第三十四話 平八、上海に行く

香港を出た朝暘丸は、上海に向け、順調に北上していきます。

アッシの夢の中では、今から3年後、アメリカ視察に向かった咸臨丸の船員たちは、まだまだ未熟で、アメリカ人船員の足を引っ張ったと言いますが、今の日本海軍は違います。

訓練を始めた時期が夢の中より早かったおかげか、夢の中よりも身分に拘らずに人を集めたおかげか、それとも、アメリカ、香港、上海と何度も往復しているおかげか、実に安心して見ていられる航海でございました。

今回の香港にしても、朝暘丸船員並びに、その船長中島三郎助様は、既に何度も往復している場所ではあるし、より日本に近い上海も何度か訪問している地でございますからね。


今となって考えれば、上海にも日本商社の支店を置いておくべきであったかもしれませんな。

アッシはふと、そんな益体もねぇことを考えちまいます。

交易の利点だけを考えれば、今の上海に支店を置く意味はあまりなかったというのは間違いないことでございましょう。

上海は乱を起こしている太平天国にも近く、日ノ本の物を買う余裕のある者など多くはいないでしょうから。

ですが、ここに日本商社の支店があれば、もう少し情報収集は楽に出来たことだろうにと、ついつい考えちまうのでございますよ。

支店はなくとも、日ノ本の商人で上海に残っている者がいれば、独自の情報収集も可能なのですが、その様な方がいてくれるかどうか。

まあ、日の丸を上げて上海に行けば、上海でのいくさに巻き込まれた日ノ本の商人ならば、向こうから来てくれることでしょう。

そんな幸運を期待せずに待つしかないでしょうかね。

そんな事を考えながら、辺りを見渡すと甲板では、観戦武官の皆さんが甲板で寛いで歓談をされておりました。


香港から上海への数日間の航海は順調で、観戦武官の方々の日ノ本に対する評価が目に見えて上がってきたのは、狙い通りと言えることでしょうな。

オランダ海軍のカッテンディーケ様が観戦武官として参加していると聞いて、他にもオランダ人船員が乗り込んでいると思い込んでいたイギリスのパークス様は結構慌てていた様ではありますが。

日本人の船員なんぞ信用出来ない。

どうせ、教官役のオランダ人船員が多数乗り込み、いざとなれば舵を取ってくれるとでも思っていたのでしょうか。

一生懸命隠しておられましたが、パークス様の動揺する様子は中々楽しいものでございました。

もっとも、そのパークス様も、数日もすれば、日ノ本海軍の練度を信頼して下さるようになったようでして。

ちなみに、観戦武官の方々が互いに話す言葉は、本当にフランス語でありました。

江川英敏様は良いフランス語の練習になると喜んでおられましたが、アッシは正直、疲れましたよ。

いや、英敏様が翻訳して下さる言葉に、普通に答えれば良いだけなのですがね。

アッシの言葉が日ノ本を代表するなんて、庶民のアッシには荷が重過ぎます。

ずっと微笑んでいるから頬が吊り、正直に申し上げれば、早く一人になりたいというのが本音でございますな。

それで、こうやって、たまに観戦武官の方から離れて、中島様のところに話に来たりするのですが。


そんな中、アッシにとって、助けになったのはカッテンディーケ様でございました。

当然のことでございますが、カッテンディーケ様には、この朝暘丸が日本で作られた蒸気船であることは伝えております。

朝暘丸がオランダ製でないことは、オランダ海軍のカッテンディーケ様に隠せることではございませんからね。

その上で、朝暘丸がオランダからの贈り物であるとカッテンディーケ様から、観戦武官の方々には説明して頂いたのです。

日ノ本とのオランダの関係は、それだけ深い物である。

日ノ本と付き合うなら、それ位の贈り物をしろとね。

これは、日ノ本を出る時にカッテンディーケ様にお願いしていたことでございますな。


日ノ本に蒸気船の数が足りない今の時点で、日ノ本が蒸気船を、それもまだ地球でも少ないスクリュー船を製造出来ることを異国に知られる利点は、オランダにも、日ノ本にもございません。

それなら、オランダからの贈り物としちまった方が、オランダは日ノ本との密接な関係を異国に訴えられて、日ノ本との間の権益を守りやすくなるでございましょ。

オランダが、日ノ本にそこまでするなら日ノ本を植民地にしようとすればオランダといくさになるかもしれないと思わせられるでしょうからな。

まあ、オランダの戦力では、さして恐れられないやもしれませんが。

それでも、未開の国を相手にするだけよりは手強く見えるでしょうから。


で、日ノ本としては、日ノ本の本当の戦力を隠し時間稼ぎが出来るというのが第一の利点。

そして、第二の利点としては、オランダに負けまいと他の国も軍艦などを贈ってくれる可能性ですな。

常識ではあり得ないと思われる話ではありますが、アッシの夢の中ではイギリスも軍艦を贈ってくれておりますから。

まあ、あればお得という程度の話ではありますが。

そうやって、両方に利があることを説明し、カッテンディーケ様にはご協力をお願いしているという訳でございます。


そして、カッテンディーケ様は日ノ本とオランダの深く強い関係を強調するのと同時に日本海軍の優秀さも誇らしげに訴えられる。

こちらは、カッテンディーケ様も本音で自慢げに話されるので、こちらも聞いていて、少々嬉しくなりますな。

日本人というのが如何に真面目で、熱心で、礼儀正しく、我慢強い、教師として理想の生徒であると、カッテンディーケ様は観戦武官の方々に話されます。

カッテンディーケ様は、軍人でありますが、後にオランダの海軍大臣、外務大臣まで務められるはずのお方。

話は、面白く、雄弁であられるので、話の中心がカッテンディーケ様になることも多く、アッシとしては自分が話さずに、笑って聞いているだけで良いので、随分助かったというのが、本音でございましょうか。


