第四話 アラスカ購入を巡る攻防

「購入したい物とは一体?」


井伊直弼が尋ねると阿部正弘が説明する。


「実は、一橋様がヨーロッパでロシアから、アラスカから千島列島までの一帯を買う交渉をしておりましてな。

元々は、ロチルド男爵なるヨーロッパの商人から、買い取る土地を担保として、金を借り、その金をロシアに与えることで、ロシアとイギリスの戦争を長引かせることが目的の様なのですが。

アラスカは、そのままロチルド男爵に渡すには惜しい土地だと思いましてな」


阿部正弘の想像を超える提案に直弼が混乱しているのを理解したのか、阿部正弘は人を呼び、水戸斉昭が入手して来た地球儀を持ってこさせる。

ちなみに、当然のことながら、井伊直弼もアメリカ視察で、アメリカを中心にした世界地図は入手しているが、アラスカはアメリカ領土でなかった為、名前だけ聞いても、何処を示すかピンと来なかっただけのようだ。


「さて、ご覧ください。

アメリカに行かれた井伊殿ならご理解頂けると思いますが、この小さな島国が日ノ本。

北にある広大な国がロシア。日ノ本からずっと西にある島国がイギリス。逆に東の海を越えた先にある広大な国がアメリカとなります」


そう言われて直弼は頷く。


「そして、今回、一橋様がロシアからの購入を提案しているアラスカが、アメリカのある大陸にある北の土地のこの部分にございます」


「これだけの広大な領土を一体いくらで購入されると言うのですか」


「700万アメリカドルとなります」


その余りにも莫大な金額に直弼は息を飲む。


「700万アメリカドルと言えば、175万両ではありませんか」


直弼は声を上げる。

アメリカ視察団は、アメリカとの交渉で1ドル銀貨は一分銀との交換になった。

一分銀は4枚集めれば、一両小判と交換出来るから、一両は4ドルと同じ価値になったという訳だ。

これは、平八の世界線とは大きく異なることである。

平八の世界線では、日本に来たアメリカ領事ハリスとの交渉で、1ドル銀貨と一分銀3枚の交換という条件を飲まされてしまい、日本の金が大量に海外に流出したのだ。

その様な被害を未然に食い止めたことだけでも、十分、直弼たちの手柄とも言えるのではあるが、その様なことを知らせずに、阿部正弘が頷くと直弼が続ける。


「その様な資金があるならば、交易の資金として、日ノ本内の産業を振興して利益を上げ、武器を買って国を守るべきところ。

その様な広大な土地をロシアより買い取る理由が解りません」


佐久間象山が予想していた通りの発言に阿部正弘は頷く。

この時代、アラスカに資源があることを知っている者は存在しないのだ。

平八の予言を知っている者だけが、アラスカに資源がある可能性があることを理解している。

平八の夢でも、これから10年後にアメリカがロシアからアラスカを購入した時には、アメリカは巨大な冷蔵庫をロシアに買わされたと随分批判された程なのだ。

何もない広大な土地を買うことに賛成する者が決して多くないだろう。


「実は、アラスカには莫大な金の鉱山があるという話がございましてな」


阿部正弘がそう言うと直弼は訝し気に尋ねる。


「本当に金があるのでしたら、どうしてロシアはアラスカを売るのでしょうか。

本当に125万両以上の収益が上がるのでしたら、ロシア自らが金を掘り出せば良いではありませんか」


「ロシアは戦争中で、金を掘り出す時間がないとのことです。

勿論、その様な言葉を素直に信じる訳ではありません。

