第二十四話 パリ条約交渉の裏側で

平八の見た世界線で1856年3月に結ばれることになるパリ条約は、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャ、オスマン帝国、ロシアの8か国で結ばれることになるものである。

この条約は、クリミア戦争を終わらせたのと同時に、これまで曲がりなりにもヨーロッパの平和を保ってきたウィーン体制の現状維持、正統主義を完全に終わらせ、欧州各国が国益の為に帝国主義に邁進する切っ掛けとなったとも言われている。


その様な中に紛れ込む歴史の異分子、一橋慶喜率いる欧州視察団。

慶喜は、各国の情報収集を行いながら、オランダ経由で各国への表敬訪問を試みていた。

その様な中、水戸斉昭の親書を携えた吉田寅次郎、桂小五郎が謁見にやってきていたのである。


「これが親父殿の成果か」


慶喜は寅次郎から渡された書簡に目を通す。

書かれているのは、間違いなく水戸斉昭の筆跡による書簡。

ロシアが樺太等を日本領土として認める代わりに、樺太で交易を許可すること。

その際に、ロシアは樺太以外での日本領への侵入をせず、樺太に来る際には武装解除して、日本の法に従うという条約を結んだ旨が書かれている。

もともと、ロシア出発前から目指していた結果とは言え、立派な成果だと言えるだろう。


「なかなか、立派なものだな。

それで、其方の見てきたロシアという国はどういう国であった?

直答を許す。忌憚なく話すが良い」


慶喜にそう言われて、寅次郎は答える。


「は、それでは恐れながら。

ロシアという国は広大な国でございました。

約6か月もの間、馬車でかなりの速度で移動してやっと到着することの出来る広大な土地。

同行する騎馬隊も精強なものが多数ございました」


「ようも、その様な国相手に北蝦夷(樺太)が日ノ本の物であることを認めさせられたものだな」


「斉昭様は、アメリカ、イギリスが北蝦夷(樺太)を日ノ本のものであることを認めていることを仄めかされました。

もし、いくさともなれば、今のままで日ノ本がロシアに勝つことは困難であることは認められました。

が、いかなる状況になろうとも、日ノ本の兵は最後の一人まで戦うということもロシア皇帝に堂々とお伝えされたのです。

交易をすれば利があるにも関わらず、多大な犠牲を払い、誰もいなくなった日ノ本を支配してどの様な益があるかとお伝えしたところ、ロシアも交易する道を選ばれたのだと思います」


