第六話 奴隷人権宣言

奴隷人権宣言は、奴隷解放宣言と並んで世界を大きく変えた文章であると言われている。


最初、奴隷人権宣言は、その文書が奴隷解放宣言を真似て書かれた紛い物に過ぎないとアメリカ合衆国では批判されていた。

実際、この奴隷人権宣言と奴隷解放宣言が、よく似ていたのは事実である。

難しい単語、構文を使わない点、詩的に美しく、感動的である点、論理の展開にも、似ているところが多い。

まるで、同じ人物が書いた様に。

だが、奴隷人権宣言は、只の紛い物とは異なり、奴隷解放宣言と全く違う結論に達し、後の世界に巨大な影響を与えたのである。


奴隷人権宣言のその第一の特徴は、よりキリスト教的であるということ。

奴隷解放宣言は、宗教色が薄く、キリスト教徒でない者にも解りやすく理解される物であった。

これに対して、奴隷人権宣言は、キリスト教の知識が随所に差しはさまれ、非キリスト教徒には理解出来ない部分があるものであった。

その事により、奴隷人権宣言は、非キリスト教徒には支持されがたくとも、ヨーロッパのキリスト教徒達には、より深い説得力を持つものとなるのである。

これは、この奴隷人権宣言が、ヨーロッパの同胞の理解をより深めたい為に書かれた物であると思われる。


そして、第二の特徴は、奴隷人権宣言は、奴隷解放宣言の問題点を指摘している点にある。

奴隷人権宣言は、後発であることを利用し、随所で、奴隷解放宣言の矛盾性、無責任性を糾弾している。

そして、その事が両者を和解出来ない、決定的な対立関係へと導いていくのである。


奴隷人権宣言は、奴隷解放宣言と同様に、初めにアメリカ独立宣言の精神を継ぐ物であることを宣言する。

そして、奴隷人権宣言は、奴隷解放宣言と同様に、どんな人も、不可侵の権利として、「生命・自由・幸福追求」の権利があると掲げる。

その上で、だからこそ、農場主の財産である奴隷を他人が理由もなく奪うことは許されないと述べるのだ。

それは、この当時、南部を支持する多くの人々が考えていることでもあった。

何の補償もなく、他人の財産を奪うな。

それは、私有財産の権利を意識させたナポレオン法典で50年前から提唱された比較的新しい思想であった。


そして、奴隷人権宣言の秀逸な点は次の一点にある。

奴隷は農場主の財産ではあるが、同時に人間でもある。

だから、奴隷にも幸福追求の権利がある。

それ故、奴隷を財産としている農場主は奴隷の幸福の為に努力しなければならないと宣言したのである。


この宣言が、後に世界に広がる労働者の権利や社会権という概念の始め一歩であったとされる由縁である。


奴隷人権宣言は述べる。

聖書において、主(神)は奴隷制を批判していない。

それどころか、主は、人と神との関係を、奴隷と良き主人の関係に譬えていると。

良き主人である主は、奴隷に等しい人の為に、その一人子さえ犠牲にして下さる程に、人を愛して下さったと。

主は奴隷制を批判していない。

ただ、奴隷の主人となるならば、主ほどでないにしても、良き主人であることを要求している。

ならば、批判されるべきは、奴隷を酷使する悪い主人であって、奴隷の主人全てを批判すること自体間違えているのと主張するのだ。


まともな主人ならば、奴隷を酷使し、傷つけ、死なせたりはしない。

自分の財産である家畜の体調に考えずに、酷使して無駄に死なせる主人など、只の愚か者に過ぎないのだ。

病になれば仕事を休ませ、薬を与え、食事を与えるのが良い主人であるのだと。

アンクルトムの小屋に書かれた愚かな主人の存在は皆無でないかもしれない。

だが、そんな愚かな主人は、すぐに破産してしまうだろう。

愚かな物語に騙されて、他人の財産を奪おうとするなと。


