第七章 激動への序曲

第一話 裏閣議開催

アッシとの面会の後、仰っていた通り、筆頭老中阿部正弘様は隠居をなされました。


幕閣における最高にして最大の調整役である阿部様の隠居は、幕府内外の対立を生み出す恐れがございました。

特に、水戸斉昭公、一橋慶喜公、小栗忠正様、佐久間象山先生辺りは、人の意見を聞くよりは、ご自分の考えを強調される傾向があり、どなたも意見を譲ることが考えられない様なお方たちですからな。

直接話し合ったところで、対立が深まり、衝突する恐れは十分でございます。

阿部様がお元気な間は、その間に立ち、それぞれの意見を調整し、落しどころを定めて下さっていたのですが、阿部様隠居の後、全く同じ役割を、筆頭老中を引き継いだ堀田正睦様は勿論、阿部様が引き立てた安藤信正様にも期待するのは難しいところというのが、海舟会における判断。

何しろ、アッシの夢では堀田様は調整をロクにしないで水戸藩との亀裂を広げた上で責任を取らない為に朝廷への許可を求めて幕府の権威を決定的に下げた方でございますし、安藤様も桜田門外の変の後、彦根藩と水戸藩がいくさとなることを防いだ方ではございますが、その他の問題では、何度か調整を失敗されている方でございますからな。

おまけに、安藤様は、アッシの夢で老中となった時よりもずっと若く老中に抜擢されているので、直接仲介役を果たすには難しい立場ということもございます。


そこで考えたのが、各勢力に参加している海舟会の面々やアッシの夢の話を聞いている方々に集まって頂き、予め各陣営の考え方、情報を共有して、これからの方針、落しどころを調整すること。

それが、裏閣議の開催だったのでございます。


アッシが夢で見た歴史とは異なり、阿部様は異国に関係する情報などを、ご親藩の方々は勿論、譜代大名にも、当然のことながら外様大名にも大々的には公開しませんでしたから、未だに幕閣が情報を独占している状況でございました。

従って、何の情報を基に決定したのかは解らないが、幕府の決めたことに日本全国が従うという、これまでの徳川幕府のやり方が継続しております。

しかしながら、当然、例外もございまして、アッシの夢では存在しなかった国を守る国防軍、交易を担当する日本商社には、その政策策定の為にも情報を共有しておく必要がございまして、その上層部にはどうしたって、情報を伝えておく必要がございます。

そして、そこで幕府の決定と国防軍や日本商社との間に不和が生まれてしまった場合、国防軍と旗本が対立したりする恐れもございまして、それで事前に調整が必要となったのでございますな。


国防軍の一橋慶喜公、日本商社の井伊直弼様、それに攘夷思想の源泉であり、国防に関し未だ最大の火種となりかねない水戸藩の水戸斉昭公に、今回の情報を伝えて下さったのが、安藤信正様。

あくまでも、ここだけの話と約束した上で情報伝達して頂いたのでございます。

こういう伝え方をすれば、情報は外に漏れず、とっておきの情報を知らされたということで、言われた方の自尊心も保たれますからな。

その上で、安藤様が帰った後の国防軍、日本商社、水戸藩での様子を確認し、どの勢力も納得出来る落しどころ、最善手を探す為に、各方面の関係者に、ここ象山書院に集まって頂いた訳でございます。


幸い、アッシの夢の話を知る人々は、幕府、国防軍、日本商社、水戸斉昭公の側近にそれぞれおりますからな。


国防軍最高司令官である一橋慶喜公の側近の座を得たのが大久保一蔵(利通)様。

遣欧視察団参加で慶喜公の信頼を得たおかげで、本来なら薩摩と幕府の主導権争いの為に対立するはずだった慶喜公と大久保様が、仮初とは言え、主従関係を築いているのは不思議な感じが致します。

ちなみに、アッシは今回、初めて大久保様にお会いしましたが、夢で見た写真の記憶の姿より若く、思っていたより、ずっと大柄で迫力のある方でございますな。


日本商社から来たのは勝様。

こちらは同じ幕臣ということで側近の地位を得て信頼されている様なのですが、勝様に言わせると、井伊直弼様や小栗忠正様に都合よくこき使われるだけの立場とのことでございます。


