第三十八話 運命の牙
まったく、どうして、こんなことになってしまうんでしょうねぇ。
アッシとしては、太平天国と上海租界の間の仲介を提案するだけでお
だって、常識的に考えて、白人至上主義の欧米列強が、日ノ本の交渉に、上海租界の命運を賭けるなんてこと、する訳がないでしょ。
アッシらが提案し、上海租界側が太平天国と折衝を行って成功すれば、日ノ本の提案で停戦に成功したということで、日ノ本の評判が上がる。
その上で、太平天国が日ノ本との間の交易を望むというのなら、改めて折衝を行えば、安全に果実だけを頂けば良い。
もし、折衝が失敗したところで、その責任はアッシらにある訳ではないでしょう。
失敗は、仲介を受け入れなかった太平天国や実際に折衝を行った交渉役の責任ということですからね。
いや、そもそも、上海側が、アッシらの提案を無視して、太平天国と戦い続けたって構いやしません。
上海の為を思って、アッシらが提案したという事実だけでも残れば、それも日ノ本の評判を上げるのに貢献してくれることでしょうからね。
提案をするだけして、危険は冒さず、日ノ本を評判だけを上げる。
それが、目的だったはずなのですがねぇ。
お武家様は、自分の言葉に魂を込められる。
提案が受け入れられないならば、命も懸けるのがお武家様のやり方。
そいつは、よーく分かっているつもりで、通詞をして下さる江川英敏様にも、中島三郎助様にも、これは提案するだけのこと、提案が受け入れられなくとも構わないし、上海租界と太平天国の折衝に参加出来なくとも構いませんと事前に申し上げたつもりだったのですが。
アッシの言葉をどう解釈されたのか。
江川様が頑張って下さいまして。
いや、通詞として、正確に話す者の意思を伝えるという意味では違うのじゃないかなとも思うのですが。
でも、アッシも余計な事を言わないでくれなんて、お武家様に言う事も出来ず、
『このようなことを言っておりますが、その様なことはないと伝えても宜しいでしょうか』だの
『武士に二言はないと答えてもよろしいでしょうか』だのと聞かれた時に、そんなことを言わなくて良いなどと言えなかったアッシも悪かったのでございましょうか。
折衝の結果、アッシは蒸気船朝暘丸に乗り、上海にいたイギリスの軍艦と共に長江を遡り、上海租界を攻めていた太平天国軍の陣の傍まで移動することになったのでございます。
文字通り、仲介役として、太平天国と英仏の間の折衝を取り持つ為に。
いや、確かに、中島様は漢文は達者であると申しますから、太平天国との筆談は可能なはずでございましょう。
そして、太平天国側と折衝する上で、合意内容を文字で残すことは、今後の揉め事を避ける為にも、恐らくは必至の状況。
更に、上海にあった英仏の軍艦には、朝暘丸の様な蒸気船もございません。
だから、折衝が失敗し、太平天国が攻撃を仕掛けてきた場合には、長江を自在に動ける蒸気船、朝暘丸があった方が便利に決まっておりますよ。
その辺を考えるとね、アッシらが、本当に仲介し、立ち会った方が、折衝の成功率は上がることは間違いないとは思います。
ですが、本当に仲介として折衝の現場に参加すれば、太平天国側から攻撃され、被害が出る恐れだってあるのですよ。
江川様と中島様には申し上げていないことではありますが、今回の折衝役で来られたイギリスのパークス様は、アッシの夢の中ではアロー戦争の際、交渉に出て、清国に拉致された方でございます。
もし、運命というのがあるのなら、夢と同じ様に、パークス様が拉致される危険があり、それに同行したアッシらは、それに巻き込まれる可能性すらあるのですよ。
アッシとしては、そんな危ない橋を渡りたくないのですがね。
それなのに、アッシが危険を訴えると、万が一、太平天国側が奇襲などの暴挙に出た場合は、返り討ちにしてやるとか嬉しそうに言うのは、お武家様とは考え方の根本が違うと実感させられることではございますな。
こうして、アッシらはイギリス軍艦と共に、朝暘丸で、太平天国の陣の近くまで行くと船を止め、碇を降ろしたのでございます。
と言っても、太平天国の陣が直接見える訳ではないのですが。
太平天国側は軍艦からの艦砲射撃を恐れ、船からは見えない丘の向こうに陣を配置している模様。
丘の上には見張り台があるので、おそらく、あの丘の向こうに太平天国軍の陣があるのだろうと推測したのですな。
そこで、捕虜を連れて、丘の上の見張り台の前まで軍を移動させ、丘の向こうに太平天国軍がいることを確認したところで、捕虜の解放を行ったのでございます。
上海租界側に太平天国と折衝するつもりがある旨を捕虜たちに告げ、更に中島様の書いた文を持たせた上で、ですな。
内容は、
