第三十二話 平八の香港訪問

平八一行が香港に到着すると、平八たちは香港にある日本商社香港支社に滞在することになる。

そこで朝陽丸は、日本で積み込んだ日本製の陶器、浮世絵等の工芸品を日本商社の倉庫に降ろす。

朝陽丸は、蒸気船として、本来は長期航海の運用に耐える為、乗組員の水、食料を大量に積み込めるようになっている。

それを短期間の航海に運用している為、積まないで済む乗組員の食料分のスペースに商品を積み込み、交易船として運用しているのである。

日ノ本は開国し、幾つかの港を開港したが、別に異人が対馬等の日ノ本の港に来るのを待ってやる理由はない。

サンフランシスコや、ロッテルダムに支店を作ったように、日本は香港にも支店を作り、交易は異国に押し出して行うという水戸藩の主張する押し出し交易を開始していたのだ。

そして、今回の第二次アヘン戦争勃発の情報は、この日本商社香港支店が入手してきた情報でもある。


「さて、佐久間殿、これからどういたしますか?」


日本商社香港支社到着で一息吐くと、観光丸の船長を務める中島三郎助なかじまさぶろうすけ様が、声を掛ける。

一瞬、自分が呼ばれたとは気が付かず、平八は辺りを見渡す。

佐久間などと言う呼び名に慣れておらず、佐久間と聞くと、佐久間象山を連想してしまうのだ。

だが、中島様が自分のことを見ているのに気が付き、平八はため息を吐き答える。


「あ、アッシのことでございますか?

