第四十話 阿部伊勢守正弘

上海での交渉が終わるとアッシらは太平天国との約束通り、アヘン商人を香港に「追放」致しました。

まあ、追放と言っても逃げたいアヘン商人の脱出を手伝っただけでございますがね。

それに、脱出した船には、上海の怪我人、婦女子も乗せておりましたから、香港での歓迎は大層なもので。

その上で、太平天国との停戦の仲介をアッシら日ノ本が成し遂げたことを、パークス様が発表すると、歓迎は祭りの様な大騒ぎとなったのでございます。


とは言え、今回の交渉内容は任されていたとは言え、独断で進めた部分もございますので、早めに日ノ本に帰りたい旨を伝え、アッシらは数日で香港を後にしたのでございます。

そして、対馬に戻り、今回の交渉の報告書を幕府に提出して、幕府の反応を待つことにしたのでございますな。

異国から帰った場合は、疾病対策として、半月は対馬、父島などの隔離施設で待機しなければいけない決まりでございますからね。

本来の指示とは異なることも随分としてきておりますから、象山先生が拗ねたり、幕閣の皆さまが反対することが恐ろしいところではございますが、知らせは早く正確な方が良いことは間違いないという判断からの報告でございました。

第二次アヘン戦争拡大を未然に防いだこと、香港では上海を救った英雄として称えられたこと、その裏で太平天国に対し武器売り渡しの約束をしたこと等をまとめて報告しながら、幕府の返事を待っていたのでございます。


もっとも、同じころ、アルフォンス・ド・ロチルド(ロスチャイルド)様から蝦夷地の一部をユダヤに譲渡して欲しいとの提案があったおかげで、幕府は上を下への大騒ぎになっていたようでして。

