第十三話 欧州戦線異常あり

「北に来るとさすがに寒いな。武市さんは、まだ異人の服を着る気にはならねぇのかい」


軍服姿に髷を解いた総髪(長髪)の土方歳三が武市半平太に聞くと武市は嫌そうに答える。


「うちは日本男子や。夷狄の様な格好はせんし、髷も切らん」


「そう言ったって、これから、どんどん寒くなりますよ。

吉田さんも言ってたじゃないですか。

あの水戸斉昭公ですら、ロシアでは異人の服に毛皮まで来ていたと。

郷に入っては郷に従え。

着物は、こちらの乾いた空気の寒さには向かないんですよ。

この軍服は良いですよ。

服は、風が入らないようにピシっと閉めることが出来るし、靴は草鞋や下駄と違って温かい。

いざって時、寒さで動けなかったら、それこそ武士の恥。

臥薪嘗胆。

武士なら好き嫌いは抜きにして、勝つ為に最善を尽くすべきじゃありませんか」


一橋慶喜の許可を貰い、自分の好みで日の丸を付けた日本の軍服姿で歳三はクルリと回って見せる。

その様子を武市は睨みつけると言い返す。


「どいても必要なら、着替え位する。髷は切らんがな。

だが、まだ、そこまでやる必要を感じんだけのことや」


武市はそう言うと、不機嫌な顔を緩め、大きな顎を撫でて苦笑すると続ける。


「だいたい、あんたがうちを着替えさせたいのは、近藤さんの為やろ?

うちが着物のままだと、近藤さんが着替えようとせんき」


そう言われると歳三が口を尖らす。


「いや、そういう訳じゃねぇけど」


「われは、げに近藤さんが好きだな。

うちの主君は容堂公と天子様だが、われの主君は近藤さんということなのやろうな。

まあ、安心してくれ。

冬になれば、この辺りがトンでもない寒さになって来ることは聞いちゅーき、寒さでうちも身体を壊すまで痩せ我慢をするつもりはない」


実際、2月のパリでも着物で済ませた武市がいつ着替えてくれるかは解らないが、とりあえず寒くなれば着替えるという言質を取れたので、歳三は少し安心する。

その様子を見て武市がニヤリと笑うのを見て、歳三は照れ臭くなり、視線を逸らし、甲板から海を外を眺める。


「それにしても、何にも起きねぇな。

質(人質)として、戦場いくさばに来たんだ。

さすがに最前線とはいかなくとも、俺たちの所為で戦になったと思っているなら、負けたら命が危なくなるような場所に配置されると思ったんだがな」


「質じゃない。観戦武官や。それに、ここが前線なのは間違いない。

この船に乗り込む時に説明を受けたろう」


武市はそう言うと両手を広げ、修復中の砦に目を向ける。


「ここは、元々ロシア軍の拠点やったセヴァストポリ要塞。

イギリス軍はここを攻略した上で、ここをロシア攻撃の足掛かりにしようとしちゅー。

やったら、ロシア軍が要塞の修復を妨害する為に、攻撃しに来て当然のはずなんやけんど」


「だけど、ロシア軍が妨害に現れる気配すらない。

ここは、ロシア海軍最大の拠点。

ここにイギリスが要塞を作れば、ブラック・シー(黒海)と呼ばれる、この地域の海は完全にイギリス側に抑えられ、ロシア海軍は、ほとんど手も脚も出なくなる」


歳三の言う通りセヴァストポリ要塞は黒海の中、ロシア領の中で突き出たクリミア半島にある。

そこにあるセヴァストポリ要塞は、ロシア帝国念願の不凍港。

ここを拠点として、ロシアは黒海各地への派兵が可能となっていたのだ。

もっとも、黒海はロシアとオスマン帝国(トルコ)に囲まれた内海。

オスマン帝国の首都イスタンブールにあるボスポラス海峡を通れなければ、ロシア海軍は海軍を黒海に出すことさえ出来ない不自由な不凍港。

それ故、ロシアとしては、この黒海を制圧した上で、ボスポラス海峡を自由に出入り出来るようにしたかったはずなのだが、その最大の拠点であるセヴァストポリ要塞をイギリスに奪われてしまっては、ロシアの南下政策を大きく後退することとなるだろう。


