第四話 ロシア視察団出発
幕府で、水戸斉昭を団長とするロシア視察団の出発が決まると、水戸斉昭はすぐに樺太に向かって出発する。
船に乗り込んだ水戸斉昭は、樺太行きの船を動かす水戸藩士の変化に驚かされる。
操船などやったことがないはずだった藩士たちが、熟練の船乗りの様な動きをし、
異国嫌いだったはずなのに、異国の履物を履き、時に異国の言葉を話す。
「東湖、一体、どうなってるんじゃ。何故、水戸藩士が異国の格好なんぞして、異国の言葉を話すのだ」
「一年半も異人ど共にいだ上に、北蝦夷(樺太)は酷ぐ寒ぐござっからな」
「寒いがらなんじゃ」
「あの靴どいう奴は足袋よりも足が暖まり、雪でも濡れずに済むすべなんですよ」
「そんだがらと言って、日ノ本の武士が異人の格好をするどいうのが」
「そんたけ北蝦夷が寒いどいうごどです」
「武士なら気合で何どがならぬが」
「ロシア人の格好を嫌がる者もおったが、凍傷で指が落ぢがげるど、さすがに」
「凍傷とはなんじゃ」
「寒すぎるど、凍って手や足の指が落ぢるのですよ。
武士だる者、格好を気にして戦えなぐなる訳にはいがねえべ」
「そうだな。確かに、それなら仕方ねえが」
斉昭がため息を吐くと東湖が付け足す。
「まあ、慣れれば
斉昭が嫌な顔をするのに、東湖が付け足す。
「病にならねえ様にするだめ、昆布や魚も食べで頂ぐよ。
その代わり
そう言われて、斉昭は少し嬉しそうな顔をする。
実は斉昭は牛肉が大好物なのだ。
異人は穢れと言いつつ、仏教的には穢れた食べ物である牛肉が大好物というのが彼の面白いところ。
「わがった。我慢すっぺ。それで、ロシアにはこの船を動がしている者の他には誰を連れでいぐんだ」
「まずは北蝦夷に行った者の内、ロシア語を覚えだ者を優先にします。
ロシアに行ぐのは情勢視察の為。言葉がわがらなぐぢゃ情報収集など出来ませんからな」
東湖に言われて、斉昭は頷く。
「まあ、仕方ねえが。それで、皆、異国の言葉を話しておるのが」
「いえ、これは寅次郎の影響です」
聞き覚えのない名前を聞いて、斉昭は首を捻る。
「そいづは何者だ」
「老中阿部正弘様の推薦で来だ、元長州の軍学者でございます」
「ほう、阿部殿の」
「なかなかの人物でございますよ。
天子様への忠誠心も、日ノ本を背負う責任感も確かなものがございます」
「なるほど、それが異国の言葉を皆が学ぶのとどう結びつく」
「寅次郎が来るまで、異国の言葉を覚えっぺどするものなぞ、おりませんでした」
「当然じゃな。異国の言葉なぞ進んで覚えようとするものなぞ、わしも信用出来ん」
「それに対して、寅次郎が一喝したのです。
兵法の基本は、敵を知り己を知ること。
だから、情報収集の為に、斉昭様が穢れることも覚悟でロシアに行ぐのに、同行する者がロシアの言葉を解らなぐでどうする。
こご北蝦夷でも、ロシア人がいる以上、ロシアのごどを知るごどが出来る。
ロシア人の言葉を覚えるごどが出来る。
それなのに、何故しねえのだ。
皆がロシアのごどを知れば知るほど、斉昭様が助がり、日ノ本が救われるのだど」
そう言われて斉昭は腕を組んで苦笑する。
耳の痛い言葉だが、確かに正論ではある。
その様子を見て、東湖が続ける。
「寅次郎のおかげで、北蝦夷はまるで弘道館(水戸藩の藩校)のようです。
水戸藩の者だけでなく、ロシア人も混ざって、互いの知識を分け合い、学びあう。
実にたいしたものです」
東湖が自慢気に話すのを聞いて斉昭が尋ねる。
「それで、おめもロシア語が解るようになったのが」
「いえ、残念ながら。
ですから、ロシア語を話せる寅次郎どその弟子の桂小五郎を通詞どして連れでいぐづもりです。
まあ、小五郎の方はロシア語よりも剣の腕が立づので、護衛も兼ねでですが」
「そうが、それで他にはどのような者を連れでいぐ?」
「松前藩がらは当主、松前崇広様が家督を甥の徳広殿に譲り同行するどのごどです」
それを聞いて斉昭が訝しげな顔をする。
「松前殿が。報告で聞いだ限り、異国の言葉は話せるようではあるが、大丈夫なのが」
斉昭は東湖に問いただす。
水戸学に慣れしたしんだ斉昭から見れば、理由もなく異国の言葉を学ぼうとする者は怪しい存在。
間諜(スパイ)を疑っているのだ。
「松前様は20歳まで部屋住みで暇だったから、武術の他に、蘭学、英語、兵学、西洋の文物を学んでいただけだと言っておりますが」
この時代、武士の家督を譲られるのは一人だけであり、次男三男などの弟たちは予備として捨扶持を貰って、部屋住みとして飼われるような状況。
その様な状況で部屋住みの男たちは、何の発言権も持たず、自分の興味のあることをやっていくのが普通だった。
井伊直弼も部屋住みが長かったが、彼の場合は、お茶、歌、鼓などを学びチャカポンとあだ名されていたと言う。
まして、松前崇広などは六男である。
