第十四話 安政江戸地震

日本は世界でも有数の災害の多い国である。


大陸プレートが密集している為、火山噴火、地震が多く、更にモンスーン気候に位置し、台風の通り道となっている為、風水害も多い。

おまけに、木造建築物が多いため、火事も非常に多いのだ。

火をおこすことが重労働である為、なるべく火は消さず、炭や熾火にして残す様にしていたことも、火事が起こりやすい原因だったろう。

その様な環境が日本人という勤勉さ、団体主義を持つ、世界でも変わった民族を生んだのかもしれないので、一長一短は一概に言えないのかもしれないが。


そして、江戸時代と言われたこの時代、多くの日本人は災害が起きると天の怒りと考えるのが常であった。

この様な地震が続くのは、風水害が起きるのは、為政者が悪いから、天が罰を与えていると考えるのだ。

これは迷信深い庶民だけの考え方ではない。

武家の中にも、この様な考え方があり、災害が多発した為に、権力者が失脚する例も少なからずあるのだ。


その代表的な例が田沼の改革と老中田沼意次ろうじゅうたぬまおきつぐの失脚であろう。

経済を理解出来ない反対派の武士たちが、田沼を失脚させる為に賄賂と汚職の代名詞の様な汚名を着せ、飢饉や洪水の原因を彼の治世にある様に吹聴している。


しかし、実際のところ、彼がやろうとしていたのは、米中心の農本思想的経済から商業資本を重視した貨幣経済への移行であり、解体新書などの蘭学書の出版を許し、日本の技術発展を進め、蝦夷地を開拓することであった。

田沼の場合、その出自が決して高くないことから、疎まれたことは否定出来ないが、災害が起きず、彼の時代が続いていれば、蝦夷地の開拓、資本主義的経済の発展などが実現され、幕末において、欧米列強の侵略に対し、もっと余裕を持って対応出来たと思われるのが残念なところである。

もっとも、田沼時代に蘭学への規制が弱まっていなければ、蒸気船や大砲に関する最低限の知識も得られず、その後の発展も期待出来ないのだから、欲張っても仕方がないのかもしれないが。


そして、後の世で幕末と呼ばれる、この時代もまた自然災害の多い時代であった。


大地震だけでも、伊賀上野地震、この世界線ではポーハタン号を大破させた安政東海地震、紀伊半島や四国にも被害を与えた安政南海地震などの地震が頻発し、西暦1855年11月(安政2年10月)には、安政江戸地震が発生している。

この安政江戸地震は、本来の歴史においては1万人近い死者を出しており、藤田東湖もこの地震で倒れた建物に潰されて圧死している。


地震の発生を防ぐことは出来ない。

だが、その被害を最小限に食い止めることによって、政治に対する信頼を確保することが出来る。

為政者に対する不満を減らすことが出来る。

庶民や下級武士が政治に直接関わることはない。

だが、それらの不満が、幕府の屋台骨を揺るがせることになるのだ。

対策を怠る訳にはいかなかった。


平八は安政東海地震の存在を覚えていた様に、安政江戸地震の存在を覚えていたが、やはり、その日程までは覚えていなかった。

その為、国防軍の面々は、この年の秋になると、毎晩、夜間訓練と称して、水を入れた樽を背負って、江戸中を走り回らされていた。


この当時、江戸の人口は約100万人。

その内、火消しは全部で1万人近くいたと言われる。

それに加えて、今では5万に膨れ上がった国防軍が夜の江戸の街の夜回りを行う。

そんな小雨の降る夜半に起こったのが安政江戸地震である。


立っていることも困難な揺れの中で、建物が次々と倒壊していく。

そんな中で国防軍の面々は訓練通り、倒壊物が落ちてこない場所を確認すると、そこに移動し、しゃがみ込んで、揺れが収まるのを待ち、揺れが収まると一気に動き出す。


移動するのは倒壊した建物のもと。

倒壊した建物の下敷きになった人を探し、火種となりそうな物があれば背中に背負った樽の水を掛ける。

この当時の火消しは基本的には、建物を壊すことによって、火災の延焼を防ぐことであったが、火消し役が5万人も増えたこと及び初期消火の考え方が平八から伝えられたことにより、延焼前の火災の消火が可能となったのだ。


国防軍はもともと5人一組となり、江戸市内を見回りしていたのだが、それぞれが国防軍の肩書の下、武家屋敷だろうと、寺社領、町方と関係なく走り回り、消火と救助を実施していく。

消せない火や瓦礫の下敷きで助けられない人を見つけると教えられた火の場合には火の合図、瓦礫の場合は瓦礫の合図に笛を吹き、仲間を呼んで助けを呼ぶ。


「こっちだ。この下に人がおる」


小柄な久坂玄瑞が大声を上げる。

久坂玄瑞も、吉田寅次郎の激で海外視察と国防軍の参加を目指して江戸に上がってきたが、外国語を覚える素養がなかったようで、日本に残り、国防軍の部隊の指揮を執っている。

玄瑞の隊が笛を吹くと、近くにいた大男の田中新兵衛が隊を率いて玄瑞率いる隊のもとに駆け寄る。

薩摩藩では陪臣の下級武士扱いとされる田中新兵衛であるが、国防軍は実力主義。

合理主義者の村田蔵六が率いる国防軍陸軍は、その力に応じた編成がなされていた。


「ここは、我が藩の藩邸である。勝手に侵入するな」


「人手が足りているなら良いのです。火が出たり、瓦礫の下敷きになった方はいらっしゃいませんか?

我ら、国防軍は日ノ本の為に働く軍。お困りの方がいれば、お助けいたします」


礼儀が必要そうな武家屋敷近辺には、井上源三郎を始めとする礼儀作法の覚えの良かった隊が走り周り、国防軍一の速さと持続性を誇る長岡藩の河合継之助の隊が走り回り、怪我人を緊急で作られた救護所に運ぶ。


「走れ!死ぬる気で走れ!長岡の田舎者なんぞに負けなさんな!立ち止まった奴は斬るきな!」


岡田以蔵が自分の隊を叱咤しながら、江戸の街を駆け抜ける。

岡田以蔵は足軽の出身。

本来は長岡藩家老出身の河合継之助をライバル視出来る様な身分ではない。

だが、実力主義の国防軍には、その様な差別は存在しない。


この夜、国防軍は休まず走り回り、火事を初期消火で終わらせ、瓦礫の下から多くの人を救出する。

本来の被害と異なり、火事は発生せず、死者の数も大幅に下回ることとなる。


この時代の日本において、為政者の政策に民衆の支持など必要とされない。


だが、この地震の対応によって、田舎者の集まり、よそ者の集団であったはずの国防軍は、江戸っ子達から強い支持を受けることとなるのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る