第九話 遣米視察団出発(それぞれの正義)

遣欧視察団の出発が決まると、アメリカ特使アダムスもアメリカに向けて父島から出発したいので、遣米視察団のメンバーを集めて欲しいという連絡を幕府に入れてくる。

アダムス特使は、世界で初めて、日本人を世界に紹介した栄誉を逃したくないと考えたのだ。

元々は津波さえなければ、とっくに遣米視察団を迎えることが出来ていたのが遅れていた。

だが、それが幕府の忠告も聞かず、条約を破り、勝手に江戸湾に侵入した上で、大地震に遭い、船を大破させてしまった。

その失敗を何としても取り返したかったのだ。

既に、大破したポーハタン号はポーハタン号2世号として蘇り、蒸気機関の最高速度実験と耐久実験にも成功している。

日本人が操舵する初の純日本製蒸気船、咸臨丸も既に完成している。


問題は、咸臨丸の操艦を行う日本人の航海訓練時間が足りないことではあるが、目の前でオランダ視察団が出発準備をするのを見て、アダムスらは黙っていることが出来なかった。

まあ、実際のところ、異国視察団の出発ならば、既に半年も前に、ロシア視察団が出発しているのだが。

その様なことを、わざわざ日本側はアメリカに教えたりはしなかったので、アメリカは目の前のオランダ視察団にライバル意識を持ったのだ。


加えて、オランダ人達は、訓練中の海軍操練所の生徒たちを、練習用にオランダから持ってきたスンビンマル(日本名:観光丸)に乗せて、訓練航海を兼ねてオランダまで連れていくのだと言う。

それならば、アメリカ人達も咸臨丸に指導教官として乗り込み、日本人海兵と共に太平洋を越えようと考えたのだ。


アメリカ行きの船は、ポーハタン号2世号と咸臨丸であるが、そこに乗船する日本人は二種類に分けられる。

ポーハタン号2世号を操舵するのはアメリカ人で、これに乗船する日本人は賓客として扱われ、操船には一切関わらない。

だから、ポーハタン号二世号には、遣米視察団団長の井伊直弼、その側近として長野主膳及び幕府と彦根藩の護衛が乗り、更にアメリカ語の通詞として、幕府の小栗又一(忠順ただまさ)、小栗の伴として小栗家の中間をしていた三井財閥中興の祖、三野村利左衛門が乗り込み、更に、勝麟太郎及びアダムス特使の従者をしていた福沢諭吉も乗り込むこととなる。


これに対し、ブルック大尉らと共に咸臨丸に乗船する日本人は、航海訓練を中心に行い、賓客としてではなく、操船や蒸気機関の整備を行うスタッフとして乗船する者と外様藩出身の者が乗り込む。

だから、咸臨丸には、坂本龍馬、中浜万次郎が船員として、田中久重が蒸気機関の整備スタッフとして乗り込み、その他に、外様藩出身の者として西郷吉之助が乗り込むこととなった。


さて、ポーハタン号2世号に乗り込んだ井伊直弼ではあるが、想像以上の速さで遠ざかる日本本土を確認して暫くすると長野主膳、小栗忠順を呼んで自室に入る。

ポーハタン号二世号に乗り込む井伊直弼らには、賓客として艦長並みの個室があてがわれていたのだ。


呼び出した長野主膳は、井伊直弼の側近中の側近。

直弼が部屋住みの頃からの知己であり、平八の見た世界線では、彼の謀臣として活躍したとされている。

そして、今回の彼は直弼の依頼でアメリカ視察に同行することとなるのだ。


これに対し、小栗忠順は海舟会の推薦により、阿部正弘が声を掛け、遣米視察団に参加しているが、彼は家康時代以来の2,500石取りの旗本である。

平八の見た世界線では、幕末時代において勘定奉行、外国奉行等、様々な奉行を歴任している。

彼は、日本が分裂した10年戦争の初期で戦死しているが、彼の捲いた発展の種が日本を発展させることになったと言われ、彼のいた日本皇国のみならず、大日本帝国も、彼の構想を実現することによって発展することが出来たと言われる程の能吏である。

