第二話 プチャーチン再び
1855年3月のプチャーチンの再来日は、日露双方に驚きで迎えられた。
プチャーチン一行が再びやってきたのは樺太。
もし、ポーハタン号が予想よりも早く昨年末に下田に来たことが知らされていれば、ロシアの訪問が同じ様に早くなることが予想出来て、多少は驚きが緩和されていたかもしれない。
しかし、幕府の秘密主義や安政東海地震の影響で、樺太への伝令が遅れたのである。
また、この伝令が遅れた理由としては、情報共有を進めているはずの阿部正弘一派も、ロシアは当分来ないと思い込んでいた点も大きい。
阿部正弘らは、平八からの情報で、来年である安政3年(1856年)までロシアがイギリスらと戦っているというクリミア戦争が終わらないということを知っていた為、戦争が終わるまでロシアが来るはずがないと思い込んでしまっていたのだ。
この当時、アジアの海はイギリスの縄張りであり、プチャーチンらロシア海軍は日本に訪問するのにも、
イギリス海軍の襲撃を恐れ逃げ回っていた程なのだ。
そして、平八の夢では、ロシア艦隊の一部は、イギリス艦隊に拿捕されている。
そんな危険な状況で、日本の視察団を迎え入れることなど不可能だと考えるのは仕方のないことかもしれない。
これに対し、プチャーチンの驚きは樺太の変化についでだった。
プチャーチンが前回、樺太に来たのは、たった約1年前のこと。
長崎での川路聖謨との交渉で、樺太の兵を撤収する際に寄港して以来である。
その時も、既に多くの日本人が集まり、何かを作り始めている気配は存在していた。
しかし、たった1年で、そこから街が出来上がってしまっているのだ。
あの時には、寒さを凌ぐ為の粗末な小屋程度しかなかったはずだったのに、
たった一年で、石造りの砦が作られ、港が作られ、帆船を作る為のドックの様な物が建設され、砲台の様な物まで作られている。
何という迅速さだろう。
プチャーチンは知らないことではあるが、日本の樺太防衛設備の建設はプチャーチンが来た樺太南の
既に、水戸藩と松前藩は、樺太の北と西にも砦を配置し、そこにはたっぷりの食糧と薪を用意し、ロシア人と交流するつもりのなかった水戸藩士が、その警備に当たっている。
この様な警備及び建設が可能となったのは、阿部正弘ら老中が樺太防衛の為の予算を確保し、松前藩藩主松前崇宏が松前城を建てた大工達を
プチャーチンの船が近づくと、出来たばかりの港を出て、二艘のスクーナー船(西洋帆船)がプチャーチンの乗る船に近づいてくる。
掲げられているのは、イギリスのユニオンジャックでも、ロシアの国旗でもない、見慣れない白地に赤の旗だ。
一体、何処の国の船だと警戒していると、その船の舳先で手を振るのは、1年前日本人と共に残ることを選んだ樺太遠征軍司令官ネヴェリスコイ海軍大佐とプチャーチンと共に日本派遣団に中国語通訳として参加していた外交官ゴシケーヴィチであった。
二人の姿を見て、謎の船がとりあえず敵でないことを確認したプチャーチンは、接舷を許すことにする。
接舷した船からは、ネヴェリスコイ海軍大佐とゴシケーヴィッチの他に4人の日本人が乗り込んで来る。
プチャーチンが、1年を未開の地で過ごした同朋に事情を確認しようとしたところ、痘痕顔の日本人が声を上げる。
「プチャーチン提督、あなたは何故、条約を破り、武装したまま、サハリンまで来たのですか」
その言葉にプチャーチンは面食らう。
去年まで、ロシア語を話せる日本人などいなかったはずなのだ。
驚きのまま、答えに窮していると、痘痕顔の日本人はゴシケーヴィッチに声を下げて尋ねる。
「私の言葉は通じているでしょうか?間違いはありませんんか?」
それを聞いてゴシケーヴィッチは、微笑んで頷き、プチャーチンに聞く。
「プチャーチン提督、私の生徒のトラがロシア語を話せているか不安になっているようです。
言葉が通じているなら、答えて頂けませんか?」
「生徒?君は何を言っているのだ。ゴシケーヴィッチ君。君が彼にロシア語を教えたのかね?
それで、彼はたった1年でロシア語をマスターしたと?」
「ええ、彼は非常に熱心な生徒でしたよ。同時に、私の日本語の先生でもあります。
それで、提督、トラの質問に答えては頂けませんか?」
そう言われて、プチャーチンは改めて、トラと呼ばれる日本人の質問に答えていないことに気が付いて返事する。
「失礼いたしました、トラ殿。日本人が、こうも短期間にロシア語を見事に話せることに驚き、質問に答えることに遅れてしまいました。
ちゃんと、ご質問は伝わっておりますよ」
「ありがとうございます。それでは、改めて伺います。
どうして、あなたは条約を破り、武装したまま、北蝦夷(樺太)まで来られたのでしょうか?
これは、あなた方、ロシアが、我が国と条約を結ばないと判断されたということなのでしょうか?」
寅次郎がそう尋ねるとプチャーチンは慌てて否定する。
「違います。我ら、ロシアは日本と条約を結ぶ意思はあります。
日本の提案を皇帝陛下は殊の外お喜びになられ、サハリン(樺太)を日本領と認めることを条件に、私は日本人の派遣団をロシアにお迎えする為に来たのです」
プチャーチンがそう言うと寅次郎は彼の後ろにいる日本人に何やら伝えると、その日本人が言う事を寅次郎がロシア語に通訳する。
「それでは、どうして、条約を破り、武装したまま、サハリンまで来られたのですか?