『上海租界側は、この不幸な太平天国との間の諍いを停止する用意がある。
その諸条件の折衝の為に、明日の朝から一日待つ。
日が沈むまでに、折衝出来る使いの者を、丘を越えて、ここまで派遣して欲しい。
折衝に来た者の安全は保障する』
という単純なもの。
まあ、大陸の常識から言うと、朝貢などを見て解るように、目下の者が目上の者に会いに行くのが常識でございますからねぇ。
あるいは、この文は、大陸の常識から見ると少々無礼な文に感じられるやもしれません。
ですが、農民反乱と然して変わらない太平天国の陣の中に行くなど、絶対にご免こうむりたいので、この様な文にして貰ったのでございます。
この文を見て、明日の昼まで誰かが来れば、それで良し。
来ないならば、それは、それで仕方がないと。
実際、折衝する気も、話を聞く気もない相手と折衝する方法なんぞ、アッシは知りませんからな。
相手が折衝する気もないのに、ノコノコ相手の陣に出向けば、夢の中のパークス様の様に拉致される危険もございますし。
まあ、この辺が上海議会で話し合った結果だったのでございますよ。
ただ、アッシは折衝の開始については、正直、楽観的でございました。
まず、ここにいる太平天国軍は一度上海租界を攻め、イギリス軍艦からの艦砲射撃を喰らって、こっぴどくやられた軍でございます。
更に、どういう訳か上海付近に残っているにしても、艦砲射撃を恐れて、長江からは直接砲撃できない位置に布陣しているという状況。
そして、先程、アッシらの船が到着すると、見張り台にいた連中は、上に布陣している優位を捨て、全員、仲間のところに逃げちまったようですから、どう考えても、そんなに戦意が高いとも思えません。
そんな中、本当に太平天国が逆転の秘策を持っているにしても、戦意が高くない軍を率いているなら、折衝の話くらいは聞いてみようという気になるだろうと予測してのことでございますな。
そして、約束通り、翌日の朝、イギリス軍、フランス軍、そして日本軍は連れ立って丘の上に布陣。
大砲は持って行きませんが、奇襲を受けた場合に備えて、鉄砲などの武器はたっぷり用意いたします。
まあ、これは戦う為というよりは、威嚇には威嚇で返す為の武器ではありますが。
折衝だと言っても、相手が無防備であるならば、拉致して、折衝を優位い進めようと考える
そして、太平天国側からの奇襲があれば、基本反撃することなく、船への撤収を急ぎ、軍艦からはアッシらを襲撃した太平天国を艦砲射撃で撃退することを決め、ノンビリと待つことにしたのでございます。
すると、程なくして、太平天国側の陣からも、こちらと変わらぬ数の軍が丘に上がって参ります。
整然と規律正しく。
恐らく、上がってきたのは太平天国の中でも精鋭なのでございましょう。
太平天国など、薄汚れた盗賊紛いのならず者集団であると予想していたアッシらとしては少し驚かされる光景でございます。
この様子から考えるに、この丘を放棄したのも、戦意が低かったのではなく、戦っても無駄だから、すぐに撤退せよと命じられていたのやもしれませんな。
戦意が低いと予想したには、アッシの見こみ違いだったのやもしれません。
ですが、幸い、太平天国も、折衝をする気にはなってくれている様で。
それも精鋭まで連れて折衝の場に現れるというなら、それは只の使い走りを寄越したのではなく、それなりの実力者が来ることが予想されます。
それは、あちらも話を聞く用意があると示す姿勢なのでございましょうな。
そして、日ノ本立ち合いの下、太平天国と欧米列強の折衝が始まったのでございます。
やり方として、まず、パークス様が太平天国側に話すことをフランス語でこちらに確認。
その内容を漢文に直したところで、パークス様が清国の言葉で話すという方法を取りました。
まあ、迂遠ではありますが、折衝の内容を間違わない為に、慎重を期したのでございますな。
そして、こちらの発言と文を確認すると、太平天国側の折衝役が同じ様に漢文を書いた上で、発言するという形式を取られたのでございます。
まあ、これで互いに、誤解なく、折衝が出来るということでございますな。
折衝役に現れたのは、
軍の指導もしている、かなりの実力者のはずでございます。
その様な実力者を出して来るのは、太平天国側も、折衝に乗り気であるという証拠でございましょう。
ですが、確か、上海租界襲撃に来たのは、南京を陥落させた将であると聞いていたのですがねぇ。
アッシの夢では、南京を陥落させた将軍は、ヤンという奴だったはず。
果たして、歴史は変わり、南京を陥落させた将軍まで変わってしまったのでございましょうか。
それとも、南京攻略に成功した成功した将軍が指揮をしているという情報自体が間違い?
