第三十九話 国と人
「借金の担保としているアラスカの代わりに、蝦夷地、その未開の地の一部で構わないので、譲渡して貰えないでしょうか」
この発言がロチルド(ロスチャイルド)家次期当主、アルフォンス・ド・ロチルドから勝麟太郎に提案されたのは、松山藩蝦夷地で滞在中のことであると言われている。
アメリカの日本視察団と共に日本を視察していたアルフォンスは日本という国を大変気に入っていた。
視察団は江戸を出た後、三保の松原に停泊し富士山を眺めるなど、風光明媚な場所を廻りながら、大阪、薩摩、琉球、長崎、金沢などで手厚い歓迎を受けた後、松前藩のある蝦夷地に到着したのである。
日本人について外国人嫌いの噂を聞いていたアルフォンスだが、何処に行っても下に置かない程の歓迎ぶり。
何処に行っても、前のところよりも、喜んで貰おうとする工夫に努力。
それは、地域的な競争なのかもしれないが、歓待を受ける側としては、心地よいものであった。
何よりアルフォンスにとって嬉しかったのは、日本人に反ユダヤ的な感情が全く存在しないこと。
鎖国をし、ほとんど他国と付き合うことのなかった日本だから、キリスト教やユダヤ教のことを知らないだけなのかもしれない。
しかし、それでも、事前に食事に関する禁忌を確認した上で、歓迎の席で常にアルフォンスにだけ特別料理を用意してくれたのは驚き以外の何物でもなかった。
ユダヤ教では、食事の禁忌がなかなか煩いのだ。
豚肉は食べてはいけないし、血を使ったソースもダメ、貝類、海老、タコもダメ、牛でさえ宗教的に正しいやり方で屠畜した物でなければ食べてはいけない。
ところが、日本人たちは精進料理という肉魚を一切使わない料理で歓待してくれたのだ。
味も非常に美味しかったのだが、何より、アルフォンスは、その心遣いが嬉しかった。
更にアルフォンスを驚かせたのは、日本人たちの民度の高さだろう。
日本到着前から、シーボルトに日本人の民度の高さ、礼儀正しさ、道徳心の高さを聞いていたが、それ以上に驚いたのは識字率の高さだった。
まるで、ユダヤ人のようではないか。
ユダヤ人は、ユダヤ教を学ぶ為、子どもの頃から文字を教えるので、高い識字率を誇っている。
教育水準の高さ。
それが、多くのユダヤ人が世界で成功して来た理由の一つであるのだ。
だが、日本人たちの多くも、文字が読め、簡単な計算が出来るようなのだ。
街には、スラムの様なものはなく、清潔だ。
聞いた所によると、被差別民が全くいない訳ではないが、その様な人々も秩序をもって暮らしているという。
そして、その民度の高さは都市だけに留まる話ではない。
農村に住む人々の何と豊かなことか。
おそらく、先進国を主張するヨーロッパの何処を探しても、こんな豊かな生活をしている農民を見つけることは困難であろう。
豊かな国土、優れた教育、技術に対する旺盛な好奇心、名誉を重んじ、約束を守る民族性。
日本という国は、発展の機会さえ与えれば、欧米列強と渡り合うことが出来る国になりうるとアルフォンスは確信していた。
そして、その様な国が、反ユダヤ主義という病に罹患していないのだ。
是非とも、日本とは良い関係を築くべきだと言うのがアルフォンスの結論であった。
そんな時に、訪れた蝦夷地。
その大部分の土地にはアイヌという原住民が住み、原生林は未開拓だと言う。
そこで、考えた末にアルフォンスから出たのが、蝦夷地の一部をアラスカの代わりに譲渡して欲しいという提案である。
この様な提案がアルフォンスから出ることを全く予想していなかった勝麟太郎は驚きながらも確認する。
「お借りした資金の担保として、アラスカの代わりに蝦夷地を一部でも良いから譲渡して欲しいというお話ですが、その理由を聞いても宜しいでしょうか?」
「理由は幾つもありますが、最大の理由は、あなた方、日本人が良き隣人として、尊敬に値する人々であると考えたことでしょうか」
そう言うとアルフォンスは自慢の口髭に手をやりながら続ける。
「父であるジェームスは、アラスカを担保として、日本に資金をお貸ししました。
資金を返せなければ、アラスカ全土を譲渡するので、そこに、我らの国、ユダヤ人の国、イスラエルを建国してはどうかという提案を受けて。
それは、2000年もの流浪の旅を続けてきたユダヤ人である我々にとっては、夢の様な話です。
だが、父も、私も、簡単にアラスカにイスラエルが建国出来るとは考えておりません」
「そいつは、どういう訳で」
「アラスカの隣人であるイギリスにもロシアにも、反ユダヤ主義があるからです。