アラスカを購入すれば、すぐに調査団を出し、アラスカの資源を探すことに致します。

それで、何も見つからなければ、ロチルド男爵に担保として渡してやれば良い」


そう言われて、直弼は納得して頷く。

だが、その後、直弼は再び考え込み尋ねる。


「まあ、その様に調べた上であるなら、解らないではありませんが。

しかし、どうして、ロシアからアラスカを買い取るのですか。

先程、戦争を長引かせる為と仰せのようでしたが。

今は日ノ本を守ることが第一。

異国のいくさに首を突っ込んでいる場合ではないのではございませんか」


直弼の言葉は、多くの日本人の正直な感覚だろう。

平八の夢の話があり、それを基にした佐久間象山の助言があるから、阿部正弘にも理解出来るようになった。

一橋慶喜も、海外に出て、クリミア戦争の交渉の状況を見て、日本を攻められないように、時間を稼げと言われて、初めてクリミア戦争を長引かせることを思いついたのだろう。

その点、井伊直弼が行っていたのは、クリミア戦争に直接関係していないアメリカ。

クリミア戦争を長引かせることが、日本侵略の可能性を下げる可能性があることに気が付かなくても仕方ないのかもしれない。


だが、世界には、他の国も存在するのだ。

日本だけが軍備を増強し、産業振興しておけば大丈夫ということはない。

視野を広く持ち、他の国の動向も考えた上で手を打たなければならないのだ。


「今、この地球は戦国時代の様な状況にあります。

イギリスも、ロシアも、アメリカも、隙あらば、日ノ本を侵略してくるかもしれません。

だから、イギリスとロシアが戦っている今、戦いを続けさせ、我が国に目を向ける余裕を無くさせる必要があるのです」


そう言われて、直弼は考え込む。


「異国が、侵略を目論む野蛮な国であることは、私も承知しております。

私が行ったアメリカも先住民族を駆逐して、土地を奪った国であるようですから」


通訳の勝から聞いたことを直弼は話す。


「二虎競食の計ですか。

…だが、それでは、下手をすれば、藪をつついて蛇を出すことにはなりませぬか?

今はまだ、私が行ったアメリカも、他の国も、距離が遠すぎるおかげか、日ノ本を侵略する意思は持たないよう見受けられます。

にもかかわらず、ロシアを助けて資金を出せばイギリスに恨まれるでしょうし、アラスカを買い取る資金があると知られれば、他の国にも狙われる危険が増すのではございませんか」


これは先日、象山も指摘した問題点である。

平八の夢を知っている者から見れば、イギリスとロシアの戦いを長引かせ、双方を消耗させることが日本の利益になることが理解出来る。

だが、イギリス、ロシアがクリミア戦争後、清国への侵略を開始することを知らなければ、藪蛇に見えるのかもしれない。

しかし、阿部正弘としては、国防軍の主導権を一橋慶喜に取らせる為にも、このアラスカ購入が日本を守る為の重要な一手であることを、井伊直弼だけではなく、異国を知らない幕閣の人間にも、納得させなければならないのだ。


「一橋様の掴んだ情報によると、イギリスは既に清国と戦争を始める準備をしているとのことでございます」


その言葉に、直弼は慌てる。


「誠でございますか?イギリスが清国を再び攻めるとは」


15年前、ご禁制の阿片を清国に売りつけたイギリスが、阿片を没収されると、それを不満として清国に攻め込み、勝ってしまったことは、国防に興味を持つ者にとっては有名な話だ。