結局、対馬にいる間に、アッシらの報告に対する幕府や象山先生の反応はなく、半月後、アッシは江戸に戻ることとなりました。

時に、1857年秋。

アッシの夢では、今年の夏、既に亡くなっているはずの阿部正弘様への面会の為でございました。


「良く来たな。平八」


阿部様は病の床につき、アッシはその枕元に座っての面会でございました。

アッシと阿部様の身分の差を考えれば、信じられない程の扱いでございますな。

瓢箪ナマズなどとあだ名された阿部様の恰幅の良いお姿は、随分と痩せられ、顔も大分細くなった様子でございます。


「異国はどうであった?」


阿部様は顔をこちらに向け、ゆっくりと話されます。

アッシは、報告書に書いた内容を掻い摘んで話し、報告しようとすると、阿部様は笑って止められます。


「その話は既に、報告書で読んでおる。私が聞きたいのは、平八の心持ちのことだ」


「病で床についておられるのに、休まず、アッシの報告書にまで目を通されたのですか」


てっきり、その報告を聞く為に、アッシを呼び出したのだと思っていたのですが、病で寝込んでいるというのに、この方は何をやってらっしゃるのか。

江川英龍先生といい、阿部様といい、どうして、そこまでして働かれるのでしょうね。

そんな想いが湧いて来ましたが、勿論、目上の方を非難する様な恐ろしいことは致しません。

それは全て心の内だけの話にしたつもりだったのですが、人の心の機微に敏い阿部様は、アッシの気持ちを見逃さず、言い訳する様に呟かれました。


「許せ。ずっと寝ているのは退屈でな。身体は十分に休めておる。

たとえ、死が運命であるとしても、私も、死に抗い、出来る限りのことを残しておきたいのだ」


その覚悟の籠った言葉を聞くと、アッシも言葉を飲みます。

阿部正弘様は、アッシの夢では今年の夏、既に亡くなっているはずのお方。

無理をせず、死なない為に戦っておられるのは事実なのでございましょう。

死因は働きすぎとも、肝の臓に岩(癌)が出来たとも言われていたと記憶しておりますが。

働きすぎが原因であれば、もしかしたら江川先生の様に生き残れるかもしれませんが、肝の臓の病だとすると、どうやっても助かるかは難しいところ。

それならば、その貴重な時間を無駄にせぬ様に、少しでも阿部様の意向を汲み、その想いに答えるべきでございましょうな。


「畏まりました。アッシが異国に行って、何を見、何を感じたかをお話すればよろしいのでしょうか」


「そうだな。異国のこと、そのものは良い。

一応、佐久間殿から聞いておるし、正直、然程、興味がある訳でもない。

それよりも、異国から日ノ本を見て、お前がどの様なことを感じたか聞かせてはくれんか」


アッシが感じたことでございますか。


「そうですな。

香港も上海も白人が多く、その連中が支配しているという割りに、雑多で、汚のうござました。

白人連中は着飾り、清国や太平天国の中には奴婢として扱われているような者もいる。

それに比べれば、日ノ本は何処に行っても、清潔で安全でございますなぁ」


「そうか。そう言って貰えると、これまで日ノ本を守ってきた甲斐があると思えるよ」


阿部様は満足そうに吐息を吐かれます。

この方は、25歳から14年に亘り老中として、日ノ本を守って来られたお方。

守ってきた日ノ本がどう思われているのか、気になるところなのでございましょうな。


「それで、平八、少しは日ノ本を守ろうとする気にはなれたのか」


阿部様はアッシの顔を覗き込まれます。

さて、正直、難しいところでございますな。

阿部様の望まれる答えは、アッシが日ノ本の為に戦う気になったという答えでございましょう。

病で命が危うい方に対して答えるなら、嘘でも安心して頂いた方が良いのかもしれません。

しかし、阿部様は人の心の機微を掴むのに長けたお方。

自分で信じていないことを言って、それを見抜かれては、かえって失望させることになりかねないでしょう。

だから、アッシは正直に答えることに致します。


「アッシの様な者が、日ノ本を守るなど、大それたことを考えるなど、とても、とても」


「だが、お前は佐久間殿の指示を越えて、日ノ本の為に働いてきたではないか。

顔つきも、出発前とは見違える程に変わってきている様に見える。

少なくとも、修羅場の一つや二つを潜り抜けてきた顔になっているぞ」


「そりゃぁ、アッシだって、阿部様を始めとする皆さまと、今の日ノ本を支えるお手伝いをさせて頂きましたからね。

だから、このまま、日ノ本が分裂もせず、平和に過ごせたらなぁとは思っております。

これまで、積み上げてきた皆さまの努力が無駄にならねば良いなぁとは思っております。

ですから、その為に、引き続き、お手伝いをさせて頂きたいとも思っております。

ですが、アッシは名目上、佐久間先生の養子とされ、士分とされても、本質的は庶民でございます。

天下国家を論じる様な立場になったことがございません。

その日暮らしが当たり前。

世の中に不満があって、不平を呟いたところで、そんなものはただの愚痴。

そんな無責任に生きていた者でございますから。

江川先生や阿部様の様に、身を粉にして、己の魂を削ってまで、この国に忠を尽くそうという気持ちにまでは」


アッシが正直に話すと阿部様は尋ねられる。


「香港や上海で白人に奴婢にされている者を見ても、日ノ本が同じ様にされるまいとは思えなかったか」


