第三十五話 平八のはじめの一歩

朝暘丸が上海に丁重に誘導され寄港すると、早速、上海租界行政の要、上海市議会(工部局)へと案内されました。

上海は戦時中の所為か、思っていたより、ずっと汚いというのが正直な感想。

日ノ本に来た異国人が、その清潔さに感動するというのは納得する話ですな。

まあ、香港も十分汚かったのですが。

上海の場合は、太平天国の乱から逃げた清国の難民が道に溢れるようにいるので、街の混乱に拍車が掛けられている様でございした。


上海市議会に入ると、アメリカとイギリスを代表する議員が、既に集まっているようでございました。

イギリス船が朝暘丸を誘導している間に、朝暘丸寄港の目的を伝え、関係者を集めたというところでしょうか。

もっとも、フランスの代表者は少し到着が遅れているようでありますな。

上海租界は、南京条約によって、約15年前に設立されました。

設立当初は、イギリス、アメリカ、フランスが、それぞれの租界を持って、統治をしていたと申します。

ですが、今回の太平天国の乱での太平天国の攻撃を警戒したイギリスとアメリカは防衛共同会議を設立して、上海を共同租界として統治する様になったのですな。

ところが、フランスは、この防衛共同会議及び共同租界への協力を拒否し、フランスだけでフランス租界は独自の統治をしていたと言います。

この様に、普段、参加しない方々に声を掛けに行った分、フランス代表者の参加に時間が掛かるのでございましょう。

その間に、アッシは廻りの様子を眺めながら、中島様、江川様とこれからの折衝のやり方について相談をさせて頂きました。

辺りに日本語を解る人間がいないから出来ることではありますが、その辺は便利で助かることではございますな。


議長役をすると思われるのが、ラザフォード・オールコック在上海イギリス領事。

アッシの夢だと、もう上海領事を辞任して、広州領事に任命されていたはずなのですが、香港でパークス様に聞いたところによると、オールコック様は、まだ上海領事を続けられているとのこと。

クリミア戦争が長引き、日ノ本に領事館が開かれていない為に、ここにも歴史の変化が訪れているということでございましょうか。

このオールコック様は、アッシの夢では初代駐日英国領事になられるはずであったお方。

日ノ本の百姓の豊かな生活を賞賛しつつも、キリスト教徒でない日本人を劣等民族と蔑んでいたとも聞き及んでおります。

つまり、キリスト教至上主義の価値観をお持ちの方なのですな。

そのくせ、英国首相パーマストン子爵に清国攻撃を唆す書簡を出してアロー戦争の首謀者の一人になったり、四国艦隊を組んで長州藩の下関の砲台に反撃をさせたりする強硬派でもありますから、キリスト教と言うのは暴力的な宗門(宗教)なのでございましょうか。

ただ、同じキリスト教のお題目では博愛だの、平等だのとも言っていたと思うので、アッシには良く解らないところではございますな。

もっとも、オールコック様は、アッシの夢では、日ノ本を攻めるには大軍が必要で、勝利したとしても、反感を持つ大量の民草の統治をイギリスがするのは難しいと本国に報告して下さった方でもございました。

おかげで、アッシの夢でも、大日本帝国はイギリスに完全に植民地とされることもなく、イギリスの属国扱いで済んでいたのやもしれませんので、多少の恩がある方と言えるのやもしれませんな。


その他に座って歓談している議員は全員で8人。

その内訳は、江川英敏様が聞いたところによると、イギリス人5人、アメリカ人3人。

英米の上海共同租界は、ここでの評定で多数決を行い決定を下しているとのこと。

そして賛否同数の場合には、議長の票が決定を下すという仕組みであるそうですございます。

果たして、アッシの夢でもそうだったのか、それとも、歴史の改変により一時的にそうなっているのかは、もうアッシでは解らないところではありますな。

何しろ、領事がアッシの夢とは変わってしまっておりますから。

統治の仕方も変わってしまっている可能性がございます。

ただ、いずれにせよ、イギリスによる清国攻撃を進言したとされるオールコック様が、今回のアッシの論敵となることは間違いないでしょう。

何しろ、アッシら、日ノ本の政略目標は、欧州のアジア侵略を遅らせることですから、イギリスの清国侵略を進めるオールコック様とは対極の立場にございますからな。

全く、庶民のアッシには、荷が重い話でございますよ。


そうこうして、フランス代表の到着を待っていると代表を呼びに行ったベルクール様が、5人程のフランス人を連れてお戻りになられました。


「お待たせしました。フランス租界の代表者をお連れしました」


ベルクール様は、そう言うと順にフランス領事から紹介されていきます。

まあ、これはアッシらの為の紹介でございましょうな。

上海租界は、太平天国の乱が起こり、防衛共同会議への不参加をフランスが決めるまでは、それなりに交流のあった間柄。

今は、統治機構も明確に英米の上海共同租界とフランス租界に分かれているとは言え、それなりに交流はあるのでしょうから、今更、紹介する必要もない関係ということでございましょう。