もし、我々がアラスカにイスラエル建国を宣言したとしても、アラスカの開発に成功し、我々が豊かになれば、イギリスやロシアの侵略を受ける危険が非常に高い」
「その危険は承知の上で、自分の国を復活させるという夢に賭けられたのではないのですか」
「いいえ、我々は、危険性の高い賭けを好みません。
あるいは、父はその様な夢を見たのかもしれませんが、少なくとも、私は、その様な賭けを好まない。
日本には、アラスカ開発をして頂き、何十年か掛け、利子を付けて、資金を返済して頂ければ、それでも十分だと考えていました」
そうすれば、イギリス、フランス、オスマン帝国に続き、日本の政策についても要求が出来るようになる。
そうやって、日本も、自分達の影響下におき、各国を対立させ、他の国がロチルド家を裏切ろうとした時は、抑止力として使う。
日本が欧米に侵略される恐れがないのならば、恐らく、それが最善手となるだろうというのが、日本訪問前までのアルフォンスの考えだった。
「それが、どうして、蝦夷地の一部譲渡を提案されるのですか。
我らがユダヤ人の良き隣人となり得るというだけでは俄かに理解出来ないのですが」
「あなた方、日本人は名誉を重んじ、反ユダヤ主義の思想を持たない人々であることは今回の視察で十分に理解しました。
その様な人々と契約を交わし、隣国としてイスラエルを独立させるなら、日本に裏切られる心配はない。
私は、そう考えました」
アルフォンスがそう言うと勝は苦笑を浮かべて答える。
「その信頼は大変有難い。
しかし、日本に反ユダヤ主義はなくとも、外国人嫌いの攘夷の人々がおります。
アラスカなら、ともかく、我が国の領土を他国に譲渡するなど、反対の声が高まることは間違いありません」
「その話は聞いております。
だから、蝦夷地なのです。
日本の豊かな農村を譲渡してくれと言うのではありません。
その様な要求が通るはずはありませんからな。
そうではなく、まだ蝦夷地の未開拓の土地の一部を譲渡して貰いたいのです。
開拓は我々が行います。
アラスカでの農耕・開拓は気候を考えても、簡単ではないでしょう。
ですが、この蝦夷地の気候なら、開拓すれば十分な麦の収穫が期待出来ます。
食糧が自給出来るなら、我々は他国に頼らずに生きていくことも出来る。
だから、蝦夷地の一部を譲渡して欲しいのです。
そして、アイヌが居住することを許している、この蝦夷地であるならば、我らに譲渡しても、反対の声は大きくないのではありませんか」
勝はアルフォンスの提案を聞いて考える。
確かに、秋津洲に異人を入れることと異なり、蝦夷地の未開拓地域を譲渡することに抵抗がない者はいるかもしれない。
その上で、平八に聞いたところによると、アラスカの鉱物資源は将来の日本の発展を考えれば、是非とも確保しておきたい物ではある。
まあ、実際にアラスカに鉱物資源の存在が確認された訳でもないので、早計は禁物ではあるが。
しかし、アラスカの有用性が証明出来ない以上、それだけで、アラスカの代わりに、蝦夷地を一部と言えども譲渡するのは難しいだろう。
そこで、勝は尋ねる。
「なるほど、あなた方がアラスカの代わりに蝦夷地を求める理由は理解出来ました。
しかし、蝦夷地を一部とはいえ、譲渡することによる利が、我らにあるのですか。
商人ではない、武士としては言いたいことではないが、何の利もなく、国土を譲渡するなど、とても受け入れられることではない。
何の理由もなく、国土を譲渡すれば、それだけで攘夷の声を活性化させてしまうでしょう。
どうか蝦夷地の一部をあなた方に譲る明確な利点を説明して頂けませんか」
勝がそう言うとアルフォンスは納得した様に頷き、答える。
「大きく分けて、三点ありますが、その根本は日本の国防に役立つと言うことです。
蝦夷地の一部にイスラエルが建国されるならば、日本がイスラエル侵略を考えない限り、我々は一蓮托生となります。
日本が欧米に侵略されないことが、イスラエルの安全に繋がるのです。
その為に、我らは努力を惜しみません。
それを順に説明しましょう」
そう言うと、アルフォンスは指を立てて話を続ける。
「まず、第一に、イスラエルが建国されれば、多くのユダヤ人の資金が投入され、多くのユダヤ人が集まることが考えられます。
未開拓の土地に、大量の資金と人材が導入されるのです。
開拓に成功すれば、日本に食料を輸出することだって可能になる。
日本にとっても、開拓の苦労なく得られる食料は利益となるのではありませんか。
そして、第二に、我々は技術提供を惜しみません。