決して、聞き逃せる様な話ではない。

ペリーが軍艦で来訪するというオランダの情報を握り潰した幕閣なら、再び黙殺するかもしれないが、井伊直弼はそんな無責任な幕閣とは違う。

それに、情報を掴んだのが一橋慶喜であるならば、身分的に考えて、幕閣も黙殺することは難しいだろう。


「誠でございます。そして、ロシアもイギリスとの戦いに敗れれば、海を手に入れる為、日ノ本のある東に目を向けるは必定」


そう言いながら、阿部正弘は地球儀のロシアをクリミア戦争を行っているオスマン=トルコから、ロシアの領土を東に移動し、日本のあるオホーツク海まで指でなぞって見せる。

その言葉に、最強の海軍国家イギリスと最大領土を持つロシアがアジアに向かってくることを夢想し、直弼は生唾を飲む。

その様子を見て、阿部正弘は続ける。


「だからこそ、イギリスとロシアの戦いを続けさせる必要があるのです。

既に両国とも三分の一の兵を死なせるという多大な犠牲を払い、互いの攻撃拠点を失っているようですが、イギリス側はまだ戦意旺盛。

ロシアを徹底的に叩き、封じ込める気満々。

これに対し、ロシア側は、戦争中に皇帝が崩御し、新皇帝は講和を結ぶ意向であると聞きます」


思っていた以上の酷い状況に直弼は慌てて尋ねる。


「その様な状況では、どうやっても、戦争など続けないのではございませんか」


「それを動かしたのが一橋様なのでございます」


まず、慶喜の手柄であることを強調すると、阿部正弘は続ける。


「ロシアに必勝の策を授け、更にアラスカを購入することで資金を渡し、密かに遅れたロシアの軍備を買い直す仲介を行う。

そのことによって、ロシアは戦う気になったようでございます」


その言葉に直弼は息を飲み尋ねる。


「それで、ロシアは本当にイギリスに勝てるのでございますか」


阿部正弘は、その言葉に悪意のある笑みを浮かべる。


「ロシアが勝っても、負けても構わないのですよ。

イギリスと共に消耗してくれれば。

ロシアが勝って、オスマン帝国を抜け、ヨーロッパに領地を持てば、イギリスはロシアを目の敵として戦うことになるでしょう。

逆にロシアが負けて、イギリスがロシアから領地を奪い取って封じ込めれば、ロシアはイギリスから領土を取り返す為に必死になるでしょう。

それで、イギリスがロシアの広大な領地に攻め込んでくれれば、イギリスの消耗は避けられないでしょうしな。

おまけに、一橋様の策では、イギリス最大の領地、インドでの反乱も唆しているとか」


地球儀を指さしながら話す、今まで見たことのない恐ろしい阿部正弘の姿に直弼は圧倒される。


「井伊殿、私は出来れば、何事もなく、今の世が続くことを望んでおりました。

何も変えず、今日と同じ明日が続き、全てを次世代に繋ぐことが一番であると思っておりました。

改革に奔走し、かえって世を不安定にしてしまった先代筆頭老中水野忠邦様の失敗を見ておりましたからな」


そう言うと阿部正弘は苦笑して続ける。


「ですが、地球を眺めれば、その様なことは不可能であることが解ってしまいます。

今の地球は、日ノ本よりも遥かに強力な力を持つ多くの国が侵略の牙を剥いて、地球の陣取り合戦をしている最中。

これまでのまま、目を閉じて、鎖国を続けようとすれば、無防備のまま、異国の餌食となってしまうことでしょう。

だから、日ノ本を守る為ならば、外様大名だろうと、市井の者だろうと利用するのです」


その言葉に、直弼は思わず反応する。


「しかし、その様な者には、徳川家とくせんけに対する忠誠心がございません。

薩摩の島津殿などは、反乱を起こせないようにと、長きにわたり圧力を掛けてきた存在。

恨み骨髄に達し、力を与えれば、いつ異国と組んで、反乱を起こすかもしれないと仰せになったのは、阿部様ご自身ではありませんか」


「だから、国防軍を創設し、参勤交代を軽減する代わりに財政状況を確認出来るようにしたのです。

今や、軍備は国防軍に集中され、資金の多くは井伊殿のご提案のおかげで、日本商社に大量に流れ込むことになるでしょう。

そして、幸いにも、島津斉彬様は、幕府への叛意はなく、日ノ本を守る為の協力を約束してくれています」


「その様な言葉、信じられるのですか」


阿部正弘の言葉を信じられない井伊直弼が言葉を溢す。

それに対して、阿部正弘は笑みを浮かべて答える。


「もし、島津様に、叛意があるなら、薩摩の兵の多くを国防軍に参加させたり、財政状況を公開したりはされないでしょう。

もし、幕府が薩摩を滅ぼそうと思えば、犠牲が出るにせよ、薩摩を滅ぼすことが可能になる程度まで、既に薩摩の兵は弱体化させられております。

それも、島津様のご意思なのです」


つい最近まで生きて帰れぬ薩摩飛脚と言われていた薩摩の状況が今はガラス張り。

国防軍にも、多くの薩摩隼人が参加しているというから、確かに薩摩は以前より弱体化しているのだろう。

それが、全て島津斉彬の意思であると言われ、薩摩は幕府のかたきだと教わってきた直弼は混乱する。


「確かにそうかもしれませんが、本当に、それが全て島津様のご意思なのですか。

何故、島津様はその様なことを」


「全ては、日ノ本を守る為に」


そう言うと、阿部正弘は直弼を見詰める。

今まで、直弼に本音を見せず、うまく誘導してきた阿部正弘である。

だが、さすがに、死が間近に迫っているかもしれないとなると、欺いたままで終わりにせず、赤心を吐露して直弼に釘を刺しておきたいと考えたのだ。


「井伊殿、どうか、視野を広く持っていただきたい。

日ノ本の中で争いを起こしては、異国の介入を生むだけ。

今の日ノ本を取り巻く状況は、その様な内輪揉めをしておけるような状況ではございません。

清濁併せ吞み、身分にも、家にも拘らず、まず日ノ本を守ることを考えられよ。

日ノ本を守る為に協力するなら、我ら譜代であろうと、薩摩の様な外様であろうと、市井しせいの民草であろうと何でも利用されよ。

ひいては、それが徳川家を守ることに繋がるのでございます。

伏してお願い申し上げます」


そのように、頭を下げる阿部正弘の命を懸けた迫力に井伊直弼はただ圧倒され、茶室は沈黙に包まれていくのだった。

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