中島様、何度も申しましたが、アッシのことでしたら、平八とお呼び下さい。

お武家様に丁寧な言葉で話されたら、背筋の辺りがこそばゆくなっちまいますよ」


アッシがそう言うと、中島様が苦笑して答える。


「それも、何度もお伝えしましたが、佐久間殿は今回、阿部正弘様の命で、今回の調査団の団長に任命されております。

船に関しての最終的な決定権は私にありますが、調査団全体の決定権は佐久間殿にあります。

ならば、元の身分がどうであろうと、敬うのは当然のこと。

呼び捨てなどにしたら、秩序が保てません」


夢で見た通り生真面目なお方でございますねぇ。

平八はこれ以上議論しても埒が明かないと呼び名に関する議論を諦める。

まあ、お武家様が敬って下さるというのなら、調子に乗らない程度に、そいつを受け入れて置くことに致しましょう。


実際、出発前、平八は象山に口が酸っぱくなる程、注意されているのだ。

平八は出発前の象山とのやり取りを思い出す。


**********************


「良いか、平八君。

君は、今回、全権とは言わぬまでも日ノ本を代表して各国の代表と会って貰わねばならぬ。

となれば、決して卑屈になってはいけない。

日ノ本と力を侮られるのは構わぬ。

日ノ本など、鎧袖一触がいしゅういっしょく

いつでも簡単に倒せる未開の国だと思わせ、その間に国を富ませ、軍備を増強するのが基本戦略なのだからな。

だが、脅せば何でも言う事を聞く、弱腰と思われてはいけないのだ」


「難しいところでございますな」


「だから、君には僕の様に堂々とした態度で異国に立ち向かって貰う必要があるのだ。

人間と言うのは、目の前の現実を無心に見ることが出来ない生き物だ。

それよりは、事前の印象に引きずられる傾向がある。

平八君は約6年前の僕の大砲の試射の話を聞いているかね」


「6年前と言うと、アッシが象山先生にお会いする2年前のことでございますね。

申し訳ございませんが、その頃のアッシはその日暮らしが精々でございましたので」


平八が申し訳なさげに応えると、鷹揚に返す。


「ああ、知らなくても構わん。知らんでも良い事なのでな。

簡単に言うと、僕の初めての大砲の試作と試射だったのだが、思い通りの結果が出なかったのだ。

おかげで、僕の天才を妬む連中は事ある毎に、試射の失敗を持ち出し、僕など大したことはないと吹聴しているという。

そのおかげで、僕程の天才が、なかなか幕府に召し上げられなかったと言う訳だ。

あ、勿論のことであるが、試射の失敗は僕の失敗ではないぞ。

僕が設計した大筒が壊れるはずはないからな。

(勝)麟太郎君の推測によると、恐らく、大筒の製造を発注した業者が安く仕上げる為に、混ぜ物をしたか、厚みを誤魔化したかしたのだろうと言っていたからな」


自分が失敗したと思われたくない象山が懸命に言い訳するのを微笑ましく眺めた平八はそうでしょうともと頷いて見せる。


「つまりだ。平八君には、その点も気を付けて対応をしてきて貰いたいのだ。

今回の香港、上海訪問の目的の第一は、第二次アヘン戦争の情報収集だ。

これは解るな」


平八が頷くのを確認すると、象山は続ける。


「そして、第二の目的は、イギリス、フランス、オランダ、清国、太平天国、どの勢力とも、敵対せず、日ノ本の評判を上げることだ。

まあ、これは難しいことなので、出来ればで良いが、少なくとも、こちらから手を出して敵対関係にはなる様な事態は避けて貰いたい」


「こちらから手を出さぬはともかく、日ノ本の評判を上げるというのは、簡単なことではございませんな」


「まあ、難しいことは解る。可能ならばと考えておいてくれ。

その辺は出発までに、僕が何度も訓練をしてやるから、その通りにやって貰って構わない。

その上で迷ったら、僕、佐久間象山ならどうするだろうと考え、行動するのだ。

君も、僕の中間となって3年になる。

僕の通りとは行かないだろうが、多少は僕の真似程度は出来るだろう」


「いえいえ、アッシなんぞが象山先生の真似なぞ」


アッシがそう言うと象山先生は胸を張って頷く。


「まあ、当然、難しいのは解っている。

むしろ、僕の様な天才の模倣は危険ですらあるかもしれぬ。

凡人が中途半端に真似れば、生兵法は大怪我の基。大失敗を犯す危険もあるからな。

だが、何の指針もないよりは、遥かにマシであろう。

君の夢通り、僕が7年後に死ぬならば、僕無き世を君たちが活動しなければならないのだ。

勿論、それまでに僕が死んでも盤石の体制を築くつもりはある。

万が一の場合に備えての対策も伝授しておくつもりはある。

だが、その指示に盲目的に従うだけでは足りないかもしれないのだ。

まず、考えろ。僕がいれば、どうするか、何を言うかと。

目的を忘れず、何の為に行動すべきかを考えるのだ。

それに、平八君には再三言う通り、状況を客観的に見る目が備わっている。

今回、君を香港・上海に派遣するのは、君に経験・実績を積んで貰う為でもあるのだ」


そこまで言われて、アッシは象山先生の言っていることが腑に落ちる。


「経験と実績を積む。

そのことによって、象山先生が亡き後、アッシの言葉に重みが増すということでございますね」


「そうだ。その通りだ。

何の経験も、実績もない人間が、僕の指示であると書き付けを持ち込んだところで、何処まで信用されるであろう。

僕の字で書いた書き付けであろうとも、人間と言うのは印象や思い込みで判断を間違うことが往々にあるのだ。