「更に、ここに拠点を作ることが出来れば、この北にあるロシア軍の拠点オデッサを攻撃することが出来る。

そうすりゃ、ロシア軍がいくらオスマン帝国軍に勝ち南下に成功しようとも、補給を抑えられる。

そうなりゃ、ロシアのオスマン帝国攻略は失敗せざるを得んはずなんやけんど」


武市は再び大きな顎を擦って考える。

近藤、土方と共にイギリス軍から受けたブリーフィングで、補給が如何に大事であるかという事は武市も理解出来ている。

武士は食わねど高楊枝とは言うものの腹が減っては戦も出来ぬという言葉もある。

だから、食料の重要さは理解していたつもりではあったが、その上で、近代戦では武器弾薬の補給が重要であることがイギリス軍により繰り返し説明されていた。

どんなに勝っていても、武器弾薬が尽きれば、刀で防衛することなど出来ないのだ。

だからこそ、英仏同盟軍は多大な犠牲を払って、セヴァストポリ要塞を陥落させた。

ロシア軍の黒海での攻撃拠点を奪い、オデッサ攻略の足掛かりを得る為に。

まあ、その代わりに、トルコにある英仏軍の拠点、カルス要塞が攻略されてしまったので、攻撃の足掛かりは失われていたのだが、ここセヴァストポリに攻撃拠点を作ることが出来れば、ロシア軍の攻撃は封じ込められるはず。

だからこそ、ロシア軍は全力でセヴァストポリの拠点作りを阻止に来ると思っていたのだが。


「それに、どうしてフランス軍が来ない?

ここで修復している要塞をイギリスが自分の拠点にしたいから、フランス軍やトルコ軍を呼ばないってのは俺も解るぜ。

だが、このドでかいロシアを攻めるには、フランス陸軍の戦力は不可欠だろ。

オデッサ攻略にも、補給路の遮断にもイギリスの海軍だけではどうしようもない。

それなのに、どうして、フランス軍はやって来ないんだ?」


「何か理由があるにせよ、余所者のうちらには、正直に教えてはくれんやろうな」


武市と歳三は目を合わせて苦笑する。

彼らは、観戦武官としてイギリスの戦略を聞かせて貰っているが、その全てを聞かせて貰えるはずもないことは十分に理解している。

一応、武市達、日本の観戦武官は、イギリス軍に客として扱って貰ってはいるが、イギリス人達に差別感情があることを武市達も感じていたのだ。

日本に熱狂する人々も多かったが、白人は優れた存在で、それ以外の人種は劣った存在。

そんな差別感情を持つ人も、決して少なくはなかった。

まあ、日本人自身も、異人を野蛮で劣った存在と見下していたのだから、お互い様ではあるのだが。


そして、観戦武官たちは、一橋慶喜と大久保一蔵(利通)の建てた戦略も聞かせて貰ってはいなかった。

慶喜達は、観戦武官として参加する者たちに、イギリス側の戦術、戦略を学んで欲しいと考えていたのだ。

だが、日本の戦略を知っていれば、どうしても予断を持って判断せざるを得ない。

特に、日本の戦略に嵌って、英仏が翻弄される状況が生まれれば、英仏を侮る危険すらあるだろう。

それ故、武市達は、日本の戦略を何も知らせて貰えなかったのである。


そして、ヨーロッパは、彼らの知らないところで、本来の歴史と異なる激動を迎えることになっていた。

本来の歴史には名前すら残らなかった一人の少女の登場と共に。

クリミア戦争は新たな局面を迎えていたのである。

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