そして、奴隷人権宣言は主人に対し、義務を与える。

奴隷を購入する者は、奴隷を無意味に傷つけ、酷使してはならないと。

主人は、奴隷に衣食住を与え、奴隷の幸福追求の為の必要最低限の保証をしなければならないと。

更に、奴隷人権宣言は、奴隷と言えど、主人の為に働いたならば、主人は報酬を与えねばならないことを義務付ける。

その上で、奴隷は、与えられた報酬で、自分を買い取る事が出来ると定める。

それは、聖書の時代の奴隷、ローマ時代の奴隷制への回帰を意味していた。


もし、これが本当に実施されるのであれば、資本家に酷使される労働者階級が羨む程の環境であった。


実際に、この当時、ロンドンでは工場労働者の間で、アメリカで奴隷になった方が良い生活が出来そうだという声が上がった程なのだ。


続けて、奴隷人権宣言は奴隷解放宣言を激しく批判する。

北部の連中は、解放の名の下に、農場主から奴隷を奪おうとしている。

では、『解放した』奴隷を、その後、彼らはどう扱うつもりなのかと。

解放の名の下に、奴隷から主人を奪い、職を奪い、生活を奪った後に、北部の連中が奴隷に与えるのは、死ぬ自由だけではないのかと。

それは、奴隷解放宣言の言わなかった最大の弱みを突いた批判であった。


自由か、それとも安定した生活か。

それが、アメリカ合衆国とアメリカ連合国を分けることになる対立の根本原理となっていくのである。


この奴隷人権宣言は、本当に実施されるのであれば、素晴らしいことであるとの評価を受ける。

だが、その実現性に関しては、疑問符が付けられる。

法が奴隷の人権を守ることを定めたとして、主人は何処まで、その法を守るのか。

いや、そもそも、奴隷の人権を守る法など、本当に作れるのか。

何しろ、奴隷と比較すれば、農場主の方が圧倒的な強者であり、奴隷にはない選挙権も農場主が持っているのであるから。

本当に、自分にとって損になる様な法を作るのかと疑われたのである。


だが、それでも、資本家が労働者を酷使している、この時代において、奴隷人権宣言は画期的なものであったのだ。

この奴隷人権宣言により、奴隷を解放するというアメリカ合衆国の正義は痛烈な打撃を受けたとも言える。

何しろ、アメリカ連合国側が、本当に奴隷の人権を守ることを実施してしまえば、アメリカ合衆国は本当に奴隷から生活を奪い、農場主から財産を奪う悪となってしまうのであるから。


この奴隷人権宣言が、世界中で議論される中、激怒する男がいた。

カール・マルクスである。


「ふざけるな!何だ、この宣言は!」


奴隷人権宣言を読んだマルクスは、その文書を丸めて地面に叩きつける。

その様子を見て、マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスは困惑しながら尋ねる。


「何が、そんなに気に喰わないんだ?

可哀想な奴隷が、幸せに生きる為の権利を保証しようと言うんだ。

まあ、本当に実現出来るかは疑問ではあるが、悪い提案ではないと思うんだが」


エンゲルスの言葉に、マルクスは怒気を込めて応える。


「それは、資本家が搾取を続ける為の延命措置に過ぎない。

もともと、資本家が労働者や奴隷から搾取するからいけないのだ。

それを、まるで恩恵の様に、保護を与えるなんて、本末転倒だとは思わないか」


「しかし、少なくとも、今よりマシにはなるだろう。

この宣言のおかげで、労働者も資本家を攻撃する材料が増えた。

奴隷にすら、この様な待遇が与えられるのならば、労働者にも、それと同様か、それ以上の権利を与えるべきではないかと」


「それは、条件闘争であって、階級闘争ではない!

