第十四話 欧州異変の裏舞台

「どうやら、うまく行っているようですね」


吉田寅次郎は、渋沢栄二郎(栄一)に読んで貰った新聞の内容を確認して満足気に頷く。

寅次郎はロシアに行く為に勉強して来たのはロシア語。

現在いるロッテルダムに来てからは、この当時の外交の公用語であるフランス語を学び始めているものの、読み書きでは、まだまだ習得には程遠い。

そこで、情報収集の為に、気になる記事は英語を読める栄二郎に読んで貰っているのだ。


「何がどううまく行っているんですか?

私は、何故、こんなことになっているのか、良く解らないのですが」


栄二郎がそう尋ねると、高杉晋作も声を上げる。


「先生、わしもわからん。先生たちは何をなさったんか?

ほいで、なしてイギリスとフランスはロシア攻撃出来んようなったんか?」


尋ねられて寅次郎は頷き、説明を始める。


「良いでしょう。ただし、ここでの話は他言無用。

外に漏れれば、腹を切る覚悟で聞いて頂きたい。

よろしいですかな?」


寅次郎がそう言うと、その場にいる高杉晋作、渋沢栄二郎、それに岩崎弥太郎が頷く。

それを確認すると、寅次郎は話始める。


「まず、皆さんが状況を何処まで理解しているか、確認することから始める必要があるでしょうね。

状況の理解が異なれば、説明しても解らない方が出るかもしれませんから」


そう言って、暫く考えると寅次郎は話を続ける。


「まずは、今、起こっているロシア帝国とイギリス、フランスとの戦争。

これが何故、起こっているか、皆さんはご存じでありますか?」


尋ねられて栄二郎が答える。


「それは、只でも巨大なロシア帝国がオスマン帝国を破り、南の土地を手に入れて、ヨーロッパに侵略して来ることを防ぎたかったからではありませんか?」


「素晴らしい。よくご存じですね。

それは、覇権国家大英帝国の支配者層の考え方。

うむ、それも一つの考え方ではありますね。

ですが、理由はそれだけではありません。

そもそも、全ての物は見方によって、形が変わるのも事実。

ロシア帝国から見れば、今回のバルカン半島へのロシアの攻撃は虐げられたロシア人と同じ民族、スラヴ民族を開放する為の解放戦争です」


「解放戦争?」


「そうです。オスマン帝国は何百年にも亘り、このヨーロッパで領土を広げ、支配地域を広げてきました。

その中で、ローマ帝国など、様々な国家を滅ぼし、そこに住む者達を支配してきました。

ロシアは、こうして支配された同朋を開放する為の戦争であるとして、オスマン帝国と戦い始めたのです」


そう言われると晋作が首を捻る。


「同じヨーロッパの仲間を、オスマン帝国から助ける為じゃと言うのなら、イギリスも、フランスも反対出来んのじゃないか」


「建前はそうでも、本当のところ、ロシアは南の豊かな土地、不凍港を手に入れたかっただけでしょう。

その様なことでは、イギリスも、フランスも騙されなかったということではありませんか」


栄二郎が晋作に応えると、寅次郎が嬉しそうに頷く。


「確かに、その様な側面はあると思います。

ですが、今回のいくさでは、もっと重要なことがあるのであります。

それは、イギリス、フランスの民草の意向です」


「民草か?アメリカの様に民草が入れ札で君主を決めちょる様な妙な国と違い、イギリスにゃあ国王と貴族、フランスにゃあ皇帝がおる。

そねーな状況で、庶民が何を考えようとも、まつりごとにゃあ関係ないのじゃないか?」


晋作が尋ねると寅次郎が説明をする。


「確かに、イギリスも、フランスも、アメリカの様に君主を入れ札で決める様なことはしません。

ですが、イギリスでも、フランスでも、実際に戦うのは民草です。

今のいくさは、誰でも武器が使えます。兵の数と武器の性能が重要なのです。

我が国の武士に相当する職業軍人だけでは戦えないのです。

従って、イギリスには貴族があり、フランスにも皇帝はいますが、民草の意向を全く無視していくさをすることは出来なくなっております」


「そうすると、お上が戦いとうとも、民草が戦いたがらにゃあ、戦が出来んちゅうことか」


「その通りです。

そして、オスマン帝国(トルコ)は、こちらヨーロッパに住む人々とは人種も宗教も異なる人々。

イギリス、フランスなどの支配者層が、ロシア帝国の勢力拡大を防ぎたいとは思っても、オスマン帝国から同族のスラヴ民族を解放するというロシアの建前もあり、イギリス、フランスの民草は参戦に消極的。その結果、イギリスも、フランスも本格的に参戦するつもりはなかったと聞いております」