また、10年戦争では徹底抗戦を主張し、彼の戦略が全て採用されていれば、大日本帝国も危なかったと大村益次郎が述べている。

ただ、小栗は戦争の初期において、薩長軍に陣の移動中に遭遇してしまい、運悪く戦死してしまった為に、その戦略が生かされることはなかったのであるが。

幕末と呼ばれるこの時代において、幕府にいた最も文武に優れた官僚の一人が小栗であったのだ。


海舟会は、彼の能力に注目し、仲間に取り込むことを検討したが、徳川家康以来の旗本である小栗は、非常に強い忠誠心を徳川家に持っているという問題が存在していた。

それ故、幕府が終わるかもしれないという平八の予言を伝えてどうなるか予想が難しかったのだ。

そこで、まずは現在の世界情勢を実感させた上で、様子を見ようということになっている。


なお、平八の見た夢では、小栗の父忠高は、本年9月の丁度今頃、医者の誤診で死亡したと言われている。

そこで、阿部正弘は忠高の下に、医師を送り込み、死亡の運命を書き換えようとしたおかげか、遣米視察団出発の時点で、死ぬはずだった忠高がまだ死亡していないという変化は起きている。


長野主膳と小栗忠順が部屋に入ると挨拶もそこそこに、直弼は二人に尋ねる。


「率直に聞こう。二人は、この遣米視察団のことをどう思う」


「まず、日ノ本を異国から守る為という視点で見れば、上々かと。

視察でアメリカだけでなく、地球上の様々な国を調査し、交易する価値があると判れば有利な条件で交易を行い、そこで上げた利益で、軍備を整える。

視察を行い、交易を検討するという形を取っている間は、異人達も強引な手や押し付けは控えるでしょう。

また、様々な国と交渉すれば、異国が日ノ本を騙し、不利な条件を押し付けることも難しくなる。

その上で、参勤交代緩和の代わりに、各藩の財政状況の監査権限を取得し、参勤交代で掛かるはずの資金で国防軍を組織する。

これにより、各藩の財政状況が把握出来、各藩の軍備を弱体化することも出来る。

さらに、その結果、日ノ本を守る為の軍は、交易と各藩からの資金により潤沢な資金を得ることが出来る。

時間を稼ぎ、軍備を整えることが出来るなら、悪くはないと言えるでしょうな」


小栗が率直にそう答えると、長野も答える。


「確かに、悪くはありません。

しかし、何故、殿が家督を譲ってまで、アメリカに視察に行かれるのでしょうか?

異国に視察に行くのは、藩も家も離れ、幕府の組織からも離れた者だけ。

そう決められたのは、わかります。

異国に行くのに、藩や家の事情を持ち込まれては敵いませんし、国防軍を幕府の新たな組織として加えれば、従来の幕府の役職についておられる方々からの抵抗が大きいでしょうからな。

