第三十一話 平八、香港に向かう
どうして、こうなっちまうんでしょう。
アッシは、夢にも思っていなかった状況に頭を抱える。
アッシはね、元々は、現実に起きるとしか思えない先の世の夢を伝えるだけのつもりだったんでございますよ。
天下がどうだの、世の中がどうだのってのは、そんなことにアッシは興味も、野心もありゃしません。
いや、もっと若けぇ頃なら、そんな野心を持つこともあったかもしれやせん。
実際、三河の百姓の八男に生まれ、家を捨て、お江戸に出てきた時は、それなりの野心もございました。
江戸に出て、一旗揚げてやるってね。
ですが、何年経っても、失敗が続き、思い通りに行かないことが続きますとね。
今更、何かをして、名を残そうなんて気持ちは無くなっちまいます。
望んでも、どうせ何も出来ねぇんだ、と諦めが身に着いちまいましてね。
一日の終わり、日が沈んだ後みてぇなもの。
誰にも、同じ様に日は昇り、日は沈む。
何も楽しいことがないまま、上手くいかないまま、一日が終わることなんて普通にあることでございましょ。
龍馬さんなんかは、毎日楽しいことばかりだと笑っておりましたが、そんな人ばかりじゃぁない。
詰まらない繰り返しの毎日を送る人の方が多いんじゃないでしょうか。
で、生きるってのも、多分、同じ様なもの。
誰でも、生まれ、そして死ぬ。
面白れぇことのない一日だったとしても、日が沈んじまえば、もう諦めるしかないでございましょ。
それでも、まだ終わりたくねぇと夜になっても足掻く人もいるのかもしれやせんが。
夜になると眠くなるように、年を取ると、どんどん活力が無くなっていく。
目が悪くなり、舌が回らなくなり、覚えが悪くなり。
そんな中で、諦めずに何とかしたいなんて思うのは、少なくともアッシには無理でございました。
だから、夢を見たことを、海舟会となる皆さんにお伝えした時も、これから困難に立ち向かうはずの若けぇ連中に、警告を伝えるだけのつもりでした。
破滅する夢を見たのに、それを伝えないまま、酷い目に遇う人たちを見捨てるのは、どうにも嫌な感じがするものでございます。
もうすぐお迎えが来るってぇのに、最後に悪事とは言わねぇまでも、未練だの、後悔だの残したくなかっただけで。
それだけの理由で、皆さんにアッシの夢を伝えるだけのつもりだったのです。
そして、そいつを伝えれば、それで、アッシの役割はお終い。
アッシの警告を聞かず、酷い結果になったとしても、それは話を聞いた人たちの責任。
実際、夢で見たことが、本当に起こるかなんて、アッシには解りませんしね。
後は、若ぇ者たちに任せて、世の中がどうなるか、高みの見物と決め込むつもりだったのでございますよ。
だけど、象山先生を始めとする皆さんは、アッシに高みの見物を許してはくれませんでした。
そりゃあ、ちょっと話した程度では、アッシの見た夢の全てを伝えることなんて出来ませんでしたし、先の世がどうなっているかの参考にアッシの夢の話を確認する必要があることは解りますよ。
でも、状況が変わり、アッシの夢とは全然違う世の中になって来ているのに、どうして、アッシの話を聞きたがるのでございましょうね。
象山先生は、大きな天才児。
頭が良過ぎて、頭の悪い人間の説得が苦手だから、愚かなアッシと話せば、愚か者の説得の参考になるので丁度いいとか仰ってたんですがね。
散々、象山先生の話に付き合い、何か月も象山先生の書きつけの代筆までさせられていれば、物覚えの悪いアッシでも、いい加減色々覚えてきちまいますし。
まあ、それでも、アッシのすることは、あくまでも交渉される方の補佐、助言役。
責任のない役柄でございました。
ですから、まあ、特等席に座り、アッシなんぞの助言を聞き、世を変えることに挑む海舟会などの皆さまの活躍を眺めているだけのつもりであったのですよ。
