第十一話 遣露視察団激震

水戸斉昭は驚愕していた。


水戸学において、万世一系の天子様を仰ぐ日本こそ世界で最も尊き存在であり、日本以外の存在は全て穢れであるという思想がある。

その考えに基づけば、仏教の始祖である仏陀ブッダも、野蛮な異国人どもを少しはマシにする為の教えを作った者という程度の評価しかしていない。

その為、水戸藩では、廃仏毀釈等が行われる原因となっている。

もちろん、この様な行動に至ったのは、この時代の仏教がすっかり堕落して、宗教として、民の心を救うという役割を果たさず、役所の様な役割を果たしていたのも一因ではあるのだが。


そんな水戸学の考えに基づけば、異国に行くことなど、穢れをその身に受けることに過ぎず、日本を守る為に、我が身を犠牲とする自己犠牲に過ぎなかったのだ。

少なくとも、水戸斉昭については、間違いなく、ロシア視察は蛮地へ赴く苦行に過ぎないはずだったのだ。


だが、樺太から日の丸を掲げた蒸気船で、アムール川流域で待っていたロシア皇帝の迎えの馬車を見た時から、斉昭の『常識』は徐々に破壊されていく。


迎えに来ていた何十台もの馬車を牽くのは、驚くべきほど大きく美しい馬たち。

斉昭も武士の嗜みとして、乗馬位はするが、日本には、まだ、この様に大きく美しい馬は滅多にいない。

それが何十匹もおり、馬車を牽く馬の他に、それを取り囲み、護衛する騎士らしき者までいる。

その体格は、水戸の武士たちから見て、一回りも二回りも大きく、鬼を連想させるもの。

特に、護衛の先導をするコサックと言われる連中は、特に強く逞しい連中であった。

その上、斉昭に案内された馬車は、皇帝用の馬車を貸し出されただけあって、豪華で大きく美しい。


戦うことが本職である武士として、いや、本能として、戦えば容易ならざることになることが連想出来るし、この豪華な馬車に乗りながら、ロシア人を蛮族と侮ることが難しくなる一方であった。


そして、アムール川からロシア皇帝のいる首都サンクトペテルブルグを目指す長い旅が始まる。


だが、この旅も、斉昭を驚かすことはあっても、想像していた様な辛いものではなかった。

ロシアから見れば、日本皇帝の叔父である斉昭は国賓待遇。

日本との国交樹立というロシア100年の悲願を実現する為の賓客であるのだ。

ロシアは精一杯のもてなしを日本のロシア視察団に行っていた。


この当時、ロシア東部からサンクトペテルブルグへと通じる道の整備などされていない。

だから、本当は冬季、雪が積もってから、ソリで移動した方が安全で早く移動出来るのだ。

だが、他国の人間にロシアの冬は寒すぎるし、早く日本の視察団に会いたいという皇帝の意思は何よりも優先された。

それで、ロシア側は皇帝用の馬車を使い、一定距離進むと馬車を牽く馬を取り換えながら、西へと進むことになる。


馬は生きているから走れば疲れる。

だから、急ぎの場合、馬を乗り換えるのは理解出来る。

だが、これほどの馬を行く先々に配置させ、乗り換えることが出来るとは、ロシアにはどれだけの馬がいるのだ。

斉昭はロシアの脅威を実感し、戦慄させられる。


これまで、斉昭が見てきた異国とは、日本近海に近づく、数隻の漁船に過ぎなかった。

実際、それで斉昭は水戸に上陸した異人たちを追い返したこともある。

加えて、ペリー来航で見せつけられた蒸気船も、7隻程度に過ぎない。

異国は小さくとも大国清を倒す程の強国であるという話も聞いていた。

その後の砲術試しで、異国の銃や大筒の威力も理解したつもりでもいた。

だが、頭で考えて理解することと、実感することは違う。

今回の視察は、斉昭と攘夷派だった水戸藩士に、異国の脅威を実感させることになっていった。


もっとも、異国の脅威を理解したからと言って、人間の行動はそう簡単に変わるものではない。

実際、平八の夢で、高杉晋作は、これから6年後の1861年に上海に渡り、清国が異国の植民地となろうとする現実を見ながら、その2年後に外国船砲撃(下関戦争)を始めてしまうのであるから。

