第二十五話 策謀する者達

この当時のヨーロッパは日本で言えば織田信長登場以前の戦国時代の様なものであった。

天下統一、平和な世界を求める者などなく、一応の大義名分は存在するが、基本は欲が支配する世界。

少しでも国に利があれば手を組み、時に裏切るのが当たり前。

だから、戦争が終われば恨みなど持たず、次の瞬間に手を組むことが可能となる。

戦争が総力戦となり、市民が犠牲者となり、国民同士が恨みあうようになる直前の時代。


その様な時代であるから、平八の見た夢においては、クリミア戦争が終わると、イギリス、フランスはすぐにロシアと組んで清国と戦うことが可能であった。

それが、平八が夢で見た本来の歴史の流れ。

その中に介入して、クリミア戦争を継続させようとするのが一橋慶喜。

正直、日本が介入したところで、介入出来るだけの力はない。

軍事力としては圧倒的に劣る訳だし、経済的な援助が出来る訳でもないのだから。


本当のところ、海舟会としては、7か月後に起こるはずアロー戦争勃発を遅延させることを期待して、慶喜にヨーロッパ滞在延期を依頼したのだ。

だが、そんなことを知らない慶喜は必死にクリミア戦争の情報を集め、打てる手を考え始める。

吉田寅次郎たちにしても、万が一、クリミア戦争終結が伸びるのであれば、日本にとって有益であると判断し、協力することにしたのである。


さて、ロシア側の情報なのだが、これは寅次郎が持ってきた情報を見ればだいたいわかる。

この情報は、本当のところ、平八の知識を基に確認出来た情報と、確認中の情報が混じっているので、かなり精度が高い。

これに、オランダから得た情報、シーボルトから得た情報、フランスの新聞などから得た情報等が並び、その説明に情報を収集して来た吉田寅次郎(松陰)、橋本左内、渋沢栄二郎(栄一)らが並ぶ。


「この情報が間違いないなら、どちらも負けじゃな。いくさを終わりにしたいのも、よくわかるわ」


慶喜が吐き捨てる様に言う。

集められた情報は、恐るべき結果であった。


クリミア戦争と言うのは、ロシア帝国が南下を目指して、弱体化していたオスマン帝国(トルコ)を攻撃したことで始まった戦争である。

英仏は開戦当初、中立を保ち、参戦する意思はなかったようである。

だが、蒸気船を持たないオスマン帝国海軍がロシア帝国に一方的に敗北すると、ロシアがトルコで虐殺をしているとの報道が英仏でなされ、英仏の世論が沸騰して参戦を決めたという。


民草の声が戦争を始めてしまうと規模が大きくなるのだろうか。

フランス軍30万、オスマン軍16万、イギリス軍11万、ロシア軍88万が参戦する大戦争に発展してしまう。

そして、通常、軍隊の三分の一が壊滅すると全滅とされるのだが、この戦争でフランス軍が13万人、オスマン軍が3万5千人、イギリス軍が4万人、ロシア軍に至っては55万人もの犠牲者を出し、全滅した場合以上の犠牲が生まれてしまったと言われている。

更に、ロシアは黒海の攻撃拠点していたセヴァストポリ要塞を英仏に陥落され、英仏土連合軍もロシア攻撃の拠点にしていたカルス要塞をロシアに陥落されてしまっている。


犠牲が大きすぎる上に、攻撃拠点を失っているのだ。

どちらも手詰まりもいいところではないか。

その上、フランスは犠牲が大き過ぎると民草がいくさの継続に反対しており、その声に押されナポレオン三世も戦争を終わりにするつもりだと言う。

おまけに、ロシアは皇帝ニコライ1世が崩御し、後を継いだ息子のアレクサンドル2世にも戦争継続意思はないと言う。

イギリスだけが、戦いを続け、もう少し有利な状況で戦争を終わらせることを望んでいるようだが、フランスの陸軍なしでは戦争を継続することは出来ないと判断しているようだ。


「さて、この状況でどうやっていくさを続けさせるか」


慶喜の目的は、どちらかを勝たせることではない。

少しでも戦争が長引くように、今回の講和会議を失敗させることが目的なのだ。

それならば、どちらかの陣営を煽ってやれば良いのだろうが、その為にどんな手があるのか。

慶喜が考え込んでいると、寅次郎が空気を読まず提案する。


「恐れながら、フランスに戦争継続意思がないことをロシアに伝えては如何でしょうか?

フランスに戦う意思がない事をロシアが知れば、ロシアは交渉にてより多くを要求し、講和が遅れるのではございませんでしょうか」


確かに、フランス軍が撤退するのを知っていれば、ロシアも交渉において弱気になることはないだろう。

寅次郎は平八から、パリ講和会議の結果、オスマン帝国の領土保全、黒海の中立化、ドナウ川の航行の自由などが決められたことを聞いている。

だが、フランス軍が撤退してしまうならば、例えば黒海中立化などはロシアが蹴ることが出来るかもしれない。

少なくとも、ロシアが黒海中立化に反対し、パリ講和会議を長引く可能性があると考えたのだ。

その提案を聞いて慶喜が不機嫌に答える。


「そうじゃな。

ロシア側が間抜けにも、わしらが知ることが出来た程度のことを知らず、フランス軍が撤退するつもりであることを知れば、その様な要求をすることもあるやもしれん。

一応、試してみるだけの価値はあるだろうが。

他に何かないか」


慶喜は、国の命運を賭けてやってきたロシアの交渉団が部外者の自分達でも入手できた程度の情報を掴んでいないとは思えなかった。

表敬訪問を口実に各国の代表に会いに行くにしても、講和交渉の最中で忙しい交渉団に、何度も会いに行ける機会があるはずがない。

代表団に会いに行くとすれば、確実に効果があると思える手を何か用意しておく必要があるのだ。


「それでは、イギリスにフランスが戦争継続意欲がないことを伝えてみては如何でしょうか?