何も出来なかったアッシみないな老いぼれなんぞの言葉を聞いいてくれる方がいて、それで世の中が変わっていく。
それは、それで嬉しくて、楽しいことではございましたよ。
でもね、最近は、どうも過大評価、あるいは過剰な期待が大き過ぎる気がするのでございますよ。
確かに、アッシの夢では、アッシにいつお迎えが来るかなんてことは解りゃしません。
そりゃぁ、そうです。アッシなんぞ、名もなき、無名の庶民。
150年後の世の中に名前が残っているはずもない人間ですから。
だからと言って、この老いぼれが生き残る可能性を考え、アッシに後を託そうとするのは、どうかと思うのですよ。
普通に考えりゃ、老いぼれから死ぬのが当たり前なんですからね。
それなのに、江川英龍先生なんかは、倒れた時に、アッシに後を託す様なことを仰る。
老中の阿部正弘様も、佐久間象山先生まで、ご自分が倒れた後の準備として、アッシに役割を背負わせようとなさる。
確かに、アッシが言い出したことで、ここまで世が変わり、上手い事、事が運んでいるのです。
そりゃぁ、アッシだって、このまま上手くいって欲しいとは思っておりますよ。
日ノ本の為だの、世の為、人の為だの、そんな物には、未だに興味は持てませんが。
それでも、折角、積み上げてきた物が最後に崩れる様な事は見たくなんてありぁしません。
でもね、それなら、勝さんや、慶喜公、桂さんに、大久保さんと、アッシが夢で見た限り確実に長生きで頼れる人はアッシ以外にも大勢いるじゃぁございませんか。
それに対して、江川先生は、
『他の者は、頼まずとも、この国の為に戦ってくれるだろう。
だが、お前は頼まねばやってくれないだろう。だから、頼むんだ』
と仰いました。
まあ、確かに、そうかもしれませんが、頼まれたところで、だいそれたことが出来るとは思えねぇのですがね。
そして、象山先生は仰います。
『平八君には、夢とは言え長い歴史を見てきたおかげか、客観的な視点というものがあるようだ。
武士という階級にも、藩や幕府という縛りにも、日ノ本にも、この世の時にさえ縛られない天眼とも言える視点。
それが、僕に様々な発想を与えてくれた。
それは、勝君にも、慶喜公にもない、君だけの財産。
僕に万が一のことがあった場合、成すべきことは必ず書き残すが、君はその視点を大事にして、何が最善手かを常に考え、動いて欲しいのだ』
いや、それはアッシが無責任なだけで、そんな大層なものではないのですよ。
傍目八目。
それなのに、修羅場の経験を積ませる為と、アッシを特使として、香港、そして太平天国とイギリスが争っているという上海に派遣することを勧められたのでございますよ。
象山先生は阿部様に伝えられます。
「平八君には、表舞台に立ち、自分で交渉をした経験がございません。
今の平八君の身分では仕方のないことやもしれません。
しかし、もし、僕に万が一のことがあった場合、平八君にも、表舞台に立って貰う必要が出るやもしれません。
ならば、少しでも経験を積ませておくべきかと」
阿部様は象山先生の言葉を聞き、少し考えてから尋ねられます。
「確かに、平八であるならば、これまでの話を聞く限り、我らの話している日ノ本の取るべき、戦略、戦術、全て理解はしておろう。
だが、経験もなしに、いきなりイギリスと太平天国、清の間の交渉に出すのは、さすがに難しいのではないか」
「当然、僕がなすべきことは事前に教えておきます。
まあ、僕が死んだ場合の練習ですな。
僕が死んだ後も、平八君が間違わなくても済む様にする為に。
それに今なら、間違えたところで、天才の僕がおりますから、間違えの穴埋め程度は十分に出来ることかと」
象山先生が自信たっぷりに言うと、阿部様が苦笑する。
と、そこに今度老中になる安藤信正様が口を挟む。
「しかし、平八なる者の身分はどうする?