正しい認識が、常に正しい行動に結びつくとは限らないのである。


斉昭の乗る馬車には、伴として側近の藤田東湖が乗り、異国の事情に詳しいことから前松前藩主、松前崇広が乗り込む。

そして、最初は乗っていなかったのだが、斉昭に気に入られて接待役としてプチャーチン提督が同乗し、その通訳として吉田寅次郎が、更に護衛役として桂小五郎が乗り込む。

小五郎は剣の腕も一流であり、1年半の生活の中で、他の水戸藩士に認められるカリスマ性もあり、異国人から斉昭を守るという栄誉ある役割を認められたのだ。


アムール川からサンクトペテルブルグへの陸路の旅は、かなりの長旅になる。

だが、ロシアの東部シベリア地域は、面積の割りに人口が少なく街も少ない。

だから、ロシア視察団の旅は、街に辿り着く毎に、そこに宿泊し、そこで馬を取り換えて進むこととなる。


食事は、水戸藩が持ち込んだ大量の米に、味噌、漬物がある。

これらに加えて、皇帝たちに会う為の正装など、大量の着物や日常品が荷馬車に積み込まれ、ロシア視察団に同行することとなる。

更に、プチャーチンが視察団の接遇役を務め、斉昭の要望を甲斐甲斐しく聞き、斉昭の好物の牛肉なども、すぐに用意してくれる。


街がある場合は、その街で一番の家に招待され食事と宿を提供されるのだから快適なのは勿論であるが、

街がなくて、馬車を止めて、野営をする場合でも、用意されるテントも皇帝用の物であるから非常に快適なものであった。


そして、プチャーチンは、彼と交渉した川路聖謨から、

『軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である』

という評価を受ける程の人物である。

異人に対して偏見を持つ斉昭ではあるが、軍人であり、ロシア皇帝への強い忠誠心を持ち、日本に敬意を払うプチャーチンを斉昭は大いに気に入り、馬車への同乗や食事への同席を許し、彼からロシアの話を聞くこととなる。


斉昭の乗る馬車は、揺れる道を避けながら、ほぼ全力で走っている。

それなのに、続くのはシベリアの森林地帯ばかりで、なかなか街に辿り着けないこともある。

その広大さに、斉昭は驚きながらも、同時に、人が少なく、街が少ないことに違和感も覚えていた。

プチャーチンによれば、ロシアという国は1000年程前に建国され、1000年という時を掛けて、これだけ巨大な領土を得たのだと言う。

だが、これだけの巨大な領土を得ながら、何故、開拓しないのだ。

領土を増やす努力を開拓に向ければ、この国はもっと発展するだろうに。


その疑問を松前崇広に聞くと、苦笑しながら答える。


「さて、ロシア人に聞いてみねばわからぬことではありますが、ロシアは寒い国ですから。

開拓しようにも、作物が育たぬと思っているのかもしれません。

また、ロシアには南下政策という伝統的な政策があるそうでしてな。

日ノ本との交易を始める以上に、凍らない港、不凍港を得て、交易をするという悲願があるということですよ」


「その為に、我が国に接近してきたということか。

これだけの領土があれば、出来ることはもっとあるだろうに」


斉昭がそう言うと東湖が口を挟む。


「そのことですが、そこにいる寅次郎によると、ロシアには多くの鉱物資源があるとのこととか」


勿論、この寅次郎の情報というのは、平八の夢から得た情報である。

鎖国の日本で、ロシアの鉱物資源が豊富であるという様な情報を持っている者は誰もいない。

その為、寅次郎は象山からロシアの鉱物資源の情報を収集するようにとの命を受けていたのだ。


「なるほどのう。鉱物資源があるのなら、そいつの開拓を手伝ってやるのもあるかもしれぬな」


「それは、我らが蝦夷開拓を終えてからのことで十分でしょう。

この地域は、まだ開拓されていませんが、ロシアの本当の力は西にあります。

決して、侮ったりなさらぬように」


松前崇広にそう言われて、斉昭は憮然とするが約5か月のロシア横断の旅で西に近づいていくにつれ、松前崇広の言葉が正しかったことを実感させられる。

この当時、ロシアの人口は約6000万人と約3000万人の日本の倍もあり、その面積は約38万平方キロメートルの日本の約50倍2100万平方キロメートルもあるのだ。


その巨大国家、ロシアが作り上げた古都モスクワ。

石造りの巨大な建物と舗装された道路が整備された巨大都市を見て、どんなに水戸学に染まっていようとも、蛮族の都などと侮ることなど出来るはずがなかった。


これまでの旅で、ロシアは領土の広さの割りに人口が少なく、領土が広すぎる為に、日本に兵を動かそうにも時間が掛かることを斉昭らは理解していた。

だが、ここまでに来るまでに見てきた騎馬隊の連中の数と精強さも十分に理解したのだ。

その上で、この連中は、日本よりも優れた武器を持ち、不凍港を手に入れる為の南下政策が国是であるという。

ならば、この交渉の成り行き次第では、ロシアが日本に攻め込んでくる可能性もあるということだ。


ロシア視察出発前ならば、迎え撃とうと言っていたであろう斉昭も、ロシアの力を理解した今では、どうやって戦を避け、時間を稼いで、侵略に備えるかと考えるようになっていた。


こうして、モスクワに到着したロシア視察団一行に、驚愕のニュースが告げられる。


ロシア皇帝ニコライ1世の崩御である。

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