第二十一話 ポサドニック号事件の顛末
「もう、十分だ。これ以上、みっともない真似をするな」
ロシア語が響き渡り、それを桂小五郎が日本語に、その日本語を中浜万次郎が英語に訳すと、勝麟太郎が現れ、評定方木村敬蔵の後ろにある襖を静かに開けていく。
襖の後ろから現れるのは、お裁きが始まる前に、勝の発案で集められた人々。
勝が香港から英仏関係者を、桂がアムール川河岸のニコラエフスクからロシア軍関係者を集めてきている。
勝は、日本での初めての異人のお裁きを異人たちに周知させる事を提案していた。
日本人の裁判の公正さに不安を持ち、日本で裁かれることを警戒している異人たちも多い。
そんな中、如何に日本のお裁きが公正であるか異人たちに知らしめること。
それが日本の信頼確保に繋がると考えての提案であった。
勝と桂はそれぞれの地を廻り、事件の概要を触れて回った。
対馬で日本人によってロシア人が傷つけられたこと、そして、もし、合理的な理由なく、日本人がロシア人を殺傷したのなら、死刑となることを告げて回った。
そして、その裁判が公開で行われることを告げ、見に来て欲しいと人を集めたのだ。
やって来たのは、英仏の記者たちに、英仏領事館の書記官たち、そして、ロシアからは海軍のネヴェリスコイ大佐である。
声を上げたネヴェリスコイ大佐にピリリョフ中尉が呆気に取られていると、木村が尋ねる。
「いえいえ、ロシア側が心配なさるのは、ごもっともなこと。
臨検の公正さを確保する必要がありましょう。
そこで、ここにいる方々には、ポサドニック号への臨検に同行をお願い出来ませんでしょうか?
それならば、我らが怪しい動きをしたとしても、見抜くことが可能でしょう。
我らは真実を知りたいのです。
如何でしょうか」
木村が襖の後ろにいた招待客一同に尋ねると、一同は揃って同意を示す。
観衆にも誰が誰だか判る様に、それぞれ自己紹介した上でだ。
その様子を見てピリリョフは蒼ざめる。
英仏だけでなく、ロシアの関係者まで一緒に臨検に参加するのでは、日本の不正を糾弾することが出来ないではないか。
一体、どうして、ネヴェリスコイ大佐がここにいる。
それだけではない。
何故、英仏の記者や領事館関係者まで、ここにいるのだ。
奴らさえいなければ、日本を悪者にして、吊るし上げることも出来たではないか。
こちらには被害者がいるんだ。
婦女暴行、武器による抵抗の容疑者にされようとも、アジア人の証言よりも、日本の野蛮さを信じる者だっているに違いない。
それなのに、各国関係者同行の上で、臨検に同行なんかされたら、言い訳することさえ出来ないではないか。
日本人は侮れない存在だというネヴェリスコイ大佐の言葉が、今更ながら胸に蘇る。
事件が起きた時から日本の連中は、この状況を用意していたと言うのか。
ピリリョフが言葉に詰まっていると、ネヴェリスコイ大佐が木村に声を掛ける。
「臨検の前に、少し彼と話をさせて貰えませんか?
彼も、部下を失い、傷つけられたということで、冷静さを失っているようです。
怪我をしたという彼の部下も、怪我をしたことで、冷静な報告が出来ていないのかもしれません。
一旦、裁判を中断して頂けませんか?」
ネヴェリスコイ大佐がそう言うと木村が頷き、壇上を降り、靴を履いてピリリョフの横にやって来て小声で告げる。
「今回、君に勝ち目はない。
大人しく訴えを撤回するんだ。
これ以上、日本との関係悪化を避ける為にも、酒に酔った部下が包丁でも振り回したと伝えるんだ」
ネヴェリスコイ大佐の言葉にピリリョフは反発する。
「どうしてです?
何故、そこまで下手に出なければならないのですか。
そもそも、何故、あなたは、こんな所まで来たのですか?