フランスの説得はイギリスに任せるのです。

イギリスは最強国家。

イギリスが説得しようと思えば、フランスを説得する手の一つや二つあるのではないでしょうか」


渋沢栄二郎が提案すると、慶喜がため息を吐いて答える。


たわけ!それも、イギリスが知らなければということじゃ。

フランスが戦い続けるつもりがない程度のこと、本当にイギリスが知らんと思うのか」


パリに来るまでの間、慶喜は広大なイギリスの植民地を見てきている。

世界中何処に行っても、イギリスの植民地が存在していた。

それだけ広大な土地の統治がうまく行っているのならば、当然、情報の伝達もシッカリしているということだろう。

まして、同盟を組んだフランスが戦線離脱を望んでいるのだ。

常識的に考えれば、フランスも、戦線離脱の意向をロシアに提案する前にイギリスに伝えているところだろう。

その上で、イギリスが説得出来ていないとすれば、話したところで無意味な話になる。


「我らが知ることが出来たことを他の者が知らないという前提で考えるな。

我らの知ることが出来たことは他の者が当然知っているという前提で、いくさを続けさせる為の策を考えることが必要なのだ。

知っていても、連中が思いつかないような策。

それが事態を動かす鍵となりうるのだ」


「それでは、オスマン帝国にフランスが撤退する予定であることを伝えては如何でしょうか?

オスマン帝国は、イギリス、フランスと異なる神を信心し、同盟国と言いつつも、距離がある様子。

これは、戦死者の数を見ても、わかることです。

オスマン帝国は、戦争参加者の数がイギリス、フランスと比較して多いにも関わらず、戦死者の数は何故か少なくなっております。

これも、イギリス、フランスとオスマン帝国の間に隔意がある証拠となりましょう」


橋本左内がそう言うと慶喜は頷いて尋ねる。


「それで?オスマン帝国にフランス撤退予定を知らせてどうする?」


「オスマン帝国の不安を煽ります。

フランスが撤退すれば、オスマン帝国はロシアの攻勢を受けなければならぬ立場。

動揺せざるを得ませんでしょう。

その上で、ロシア側にはオスマン帝国と単独でオスマン帝国に有利な条件で講和を結ぶことを提案させるのです。

戦争前に結ばれる直前までいったという条件に加え、イギリスから守ることを提案させるのも良いでしょう。

すなわち、オスマン帝国内のロシア系住民の生命と財産を保証し、ロシア軍が自由に黒海内を航行し、特権を持って交易が出来ることを条件とする代わりに、オスマン帝国領土を保全し、イギリス、フランスからオスマン帝国を守らせることをロシアに約束させるのです」


確かに、この条件はクリミア戦争が始まる直前にオスマン帝国とロシアの間で締結直前までいった条件であるらしい。

この条件に対して、イギリス、フランスが猛抗議を行い、イギリスがオスマン帝国に対して砲撃を行ったことから断念された条件だとも言う。

だが、今、フランスは戦い続ける意思を持たない状況。

イギリスは裏切りだと激怒するかもしれないが、陸軍が不足している以上、オスマン帝国を攻撃手段は限られている。


「それで、オスマン帝国にどれだけの利がある?

既に戦い、ロシア側に大損害が出ていることはオスマン帝国も知っているはずだ。

イギリスから守るとロシアが約束したところで、何処までオスマン帝国が信用すると思う?」


「オスマン帝国がロシアに着くかもしれないとイギリス、フランスに思わせることが、オスマン帝国の利となります。

今は、ロシアからイギリス、フランス、オスマン帝国がどれだけの譲歩を得るか交渉している状況。

これに対し、オスマン帝国がロシア側に移る可能性があるとイギリス、フランスが知れば、イギリス、フランスもオスマン帝国に気を遣わねばならなくなるでしょう。

そうすれば、間違いなく交渉は長引くかと」


橋本左内が答えると慶喜は考え込む。

確かに、ロシアがオスマン帝国の調略を試み、オスマン帝国が欲張ってくれれば交渉は長引くことになるだろう。

その為に、ロシア、オスマン、両帝国が皇帝の意思を確認に行ってくれれば、それだけ時間は稼げる。

だが、それにはロシア側がいざとなれば本当に戦える姿勢を見せる必要があるだろう。

それには、後一手が足りないのだ。


慶喜が考え込んでいると、ドアをノックする音がする。


ドアの向こうにいるのは、大久保一蔵が連れてきたジェームス・ロチルド男爵(ロスチャイルドは英語読み)。

このクリミア戦争最大のスポンサーの一人である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る