「それなのに、イギリスも、フランスも何十万という兵を派遣し、三分の一近い犠牲者を出しちゅーと聞いちょります。一体、何が起きたのやか?」


弥太郎が尋ねると寅次郎が答える。


「切っ掛けはシノープ海戦だったと言います。

私がロシアのゴルチャコフ公爵から聞いたところによると、オスマン帝国側が対応を怠り、一方的にロシアに負けただけの海戦だったということなのですが、これが、あまりにも一方的な勝利であった為に、各国のかわら版で、この海戦が虐殺であったと喧伝されてしまったとのことであります。

そして、その報を聞いた、イギリス、フランスの民草は、虐殺をしたとされたロシア帝国を悪と看做してしまいました。

民草が悪を倒せと立ち上がれば、支配者層はその声を無視することは出来ません。

それで、イギリス、フランスは、ロシア帝国を撃退する為に本格的に参戦したのであります。

…その結果、数十万に渡る犠牲者の山なのですがね」


寅次郎が語るクリミア戦争の切っ掛けと齎した結果に一同は絶句する。


「勘違いで何十万もの犠牲が出たんやか。

そうやって考えると、民草の気持ちに流されるというのも考えものやな」


弥太郎がそう呟くと栄二郎が反論する。


「しかし、イギリスやフランスの国家戦略として、ロシアの南下政策を防ぐことは間違っていないはずです。

民草が感情に流されようと、イギリスやフランスがその感情を利用して戦っただけのこと。

彼らが、国家戦略を誤ったとは、私は思いません」


栄二郎がそう言うと寅次郎が大きく頷く。


「確かに、渋沢君の言う通りなのかもしれません。

あるいは、岩崎君の言う様に、彼らは民草の情に流され、暴走を許してしまったのかもしれません。

ですが、一つ確かなことがあることはわかりますね」


「異人たちは民草の情を無視出来ん。

逆に、民草の情をうもう操れりゃあ、異人のまつりごとも動かすことが出来るということじゃのぉ」


晋作がそう言うと寅次郎は満足気に頷く。


「その通りです。高杉君はよく解っているであります。

だから、慶喜公と私は、もっとロシアの正義を、イギリス、フランスに喧伝するべきであるとゴルチャコフ公爵に伝えたのです。

このいくさは、オスマン帝国からスラヴ民族を解放する為の正義の戦争である。

正義はロシアにあるのだと」


「しかし、ロシアが建前として、スラヴ民族の解放を謳ったところで、イギリスも、フランスも信じなかったのでしょう。

まして、イギリスも、フランスも、既に多大な犠牲を払っている。

こんな状況で、どうやって、説得しようと言うのですか」


栄二郎が尋ねると、寅次郎が答える。


「それが、先程、渋沢君に読んで貰った記事です」


寅次郎が指さすと皆が首を捻る。

その記事の内容なら、皆が聞いている。

戦争の犠牲となった一人の美しい少女の物語だ。

戦争で父と兄が殺され、母や弟妹を残して、命からがら逃げてきた少女の物語。

そんな話は、いくさがあれば、何処にでもある様な話ではないのか。

皆がそう思う中、寅次郎が続ける。


「記事の内容を、よく思い出して下さい。

この少女はスラヴ人。

そして、この少女の父と兄を殺したのはオスマン帝国と言っていたはずです。

今、多くのスラヴ人がオスマン帝国からの解放を求めて立ち上がり、オスマン帝国に鎮圧されているのです。

彼女は、その犠牲の一人なのです」


寅次郎の説明を聞いて晋作が苦笑する。


「えげつないことを考えたね。つまり、その娘は、イギリス、フランスの民草の罪の証拠。

イギリス、フランスがオスマン帝国を助けたけぇ、その娘の父と兄が殺され、母親や弟妹がいつオスマン帝国に殺されるか解らん状況にあると伝えた訳じゃ」


「なるほど、だから、父と兄を返して。母や妹たちを助けてと言っていた訳ですね」


記事によると、この少女はフランス語も英語もロクに話せないようで、聞かれたことのほとんどは、ロシア側が通訳をしていたようだが、この言葉だけは、わざわざ、フランス語で訴えたらしい。