ですが、どうして、殿が、わざわざ異国に行かれるのですか。

殿は幕府の重鎮。井伊家の当主。いざとなれば、大老の重責を担うこともあったはずのお方。

そのお方が、どうして、藩も家も捨て、異国に赴かれるのか」


長野がそう尋ねると直弼が静かに答える。


「異国への視察は命がけになる。

その上で、家も藩も捨てねばならぬ貧乏くじだ。

だから、無責任な者は、蘭癖のある外様大名を異国視察に出せ等と無責任なことを言う者もおった。

だが、異国と外様大名を結び付ける訳には行かぬのだ」


直弼がそう言うと、小栗は頷き尋ねる。


「お気づきでしたか」


「ああ、この井伊直弼、伊達や酔狂で、藩や家を捨てた訳ではない。全ては徳川宗家を守る為だ。

これまで外様大名が謀反を起こさないようにする為には、強い幕府が監視し、問題があれば取り潰せば良かった。

だが、今は幕府より強い異国が幾つも存在する。

もし、取り潰そうと外様大名に圧力を掛けた場合、もし外様大名と親しい異国が存在すれば、外様大名がその異国と結んで謀反を起こすやもしれぬ。

その様なことを起こさない為にも、異国と外様大名を結び付ける機会を与えてはならぬのだ」


直弼がそう言うと小栗が頷き続ける。


「その点、異国への視察に異国嫌いの水戸藩を宛がい、水戸斉昭様、一橋慶喜様に異国視察をお任せしたのは正解でしょうな。

水戸藩は徳川御三家であることに加え、水戸学に染まり、攘夷の気質の強い水戸藩が、異国と結び、幕府に叛旗を翻すことなど、まず考えられません」


小栗が頷くと長野が直弼に尋ねる。


「外様大名と異国を結びつける機会を与えないということはわかりました。

ですが、それならば、全て水戸藩にお任せすれば良かったのではありませんんか?」


「・・・私はそこまで水戸藩も老中阿部正弘様も信用出来ぬ」


幕府批判とも取れる直弼の言葉に、部屋の空気が固まる。


「水戸藩が、薩摩藩らと結び、一橋慶喜様を公方様に擁立しようと動いておったことは、そちらも存じておろう。

また、水戸藩は水戸学の影響で尊王の気風が強く、幕府よりも朝廷を重んじる傾向がある。

その様な藩に、幕府の未来を任せることが出来ようか」


直弼は喋りながら、自分の言葉に興奮してくる。


「更に、阿部様も、日ノ本を異国から守ることを第一とされている傾向が見られる。

これまで、幕府の支配が盤石であったのは、外様大名に情報を渡さず、口を出させないことで成り立っていたのではないか。

それなのに、阿部様は外様大名が裏切らないようにする為とは言え、情報を与え過ぎるとは思わぬか。

阿部様の思い通りにすれば、異国から日ノ本を守ることが出来るやもしれぬ。

だが、それで徳川宗家が、他の者に権力を奪われてしまっては本末転倒ではないか」


その言葉に小栗も頷く。

家康以来、長年幕府を支え続けた一族の一員として、小栗にも直弼の気持ちが良く解った。


「我らが250年もの間、領地を与えられ、禄を賜ってきたのは、徳川宗家を支える為ではないのか。

異国の力は、それは強大なものであろう。

だが、それに対抗する為に、徳川宗家が力を失ってしまっては何の意味もないではないか。

我らが恩を受けてきたのは徳川家とくせんけだ。日ノ本などという国ではない。

我らが忠誠を尽くすべきは徳川家とくせんけであって、他のものではないはずなのだ」


直弼が激すると、長野が確認する。


「殿はその為に、大老になる可能性を捨て、アメリカに行かれるのですか。幕府を守る力を得る為に」


直弼が頷くと小栗が述べる。


「しかし、それは簡単なことではありませんぞ。

アメリカは今の日ノ本より強大とは言え、まだ100年程前にイギリスから独立したばかりの新興国。

50年程前のイギリスとの戦争に敗れていると言いますし、水戸斉昭様が行くロシア、一橋慶喜様が行くヨーロッパと比較すれば、かなり劣る存在。

技術的にも、ヨーロッパより、かなり劣る存在であると聞いております。

その様な国と結んだところで、どれだけの力になるか」


小栗がそう言うと直弼が頷き尋ねる。


「だから、其方たちの知恵を借りたいのだ。

異国嫌いとは言え、水戸藩はロシアとヨーロッパにそれなりの繋がりを持つであろう。

旗本どころか、どこぞの者か判らぬ、外様大名の家来や、浪人、町人や百姓までいるという国防軍とやらは力を付けていくことであろう」


日本という国を守る為には順調に見えても、徳川家を守る為という観点から見れば、不確かなことが多過ぎる。

それは、小栗も感じていたことではあった。


「その様な状況で、水戸藩や外様大名に幕府の権威を侵されず、徳川家を守る為、どうすれば良いのか。

長野の知恵は、昔から知っておる。

小栗は、私と同じ、権現(徳川家康)様以来の徳川恩顧の者であり、優秀であることは聞き及んでおる。

徳川家を守る為に、我らは協力出来るはずだ。

どうか、知恵と力を非才なるこの身に貸して貰いたい」


頭を下げる直弼を見て、小栗は考え込む。


様々な思惑を持つ人々を乗せ、遣米視察団はアメリカに向けて旅立つこととなる。

その辿り着く先を知る者は、まだ誰もいない。

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