あるいは、太平天国は、南京を陥落させた将軍だけでなく、もう一人の将まで、上海襲撃に投入した上で、この石達開なる者がヤンの命令で折衝役で来ているだけのことなのでございましょうか。
アッシが、そんなことを考えている中、互いの自己紹介が終わり、パークス様が折衝の口火を切られます。
「まず、確認したい。
我々、上海租界は、4年前、あなた方、太平天国が南京条約を守る限りは、清国とも、太平天国とも、中立を保つと約束したはずだ。
それなのに、何故、あなたがたは、その約束を破り、上海を襲撃して来たのだ。
その理由をお聞かせ願いたい」
「あなた方の主張する中立が信じられないからだ。
我々は、清国が、あなた方の援助を受けているという情報を掴んでいる。
あなた方が、中立の約束を守らない以上、我々が南京条約を守り、アヘンの流通に目を瞑る理由もないはずではないか」
なるほど、やはりロシアが清国に援助している。
少なくとも、その噂が流れていることが、上海租界襲撃の原因の一つなのでございますね。
当然のことではございますが、パークス様は清国に対する上海租界の援助を否定されます。
何しろ、清国はイギリスにとっても略奪すべき美味しい獲物。
助ける理由なんぞ、最初からなく、だからこそ、太平天国をこれまで放置し、清国の国力を低下させるのに利用していた位でございましたからな。
「それは、あなた達の間違いだ。
我々が、清国を援助し、中立を破っているなどと言う事実はない。
清国を援助している可能性があるとすれば、ロシアだが、ロシアは現在、我々、英仏と戦争中の国。
その様な国が清国を援助したところで、我らには何の責任もない。
君たちも、清国が我らに攻撃したからと言って、その復讐として、太平天国に我らが攻撃を開始したら、憤慨するであろう。
それと同じことだ」
パークス様がそう言うと、石達開様は暫く考え、尋ねる。
「あなた達が清国を援助していないという証拠を出すことは可能か?
少なくとも、太平天国は、あなた達が中立の約束を破っていると認識している。
ならば、証明して貰うことが必要なのだ」
「やっていないことを証明するなど、不可能だ」
「では、あなた方は何をしに来たのだ?