そして、香港を出航してから数日で、台湾海峡を抜け、朝暘丸は上海沖に到着致します。

風向きや風力に左右されない蒸気船というのは、たいしたものでございますな。

ブルック大尉指導の下、田中久重様、嘉蔵様らの作り上げた蒸気船は本当に見事なものでございます。

まあ、夢の中でも、オランダで出版された本だけを頼りに、蒸気船を作り上げちまった久重様と嘉蔵様が、既に異常な才幹だったのでしょうが。

それに、津波で壊れたポーハタン号とオランダから送られ今は再びヨーロッパに向かっているスンビン丸(観光丸)という手本があったということが大きかったのか。

それとも、技術教官としてアメリカから正式にお招きしたブルック大尉の指導が素晴らしかったのか。

アッシの夢の中の国産蒸気船とは、桁違いの早さ、安定性、性能でございますよ。


これはブルック大尉が研究中の甲鉄艦(装甲艦)という鉄の船を動かす為に高性能の蒸気機関が必要だったことからも来ているのでございましょうか。

ちなみに、今回、ブルック大尉は観戦武官として参加されておりません。

上海にはアメリカ人の居住区もあり、イギリスと同居している環境ではあるので、ブルック大尉にも来て頂ければアメリカ人には安心材料にもなったと思うのですが。

ブルック大尉の甲鉄艦の研究に没頭されておりまして、今回の参加は見合わせたいと断られたというのが真相であったりします。


上海沖に朝暘丸が近づくと、砲弾の音は聞こえません。

太平天国が上海への侵略を始め、上海側が反撃で砲撃を開始したと聞いておりましたが、今は膠着状態なのでしょうか。

となれば、こちらにも手を打つ余地がありそうですな。


そんな事を考えていると、兼ねてからの予想通りイギリス軍艦が2艘、朝暘丸に近づいて参ります。

一艘が朝暘丸の進行方向を塞ぎ、もう一艘が後ろに回り込んできますな。

あちらはコルベット艦という軍艦でございましょうか。

とは言え、蒸気船ではないようですな。

イギリスの蒸気船は天竺の反乱鎮圧に出てしまって、こちらにはないのやもしれません。

しかし、帆船とは言え、大砲は積んである。

いざとなれば、こちらを撃沈することが出来る状況。

あまり、気持ちの良い光景ではございませんな。

まあ、こちらが立てている旗は日の丸。

朝暘丸は、何度か、上海にも寄港はしていると聞いておりますので、さすがに、いきなりズドンということはございますまい。

そうは考えるのですが、小心者のアッシとしては勘弁して欲しい光景ではあります。


「佐久間殿、恐れることはございません。

こちらが恐ろしいように、あちらも恐ろしいのです。

何しろ、朝暘丸は最新型のスクリュー型の蒸気船である上に、大砲も積んでおりますからな。

万が一、我らが太平天国の側についていて、攻撃でもされたら、溜まらないとでも考えているのでしょう」


中島様が楽し気に話される。


「お武家様は、やはり違いますな。

アッシの様な庶民は、心の蔵が縮み上がる様な心地でございますよ」


「恐れは気取られれば、侮られます。

私も実のところ、これが初陣。

まだ、海戦で戦った経験はございません。

全く恐ろしくないと言えば嘘になります。

ですが、それでも、踏ん張り、余裕を見せねば、兵が動揺します。

動揺すれば、うっかり相手に敵対行為を見せ、状況を悪化させてしまうかもしれません。

折衝の際も同じではありませんか。

佐久間殿は、今回の調査団の云わば総大将。

気合を入れ、観戦武官の方々のところに行って、対処法を聞いてきては頂けませんか」


そう言われて、初めて中島様の手が白くなるほど、手すりを強く握っていることに気が付く。

考えてみれば、お武家様とは言え、250年の太平の中で、実際に戦ったことのある方なんて、ほとんどいないのが、この時代。

相手は地球最強と謳われるイギリス海軍。

そんな物を相手にして、初陣の中島様が恐ろしくないはずがないではないではございませんか。


そう思ったところで、よく考えたら中島様は10年ほど前に、イギリス軍艦だと思い込んで、アメリカ商船モリソン号に、打ち払い令の為に砲撃したお方であることを思い出しました。