とは言え、紹介されても、アッシの様な庶民が、聞いたことのない異人の名前を一発で覚えることなど不可能。

とりあえず、夢の中で見た名前の方はいらっしゃらなかった様なので、フランス領事が誰かと確認し、お顔を覚える事くらいはしておきますかな。

ベルクール様のフランス側代表の紹介に続いて、オールコック様より共同租界側の紹介が行われ、とりあえずの取り纏め役を引き受けたオールコック様が話を始められます。


「さて、とりあえずの紹介が終わったところで、早速ですが、本題に入らせて頂きましょう。

既に書簡で内容を確認されていると思うのですが、改めて、日本側から話を伺いたい」


全員の目がアッシに注がれるのが解ります。

日本側の参加者は、アッシと江川様と中島三郎助様。

こんな時、象山先生なら、この注目を喜び、嬉々として話を始めるところなのでしょうが、アッシはそんな大物ではございません。

せめて内心で怯んでいることを悟られぬよう、象山先生なら、どう話すかを考えながら、まずは象山先生と打ち合わせしていたことを話すことにします。


「私は、佐久間平八。

上海租界に対する太平天国の攻撃があり、イギリス側からの反撃が始まったという報を聞いた幕府の命を受け、状況の調査に参りました」


そう言って、頭を下げたいところ、欧米には頭を下げる習慣はないと聞いておりますので、微笑んで会場全員に視線を巡らせてから、話を続けます。


「これまで確認したところによりますと、太平天国は、この上海租界にいる者がアヘンを周辺に販売したと非難。

アヘン商人を取り締まるという名目で上海租界を襲撃。

それに対して、イギリス側が在上海イギリス人保護の名目で太平天国へ反撃を開始。

とりあえず、上海への太平天国の侵入は防げたが、太平天国の数が多過ぎる為、完全に追い返すには及ばず。

海からの大砲の届かない位置に、太平天国は軍を配備しており、現在は睨みあいが続いていると伺っておりますが、それでよろしいでしょうか」


アッシが尋ねると代表してオールコック様が答えられる。


「大筋において間違ってはいない。

だが、清国は既に我らに領事裁判権を渡している。

だから、清国の反乱勢力である太平天国には、アヘンを取り締まる権限はないのだ。

そしてイギリス国内において、アヘンの売買は違法行為ではない。

それ故、太平天国の上海租界攻撃には、何の正統性もなく、自衛した我らにこそ、彼らを非難する権利があることをお伝えしておこう」


ほう、パークス様と違ってアヘン商人が存在しないとは仰せにならないのでございますね。

まあ、実際にアヘン商人がいるならば、存在しないという事は難しいということなのでございましょうか。


「なるほど、そうですか。

いずれにせよ、ここには太平天国の急な襲撃など、想定されていなかった方が多くこの上海にいると思われます。

そこで、平和を愛する我が日本としては、避難を求める方の手助けをしたいと、遥々日本より、香港を経由して、この上海まで参上した次第でございます」


アッシがそう言うと失笑する空気が広がる。

まあ、つい最近まで、外国船打ち払い令を出し、外国船と見れば砲撃していた国が平和を愛すると言っても説得力ないこと、この上ありませんからな。


「我らは太平天国の暴徒など恐れません。

それに手助けをして下さるというのなら、乗ってきた蒸気船で共に暴徒の鎮圧に協力して下さった方が、勇猛果敢な貴国には相応しいと思うのですが」


だから、オールコック様も、こんな皮肉を仰るのでしょうな。

ですが、この辺りは既に象山先生とも話し、想定済みのことなので、驚きはありません。

まあ、相手に気を遣う日ノ本の人間であるなら、こんな皮肉自体言う事はないのですが、やはり異人は我らとは常識が違うなぁとも思いますが。


「我が国が、平和を愛すると言うと、どうも皆さまは驚かれるようですが、それは事実です。

我ら、日本人は異国との関係を断ち、その中で平和を享受しておきたかった。

それ故、異国には我が国への入国を禁ずると通達していたはずです。

あなた方は、他人が無許可で家に入ってきた時に、歓迎される習慣をお持ちなのでしょうか。

そんな事はないはずです。

だから、我らが我らの国の秩序を守る為に、自らを守ろうとしたことを責められる筋合いはないはずですが、違いますかな」


そう言って、象山先生になったつもりで、辺りを見渡す。

日ノ本を含む、清国などの儒教国は、理屈よりも、権威がものを言う世界。

何を言うかよりは、誰が言うかが重要な世界。

それ故、象山先生のように論理を組み上げる型の話し方は意外なのか、少し驚いた様な顔をしておられる方が多いようですな。

そんな様子を確認してから、アッシは続けます。


「とは言え、我らはあなた方の熱烈な開国の要望を受け、条約を結んだ国とは幾つかの条件を付けた上で対馬など幾つかの港で交易を始め、異国への交易船を出すことを始めました。