だから、君には、ここで認めざるを得ない実績という物を積んで貰いたいのだ。

僕の言葉が、ちゃんとバカどもに届くようにする為にな」


アッシは象山先生の過分な要求に頭を抱えたくなる。


「アッシは、確かに先の世の夢を見ましたが、勝さんや慶喜公、大久保様に比べれば無学で哀れな年寄り。

その様なことを期待されても」


「当然、僕より長生きするはずの麟太郎君たちにも期待はしている。

だが、僕の様な天才でない彼らならば、間違うこともあるだろう。

となれば、凡人同士である彼らには話し合ってより良い方法を探って貰うしかない。

そして、君にも、その一翼を担って貰いたいのだ」


どうも先の世を夢見たということから、アッシは皆さんに過大評価される傾向がある様でございますな。


「しかし、今回、失敗する場合もございますよ」


「まあ、失敗したとしても、僕がいる。

多少の失敗は僕が補ってやるから気楽にやれば良い。

その上で、あまりに酷い結果ならば、その先の事も頼まぬ。

お役御免だな。

だから、気楽にやってくれれば良いのだよ」


象山先生は余裕綽々で笑う。

まあ、失敗すればお役御免になるのは有難いのですが、小人であるアッシは自分の所為で誰かが不利益を被ること自体が嫌なのでございますよ。


**********************


象山先生とのやり取りを思い返して、その時から考えていた策を改めて実行に移すことにする。

アッシは自分が象山先生ならと考え、その口調や態度も真似ることにする。


「解りました、中島様。

それでは、これより、僕は佐久間象山の名代として、指示を出させて頂きます」


「如何様にも」


「まずは、これから香港にあるイギリス、フランス、オランダなどの領事館の領事に面会依頼の書を書いて貰います。

僕は異国の言葉は解りません。だから、中島様も通詞をされると言うが、英語の通詞をする江川英敏様もここにお呼び下さい。

その上で、君たちには、我が国の国家目標、政略目標、戦略目標、戦術目標を伝えることとします。

まず、これを理解して貰いたい」


アッシの言葉に中島様は驚いているようでございます。

まあ、そうでございましょう。

長崎などにも通詞はいるが、本来は単純に言葉を訳す為だけのもの。

国家目標など、お上の思惑など、本来は通詞に伝える様な話ではございませんからな。

立場を弁えるというものでございましょうか。

ですが、武士でないアッシにしてみれば、立場なんぞより、間違わないことが第一。

その為には、何重にも慎重に策を重ねるのがアッシのやり方なんでございますよ。


「そして、今回の訪問の目的を理解してくれたのならば、知恵を出して貰いたい。

誰に、どの様な書き付けを送り、どの様なことを話すかを。

勿論、その為の策は用意されている。

だが、それでも、皆さんにも考えて欲しいのです。

用意してきた策は、所詮は出発前の情報を基に建てた策。

実際の状況を見れば、象山先生であろうとも、予定を変える可能性はありますからな。

そして、実際に異人たちと交渉する際も同様です。

なすべき目標を忘れず、僕の交渉がマズイと思えば、そのまま訳さず、一旦注意を促してして貰いたいのです」


「それでは、佐久間殿の面目が」


アッシの言葉に中島様は慌てるが、庶民のアッシには失うべき面目なんぞございませんから。


「構いません。

まず、大事なのは日ノ本の国益。

幸い、まだ異人たちで日ノ本の言葉を理解出来る者は少ない。

恐らく、現場にはいないでしょう。

ならば、堂々と密談が出来る。

僕の面目なんぞ、どうでも良い事です。

それよりも、間違えて、日ノ本に損失を与えることの方が余程恐ろしいとは思いませんか」


正直なところ、本当は異国の言葉が解る中島様や歳は若いが優秀と言われる江川様が代表をして頂いた方が良いとアッシなんぞは思うのですがね。

まあ、代表がアッシに決められちまったからには、自分だけではなく、皆の力を借りて立ち向かうのが一番だと思うのですよ。


「通詞と言うと、上役の言葉を訳すだけが仕事であると思われがちです。

ですが、今回に関しては、通詞をする皆さんの力が、日ノ本を守り、利益を齎すのだ、そう思っては頂けませんか」


アッシがそう言って頭を下げると、中島様は暫くアッシを見詰めた後、江川様を呼びに行かせる。

これが、アッシが象山先生ならと考え、象山先生に話し、許可を頂いた結論。

象山先生なら、アッシの様な凡人一人に任せる様なことはしない。

凡人同士が知恵を出し合い、足掻くことを求められる。

それ故、アッシは今回の調査団の内、実際に交渉に関わる者たちを集め、目標と情報を共有して、問題に立ち向かうことにしたのでございます。

船頭多くして船山に上るなんて言葉がございますから、最後に決めるのはアッシにする様にとの条件を象山先生には付けられましたが。


こうして、調査団は一丸となって困難に立ち向かっていくことになったのでございます。


**********************


そして、各領事館への面談希望の書き付けを送って数日後、イギリス領事館との面会が決定する。


広東領事、ハリー・パークス。

アッシの夢の中では、アロー号事件に介入した後、駐日英国公使となり、日本分裂に一役買ったと思われる男である。

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