佐久間の弟子とは言え、所詮は名もなき庶民。
その様な者を名代にするなど、幕閣のお歴々も、溜まり場のお歴々も、とても認めることではないぞ」
そう言われて、象山先生は髭を撫でながら考えられる。
まあ、象山先生にとっては、この世で一番賢い自分の判断が第一。
身分だの、立場だのという、論理的でも、合理的でもない仕組みには、興味がないのでございましょうな。
とは言え、アッシだって、
そんなことを考えていると、象山先生が爆弾発言をする。
「それでは、平八君を僕の養子にしましょう。
今後、平八君は佐久間平八と名乗りなさい。
そして、即隠居するのだ。
そうすれば、家督のことで揉めることなく、平八君に身分を与えることが出来る。
その上で、国防軍にでも、日本商社にでも、好きな方に所属し、異国と交渉する為の役職を得れば良かろう」
常軌を逸した象山先生の言葉に、茶室の空気は硬直する。
この時代、ほとんど全ての物がお家の為に生きているのが現状。
それを、隠居させるとは言え、無宿者であるアッシなんぞを養子にするなんて。
驚いている皆を置き去りにして、象山先生は続ける。
「平八君、僕は、これでも君に感謝しているのだ。
結局のところ、天才の僕をもってしても、君の夢が只の幻だったのか、それとも正確な予知であったのかは解らない。
だが、君が来て、話し、助言を与えてくれたからこそ、今の僕がいる。
今の日ノ本の姿がある。
もし、君の夢が真実であり、君の夢の通り、僕が死んだのであれば、僕はどんなに悔しかったことだろう。
どんなに無念であったことだろう。
正しい答えを知っていながら、誰にもその声は聞かれず、滅びゆく日ノ本を見せつけられるなど、残酷にも程があるではないか。
それが、君の助言のおかげで、僕の建白書は書き直され、江川先生から、阿部様にまで伝わり、僕の助言は僕の考えた通りに日ノ本を救おうとしている。
その様なことをしてくれた恩人を養子にすることなど、何ということでもないと僕は思うのだよ」
思いがけない象山先生の言葉にアッシは呆気に取られる。
そんな風に感謝して下さるのは、光栄ではございますが、アッシは別に身分を持ちたいだの、表舞台に立ちたいだのという気持ちはないのでございますよ。
とは言え、この様な申し出を断るのは、さすがに無礼である事位、アッシにも解ります。
阿部様も、安藤様も、何処か感じ入った様な顔つきをしておりますからね。
何とも、答えようがなく、アッシが黙っていると、阿部様が追い討ちを掛けられます。
「佐久間殿の気持ち良く解った。
それならば、平八は、私の権限で、情勢調査の為の特使として、香港、上海に派遣することにしよう。
国を代表し条約を結ぶ権限は与えぬが、派遣する調査船に関する権限は与えよう。
それだけならば、幕閣も、溜まり場のお歴々も説得出来るであろう」
そりゃぁ、何処の馬の骨かも解らぬアッシみたいな奴に、国を代表する権限なんぞ与えるはずはございませんがね。
調査船に関する権限てのも、与え過ぎではございませんか。
とは言え、お偉い人の決定には逆らえぬのが庶民の悲しいところ。
言葉が解らぬと言えば通詞を用意され、船の指揮など出来ぬと言えば、調査船の船長と乗組員を用意され、香港へと向かうことが決められたしまったのでございます。
乗り込むのは、咸臨丸に続いて建造された2艘目の国産スクリュー型蒸気船、
本来、アッシの夢で、朝陽丸は、外輪型蒸気船のコルベット艦に付けられるはずの名前だったのでございますが、アッシの夢から外輪船はすぐに時代遅れとなることが知られていたので、外輪船は日ノ本にほとんどございません。
この国では、スクリュー船の製造が進み、甲鉄艦の研究が進んでいるのが現状でございます。
だから、名前の付け方も、本来とは大分変って来ているのでございますな。
果たして、付けた名前の通りの運命を辿るのか、それとも、名前に関係なく、船自体の運命を辿るのかは実に興味深いなどと象山先生は仰っておられましたが。
とは言え、現状において、この国で、地球でも珍しい最新型のスクリュー型蒸気船が日本で製造されていることを知られるべきではありませんからね。
日ノ本なんざ、いざ、その気になればいつでも征服出来る弱小国だと思われている内に、軍備を整えることが基本戦略の一つでございますから。
そんな訳で、距離が近く、一番頻繁に尋ねる香港には、オランダから買い取ったスクリュー船の振りをして、朝陽丸が往復していたものですから、今回はそれに便乗させて貰ったのでございますよ。
そして、その船長は、
アッシの見た夢では、勝さんと共に長崎海軍伝習所一期生となり、正統日本皇国では榎本武揚様と共に皇国海軍の礎となられたお方。
本来であれば、アメリカ視察やヨーロッパ視察の船に乗って頂きたい程の人材ではあるのですが、喘息の持病があるということもあり、長期の航海に向かないと判断され、アジア、日本近海での警戒、訓練を中心になさってきた方でございます。
更に通詞として江川英龍先生の三男にして、現江川家の当主である江川英敏様が参加される。
江川先生は、未だに現場に復帰出来る程ではない様だが、とりあえず、お元気な様で少し安心する。
ただ、どうも、アッシへの期待を英敏様にもお伝えしている様で、尊敬の目を向けられるのは、正直勘弁して頂きたいところなのでございますが。
そして、最後に隠し玉として、もう一人。
イギリス海軍は海賊と変わらないなんてことを言う方もおりますが、
その為に、打てるだけの手は打っておかねばね。
そうしてアッシは、父島から、対馬を廻り、香港に向かうことになったのでございます。
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