折衝するつもりがあると聞いたから、私は、ここまでやって来たのだが。
証明もなく、我ら、太平天国の見解は誤解だったから謝り、撤退しろ。
そうすれば、『中立』は守ってやるとでも言うつもりか」
石達開様がそう言うと、パークス様はアッシが提案した上海からのアヘン商人追放案を出されます。
英仏が清国を援助していないという証明がないにせよ、アヘン商人を上海から追放することが出来れば、上海襲撃隊を指揮した者の面子はとりあえず立つはず。
だから、上海襲撃隊の指揮官の下へ確認を取りに行くだろうと言うのがアッシらの予想でございました。
ところが、石達開は太平天国の本陣に使いを出すでもなく、中立が証明出来ない以上、アヘン商人を追放しただけでは足りない、ロシアが清国を援助しているならば、英仏は太平天国にも援助を開始しろと、更なる要求を重ねて参ります。
やはり、何かがおかしい。
その様子に、アッシは違和感を覚えたのでございます。
太平天国側に、妙に余裕がないのですよ。
上海襲撃で犠牲が出たにせよ、この丘の上から見る太平天国の軍は、それ程の損害を被っている様には見えません。
聞いている限り、清国が実際にロシアに貰った装備で攻撃してきたという事実もないようでございます。
それならば、上海から欧米のアヘン商人を追い出したという名声だけで、太平天国はアヘン戦争後の重税に苦しむ農民たちの希望の星となり、今より更に多くの民衆蜂起が期待出来るはず。
戦力増強も、清国以上に国を異国から守れるという名分も手に入れることが出来る。
その様な案ですから、アヘン商人追放案は、せめて持ち帰って検討する余地位はありそうなのに。
その上で、南京攻略に成功した将軍がこの軍の指揮を執っているのならば、アッシの夢とは違い、太平天国は内紛を起こして国力を消耗している訳でもないのですから、太平天国はアッシの夢の中よりも、ずっと有利なはずなのに。
どうして、こんなに余裕がないのでございましょう。
パークス様と石達開様が、丁々発止のやり取りで折衝を進める中、アッシは一つの可能性に気が付きました。
どうして、太平天国側に余裕がないのか。
南京を攻略した将軍が指揮していると聞いていたのに、どうして折衝の場に、この石達開様が現れたのか。
それは、夢を見たアッシだけにしか気が付きようもない、嫌な可能性でございました。
ここまで、アッシの夢を伝えた方々は、アッシの夢に見た運命に逆らい、それを変える為に奔走されて参りました。
それで、随分と世の中、変わって来てはいるのでございますよ。
国防軍が生まれ、攘夷の声は下火になり、交易もかなり日ノ本に有利な条件で始まっております。
何度かあった大地震でも、その被害は夢の中より、すっと小さいものになっているはず。
コロリなどの疫病の大流行も随分防いでいるはずでございます。
ですが、どうも、
変わった様に見えても、異国の船は津波で沈み、江川英龍様、阿部正弘様、藤田東湖様など、寿命でもあるかの様に次々に病で倒れられ、ある者は鬼籍に入り、ある者は病臥に伏しておられる。
ならば、南京攻略に成功したはずのヤンなる将軍も同じ様に、鬼籍に入ったのではないか。
そう考えると、太平天国側に余裕がないのも、石達開様がここにいる理由も無理なく説明がつくのでございますよ。
本来、軍の指揮官は、簡単に討たれる様な位置で指揮を執るはずなどないのでございますがね。
ですが、南京攻略に成功したヤンなる将軍は、アッシの夢では、去年の秋頃に内紛で粛清されていたはずのお方。
その方が
上海襲撃隊が混乱状態となり、撤退すら出来なくなることも理解出来ることでございます。
そして、その軍の指揮を執る為に、石達開様の様な別の将が派遣されることも。
それだけの人的被害が出ているのならば、アヘン商人の上海追放だけでは割りに合わないと判断し、援助の要請を続けることも。
いるはずの指揮官の意向を確認しようとしないことも。
全て辻褄が合う話なのでございますな。
まあ、こいつはアッシの想像、妄想に近い話。
ヤン将軍の安否を確認したところで、その死が事実であるとしても、先方は決して口を割らないことでしょう。
ですが、その事は改めて、アッシに
寿命が本当に決まっており、
足掻いても変えられない運命が存在するのならば、日ノ本が分割支配される未来というのも、避けられないものなのでございましょうか。
変えられない
長い折衝の末、上海租界は提案通り、上海租界からのアヘン商人の追放を約束。
日ノ本は、太平天国が上海租界への攻撃をしない限り、交易を始めることを約束。
その約束を受けて、改めて、太平天国は軍を撤退し、日英仏米に対して、攻撃を行わないことを約束することになったのでございます。
このことで清国から、不満の声があれば、清国に対しても、武器の交易を始めてやり、大陸全体に欧米列強からの侵略に対抗する力を分け与え、同時に大陸の状況を支配し、群雄割拠の状況を作り出す。
そのことが出来れば、日ノ本はより安全になるはず。
そう思いつつも、アッシの中に不吉な予感が
****************
アッシらが、こうして太平天国との折衝を進めている頃、日ノ本では更なる衝撃を伴う提案が、アメリカの日本視察団に同行しているロチルド家次期当主アルフォンス・ド・ロチルドからなされていたのでございます。
曰く
「借金の担保としているアラスカの代わりに、蝦夷地、その未開の地の一部で構わないので、譲渡して貰えないでしょうか」
と。
日ノ本に更なる激変が近づいていることを、この時のアッシはまだ、知る由もございませんでした。
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