そして、水戸斉昭公の側近となっているのが、桂小五郎様。

遣露視察団の長旅で水戸斉昭公と親しくなり、藤田東湖様亡き後、その代わりの様に重用されているとか。

桂様は、水戸藩の情報収集だけでなく、国防軍にいる長州の藩士のまとめ役もされておられますから、その重要性はアッシの夢の中より大きくなっておりますな。


更に驚くべきことなのですが、今回の裏閣議には、島津斉彬様がお忍びで参加しておられるのでございます。

いやぁ、元々、身分に拘らないお方ではございましたが、まさか、薩摩藩藩主ともあろうお方が、象山書院にお越しいただくとは。

お連れしているのは、ドングリ眼の大柄な方のみ。

この方が西郷吉之助様でございましょうね。

全身で島津様への忠誠を現わしている様な感じが致します。


しかし、島津様が参加されると、薩摩藩が日本商社、国防軍、水戸藩に裏から手を回して、何かを企んでいるかの様に見えるのが困るところでございますな。

そこで、裏閣議の開催と参加者を安藤信正様にお伝えすると、安藤様も、この裏閣議に参加すると表明されました。

お忍びとは言え、老中までが参加されるとは。

まあ、薩摩藩が中心となり、暗躍され、反乱でも起こされては溜らないというお気持ちは良く解りますがね。


その錚々たる参加者の中、象山先生はともかく、アッシまで参加するのですよ。

象山先生は、安藤様の助言役として。アッシは情報提供者としてというところでございましょうか。

全く、心の蔵に悪い。

上座には、安藤様と島津様に座って頂きましたが、それ以外の者は、丸く車座になって座ったのでございます。


「さて、参加者が全員揃ったようなので、話を始めさせて頂きますか」


そんな中、象山先生は目上の方が多いにも関わらず、堂々と話を始められました。

こんな状況で議長役を平然と務められるのは、さすが象山先生でございますな。

象山先生は、まず、阿部正弘様の隠居による意見調整能力の低下、それを補う為の裏閣議の開催を宣言されます。

そして、簡単に、日本を異国の侵略から守ることを国家目標とすること、日ノ本を守る為、国を富ませ武装を強化する富国強兵を政略目標とすること、富国強兵を実現する為、時を稼ぎ日ノ本の繁栄が異国の繁栄に繋がる仕組みを作りあげ、異国による侵略を躊躇させるということを戦略目標とすること、その為に情報収集を行い、陰で異国同士の争いを煽りながら日ノ本への侵略をさせないことを戦術目標にすることであると説明した上で、本題に入られます。


「その上で、今回集まって頂いたのは、これから先の行動についての擦り合わせ。

僕が仕掛けていることもありますし、平八君の夢から予想出来ることもございます。

そして、目標と予想を確認したならば、今回問題になっているユダヤ人問題解決の道筋も見えて来ることでしょう」


象山先生がそう言うと大久保様が口を挟む。


「情報ん擦り合わせん必要性は解っどん、先んこっはどん程度予想出来っとじゃ?

以前聞いた予言ん書から、状況は大幅に変わっちょって思うどん」


「うむ、凡人であるならば、正確な予想は難しいかもしれん。

だが、僕ならば、ある程度の先は読める。

例えば、ロシアとオスマン帝国とのいくさは、今年中に終結することが予測される。

これは、平八君の夢であったロシア=トルコ戦争が1年で終わったことから推理されることなのだよ。

ちなみに、本来ならば、ロシア=トルコ戦争の勃発は、今から20年後に勃発するはずのものではあるがな。

しかし、慶喜公と大久保君の暗躍により、クリミア戦争が継続された現在の戦況は、20年後のいくさ非常に似ている。

オスマン帝国はイギリス、フランスの援助なく、ロシアの侵略に立ち向かう羽目になっている事が一つ。

更に、今回、近代兵器の密輸によって、ロシアが戦力増強に成功しているということも、20年後の近代化に成功したロシアの状況に酷似しておる」


「今年中に欧州でのいくさが一段落することが予想出来れば、次に打つべき手も見えてくるということか」


安藤様が確認されると、象山先生が頷く。


「その通りでございます。

まあ、結論から言えば、ロシアが勝ち過ぎていることが厄介なところでございますな。

所謂、クリミア戦争ではロシアが勝利。

おそらく、このロシアの勝利は、20年後のロシア=トルコ戦争の時に実現したブルガリア公国の誕生に繋がり、ロシアはブルガリア公国を属国として、エーゲ海に接する領土を得ることでしょう。

