第7話 皇帝って何だ。だから皇后は

 館へ帰ると女官長が泣きじゃくっていた。

 よろしゅうございましたよろしゅうございました、と彼女は繰り返した。

 花の女官もお茶の女官も… まあいろいろ考えはあるんだろうが… 満面に笑みを浮かべていた。

 部屋へ戻って女官長に服を脱がせてもらい、あたしはびっくりした。背中がぱっくりと斜めに裂けていた。

 高価な服なのに… と貧乏人根性がむくむくと頭をもたげそうになるが、女官長は泣き腫らした目のまま笑い、


「この位で済むなら大したことありませんよ」


と言った。

 とりあえず部屋着に着替えさせてもらうと、また新しい服をお作り下さい、と言って女官長は引き下がっていった。そしてまたあたし達二人が残された。その間もずっとその様子を彼は見ていた。

 彼は御機嫌のようにも見えたし、戸惑っているようにも見えた。


「どうした?」


 彼は長椅子に思いっきりもたれて腕を広げている。豪華な服も今は全部ボタンが外されて、軍務大臣が見たら殴りたくなるような恰好だ。


「まだ訳が判りません」

「結構察しが悪いな… ああそう言えばお前は俺が――― 皇帝の時間が止まっていることも知らなかったんだよな」

「ええ」

「まあ座りな」


 そう言って彼は自分の隣をぽんぽんと叩く。あたしは言われる通りに彼の右隣に座った。


「あたし、切られたんですよね」

「ああ。切られた」

「本当ですね?」

「本当だ。あの時の血も見ただろう?さっき脱いだ服は濃くて判らなかっただろうが、下着にべっとり血が」

「あーやめて下さい、血には弱いんですっ!」


 彼はくす、と笑う。


「その血だの何だのに弱いはずなのにな?どうして俺をかばおうとした?」

「どうしてって…」

「俺を傷つけることはできないことなんて、宮廷中の誰もが知ってる。だから誰もわざわざそんな無駄なことはしない。なのにな。知らなかった?」


 そう言うと彼はお茶の支度ができたワゴンの上からナイフを取った。果物用のナイフだ。ちゃんと切れる。あたしは息を呑んだ。そのナイフをつ、と袖をまくった腕に当てる。止める間もなく、それはすっと線を描いた。ぱっくりと口を開く真っ赤な傷。


「陛下っ!」

「よく見な」


 彼はあたしの目の前にそれを見せつける。見たいものではない。だけど見ろというなら。じっと見る。…え?

 ふさがっていく。見る間に。

 ある程度ふさがったと感じたのか、彼は血をシャツで拭う。そこにはやや薄いピンクの線が引かれているだけだった。傷など何処にもない。


「同じなんだよ、さっきのお前も」


 あたしは思わず自分の背中を触っていた。絶対に切られたはずなのに、傷の跡形もないあたしの。


「お前の腹ん中にいるのは男子だよ」

「どうしてそれが」

「究理学得意の割には頭悪いな。『男子を生む女』が皇后って言ったろ? お前は皇后なんだよ。たった一人の。皆が見ていた。お前の傷がふさがっていくのを」

「それ――― が?」

「だから、少し後悔もしているけど」


 後悔? やや困った顔の正体はそれなんだろうか。


「説明していただけますか? 納得がいかない…」

「本当に判らない?」

「何となく判ります。けど符号が合わない。あたしは究理学好きの学生だったから余計に…『時間が止まる』生き物などいないはずなんです」

「そりゃそうだ」

「では何故!」

「聞きたいか?」

「当たり前です!」


 真剣な顔になる。


「はっきり言ってしまえば、皇帝ってのは人間じゃない」

「…!」

「そして今のお前も。皇后もそうだ。自分から進んで致命傷を与えない限り、死ぬことはない。切られても身体が勝手に自分を治す。病気にもやられることはない」

「―――すごい」

「昔、この帝国ができる少し前、初代の皇帝は、何かと契約をしたんだ」

「契約」

「神でも悪魔でもない。『何か』だ。天から降ってきたとも、地から湧いたとも、海からやってきたとも、はっきりしたところは判らない。ただ、とにかくそれは初代帝の前に現れて、彼と契約をした。そしてそれはこの帝国を統一する野望に満ちていた初代帝に不老不死の身体を提供し、その代償として、自分を彼の身体に宿らせることを要求した」


 …


「皇帝は、代々その何かの器だ。そしてそれが宿っている間、皇帝は不老不死だ。本人が死にたいと思っても、まあそんなこと考える皇帝はいなかったが。次の器ができるまでそれは許されない。その何か自身も器が死ねば消滅してしまうからだ、という」

「じゃあ皇后は―――」


 半信半疑だけど――― まあつじつまは合う。

 

「皇后は、その器を作り出すために、同じような身体が必要とされる。宿った子供自体が、お前の身体を変えたんだよ」


 あたしは突差に下腹部を押さえた。

 そう言えばあの夢は。あたしの身体を全部何かに作り替えたけれど…


「だから?」

「そう。お前が皇后なんだよ。俺と同じ、時間の止まった」

「ずっとこのままで?」


 ウォナ夫人の姿が浮かぶ。彼はそう訊ねるとやや表情をかげらせた。


「そう。このままで。俺が消えるだろう三十年位後の、その後もずっと」

「消える? 三十年後?」

「その頃に俺はお前の子供に位を渡すことになるだろう。器の歳の限界がその位だからな」

「そんなの――― 嫌です!」


 あたしは彼の胸ぐらを掴んでいた。さすがに突拍子もなかったらしく、黒い瞳がいっぱいに開いている。


「あなたがそれっぽっちの時間で消えるなんて、嫌です!」

「カラシュ?」

「あなたと、ずっと、一緒に居たいんです!」


 言葉一つ言うたびに心臓がどきどきする。言いたかった言葉だ。言わなくては、ならない、と思った。心底思った。


「ずっと…」

「後悔してないのか?」

「初めてお会いした頃にも言いました! あの時もう決めてました。後悔なんて絶対にしない! そんなの…」

「泣くなよ」


 じんわりと目頭が熱くなりそうだった時、そう釘を刺された。そして彼はあたしを抱きしめた。ただ抱きしめられたことは、もう覚えていないくらいある。だけど、こんな感じなのは初めてのような気がする。

 彼の心臓の音が聞こえる。どくん・どくん・どくん…

 同じ鼓動だ。自分の中で聞こえる音と、それは次第にリズムを同じにしてゆく。目を閉じる。


「ああ、同じ鼓動だ」


 彼がつぶやく。


「十人の誰も、そんな音を打たなかった。皆俺を置いて行ってしまう。彼女達は俺を見てると辛いと言ったが、俺も彼女達を見てると辛かった」

「ウォナさまも同じことをおっしゃいました」

「お前には、三十年先に同じ思いをさせてしまうぞ」

「そんなのは先のことです」

「俺にはお前が必要なんだ」

「私にもあなたが必要なんです」


 眠気にも似た心地よさが全身を襲う。


「そうだな。三十年ったって結構長いぞ。やりたいこともやれることもたくさんある。お前が言った『世間の風潮』を変えるきっかけくらいは作ることができるだろうさ」

「はい」

「協力してくれ」


 体勢を立て直させて、彼はあたしの腕を両方から掴む。手の温もりが伝わってくる。


「お前は政治に参加できないかも知れないが、俺に言いたいことは言え。そうしたら俺はその方向に持っているようにできるかもしれない」

「協力―――」

「しますと言え」


 彼はにっと笑う。


「協力します」


 そしてあたし達はもう一度抱き合った。

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