第5話 変化する身体

「おめでとうごさいます」


と医者が言った。

 それを近くで聞いていた女官長は、それじゃ、と確認するように訊ねた。医者はうなづいた。


「ずいぶん久しぶりのことですなあ」

「そうですねえ…」


 医者と女官長は何やら感動した様子で、彼女など目をつぶって何か思い出しているかのよう。


「…あのお…」


 あの夜倒れ込んでからずっと寝込んでいた身体を起こす。そしてあたしはその二人に水をさすようで悪いとは思ったが――― 何しろ会話の意味が判らないので。


「何が、おめでたいのですか?」


 二人はきょとん、としてあたしを見た。


「説明して下さると嬉しいのですが」

「…あの… 新妃さま… お気付きにならないですか?」

 女官長が苦笑しながら言う。あたしは何のこと?と問い返す。


「おめでた、ですよ」

「まだ判らない。もう少し私にも分かりやすく…… 医学的に言っていただけませんか?」


 医者は女官長の方を一瞬見る。こういう方なんですよ、と言いたげに今度は苦笑する。


「では単刀直入に申し上げます。新妃さまには御懐妊――― さらに平たく申しますと、妊娠なさっております」

「にんしん」


 さすがにこれ以上の説明はなくても判る。だけど今度はあたしの頭の中が真っ白になった。

 ちょっと待て。にんしんと言えばつまり子供ができたってことでしょ。

 そりゃ確かにこんなこともあんなこともしたし、よく考えてみればそういう役目でここに来たはずだわ、よくよく考えてみれば、だけど…

 ああだけどだけど。


「新妃さま?」


 頭に一気に血が上った。目の前が真っ赤になる。そして真っ黒に。

 だがそこで気を失わなかったのは我ながら進歩だと思う。一瞬暗転した視界も意識を手放す前に復活させたんだから。


 そしてその原因は、刺客のことなど何もなかったような顔でやってきた。ただし知らせが知らせだったので、昼間から堂々と。


「いいのですか?」


とあたしが聞くと、


「この用事なら公務だ」


と言った。まあそうかもしれない。彼は医者に、いつまで安静が必要か、と訊ねた。


「まあ今は困りますが、ふた月もすれば」

「ふた月だな。女官長?」

「はい、陛下」

「本宮の国務大臣にそう伝えろ。どうやらふた月後には宴会が開けるぞ、とな」

「はい」


 女官長は満面に笑みをたたえてうなづく。皇帝陛下は再び医者に問いかけた。


「それでどうだ? 男か女かどちらか判るか?」

「まだこの状態では判りませんな。かつての文献では昏々と眠り込むという症状がございますが、先々代の時代のことですし。ああ、確か以前も陛下は私にそうお聞きになられたが」

「ああそうだったな。さすがに今度は結構時間があったからな」

「二十年になります」


 なかなかとんでもない会話だ。

 この皇帝陛下ならともかく、この宮中医の先生が冗談を言う訳がない。あたしは未だに心の隅で彼の年齢に疑いを持っていた。持たずにはいられないのだわ。仕方ないことなのに。


「ぜひ御身体を御大事になさって下さい」


 はあ、とあたしはやや気の無い返事をした。

 女官長も医者も立ち去って、あたしはまた彼と二人残された。何となくほっとする半面、実に気恥ずかしさがあった。あたしは何を言えばいいんだろう?あたしは何と言って欲しいんだろう?

 ところが彼の口から出たのはあたしの予想していたもろもろの言葉とは違ったものだった。


「取り返しも何もつかなくなってしまったな」


 え? 

