「…判りました?」

「…はい」

「一度お会いしたいとは思っていたのよ、エファ・カラシュ」

「申し訳こざいません。一度お伺いしたいと思ってはいたのですが…」

「いいのよ。あの方がそうさせなかったのでしょう?」

「…はい」

「いつもそうなのよカラシュ。あの方は私達のことを考えるのが辛いし、私達はあの方のことを考えると辛いの」

「そうなんですか?」

「カラシュはあの方をどう思って?」


 聞かれるとは思っていたけど。あたしは無意味に手を組んで、爪を一つづつさすりだす。何て言えばいいんだろう? この方だって昔はあたしと同じ立場だったということじゃないの。

 どう言っていいのか判らなくてだまっていたら、彼女の方が再び口を開いた。


「とても好きだったのよ。昔は」

「…昔は」

「そう昔は。何しろああいう方でしょう? 私は古い家で大事に大事に育てられたものだから、いちいちあの方の気取りとか礼儀とか作法とかどうでもいいような態度にひどく面食らったわ。初めは苛々したこともあったのよ? 皇帝陛下がこんなことでいいのか、ってね」


 くすくすと彼女は笑う。春の陽射しのようだわ、とあたしは思う。こういう美しいひとは、たとえ顔がしわだらけになっても(と言ってもこの方がしわだらけという訳ではないんだけど)、そのしわ一つ一つが美しく見えるんだろうな、と思わずにはいられない。


「他の御夫人方もそのようよね。私達三人は結構仲が良いのだけど、皆一様にあの方に関しては同じ第一印象を持った、というのよ。でもだんだんそんなあの方が楽しくなってきて」

「はあ…」

「あなたはどうだったの? カラシュ」

「びっくりしました」

「何処が?」

「…あ、あの… あまりにもお若いから…」


 するとウォナ夫人はやや表情をくもらせた。


「そうよね。お若くていらっしゃる。いつまでも」

「…ですから… あの、本当の皇帝陛下かどうか疑ってしまったんです。…不敬罪ものですよね、それって」


 いや実は、今でも心の片隅で疑っているんだけど。


「そうよね、あの方は御自分に対して一度くらい不敬罪を適用なさればよろしいのだわ。でも何をどうしても、あの方は皇帝陛下よ。私が最初に会った日と全く変わっていない。変わることはない。だから私達はあの方の前に出ることが辛くなったわ」


 ウォナ夫人は目を伏せる。


「辛く」

「辛いものよ。カラシュは幾つ?」

「十八です… もうじき十九になります」

「そう十八。とても若いわね。今のまま時を止めればずっとずっとあの方とお似合いだわ」

「時を止め…?」


 何かが頭の中で引っかかった。


「私達も最初はあの方より歳下だった。だけど私達は女の子しか生むことができなかったから、そのままずっと歳をとっていくことしかできない。そしてあの方はそんな私達を見ているのが辛いのよ」


 何が引っかかったんだろう? ああそうだ、あれはこの間最後に皇帝陛下を見た日だ。

 時間を止めて俺は皇帝陛下と呼ばれるようになった。

『皇后』は男子を生んだ妃がなるものだ。特別だ。

 だが身体に合わず…

 時間を止めて。


「…どうしたの?」


 何か今、符号が合いそうな気がした。何でもありません、とあたしは彼女に答える。


「カラシュ」


 ウォナ夫人はあたしの方をじっと見つめる。そしてあたしの手を取ると、真剣なまなざしになる。


「私は貴女のこのお腹の子が男子であることを切に願うわ」

「ウォナさま…」

「そうでないと、あの方はこの先ずっとずっと一人で孤独なままで… あなたは私達と同じ道をたどるしかなくなるわ」

「それは…」


 はっとしてウォナ夫人は顔を上げた。ざわめきが耳に飛び込む。人々の様子が変わった。

 彼女はまたお会いしましょう、と言って最初の笑顔に戻って、そっと席を立った。どうしたのかしら、と思って彼女の背を目で追っていたら、ぽん、と肩に手を置かれるのを感じた。慌てて振り向いたら、懐かしい黒い瞳がそこにはあった。


「久しぶりだな」


 にっと笑う。何も無かったように。ぴょんと立ち上がるのと同時に心臓が飛び上がる。顔が赤らむのが判る。どうしてこうも慣れないんだろう?

 見たことがない恰好だからだわ、とあたしは勝手に答を作る。

 確かに「皇帝陛下」に見える。国史の教科書にもあった、式服。国軍の軍服にも似てるけれど、肩の飾りの量が桁外れだわ。なのに髪だけがいい加減なのはどうしてかしらね。いつも通り適当に結んでいるだけ。あたしですら苦労して結ってもらったというのに!