あなたさえ来なければ、幾らでも誤魔化すことは出来た。
その為の準備も出来ています」
ピリリョフがそう言うとネヴェリスコイ大佐は首を振る。
「勝ち目はない。
そう言ったはずだ。
日本人たちは、捜査し、全ての証拠を揃えてから、我々の所に来たのだ。
実際のところ、日本人たちは、既に血の付いたロシア製の銃も確保している。
婦女暴行の事実はともかく、武装解除を定められたロシア兵が武器を日本の官憲に向けた決定的証拠。
誰が見ても、そう思うだろう。
日本側は、その事実を基に、武器を持ち込まないという条約違反を理由に、逆にロシアに賠償を請求しても良い立場。
だが、日本としても、ロシアの面子を潰さないよう配慮してくれた様でな。
桂殿が、ニコラエフスクまで来て事情を説明してくれたのだ。
その結果、君の独断専行であったということで解決させろと、ムラヴィヨフ東シベリア総督とも話が付いている」
「そんな、私はムラヴィヨフ提督にも許可を頂いた上で、この作戦に臨んだはずではありませんか」
「日本人を侮るなと、私は忠告したはずだ。
だが、君は、それを聞かずに暴走した。
そもそも、あの蒸気船は何だ?
イギリス製の最新型の蒸気船で日本がニコラエフスクまでやって来た時の我らの驚きがどれだけのものだったか。
君は、下手な欲をかかず、日本の状況を冷静に報告するだけで良かったのだ。
それだけで十分な手柄だったのだ」
愕然とするピリリョフにネヴェリスコイ大佐は続ける。
「君は、武器を隠し持ったりせず、日本の法に従い、武器を全て預ければ良かったのだ。
そこで情報収集を行い、帰るだけでも十分だったのだ。
それなのに、こんな問題を起こすとは。
この事件を切っ掛けに日本との戦争を起こすつもりだったのか。
あの蒸気船を見ただろう。
正直、今の日本と戦う海軍力は、ニコラエフスクには存在しない。
海を渡れなければ、日本の征服など不可能だ。
開戦をする為の合理的な理由などなく、酒に酔った上での婦女暴行未遂、禁じられた武器を持っての暴行未遂が明らかになれば、我らに味方する者などいなくなるだろう。
英仏などは、クリミア戦争で勝ち過ぎた我らの足を引っ張りたいところだろうしな」
「こんなアジアの島国に、偉大なロシア帝国が破れるはずがありません」
ピリリョフが反論するとネヴェリスコイ大佐はため息混じりに返す。
「確かに、ロシア本国が本気になれば、負けるはずはない。
私も、そう思う。
だが、現有戦力では困難なのだ。
そして、ロシア本国は、今のところ、アジアに戦力を割り振るつもりはないだろう。
クリミア戦争の結果、手に入れたヴァルカン半島を巡り、ヨーロッパに戦力を集中させたいところだろうからな。
戦うなら、今、アジアにある現有戦力だけで成果を挙げ、皇帝陛下に示さなければいけなかったのだ」
ネヴェリスコイ大佐の言葉にピリリョフの手が震える。
「やっと理解したか。
今回の作戦は、アジアに興味を失いつつあるロシア本国に手柄を立てて見せる為の物なのだ。
それが、日本と揉め頃を起こした上で、条約を破り、武器を持ち込んだことが、証明されればどうなるか。
下手をすれば、日露関係にヒビが入り、折角、交易開始に成功された皇帝陛下より、我らが叱責を受けることになりかねんではないか。
訴えを取り下げるんだ」
こうして、ポサドニック号事件は解決へと至ったのである。
*****************
こうして事件を解決させた勝と桂は、『修理』の終わったポサドニック号を見送り、香港へと英仏関係者を送ると江戸への帰路についた。
一か月、不眠不休で駆け回り、船に弱い勝には、なかなか辛い行程であった。
そんな中、潮風に当たっている勝に桂が声を掛ける。
「しかし、本当にあれで良かったのですか?」
「何がだい?」
「ロシアとの交渉です。今回は、ロシア側に非がある。