「お武家様には耐え難いことではあると思いますが、日ノ本でも、庶民の中には、奴婢の様な状況に陥る者もおりますから」


それに付け加えるなら、アッシが150年先の世を夢で見たということも大きいのだろう。

150年という時の流れが左右しているのかもしれないが、少なくとも庶民の生活は決して悪くはなかったのだ。

夢の中で見た男は、不満で一杯の様ではあったが、毎日、腹一杯飯が食えて、暖かい寝床があって、面倒なことはお上が決めてくれる。

まあ、明確にアッシらの上で欧米人が存在するということはあるが、そんなこたぁ、お武家様が支配する今と対して変わることじゃない。

誇り高いお武家様なら、欧米列強の支配下など、堪え難き屈辱なのかもしれないが、生活出来るなら、然して不満はないというのが正直なところなんですな。


「欧米人の支配も、我ら武家の支配も、庶民から見れば変わらぬと思うのか。

だが、欧米人を知るユダヤ人のロチルド殿は、異民族による支配は、いつ苛政に変わるか解らない恐ろしいもの。

国があってこそ、守れる物があると言っていたとも言うぞ」


国を失ってから2000年間放浪し、世界各地で虐げられてきたユダヤ人というのは、『国』という物に、恐らくアッシが思う以上の執着があるのでございましょうな。

もしかすると、『国』とは健康の様に、無くしてみて、初めて、その有難みが実感出来るものなのかもしれません。

そんなことを考えると、ユダヤ人の『国』に対する想いが正しいかどうかは別として、アッシの胸にも来るものがございますな。


「それに、武家による支配が嫌だと言うのなら、庶民の声が反映される様、日ノ本も徐々にリパブリック(共和制)やデモクラシー(民主主義)を導入していけば良いだろう。

国民皆兵で国を守ることを目指す以上、庶民の声を無視することは、もはや不可能。

少なくとも、佐久間殿や島津殿辺りは、その辺まで考えているのではないか」


確かに、リパブリックやデモクラシーを導入すれば、異国の支配は、支配者の首のすげ替えとは全く違う意味を持つでしょうな。

リパブリックは、気に入らないことを統治者が行えば、庶民が統治者を取り換えられるという仕組みだと聞きますから。

だけど、そんな国が異国に支配されると、その統治が気に入らなくとも、統治者を取り換えることが出来なくなる。

そんな状況で、リパブリックを導入している国を異国が支配しようとすれば、その国の民は全力で異国の支配を排除しようとするに違いありません。


ですが、その様な変更をお武家様が良しとするか。

いや、そもそも、庶民がまつりごとに参加したいなどと思うかどうか。

庶民にとっては、日々の生活が大事。

まつりごとのことなど考えず、お上が善政を敷いてくれるのが一番望ましい姿。

お上のすることを監視し、何が正しいかなんて、考えることは面倒だと思う者の方が多いでしょうからな。


おそらく、リパブリックというのは、苛政を強いられ、苦しんだ民が虐げられない為に設けたまつりごとの形態なのでございましょう。

それを、欧米から見ても、十分に幸せな日ノ本の民に導入しようとして、どれだけの賛同が得られるか。

考え込むアッシを見て、阿部様が続けられます。


「なあ、平八よ。

お前はよく、自分のことを老い先短い身であると言う。

私も、病に倒れてみて、その気持ちが解る様になってきた気がする。

3年前、お前の予言を聞くまでは、私は、自分が間もなく死ぬかもしれないなどと考えてもいなかった。

常に死を覚悟すべき、武士としては、迂闊と言わざるを得ないかもしれないがな」


そりゃぁ、そうでございましょう。

アッシの夢の話が伝わった3年前と言えば、阿部様はまだ36歳の働き盛り。

常在戦場だの言っても実感として、自分が死ぬかもしれないなんて、覚悟を持って生きている人間なんて、ほとんどおりませんよ。

苦笑しながら、阿部様は続けられます


「あと、3年の命なのかもしれないと思った時、私の頭に浮かんだのは、残されていく物のことだ。

3年で去らねばならぬのなら、今更、富や、地位や、名誉を欲しいなどとは思わなかった。

得たところで、持っていける訳でないからな。

まあ、私の場合、老中筆頭という要職にあったので、その全てを持っていたということもあるのかもしれないが」


そう言うと阿部様は再び微笑みを向けられる。

病で苦しいはずなのに、何処か楽しそうに。

そこで、アッシは気が付く。

阿部様がご自分の想いを言葉にするのを、アッシは初めて聞いているのだ。

阿部様は要職について以来、ご自分の意見を言わないようにしていたと聞いたことがある。

下手なことを言えば揚げ足を取られる危険があり、正論であろうとも、老中筆頭の言葉では、影響力が大き過ぎるから明言を避けられていたというのだ。

老中になってから14年。

何という重圧の中、この方は生きて来られたのであろう。


そうやって、ご自分の意見を隠し、幕閣だけでなく、外様大名も巻き込んで、日ノ本の内部の対立を調整し、回避していたお方が久しぶりに、ご自分の言葉を話せるのだ。

それは楽しいだろう。


その様子を見て、アッシはしみじみ思う。

この方こそ、まだまだ生き延びて欲しいお方だと。

大分、国内の調整が進んで来て、内乱の危険は低下しているとは言え、まだまだやって貰いたいことが沢山あるのだ。