ご本人は初陣と主張されているましたが、中島様は、本当は完全な初陣という訳ではないのですね。

もっとも、モリソン号事件の時は沈められる心配のない砲台からの砲撃。

今回は沈められるかもしれない船の上。

その辺が違うのかもしれませんが、そんな方でも、本音は恐ろしいと仰るなら、アッシも頑張らねば。

そう考え、象山先生のことを思い出し、返事をする。


「失礼、僕としたことが、慌ててしまったようだ。

それでは、中島君の言う通り、江川君を連れて、観戦武官の方々に挨拶に行くとするよ」


そう言って、中島様から離れ、江川英敏様と共に観戦武官のところに行くと、観戦武官の方々は楽し気に歓談されている。

ですが、中島様の話を聞いた後なので、アッシは必要以上に恐れずに話しかけることが出来ました。

観戦武官として乗艦していたとしても、実際のいくさに参加した方が、この中に何人いらっしゃるか。

まして、乗っている船は、つい数年前まで異国の船と見れば打ち払いと称して砲撃していた国、日本の戦艦。

万が一、イギリス軍艦に砲撃を始めてしまえば、報復で撃沈されてしまうかもしれないのですからねぇ。

そんな中、本当に余裕がある訳がないではありませんか。

そう考え、アッシも腹を括り、にこやかに話しかけることと致します。


「イギリスの軍艦のお迎えが来たようですが、パークス様、祝砲でお迎えした方がよろしいでしょうか」


アッシがそう言うと、パークス様は一瞬驚いた顔をしたが、アッシの顔を見て、アッシが冗談を言っていることに気が付いたようでニコリと笑って答える。


「いえいえ、そこまでして頂く必要はないでしょう。

出迎えには、我々が行きますよ。

恐らく、板を渡して、何人かの船員が渡って来ることでしょうから、それを我ら観戦武官が出迎えれば十分でしょう」


パークス様がそう言うと、フランスのベルクール様が揶揄する。


「そう、海賊の末裔なら、こんな立派な蒸気船なら、是が非でも自分の物にしたいと考えるはず。

沈めようとする様なことはせず、無傷で拿捕しようと一気に船に船員を送り込んで来ることでしょうな」


実際のところ、この頃のイギリスの軍艦は他国の商船に難癖をつけて、拿捕して売り飛ばし、その利益を船員同士で山分けとかもしていたなんて噂もある程なので、ベルクール様のお話は、それ程、冗談になっていない話だったりします。

まあ、証拠はなく、あくまで噂話程度の話ではありますが。

そんな噂があったから、その対策として、観戦武官に参加して頂いた訳で。

言われたパークス様の方は、少々笑顔が引き攣っておいでですよ。

仕方ないので、アッシも冗談で返すことに致します。


「立派な船と求められることは光栄なことですが、贈り物の横流しは寄贈して下さったオランダに失礼かと」


そう言ってカッテンディーケ様を見ると、苦笑して返されます。


「この船は既に日本に差し上げた物。

日本がどうしてもイギリスに差し上げたいと言われれば、イギリスに渡すことは自由ではあります。

しかし、そうすると、日本に帰る船がなくなってしまうのが問題ですな」


「そうでした。それは困ります。

という訳で、イギリス海軍の方々には、この船は差し上げられない。

あくまでも上海から香港への移動をご希望する方をお乗せするだけだとお伝え願えますか、パークス様」


「喜んで、お伝えしましょう。

しかし、ベルクール様も、カッテンディーケ様も意地が悪い。

我がイギリスは紳士の国。文明国です。

海賊の国の様な言い方をして、知らない方が信じてしまったらどうするのですか」


そう言うとカッテンディーケ様が笑いながら答える。


「大丈夫です。

私は教官として、日本人にはイギリスがどんな国か、ちゃんと教えてあります。

誤解することなどはありませんので、ご安心下さい」


その言葉にパークス様は苦笑しながら、イギリス軍艦の方に向かって歩き出すので、我らはその後に付いて行く。


あそこにあるイギリスの軍艦からは、銃を持った水兵たちが乗り込んで来るだろうが、観戦武官の方々が出迎えれば、さすがに無茶なことにはならないだろう。

何しろ、パークス様は、在上海イギリス領事ラザフォード・オールコック様の元直近の部下。

その顔を知っている方も結構いるのではないでしょうか。


そうして、アッシらは上海への上陸を果たし、オールコック様を始めとする各国の上海領事の方々と折衝を始めることになったのでございます。


折衝の目的は、欧米の清国侵略を遅らせること。

日ノ本への侵略がし難くなる様な世論を作り上げること。

その為に、避難民の救助を申し出るというのが象山先生に与えられた策なのではありますが。


臨機応変、機を見るに敏なのも象山先生。

情報を入手し、策を思いついたのに、何もしないなんてことも、象山先生ならあり得ないことでございましょう。

象山先生の意向を無視すれば、拗ねる恐れはございますが。

象山先生なら、どうするかと必死で考えた結果だと言えば、お許し下さることでしょう。

そもそも、象山先生も、アッシに気楽にやれ、失敗したら、失敗の後始末はして下さるとも仰っておりましたし。

中島様も、江川様も、面白い策だと言ってくださいましたし。


アッシも、アッシの初陣を飾ってみることに致しますかね。

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