 でもそれもどちらでも良かった。久しぶりで見るこの顔が。黒い強い瞳が凄く嬉しかった。

 今なら判る。どうしてあの時胸の中に火花が散ったのか。

 あたしでなくとも、健康で変わった女だったら誰でもいいような言い方されたからだ。

 でも考えてみれば、そういう選び方しかこの人にはできない。自分で選ぶ程の自由はない。判っていたつもりだったのに、忘れていた。

 彼はまた彼で、いつも、そこに居る女性を一番思おうとしてきたのだ、とあたしはちゃんと聞いていたはずなのに。

 自分の信条だの何だのが一気に崩れるのが判った。すごく好きなんだ、あたし。このひとがたまらなく好きなんだわ。

 彼は器用に、片手で二つ持っていた杯の一つをあたしに手渡す。


「皆、杯を取ってくれ」


 客の視線の全てがあたし達に集中しているのが判る。…全て?


「新しい我が妃と、これから誕生する我が子に」


 皆が一斉に手を挙げる。

 違う。全員じゃない。 


「乾杯!」


 杯を上げながらもあたしはそこから目を離せなかった。


 え?


 人々の挙げた手の下を縫ってくるように、見えた。何を手にしている?銀にぎらり、と光る、金属の…

 夢の中の光にも似た…


「陛下お覚悟!」


 そう聞こえた。もの凄い速さで辺境局局長の言葉が繰り返される。


 …あと一人…

 無駄なことを…


 何が無駄なの? あたしはまだその理由を聞いていない!

 近付いてくる。何処をどうやって入ったのか、どうして取り押さえる人もないのか、どうして…

 あたしは突差に皇帝に抱きついていた。


「カラシュ!」


 !


 背中に斜めに、焼かれるような痛みが一気に走った。

 背中だけじゃない。痛みは頭のてっぺんから足の先まで一瞬にして広がった。

 頭の上で声が聞こえた。懐かしい声。

 あたしは力が抜けていくのが判る。抱きついた先にもたれ込む。


「この馬鹿!」


 そう馬鹿馬鹿言わないで… リュイじゃあるまいし…

 周囲がざわつくのが判る。

 どうやらあの姿勢のいい辺境局局長この場にはいたらしい。捕らえました、と聞き覚えのある勢いのいい声が耳に飛び込んでくる。そして。


「カラシュ! カラシュ!」


 もっと聞き覚えのある実に良く通る声が耳に飛び込んでくる。触っては駄目だ、とか何とか他の人の声だの医者を呼べ、だの聞こえてくる。

 だけど一番よく聞こえるのはやっぱり皇帝陛下の声だった。抱きしめられてる。すごく近い所に居るから、よく聞こえるんだわ。

 ああそう。やっぱり一番いい声。低くて、ちょっとけだるげだけど… 聞いているとどきどきする。

 どきどき…


 どくん。


 勢いが変わった。

 早鐘を打つとはこういうことを言うの? 全身に今までになかった速さで心臓の鼓動が響き始めた。背中が熱い。熱い。熱い。

 伝わっているのかしら? あたしを抱きしめる手が緩んだ気がする。熱すぎて、触っていられない?


 どくん。

 どくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくん…


 どよめき。

 歓声。

 …何でそんなものが聞こえるんだろう?

 気がつくと、熱さは残っていたけれど、背中の痛みは消えていた。ひどくだるい。あの夢を見た朝と同じだるさだわ。


「…カラシュ」


 その声にゆっくりとあたしは目を開ける。だけどリュイがいきなり抱きついてきたので視界は半分塞がれる。良かった良かった、と思いきり耳にも響くあの声で泣きじゃくる。

 良かった? 何が? と聞きたいのはあたしの方だった。


「…ほら立ちな」


 そろそろ返してくれよ、と皇帝はリュイに声をかける。申し訳ございません、と化粧の崩れも全く気にせず思いっきり泣いていた彼女はびしょびしょの顔のまま笑った。


「皇后陛下ばんざい!」


 誰かが叫んだ。あ、すだれ頭の国務大臣だ。あたしは辺りを見渡す。誰が皇后陛下ですって?

 そう言いたげに後ろに立つ彼を振り向いて見上げたら、彼は苦笑しながら言った。


「お前だよ」


 そして大合唱が起こった。何だ何だ、とあたしは喜びの声を上げまくる人々の中へと押し出された。ちょっと待ってあたし確か妊婦さんでけが人じゃ…でも痛くない。変。血も出ていたのに…

 ふと背中に手を当てる。

 傷など何処にも無かった。

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