労働者は団結して、悪しき資本家を打倒し、その搾取を終わりにしなければならないのだ。

それが、この宣言によって、闘争の種類が変わってしまうのが、どうして解らない。

この宣言のおかげで、労働者は資本家の存在を認めた上で、より良い労働環境を求める為の戦いに移行してしまうことが、どうして解らないのだ!」


マルクスの懸念は、後の歴史で現実となっていく。


多くの人は、見果てぬ理想郷よりも、現実の明日のより良い生活を求めるのだ。

マルクスの言う暴力による共産革命よりも、多くの労働者は明日の生活を良くする資本家との条件闘争に邁進していく。

その結果、マルクスの思想は、思想として高い評価を得たものの、その実現を目指す者は非常に少数となっていく。

理想郷を求める学者、夢想家、暴力を好む者の間で、僅かに支持される思想となっていくのである。


そして、もう一人、不機嫌になっている男がいた。


「それで、リンタロー、そろそろ事情を話して貰いたいのだが」


奴隷人権宣言を起草したとされている男、ジョン・ブルック中佐である。

大尉から昇進して中佐になったブルック中佐に、勝麟太郎が応える。


「ジョンは、象山先生が、奴隷解放宣言を書いたと確信されているのですねぇ」


「あの文書を見れば、ショー(象山)が書いたこと位は誰にでも解ります。

リッチモンド(アメリカ連合国首都)に着いた時に、アメリカ合衆国が奴隷解放宣言を出したと聞いて、目を通してみて、驚きました。

あの文書は、私が持ってきていた奴隷人権宣言とソックリではないですか。

こんな偶然があるはずがない。

だから、聞きたいのです。

ショーが何のつもりで、奴隷解放宣言などを書いて、アメリカ合衆国で発表させたのかと」


「そのことについて、おいらは、時が来れば解るとお答えしたはずですが」


「私も、その言葉を信じ、疑念に目を瞑り、奴隷人権宣言の採択に向けて全力を尽くしました。

奴隷解放宣言で勢いを得た北軍(アメリカ合衆国)を防ぐ為にも、必要なことだとも思いましたからね。

だが、リンタローは、いつになれば、答えてくれるのですか」


ブルックにそう言われて勝は暫く考えた後に応える。


「まあ、もう少し待てば確実になるとは思うんですが。

おいらの憶測で構わないのなら、少しお話しましょうか。

でも、間違えている可能性があることは、解って下さいよ」


「構いません。聞かせて下さい」


ブルックがそう言うと勝はため息を吐いて応える。


「まず、象山先生は仰っていました。

全てのことには、機という物があると」


「愛するに時があり、憎むのに時がある。

聖書にもある言葉ですな」


「ほう、そんな言葉が、キリスト教にも。

昔から残る言葉には含蓄があるものですな。

まあ、話を戻しましょう。

で、象山先生は仰っていました。

『アメリカ内戦を防ぐには、開戦前に奴隷人権宣言を南部が提案する必要があった』と」


「それは、私が日本を出る時にも、ショーに言われたことです。

今更、奴隷人権宣言を発表したところで、内戦を止めることは出来ないと。

ですが、それなら、どうして、アメリカ合衆国に奴隷解放宣言を渡したりしたのですか」


「端的に言えば、アメリカ連合国が生き残る為ですよ」


「その為に、奴隷解放宣言が必要だったと?」


ブルックは頭を捻る。


「象山先生は、ジョンが奴隷人権宣言を持って行ったところで採用される見込みは少ないと考えておりました。

実際、リッチモンドに着いて、奴隷人権宣言が採択されるまで2か月以上掛かりましたでしょ?」


ブルックが考えながら応える。


「あれは、私の持って行った奴隷人権宣言があまりにも、奴隷解放宣言と似すぎていたから。

もっと独自色を出そうと聖書の言葉を織り込んだ為に掛かった時間もあるのだが」


実際、ブルックがアメリカ連合国大統領ジェファーソンに奴隷人権宣言を持ち込んだ時も大変だったのだ。

奴隷解放宣言と似すぎている文書に、真似をしただけの文書は嫌だとの反発があった。

黒人と白人は平等でないと確信しているアメリカ連合国副大統領一派の反発もあった。

世界中から奴隷制批判がなければ、この2か月でも採択は不可能だっただろう。

そこまで考えて、ブルックは頭を上げる。


「つまり、奴隷人権宣言を採択させる為に、奴隷解放宣言の発表が必要だったと?」


「まあ、あくまで、おいらの推測ではありますが」


「それなら、何故、日本を出る前にショーは私に話してくれなかったのですか」


「では、聞きますが、事前に象山先生が奴隷解放宣言の話をしたとして、ジョンは賛成しやしたか?」


勝が尋ねると、ブルックは暫く考えた後に応える。


「確かに、賛成はしなかったかもしれません。

ですが、現在の結果を見れば、その判断が間違っていたとも思わない。

奴隷解放宣言発表の結果、世界中が奴隷制を批判し、北軍が勢いづいてしまいました。

どう考えてもやり過ぎではありませんか?」


「だから、全てに時があると最初に申し上げたんでさぁ。

もし、あのまま手をこまねいていれば、国力の差から北軍が勝つだろう。

そして、その時にも、奴隷解放宣言は北軍側から出るだろうと言うのが、象山先生の予測でした」


本当のところ、それは平八から聞いた予言を基にした予測だ。

リンカーンは、北軍の優位が確定した時点で、奴隷解放宣言を出し、他国の内戦介入を防いだと言う。

そして、その時に出された奴隷解放宣言は、今回流出させた奴隷解放宣言と異なり、他国を刺激しない様に配慮した事務的なものであったと言う。

それは、外交を意識し、アメリカ連合国の団結にヒビを入れようとする実に戦略的な宣言であったのだ。

佐久間象山は、そのリンカーンの戦略眼に感心しつつ、更に、その上を行く手を考えていた。

象山に言わせると、相手の手を知った上で、何年もジックリ考える時間があるなら、天才の佐久間象山なら、その上を行く手を考えることなど当たり前である、ということになるのであるが。


「確かに、北軍優勢が確定した時点で、奴隷解放宣言を北軍に出されては、打つ手なしとなった可能性は高いのですが」


考えるブルックに対し、勝は多少の罪悪感を感じる。

象山の戦略の本当の目的は、南軍の勝利ではない。

アメリカの分裂なのだ。

確かに、アメリカ連合国の生命・財産を守ることに繋がるのかもしれないが。

それでも、騙りの片棒を担ぐことに代わりはない。


「だから、機を見て、奴隷解放宣言を流出させたのでさぁ。

何より、象山先生の奴隷解放宣言には、強烈な毒が含ませております。

おそらく、リンカーンが避けたであろう、強烈な毒がね。

そいつの効果が出れば、象山先生の読みは正しかったと言えると思いましたから。

だから、暫く待って頂きたいと申し上げたということでさぁ」


勝がそう言うと、ブルックは尋ねる。


「毒?毒とは何ですか?

そして、君は何を待っているのですか?」


ブルックが尋ね、勝が答えようとすると、ドアのノック音がブルックの執務室に響き渡る。

大きなノックの音に緊急事態を感じ、勝が客の入出を促すと、ブルックは扉を開け、部下を迎える。

息を切らした部下に発言を促すと、部下は大声で報告する。


「報告します!

たった今、大英帝国が北軍(アメリカ合衆国)に宣戦布告をしました!

これで、我が国は救われます!」


世界は、更に大きな激動へと向かっていたのである。

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