我ら、日本は約束を守ります。

それ故、あなた方が我らとの約束を守る限り、友となり、裏切ることはありません。

ですから、お困りならば、出来る範囲で、お助けしようかと声を掛けさせて頂いた訳です」


出来る範囲でという言葉を強調した上で話を続ける。


「しかし、その要請が、いくさに参加しろということならば、お断りすることになります。

我らは、大陸の権益争いに参加するつもりはありません。

あなた方の様に、清国を天竺(インド)の様なコロニー(植民地)にするつもりはないのです。

そして、同時に、ロシアとイギリス、フランスとの間のいくさにも参加するつもりはございません」


こちらの世界では、まだ継続中のクリミア戦争のことを持ち出すと、何人かは納得した様に頷く。

もし、上海租界を守る為という名目で太平天国への攻撃に日本が参加すれば、英仏と日本が同盟を組んだと看做して、ロシアが日本を攻撃してくる可能性という危険に思い至ったのだろう。


「だから、出来る範囲の助けということで、上海からの避難を望まれる方がいれば、香港へとお連れしようと申し出たのですが。

余計なお世話でありましたでしょうか。

どんな有利ないくさであったとしても、戦えば被害は必ず出るはずです。

圧勝と言われる戦であろうとも味方の被害が全くないということはあり得ない。

そして、その様な被害に万が一でも巻き込まれたくないという方も、また必ずいると思うのですが」


こうやって申し出て、断られたならば、そのまま帰ってきても構わないというのが象山先生の授けて下さった策でございます。

助けの手を差し伸べたという事実があれば、その手を握る者がいなかったとしても、日ノ本の評価は上がるだろうということですな。

実のところ、香港では既に幾つかの欧米の新聞社を訪問し、日本が上海からの避難を望む方々の救出に行くことは宣伝済みなので、断られたところで痛くも痒くもない状況なのですよ。


「なるほど、そういう事でしたか。

まずは、日本の暖かい人道的支援の申し出には心より感謝致します。

確かに、家族連れで来ている者の中には小さい子どもやご婦人を連れている者もいるでしょう。

あるいは、病気や怪我の者もいるかもしれない。

もっと言えば、商売で来ているのに、戦争で商売が出来なくて困っている者もいるかもしれない。

そういう者の中には、避難を望む者もいるかもしれません。

その意向を確認する為にも、こうして各国の代表に集まって頂いた訳なのですが、大前提として確認したいことがあります。

あなた方は、一度に何人くらいまで、香港まで運ぶことが可能なのでしょうか?」


上海から避難させるという話は、既に書簡で英米の代表とフランス共同租界の代表には既に伝えております。

ですから、ここからが折衝の本番ということでございますね。


「香港までなら、然程、遠くもなく食料の積み込みも少なめで問題ないでしょう。

ならば、最大で100名は乗せられるかと」


ここまで行って、アッシは言葉を切る。

元々の策ならば、この後、避難民を乗せるか乗せないか、乗せるならば乗せる対象はどうやって決めるのか。

避難民の国籍の配分はどうやって決めるのか。

そもそも、日本の船が避難民を乗せて香港に脱出することを一般の者達にも伝えるのか。

それとも秘密裡に誰を避難させるかを決めるのか等は、全て異人連中の判断に任せ、その判断に従えば、それで十分、日ノ本に対する異国の評価は上がることになる。

それで、もう十分なはずなのでございます。


ですが、気が付いちまったのでございますよ。

更なる一手。

断られたり失敗したところで、日ノ本の評価には響かず、成功すれば更に日ノ本の評価を上げられそうな一手を。

中島様や江川様とも折衝を重ねましたが、恐らく大丈夫であろうとのこと。

象山先生ならば正しいと信じれば独断専行。

自信満々に動かれるところでございましょうが、果たして思い通りに動くのか、アッシなんぞには恐ろしくて溜まらないのですよ。

ただ、何処かで、自分なりの功績を上げたいという欲という物がアッシにも芽生えたのやもしれません。

それが果たして、良い事なのか、悪い事なのか。

功績を上げたところで、別に何か報われる訳でもなく、欲しい物がある訳でもないのに。

江川英龍様、阿部正弘様、象山先生の期待が胸に浮かびます。

アッシは、あのお方たちの期待に応えたくなって来ているのでございましょうか。

ふと見ると、既に提案することを伝えている江川様と中島様の目がアッシを見詰められます。

お二人に相談なんかしなきゃ、こんなことを言わないで済んだかなと少々後悔しながら、象山先生になったつもりで、アッシは話を続けます。


「そう、この広大な上海で一度に100人程度しか避難させられないのです。

かと言って、避難を希望される方を何往復もして避難させることは、さすがに難しい。

だから、改めて提案があります。

我々は太平天国に関する幾つかの情報を入手しました。

その結果、太平天国の上海租界への攻撃を食い止めることが出来る可能性があると判断しております。

我ら、日本に太平天国と上海租界の間の仲介を任せて頂けないでしょうか」


アッシは内心の言わなきゃ良かったという後悔を隠しつつ、象山先生の様に不敵に笑って見せたのでございました。

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