本当にリパブリックを日ノ本に導入するなら、どう根回しをすれば良いのか。

国防軍と旗本の間の調整はどうすれば良いのか。

異国が侵略の牙を剥いてきた時、どの様に対処するべきなのか。

象山先生、大久保一蔵様、島津斉彬様、小栗忠正様、一橋慶喜公等々、策士は多いが、どなたも調整役というよりは、相手を説得する種類のお方が多い。

阿部様こそ、幕府の中で最も安心出来る調整役だったのではないのか。

自分を殺し、ただ全体の利益の為に邁進して下さる貴重な調整役を、アッシらは今、失おうとしているのではないか。


もし、落語の死神みてぇに、寿命のロウソクがあるのなら、アッシのロウソクを譲っても構わねぇのになぁと本気で考えちまいますよ。

まあ、そんなことを口にしたところで、阿部様の寿命が延びる訳でもないので、言葉にはしないのですがね。


「それでな、平八。

私は、間もなく、この地を去る者として、残された者達の為に、出来る限りのことはしてきたつもりだ。

天下万民の為、少しでも多くの笑顔を世に残す為にな。

勿論、私には祖先より受け継いだ守るべき家があり、支えるべき幕府がある。

だから、それは徳川家とくせんけ支配の安定という条件の下の平和であり、笑顔であったのかもしれぬ。

だが、それが間違ったことだとは思わない。

幕府をひっくり返してしまえば、間違いなく日ノ本は混乱する。

私は、もともと改革など好きではないのだ。

今までにないことをしようとすれば、必ず反対する者が現れ、混乱するものであるからな。

実際に、私の前任者であった老中水野忠邦様などは、徳川家の為を本気で思いながらも、日ノ本を混乱させただけになってしまったことでもあるしな」


水野様と言うと天保の改革でございますか。

あの頃は無宿人は江戸から出て行けという人返し令が出て、江戸も住み辛かったななどと思い出しますよ。

そんな事を考えるアッシをよそに阿部様は続けられます。


「今のままで良いのなら、それで過ごしたいのが私の本音だ。

アメリカやヨーロッパからの報告を見ても、日ノ本は良い国である様だしな。

だが、異国が侵略の牙を剥く、この情勢で、無防備でいることは、極寒の地に裸でいる様なもの。

交易を始めて国を富ませ、その儲けた資金で、軍備を整えねばならない。

だから、出来る限りのことをしてきた。

日ノ本を守る為、地球に混乱を巻き起こすことにもなるが、それでも、欧米人が支配する地球よりは、マシな世を作ることが出来る。

少なくとも、その礎を築くことが出来たと私は信じている」


そう仰ると阿部様は一息ついて、改めてアッシに尋ねられる。


「それで、平八、お前はどうする?

私は、先がない身だと思ったから、残されたものの為に出来る限りのことをしてきたつもりだ。

そのことに悔いはないし、私の寿命について、教えてくれたお前には感謝しているのだ。

だから、聞くのだ。

お前はどうするのだと。

お前は自分のことを老い先短い老い耄れだと言うがな、少なくとも私よりは寿命がありそうだろう。

そして、お前の夢の通りなら、これから、何らかの混乱が起きて、多くの者が死ぬ。

それが避けられれば良いが、私の様に避けられぬ運命なのかもしれぬ。

その中で、お前はどうするのだ?

何をしたいのだ?

徳川家に対し、忠誠心が生まれぬというなら、それも仕方のないことだ。

日ノ本を守りたいと思わないのなら、それもお前の気持ちの問題。

仕方のないことなのやもしれぬ。

だが、私が必ず死ぬように、お前もいつか必ず死ぬのだ。

流されて生き、死ぬ時に、後悔しながら、死ぬようなことがないようにな」


阿部様の言葉に胸が詰まる。

この方は、貴重な時間をアッシの為に、割いて下さっているのだ。

老い先短いアッシが最後の時に後悔しないために。

それは、阿部様の最後を後悔で終わらせずに済んだ感謝なのかもしれないが、それでも、アッシの見に余る様な想いだ。


「阿部様、アッシは」


そこまで言って、言葉に詰まる。

後悔しない終わりとは何なのだろう。

日ノ本を守って欲しいという期待に応えることが、アッシの望みなのだろうか。

これまで考えたこともなかったが、生まれたからには、少しでも世を良くしてから去ることが人の道というものなのだろうか。

考え込むアッシの様子を見て、阿部様は微笑んで続ける。


「答えを出すのは、今でなくとも構わぬ。

私は後悔に塗れて死ぬはずだった自分を救ってくれた恩人に、少しでも恩を返したいと思っただけのこと。

答えは私に、伝える必要はない。

ただ、この事を忘れずに考えて行け。

悔いることのないようにな。

さあ、言いたいことは言った。

後は休ませてくれ。

私も、まだ死ぬつもりはない。

太郎左衛門(江川英龍)の様に隠居すれば、長らえるかもしれないからな。

何も出来ないかもしれないが、私も、まだ、この先のこの国がどうなるか見ておきたいのだ」


そう言われると、阿部様は目を閉じられる。

もう出ろということなのでございましょうね。

アッシは阿部様に額を畳に擦り付けて礼を返すと、部屋を出る。


1857年秋、阿部正弘様は幕府の要職を全て辞し、隠居されることを発表された。


日本は最大にして最高の調整役を失い、激動の世界へと立ち向かっていくことになるのである。

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