自分が家督を継ぐことがあると思わず、興味のあることを好き勝手に学んでいたところ、どういう偶然が起きたのか家督を継ぐことになってしまったというところなのだろう。
「問題は心根の方じゃ。日ノ本や天子様に対する忠誠はあるのが」
「その辺はわがりませんな。ながなが、頭が斬れるのは確がですが。
北蝦夷を巡るロシアどの攻防も、交渉も、かの御仁がいだがらこそ成功したがど」
「実績は十分が。だが、その様な者が間諜であるどするど手に負えんな。
それで、松前殿はどうして、ロシア視察に参加するどいうでおるんじゃ」
「幕府が本気で異国ど向ぎ合うなら、自分が蝦夷にいでも仕方ねえ。
松前藩が無ぐなっても大丈夫な様にする為に、ロシアに行ぐど言っております」
そう言われて、斉昭は首を捻る。
正直、松前崇広が何を言っているのかわからないのだ。
異国と付き合うから、松前藩がなくなるなど、本気で意味がわからない。
だが、平八の夢でも、1855年、つまり今年に蝦夷地を取り上げられているのだ。
これは、ロシアと交易を始めるなら、その玄関口である蝦夷地を松前藩に持たせる必要がないという幕府の意向であったのだろう。
この点、今回は樺太という緩衝地帯が手に入っている為、まだ蝦夷地は幕府に召し上げられてはいない。
しかし、ロシアと交易を始めるならば、蝦夷地の直接支配を幕府が考えることは自然であるし、樺太とだけで交易をするとしても、ロシアを知っておいて損はないと松前崇広は考えたのである。
だが、その様な状況まで推察出来ない水戸斉昭にとっては不審なことでしかなかった。
「まあ、いずれにせよ、松前様は既に家督を譲り、幕府にロシア視察への参加を提案しております。
実績もございますし、視察団参加を拒むごどは難しいがど」
そう言われて、斉昭は渋々頷く。
「仕方ねえ。注意しておぐしかねえが。それで、他に連れでいぐ者はおるのが」
「はい。後もう一人。寅次郎が阿部様の指示で連れでぎだ高田屋嘉兵衛どいう商人がおります」
そう言われて斉昭は再び首を捻る。
「商人など連れで行ってどうする?」
「阿部様の指示で、ロシアで売れる物、買える物を調べろど言われだそうでして。
交易をした場合の状況を調べろどいうごどだっぺな」
「なるほど、銭勘定は商人に任せろどいうごどが。
だが、なぜ、その商人に任せる?わしは、そーた名前聞いだごどがねえのだが」
「私も知らながったのですが、驚ぐべぎごどに、ロシアの提督が知っておったのですよ」
「ロシアの提督が?」
「はい。高田屋嘉兵衛どいうのは、40年前に日ノ本どロシアが揉めだ時に、調停を務めだ男だそうでして。
プチャーチン提督は、高田屋嘉兵衛に会えて、随分ど感激しておりました。
どうも、ロシアには高田屋嘉兵衛のごどを記した本があるどのごどなのです」
この高田屋嘉平というのは、百姓の子として生まれ、一代で廻船問屋を起こし大商人となった人物である。
しかし、40年前は、日本がロシアと戦争直前まで揉めていた時代でもある。
そして、廻船問屋であった高田屋嘉兵衛は、蝦夷地に交易で来た際に、ロシア船に襲撃され、捕虜にされてしまったのだ。
ところが、ここで、高田屋嘉兵衛は、驚くべき活躍をする。
捕虜であり、ロシア語もロクに話せない状況であるにも関わらず、ロシア軍人たちの尊敬を勝ち取り、日本とロシアの間の調停を成功させてしまうのだ。
そのことが、ロシアでは日本俘虜実記として、本として残され、プチャーチンもそれを読んできている。
そのことを知っている平八の知識を利用して、ロシア視察に高田屋嘉兵衛を参加させることにしたのである。
「40年も前の紛争を調停した?一体、何歳だ、そいづは」
「いえ、今回同行させるのは、高田屋嘉兵衛本人ではございません。その息子の二代目でございます。
高田屋嘉平自身は既に死に、高田屋自体も、今はロシアど抜げ荷をしているどの疑いで、財産のほどんとを没収され、淡路島で細々ど商いをしているどのごどです」
「抜げ荷をする様な者を同行させるのが」
斉昭が不機嫌そうに呟くと東湖が宥める。
「阿部様の推薦ですから。
まだ、嘉兵衛に言わせるど、高田屋の成功を妬んだ松前商人の罠に嵌ったどのごどですし」
「仕方ねえが」
「はい。嘉兵衛は、ロシア語もそごそご解る様になっておるし、それにあんたけ、プチャーチン提督が好意を寄せでいるのでは今更、追い出すこども出来ぬだっぺ」
「そんなにか」
「はい。ロシアど日ノ本の恩人を良ぐ連れでぎだど非常に感激しておりました。
驚ぐべぎは、そーた商人を見づげ出し、連れでぐる阿部様の慧眼ですな」
「全ぐだ。ならば、阿部殿の期待に応えられるよう、ロシアに向がうどするが」
こうして、水戸斉昭は樺太に到着し、ロシア視察団は出発することとなる。
多くの日本人漂流者が辿ったのと同じ長い旅の始まりであった。
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