 思わず問い返していた。


「どういう意味ですか?」

「もしも気が進まなかったら、今からでも医者に言えばいい」

「…は?」


 何を言ってるんだろう? この「皇帝陛下」は。

 彼は寝台の端に腰掛けると、こっちにやや背を向ける恰好になった。そして今までになく真面目な顔になる。視線を決してこっちに向けない。


「俺には以前、全部で十人の女が居た」

「十人」

「三十五年、だ。俺がここで時間を止めてから。時間を止めて俺は皇帝陛下と呼ばれるようになり、俺には女があてがわれた。世継ぎのためだ」


 喜んでいた女官長。医者。確かにそうだろう。確かにこのひとの子供ならこの国の世継ぎだ。


「だが世継ぎは一人だ。男子だ。たった一人だ。だがその一人がなかなか生まれない。今の帝国に『皇后』がいないことはお前も知ってるだろう?」

「はい」

「『皇后』は男子を生んだ妃がなるものだ。特別だ。身分も年齢も何も問わない。だから誰もがなりたがる。ならせたがる。だが」


 彼は言葉を一度切った。


「十人のうち、四人が身体に合わず、生む前に死んだ。可哀そうな女達だ。皇后にも夫人にもなれず、妃のままだ。綺麗な女達だった。華奢で、生まれた時から誰かの手を借りずには生きてこれないような。荷がかちすぎた」


 綺麗で、華奢で…… あたしとは反対だ。


「五人が子供を生んだ。だけどそのうちの二人が生む時に死んだ。丈夫な女のはずだった。だが何かが合わなかったのだろう。ひどく身体が衰弱していた。現在残っているのは三人だ。カレガンとウォナとサファイ。三人が一人づつ娘を生んだ。だがここ何年も会っていない。向こうも俺には会いたがらない。娘の一人はそろそろ俺の歳を追い越す」

「もう一人の方は」

「前に言ったろ? 俺の前から逃げだした」


 彼はふっとあたしの方を向いて苦笑する。


「それが最後の女だった。それから十年経ってる。また新しい女を入れるという話はあったのだがな」

「ではどうしてあたしの話には乗ったのです?」


 聞きたかった問いだった。

 どうして。


「どうしてだろうな」

「はぐらかさないで下さい!」


 自分の言葉に驚いた。皇帝陛下に命令してる。普通なら許されることじゃない。歴史の中でも「愚帝」だった二代帝の時代だったら、とっくに首をはねられてる。

 だけど彼は愚帝じゃない。律儀に答えてくれる。


「話は毎日のように来る。最近に至ってもな。だけど前俺が言ったように、綺麗だの可愛らしいだの、そんな女ばかりだ。役目が役目な以上、そんな女は確実にまた生命に危険を伴う」


 何か胸の中で火花が飛んだような気がした。


「そんな時にクドゥル伯が話を持ってきた。変わった娘が居る、と」

「変わった」

「お前以前、クドゥル伯に上の学校への進学を頼まなかったか?」

「頼みました」

「高等女子専門に進学したがるような変わり者ですが、と健康診断書を添えられたよ」


 あ、とあたしは思い出した。高等女子専門学校は女子の教育機関としては最高の位置にある学校。そこに入るには、さすがにうち程度の家では無理があったのだ。経済的な面もあったが、推薦も必要な所だった。

 だからあたしは、本家の当主さまに手紙を書いた。それが夏休暇の前だった。それがどういう訳か、休暇の終わりには進学どころか後宮入りの話になってしまったのだ。


「面白いな、と思った」

「面白い?」


 火花が何かに引火した。


「これならもしかしたら大丈夫かもしれない、と思った」

「大丈夫?」


 何かが胸の中で燃え始めるのを感じた。ああそうか。そうだったのか。

 再び頭に血が上った。今度は自分を止めなかった。赤から視界が黒に変わり…


「まあ会って見て楽しくなったが――― カラシュ?」

 

 もの凄く珍しいわ。名前を呼んでくれることなんて殆ど無いじゃない。もっと呼んで。あたしの名よ。あたしだけの名よ。

 その他大勢とは違うのよ! あたしはあたしなんだから!