そのやり方に、栄二郎も苦笑せざるを得ない。


「確かに、聞く気のない人間に耳を傾けさせるのは簡単なことではありません。

ですが、諦めれば、その方法は絶対に実現することが出来ません。

かつての私は、情熱さえあれば、誠を尽くせば、きっと解って貰えるはずだと思っていました」


そう言うと、寅次郎は平八から聞いた自分の話を思い出す。

情熱と至誠だけを武器に、自分を捕縛した役人さえ説得出来ると信じていたという自分。

だが、その結果が、自分の死罪であり、弟子たちの暴走、日本の分裂なのだ。

それが本当に起こりうる未来だと信じている寅次郎からすれば、同じことを繰り返そうとは決して思わない。


「ですが、至誠を尽くすだけでは怠慢なのです。

何かを誰かに伝えたいと思うならば、情熱と至誠だけでは足りません。

どうやったら、うまく伝わるか、懸命に考えねばなりません。

そこまで全力を尽くして、初めて至誠を尽くしたと言えるのです」


寅次郎がそう言うと、弥太郎が尋ねる。


「それが、この方法やか。確かに、民草を動かすには効くろう。これは、吉田先生のお考えやか」


「いえ、私は、こういう事を考えることは苦手でして。

ロシア側に、説得を諦めてはいけないと励ますことしか出来ませんでした」


寅次郎が恥ずかし気に応えると、晋作が慰める。


「まあ、人にゃあ得手不得手があるんじゃけぇ」


「そうすると、これはロシアの策ということですか。

ロシアには、中々の策士がいるようですね。

オスマン帝国側は、この少女は偽物だ。

オスマン帝国は虐殺などしていないと言っているようですが、信用されていない様ですよ」


栄二郎が新聞の記事を確認して呟く。

オスマン帝国は、元々、長い間、ヨーロッパ各国の敵であった国だ。

人種も、宗教も何もかも違う。

美しい少女の涙の前で、豪華な服装をしたオスマン帝国の使者が何を言おうと信じる者はいないだろう。

その上で、ロシア側は、シノープの海戦の真実も喧伝し始めている。

虐殺と言われていたことが、只の海戦に過ぎなかったという事実。

イギリスやフランスでは、オスマン帝国に騙されたという人さえ、チラホラ現れていると言う。


「ロシアも、実にうまい方法を考えてくれたものです。

もともと、私たちが勧めたのは、このいくさの大義はロシアにあるとイギリス、フランスを納得させること。

その上で、ロシアからイギリス、フランスを攻めることを避け、オスマン帝国だけと戦うことだったのですが」


「ロシアは、予想以上に上手い手を打ってきたという事ですか。

ですが、ロシアはよくも、あんな少女を見つけましたね」


栄二郎は、そう呟いて考える。

本当に、家族がオスマン帝国に奪われた少女の保護にロシアが成功したのだろうか。

あの娘の存在は、あまりにも、ロシアに都合良過ぎないだろうかと。


実のところ、その疑いは正しい。

この少女の話はロシア側が作った物語であり、少女はロシア側が用意した存在だ。

ただ、この少女の様な話は、今、本当にオスマン帝国領内の各地で起こっている話ではあるのだ。

だから、ロシア側は、この美しい少女を、オスマン帝国に虐げられているスラヴ人の代理人と看做し、世間を騙しているなどと言う罪悪感は欠片程も持っていない。

シーボルトの助言の通りに。


そう、寅次郎は知らないことであるが、実は、この少女を使った策も、一橋慶喜と大久保一蔵の提案だったりする。

ただ、慶喜と一蔵は、日本が謀略を用いるということを、ロシアにも、イギリスにも知られたいとは思っていなかった。

日本人は、純真で誠実な存在だと思われ、侮られている位が都合が良いと考えた二人は、ロシアの前では寅次郎の純粋さを利用することにしたのである。

正直に言って、寅次郎は謀略には向いていない。

少女の偽物を作り出すなどと言う提案をすれば、隠そうとしても、不誠実だと感じ、不機嫌になってしまうだろう。

だから、寅次郎に謀略に関することは、わざと知らせずに、ロシアの前で、慶喜は寅次郎を通して、真面目で、誠実な対応を見せることにしたのである。

そして、その裏で、シーボルト経由で慶喜と一蔵の考えた策を与えるということにしたのだ。

こうして、慶喜は、日本の善良な印象を守りながら、手を打つことを考えていたのである。

そんなことも知らない寅次郎は、本気でロシアの策に感心しながら、説明を続ける。


「もともと、フランスは予算の都合でいくさを辞めたがっておりました。

そんな中、いくさの大義、そのものが疑われる事態となったのです。

フランスは、いくさを続けることさえ困難となるでしょう」


「確かに、フランスが参戦しなければ、イギリスもロシアを止められないかもしれません。

ですが、武市さん達の行っている黒海では、イギリスが要塞を修復し、黒海の支配を確立しようとしているのではありませんか」


栄二郎が尋ねると寅次郎が答える。


「だから、イギリスに対しては、もう一つの手が打ってあります」


こちらは、騙す様なことをしないので一蔵から聞かせて貰っている策を寅次郎は話始める。


「天竺(インド)を利用するのです」


寅次郎から、インド大反乱の様子が語られることとなる。

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