自慢気に話す寅次郎を見て、慶喜は苦笑する。

親父殿も、この男も本気で全滅するまで戦うつもりなのだ。

慶喜が見て、聞いた限り、多くの異人は利を基に動いている。

その様な中、自らに利もないので、喜んで命を捨てる男たち。

ロシア皇帝はさぞ困惑したことだろう。

慶喜がロシア皇帝に同情する中、寅次郎は更に続ける。


「更に、ロシア側には地の利がございません。

先程、ロシアが広大であること、優秀な騎馬隊が多数いることはお伝えしました。

しかし、ロシアの土地のほとんどは未開の地でありました。

日ノ本付近から、数か月は未開の森ばかりでございます。

数か月移動するまでは、人もまばらで、村が点在する様な状況であったのです。

更に、ロシアが日ノ本を侵略するには、水軍、船が足りないものと思われます。

北蝦夷(樺太)からロシアに行く為の船は少なく、港も存在しない状況でありました」


軍学者らしい寅次郎の分析を聞いて、慶喜は少し見直した様な顔をする。

どうやら、この男は水戸学に浸かった考えなしではないらしい。


「となると、我が国としては、ロシアに東方開拓する気を起こさせない方が良いということか。

北蝦夷交易で利を上げるつもりであったが、そこが栄えてしまえば、ロシアは東方開拓に力を入れてしまうであろう。

ならば、ロシアとの交易は、なるべくオランダ経由で行わせた方が良いかもしれぬな」


その言葉を聞いて、寅次郎は頷く。

寅次郎は慶喜との謁見前に、慶喜が既に日本商社ロッテルダム支店開設を決めたことを聞いている。


「ですが、今、ロシアはイギリス、フランスといくさの最中。

今回、私は講和交渉の為の船に同乗しましたので、ここまで無事に来ることが出来ましたが、一般のロシア船はイギリス船に襲撃される状況。

戦が続く限りは、ロシアがオランダまで来るのは困難かと」


寅次郎に言われ、慶喜は考える。


ロシアには、日ノ本のある東方を開拓して欲しくはない。

だが、ロシアとイギリス、フランスの戦がある限りは、ヨーロッパでロシアが日ノ本と交易することは難しいだろう。

となれば、いくさが続く限り、ロシアは樺太での交易を求めて来る可能性がある。


一方で、ロシアがイギリス、フランスと戦い続ける限り、ヨーロッパ各国が日ノ本に侵略の目を向ける余裕はないだろう。

つまり、これから行われる講和会議というのが失敗してくれた方が、日ノ本の都合は良いのだ。

ロシアが東方開拓を進めることになったとしても。


痛し痒しの状況じゃな。

戦が続けば、ロシアが東方を開拓しながら、樺太に交易をしにくる可能性がある。

戦が終われば、欧州各国がアジアで活動する余裕を生んでしまう。

ならば、どちらを選ぶか。

あるいは、他に何か手はないか。


考えながら、慶喜が寅次郎に尋ねる。


「其方、伊勢守いせのかみ(阿部正弘)のことから、何か聞いておらぬか」


「は、さらば一つだけ。

イギリスとの交渉は急がず、慶喜公のご判断でジックリ時間を掛けて進めて貰って構わないと」


寅次郎の以外な言葉に、慶喜は興味を示す。


「ほう、わしはオランダ、フランス、イギリスなどの欧州各国を視察し、交易の条件を整えることを期待されていたと思うておったが違うのか」


「オランダとフランスの交渉は、このままでよろしいかと。

ですが、イギリスに関しては時間を掛けた方がよろしいかと存じます」


その言葉を聞いて、慶喜は怪訝な顔をする。

慶喜は、オランダに日本商社支店を無税で開設する許可を得たことを足掛かりに、イギリス植民地にも同じ条件で日本商社支店を開設する許可を得た上で、日本の領土保全、日本でのアヘン売買禁止をイギリスから取り付けるつもりであったのだ。

その条件で条約を結ぶことが出来れば、日本に利益になることは間違いないはずなのに、どうして交渉を長引かせるべきだと言うのか。


「理由を聞いても良いか?」


「イギリスは、アヘン戦争で見てきた通り、交易でイギリスに利がないと思えば、武力で条約を覆そうとする国でございます。

その様な国と良い条件で条約を結んだとしても、長続きは致しません」


慶喜が聞いている範囲ではアヘン戦争の存在がある。

清との交易で利益を得られなかったイギリスは、清でご禁制となっているアヘンを持ち込んで利益を上げたという。

その上、清が法律違反でアヘンを取り締まると、イギリスは清にいくさを吹っ掛け、多額の賠償金と領土(香港)を奪った上、治外法権、関税自主権放棄などをさせている事実がある。

だから、イギリスが条約を結んだ程度では安心出来ない国であるということは、慶喜も納得出来る話ではある。


更に、寅次郎をはじめとする海舟会及び阿部正弘らには、平八の夢で見た知識が存在する。

平八の見た夢が正しければ、これから、わずか7か月後、1856年10月にアロー号事件が起きるのだ。


アロー号事件というのは、イギリス船籍の船アロー号に乗っている清国人を清国の官憲が取り締まったことから始まる事件である。

清国の人間を清国の官憲が取り締まったのだから、本来は違法でも何でもない。

だが、イギリスは、アロー号がイギリス船籍の船であるから、清国の官憲にイギリス船籍の船を臨検する権利はないと主張したのだ。

もし、本当にアロー号はイギリス船籍であるなら、その主張には正統性がある。

他国の船を勝手に取り締まる権利など、どの国にもないのだから。

だが、実際には、アロー号のイギリス船籍は既に期限切れとなっていた。

つまり、本来的には、イギリスが清に抗議する権利など何処にもなかったというのが客観的な事実である。


この当時、アロー号のイギリス船籍が期限切れとなっていることは、清国もイギリスも確認出来ていなかったとされている。

それが、本当であるかはわからない。

イギリス人一般には知られていなかったのは事実である。

が、もしかすると、イギリス政府や後に日本にも来ることになるはずの広州領事ハリー・パークス辺りは事実を知りながら、言い掛かりをつけたのかもしれない。

実際のイギリス側の思惑はわからないのだ。


ただ、アロー号事件を切っ掛けとして、イギリスが清国に宣戦布告をしたという事実があるのみである。

更に、その戦争に、イギリスはフランス、ロシア、アメリカなどを巻き込んだ。

これを、アロー戦争という。

アロー戦争の結果、アヘン戦争に勝っても貿易の結果赤字が減っていなかったイギリスが、清国より更なる領地の割譲及び莫大な賠償金を清国から得たという事実が存在する。


その事実を知っている海舟会の面がイギリスを警戒するのは当然のことだろう。


仮に、日本が対馬に限定してイギリスと交易を始めても、イギリスに儲けが出なければ、イギリスが清国にした様に武力に訴えてくる恐れがあると判断したのだ。


慶喜には、このようなアロー戦争の知識はない。

しかし、寅次郎の言葉とアヘン戦争の知識だけで、そこまで察することが可能であった。


「条約を結んだところで信用出来ない相手なら、条約を結ぶことを条件に譲歩を狙った方がマシということか。

さて、どの様な譲歩をさせるのか。

その上で、イギリスにも利がある様な条約を結ばねばならぬとなれば、確かに条約締結を急ぐことはなさそうじゃな」


「は、仰せの通りでございます」


寅次郎は慶喜の察しの良さに心から感服して応えた。


部下のその様な様子を見慣れている慶喜は、これからの予定を考え始める。

まず、イギリスとの交渉を遅らせるとなれば、ヨーロッパでの滞在を長引かせる必要があろう。

食べ物など、日本が恋しい部分もあるが、バカな幕閣連中の相手をしないで済むだけ、滞在の延期は慶喜にとっても歓迎するべきものだ。

そして、滞在を延期した間に、可能ならば、パリで今開かれている講和会議の締結を遅らせる。

フランスが戦争継続意欲を失っているとも聞いたが、どうやって、それをひっくり返すか。

さて、その為に、日ノ本にどこまで出来るか。

とりあえず、この講和会議に来た代表たちになるべく多く表敬訪問をしておいた方が良いだろうな。


一橋慶喜は頭を猛烈な速度で回転させ始めた。

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