なのにどうして今なのよ…


  

 夢を見た。

 おかしな夢だった。

 今までも時々そんな感じの夢は見ていたような気がする。だけどこれだけ鮮明なのは初めてだった。

 何かひどく身体がだるかった。まるで身体が一つの鈍い金属の塊になってしまったかのよう。

 動けない。

 身体が地面にべったりとへばりついて、手足は指一本動かすことができない。動かせるところと言ったら、せいぜい首くらいなもの。

 ううん、地面じゃない。ひどく背中が冷たい。こんな地面はない。だって何かつるつるしてる。

 …あれ、よく考えたら、(こんな感触が背中にするって)あたし何も身につけていないじゃない!

 やだ! 恥ずかしい!

 とは言っても身体が全く動かせないんじゃ仕方ない。

 何とか顔だけは動かせるみたい。横目で見ると地面は白い。やっぱりつるつるしてる。光ってる。金属? 違う。金属じゃない。どっちかと言うと陶器みたいだわ。

 と。真上に何かが飛んでいるのに気付く。

 飛んでいるなら鳥かしら? ううん鳥じゃない。虫でもない。

 光が飛んでいる。

 その光はぎらり、と光った。丸い金属のようにも見えた。お茶の時間の銀のトレイのようにも見えた。

 妙な光景だわ。

 金属が飛ぶなんてことは有り得ないはずなのに。

 その銀のトレイは次第にあたしに近付いてきた。それだけじゃない。その真ん中から一筋の光線が次第に出てきた!

 その光線が地につくと、何やら焦げたような臭いがした。鼻をつく。

 最近やたらと臭いが気になる。敏感になっているんだわ。ううん、それどころじゃない。あの光線が地面を焼いてるんだわ。

 そして次第にその光線はあたしに向かってくる!

 もう駄目!

 光線はあたしの真上で止まった。

 …

 痛くはなかった。だが奇妙な感触がよぎった。

 切り取られているんだわ。

 あの光線が、あたしを切り刻んでいるのよ。

 それが分かる。爪に始まって、指の関節の一つ一つ、腕の付け根、足の指一本一本、太股、胴、胸、…首。頭。耳、鼻、口、舌、目… 頭。

 全てが切り離される。全然痛くはないのよ… でもそれが判る。

 そして、それが一つ一つ、切り離されるとすぐに、銀のトレイから伸びる触手に持っていかれてる。触手。本当にそうだわ。光っているんだけど、うねうねとうごめいてる。

 待ってよ、あたしの身体よ。どうするつもり?

 そこに別の触手が、同じ部分――― だけど別のものを置いていく。

 置いていったものが元あったものと同じだけ揃うと、今度は別の触手が現れて、今度は金属同士をくっつける溶接の時のように、一つ一つ何かで継ぎ合わせていく。

 その時にも痛みはない。

 変と言えば変だった。

 だってあたしの頭も心臓も、全部取り替えられていくんだから、その時にあたしの意識もあの光の中に取り込まれていてもおかしくないじゃない。そうなって当然じゃない。

 だけどあたしはずっと白い冷たい地面にくくり付けられている。それだけは判る。あたしはずっとここに居た。

 それ以外が全て変えられていくのをここで感じている。


 どの位たっただろう?

 全ての溶接が終わったらしく、触手は銀のトレイの中にまた戻って行った。そして今度は光線も引っ込めて、来た方向へと銀のトレイは飛んで行った。

 動く。

 ゆっくりと身体を起こした。手のひらを見つめる。

 別に何も変わったところはないように見えた。切断された跡も、溶接された跡も、何も無かったように見える。

 だけど、あの何かがあたしの中に深く食い込んで、切り離してしまう感触、切り離されたものをつなげていく感触は、確かに覚えているのよ。

 思わず自分自身を抱きしめる。

 そう言えば、と一つだけ変えられていない所にあたしは気付いた。

 あたしは自分の下腹部に手を当てた。そうよここだけは換えられていないんだわ。



 翌朝はひどいだるさに襲われて、気分の悪さも加えて、全く起きあがれなかった。

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