まして、ロシア側は、あわよくば、対馬への侵略すら考えていたと見受けられます。
そんな中、トカゲの尻尾切で済ませてしまうとは。
お灸をすえる為にも、この件をロシア本国に伝え、条約の改定なり、賠償なりを要求しても良かったのではありませんか」
「まあ、欲張ればキリがねぇさ。
だけど、この事件を大騒ぎしたところで、思い通りに行く保証なんぞないだろう。
ロシア側はどうしたって、トカゲの尻尾切で幕を引こうとするだろうしな。
こっちにゃぁ、まだ条約違反を実力で履行させるだけの力がねぇ」
「確かに、それはそうですが」
「それなら、下手に文句を言って、ロシア総督の恨みを買わねぇ方が利口ってもんさ。
まあ、今回の件を企んだムラヴィヨフ提督が更迭されて、代わりに日本に好意的なプチャーチン殿辺りが提督になってくれるなら、ありがてぇんだがな。
そんな保証もねぇ訳だし。
それなら、こちらから妥協して、救いの手を出して、恩を売ってやった方が割りが良いだろう」
「しかし、恩を感じる様な連中なら、そもそも、手柄を立てる為に侵略など企まないのではありませんか?」
桂がそう言うと勝は苦笑する。
「まあな。それでも、恨まれないだけマシってことさ。
それに、今回のお裁きでは、日ノ本のお裁きは公正であるって評判を手に入れたからな。
それだけでも、十分な成果って奴さ」
「評判ですか」
「そうさ。
この事件で、日ノ本は異人を傷つければ隠し立てせず、身内であろうと罰するという評判を手に入れることが出来た。
お裁きも、ヨーロッパと仕組みは違うにしても、事実を明らかにするものだってな。
桂君も記者たちの書いた記事を読んだろ?」
「ええ、中浜さんに訳して貰いましたから」
「それなら、解るだろ?
評判は最高の紹介状って言葉がユダヤ人の諺にあるらしいがな。
これで、日ノ本の評判が、また上がる。
そうすれば、一層、異国は日ノ本に手を出しにくくなる。
そいつは、十分な成果だよ」
「そういうものですか」
「ああ、そういうものだよ。
だけど、これで、そろそろ、異国も日ノ本を侮ってくれなくなるかもしれねぇな。
イギリスの最新型の蒸気船が何艘もあることも、お裁きがキチっとしていることも伝わっちまった訳だから」
勝が困ったように呟くと桂が尋ねる。
「何故、そんなに困ったことの様に言われるのですか?
日ノ本が侮られないなら、良いことではありませんか」
「異国が日ノ本を侮ってくれているから、裏を掛けるってのもあるんだよ。
だけど、異国の連中が本気で日ノ本を警戒する様になるってぇと。
暫くは安全かもしれねぇよ。
だが、次に異国が来る時は、準備を十分にして、本気で攻めてくる可能性があるってことさ」
勝の言葉に桂が息を飲む。
「異国は、こんな状況でも攻めて来るのでしょうか」
「平八っつぁんの夢の通りなら、異国が日ノ本に攻めてくるのは運命みてぇだからな。
甲鉄艦とか、本当の切り札は隠せているが、果たして、どうなることやら」
「運命ですか。
もう、十分に変えることは出来ているとは思うのですが。
平八さんの夢とは異なり、日ノ本はより良い条件で交易を始め、国防軍の創設にも成功している。
ロシアからアラスカを買い取り、クリミア戦争はロシアの勝利で終わっています」
「その辺はなぁ。
オイラも、よく解らねぇけどな。
この間、象山先生も仰っていた通り、穴埋めの様に事件が起きる可能性もあるみてぇだからな。
イギリスとロシアが日ノ本に攻め込んで、日ノ本が分割統治される危険が、まだあるってことだろうな」
そう言うと勝は海の向こうに目を向ける。
だが、運命は江戸に帰った時、彼らの予想を超えた動きを見せることになる。
1858年7月西郷吉之助の死亡である。
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