そのことにより、欧州に緊張が続くことは欧州のアジア侵略を遅らせることに繋がりそうで有難いことなのですが。

インド大反乱の裏にもロシアがありイギリスに対抗していること、更に平八君が上海で得てきた情報の通り、ロシアが清国の後ろ盾となっていることまで考えると、ロシアが天竺、清国から手を引くことは考えにくい。

イギリスに対するコロニーでの反乱が続けば、ブルガリア公国も安全になる。

ヨーロッパにイギリスが戦力を集中させれば、コロニーにおけるロシアの権限が拡大していく。

そのことを考えると、やはりロシアが勝ち過ぎているかと」


そう言うと、象山先生は大久保さんのことをチラリと見る。

象山先生の計算だと、イギリスとロシアの戦いを拮抗させ、日ノ本侵略の余裕を無くすはずだったからなあ。

それが、慶喜公と大久保様の提案で盤面が大きく動き、ロシア大勝の方向で状況が推移している。

まあ、文句を言いたいところではあるのでしょうが、それでも、この状況を利用出来ない象山先生じゃあるまいし。

結局、自分の思っていなかった方向に話が進むのが気に入らないのでございましょうな。

本当に、子どもでございますねぇ。

そんな象山先生に大久保様が口を挟む。


「じゃっどん、そん平八どん予言が必ず当たっちゅう保証はありまさんめえ」


「当然だな。しかし、現状を確認してみる限り、最も確率の高そうな状況であることは理解出来るであろう」


「確かに、そうかもしれもはんな。

じゃっどん、ほんのこてロシアが勝ち過ぎちょっにしてん、そいが悪かことじゃとは思わん。

ないごてなら、ロシアは陸軍国。

日ノ本を攻むっには、船が足らんのじゃなかあいもはんか」


「だが、君たちはアラスカ及びカムチャッカ半島に領土を得てしまった。

その陸軍国ロシアと対立する危険は増したのではないか」


「そん為んユダヤ人対策会議でごぜもんそ。

得た土地をユダヤ人に渡してしめば、日ノ本が攻めらるっ危険は減っやろう。

更に、イギリスよりもロシアん方が、武器ん開発、領土ん豊かさで劣ったぁ、こん目で見て確認してきたこっでごわす。

ならば、これからイギリスん逆襲が十分に期待出来っ状況じゃらせんか。

結果として、イギリスとロシアん対立が長引き、双方とも日ノ本侵略をすっ余裕がなっなっとじゃらせんか」


「選べる政策の幅は広い方が良いだろう。そう結論を急ぐな」


二人の議論が過熱しそうなのを見て、島津様が仲介に入られる。


「佐久間殿、話を続けては頂けないか」


島津様に丁寧に頼まれて、さすがの象山先生も恐縮した様に頭を下げる。


「は、失礼致しました。僕としたことが、少々熱くなってしまった様で。

それでは、話を続けさせていただきます。

ロシアの大勝により予測されるのが、清国に対するロシアの進出。

平八君の夢では、将来、ロシアが清国を属国化する運命であるとのことですからな。

実際は50年近く掛かることが、より短期間で実現される恐れがございます」


「つまり、ロシアのアジア侵略が加速化される恐れがあると」


「その通りがございますな」


「それ以外に気を付けるべき点はあるか」


「気を付けるべき点は2点。

来年から起きるはずであった安政の大獄への対策と、3年後に始まるアメリカ南北戦争でございましょうな。

アメリカ南北戦争については、既に僕の方から色々仕込んでおりますから、まあ心配はいらないでしょう」


随分前から仕込んでいるアメリカ南北戦争対策。

グラント将軍などの北軍の有能な将軍を日ノ本に引き抜き、龍馬さんがアメリカ各地で仕込みを行っていると聞きます。

それも、後たった3年で勃発すると聞くと、感慨深いものがございますな。

アッシがそんな事を考えていると、象山先生が続けられます。


「問題となるのは、安政の大獄の方ですな。

今のこの状況であるならば、弾圧が起こることなど想像も出来ません。