日本が欧米に侵略されないことが我らを守ること繋がるのなるのならば、日本に対する武器提供、技術者の提供を惜しむ理由がありません。
我々、ユダヤ人は学者としても非常に優秀です。
必ず、日本の技術開発のお役に立てるでしょう。
そして、最後の利点は情報の提供です。
我らユダヤ人は世界中にいます。
2000年に亘り、流浪の生活を送り、ゲットーに閉じ込められたりはしていますが、世界中に存在する為に、情報を得ることが出来るのです。
そこで得た情報を日本に提供しましょう。
これらのことは、全てアラスカ譲渡ではお渡しできない、日本の利益です。
日本を守ることにより、イスラエルを守る事が出来る場合にのみ、お渡し出来る利益です。
十分な利益であるとは思いませんか」
アルフォンスがそう言うと勝は考える。
確かに、どれだけの人間が理解出来るかはともかくとして、その利益は決して小さいものではない。
資金も人材も掛けずに開拓される蝦夷地。
イスラエルの盾にされると思うと、少し不愉快ではあるが、それでも最新武器の提供や技術提供もありがたい。
更に、ユダヤ人により提供される情報網。
今の日ノ本で最も欠けているのが、この情報収集力だろう。
今は、平八の知識があるから、幾らかでも先手を打つことが出来ている。
だが、状況が変わって来れば、鎖国を続けてきた分、情報収集の分野で、日本は明らかに弱い。
それをユダヤ人たちが補ってくれるならば、それは大きな力となるのかもしれない。
しかし、ヨーロッパに、反ユダヤ主義の人々がいる以上、ユダヤ人国家があることによって、日ノ本がイスラエルと共に敵視される危険もあるのだ。
それは、どう考えても、勝が判断出来る様な話ではなかった。
そこで、勝は答える。
「分かりました。
あなたの意向は、必ず幕府にお伝えいたしましょう。
ですが、個人的な興味で一つお聞きしてよろしいでしょうか」
アルフォンスが頷くのを確認すると、勝は尋ねる。
「あなたは、ヨーロッパでも有数の大富豪であり、爵位もお持ちであると聞いています。
欧米列強各国の政府に影響力があり、その気になれば何でも出来る様な方であると聞き及んでおります。
その様な方が、どうして、ユダヤの国を再建されようとするのでしょうか。
それは、主君に対する忠義、同胞に対する同情、あるいはあなた方の神様に対する信仰なのでしょうか」
そう言いながら、平八の醒めた目を思い出すと、苦笑を浮かべながら勝は続ける。
「我々は、領主として、領民の為を思い全力を尽くしてきた自負があります。
しかし、それでも、庶民の中には、異国に支配されようと、誰が支配しようと、庶民の生活は変わらないと言う者もいるのです。
どうして、あなた方は、莫大な資金を使ってまで、自分の国を求めるのでしょうか」
勝がそう尋ねるとアルフォンスは羨望のため息を吐く。
「本当に日本は良い国なのですね。実に羨ましい」
そう言ってアルフォンスは首を振ると言葉を続ける。
「我々が国を求めるのは、国が私たちを守る盾となるからです。
おそらく、あなたの国の人たちは、異民族に支配された経験がないのでしょう。
日本人であるというだけで迫害され、家族を殺され、家を焼かれ、財産を奪われたことなど、ないのでしょう。
それが、我々、ユダヤ人2000年の歴史なのです。
私たちは、国がどうなっても大丈夫などとは、とても考えられないのです」
アルフォンスの言葉には、深い絶望が刻まれていた。
「確かに、我らロチルド家は現在、隆盛を極めていると言えるでしょう。
ですが、それがいつまでも続く保証はありません。
王は2000年前に失われたので忠義の為ではありません。
苦境に苦しむ同朋に対する同情はありますが、それだけではない。
国がなくとも信仰は守れましたから、信仰の為でもありません。
ただ、私たちは、安全に生きられる安住の地が欲しい。
国を私たちに牙を剥いた時に、逃げ込める場所は欲しいのです」
アルフォンスの言葉を聞き、勝は考える。
国という物を持たないユダヤ人は国という物に幻想を抱いているのかもしれないと。
実際、日ノ本だって、幕府に目を付けられた豪商や武家がお取り潰しにあうなんて話は結構あるのだ。
自分の国だと言っても、庶民から見れば、苛政は虎よりも猛しという事は変わらない。
まあ、それでも異人に支配されれば、より悪政を引かれる可能性が高いということなのだろうか。
アルフォンスの提案を伝えた上で、どの様な答えを出すべきか。
勝は猛烈な勢いで頭を回転させていた。
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