しかし、藤田東湖様、江川英龍先生、阿部正弘様が倒れた状況を見れば、あるいは運命というものによる修正というものを想定せざるを得ません。

しかし、どの様な修正が入るのか、その法則が全く分からないのです。

まず、これまでに、平八君の助言により、大地震や疫病の被害から救われた者も少なくはございません。

また、起きるはずのアロー戦争が勃発しておりませんから、イギリス・フランスに殺された清国、太平天国の民草の犠牲も減っているはずでございます。

一方、続かないはずのクリミア戦争が続いた為に、クリミア戦争に関しては、戦死者の数が増えたことも予想は出来るのです。

これらのことを考えると、一体、何が起きるのか。

僕ですら予想が出来ないのです。

安政の大獄に匹敵する何かが発生して、多くの犠牲が出るのか。

あるいは、災害で犠牲が出なかった様に、何の犠牲もなく、やっていけるのか。

もしかすると、このユダヤ人対策が国を割る切っ掛けとなるやもとも思っております」


象山先生がそう言うと、島津様は腕を組んで考える素振りをしてから答える。


「そうですか。佐久間殿でも、解りませんか。

ならば仕方ない。私は隠居することに致します」


島津様の思わぬ言葉に全員が島津様を見ると島津様が続ける。


「平八殿の予言によれば、阿部様に続き、来年には、私が死ぬと言われております。

武士である以上、命を惜しむ訳ではありませんが、この国の行く末を見ずに去ることは是非とも避けたいところ。

特に、私が死んだ後、薩摩が幕府と対立し、国を割ってしまうと聞いた後ではな」


島津様がそう言うと象山先生が確認される。


「なるほど、それで隠居されるのでございますな。

しかし、隠居されたとしても、元薩摩藩士の多くが、国防軍、日本商社に参加し、こちらの裏閣議にも参加されているとなると、島津様の謀反を疑う者もあるかと」


そう言うと島津様は苦笑される。


「確かに薩摩の下級武士は、多くの者が国防軍や日本商社に参加していますが、上級武士は、ほとんど参加しておりません」


確かに、それは本当なのだよな。

国防軍にも、日本商社にも、多くの方が参加しているが、薩摩だけでなく、他の藩でも藩の中枢を担う方々は藩を捨てることが出来ないでいるらしい。

だから、例えば、土佐藩とかでも、下級武士である郷士のほとんど国防軍、日本商社に参加しているのに、上士はほとんど藩から離れていないと言う。

能力を考えれば、板垣退助とか、後藤象二郎辺りには協力して貰いたいところではあるのだけれど。

恵まれた環境を捨てて、先がどうなるか解らないことに参加するのは、持てる者である程難しいということでございますな。


「しかし、私が暗躍すれば不安に思う者がいることは理解出来る。

それ故、隠居したら、私は、武から離れ、日本商社に入り、井伊殿の下で、この国の繁栄の為に動きたいと思うのだ。

そうすれば、薩摩にいる父上に命を狙われることも、井伊殿に斬られる心配もなさそうであろう」


確かに、島津斉彬様の死因は一応赤痢と言われているのだが、どうも毒殺を疑われるべき点も結構あると言う。

それで、自分の実の父親を疑わなければならないとは、気の毒なお方ですなぁ。


「なるほど、それならば、島津様を危険視する者は減り、命を狙われる危険も減ることでしょうな」


アッシの、そんな想いに関係なく、象山先生が感心した様に頷く。

これで、島津斉彬様が生き残る可能性は上がったのだろうか。

だが、安政の大獄に代わり、何が起こるか解らないというのが恐ろしいところでございますな。

それが、果たして、これから話すユダヤ人問題を切っ掛けとする分裂であるのかどうか。


そんな風にしないため、ユダヤ人問題に関する調整が始まったのでございます。

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