条約を結ぶ意思があると言われても、最初から、約束を守らない相手と条約を結ぶことなど出来ません」
そう言われ自分が失態を犯したことに気が付いたプチャーチンが、ゴシケーヴィッチとネヴェリスコイ大佐を見ると、二人は気まずそうに俯く。
こんなことで、日本との条約が結べなくなれば、プチャーチンの大失態となってしまうではないか。
プチャーチンは、慌てて言い訳をする。
「確かに、その様に約束をし、皇帝陛下の署名も戴いて参りました。
しかし、その条約は、日本の署名を頂いた訳ではありませんから、まだ発行した訳ではないはずです。
また、今現在は、我が国は他国と戦争状態にあり、完全非武装でサハリンに来ることは危険なのです」
プチャーチンがそう説明をすると、再びトラは後ろの人間に説明をする。
それを見て、プチャーチンが小声でゴシケーヴィッチに聞く。
「通訳をしているのが君の生徒のトラだとして、後ろにいるのは何者だ」
「この場の最上位、最高決定権者は水戸公爵の側近トーコ・フジタ(藤田東湖)殿。
更にこの地域の領主スーコー・マツマエ(松前崇広)殿。彼は英語もオランダ語も話せる博識です。
もう一人も私の生徒にして剣の達人、ゴロー・カツラ(桂小五郎)です」
そうやって、ゴシケーヴィッチが乗り込んで来た人員の説明をしていると、寅次郎が東湖の言葉を訳す。
「条約を結ぶ前だから、武装したまま、サハリン(樺太)に来ても構わないという理屈は納得出来ない。
条約を調印する為に来たと言うのならば、最初から条約を守る努力をして貰わねば信用のしようがない」
「しかし、戦争中に非武装で来るなど、不可能な要求をされても困ります。
私たちが武装しているのは、ロシアの敵国から、あなた方の視察団を守る為でもあるのです」
プチャーチンの説明を寅次郎が訳している間に、ゴシケーヴィッチが説明をする。
「彼らサムライは我らの神を知りませんが、誇り高く約束を重んじる。
我らで言う騎士道の様な物を持っています。
下手な誤魔化しは禁物です。嘘つきは信用されません。
アジアの他の国とは違うのです。
間違いを犯したとしても、謝罪すれば許してくれます。
誠実に、正直に話して、協力を求めて下さい」
その言葉を聞き、プチャーチンは他の国とのあまりの違いに首を捻る。
アジア人は神を知らず、腐敗と不正の温床であるのは、ヨーロッパ人なら誰でも知っていることだ。
謝罪などしたら、それを根拠にどこまで要求を押し付けられるか、わかったものではないではないか。
そんな風に考えていると、寅次郎が東湖の言葉を訳す。
「あなた達、ロシアがイギリスやフランスと戦争中であることは知っています。
それならば、戦争が終わってから来れば良いだけの話ではないですか。
戦争中であるのに、ロシアが武装して、サハリンに入れば、イギリスがここを攻撃する口実にするかもしれません。
そちらが非常時だと一方的に宣言すれば、武装したまま、サハリンの来られるなどと言う前例を作られる訳にはいきません。
直ちに、ロシアの国旗を降ろし、武装解除して下さい。
それが、話を聞き、条約を結ぶ為の最低条件です」
ほとんど、捕虜になるのと変わらない様な条件ではあるが、ゴシケーヴィッチの言葉を信じ、プチャーチンはロシア国旗を下げるよう指示を出す。
実際、今回の日本訪問でプチャーチンが武装して来たのは、イギリス、フランスの攻撃を避ける為であり、日本を攻撃する気などないのだ。
そんな根拠のない疑いで、前回の日本訪問の成果を台無しにするつもりはなかった。
「ロシア国旗を降ろし、武装解除に応じて貰ったことを感謝する。
だが、私たちは、我らの水戸大公を戦争で攻撃される恐れのある船に乗せ、ロシア視察に出発させる気はありません。
視察の出発は、航路の安全が保障されるまで待っていただきたい」
東湖の言葉を聞き、プチャーチンは驚愕する。
大公と言えば、ロシアでも皇帝の親族の中でも高位に属する存在。
実のところ、プチャーチンもロシアのコンスタンチン大公の命令で、日本に派遣されたのだ。
それと同格の地位にある人間が日本から皇帝に会いに来る。
クリミア戦争では苦戦が続いていると聞いてきたが、日本との貿易開始はロシア100年の悲願。
自分を派遣された皇帝陛下はどれだけお喜びになられるだろう。
一刻も早くロシアに水戸大公を招きたいと考えたプチャーチンは率直に受け入れについて話す。
「ロシア視察の安全については、安心して頂きたい。
皇帝陛下の
私がサンクトペテルブルグに戻ったのと同じ経路で来て頂ければ、移動するのはロシア国内です。
イギリスやフランスに攻撃される恐れはありません」
「しかし、陸路で水戸大公の視察を迎えるに相応しい接遇が出来るのか」
「問題ありません。
既に、サハリンの対岸には、皇帝陛下から賜った皇帝行幸用の馬車と近衛騎士団が待っています。
100人の視察団が来るというので、それだけの輸送の為の馬車も並走してきました。
皇帝陛下の乗る馬車に乗り、近衛騎士団が警備をするのです。
大公をお迎えするのに、これ以上の接遇は何処にもないでしょう。
先程申し上げました通り、条約には既に皇帝陛下が調印されております。
イギリスから攻撃を受ける恐れのあるのは、対岸までの僅かな時間。
是非、水戸大公には、勇気を持ってロシアへお越しいただきたいとお伝え願いたい」
プチャーチンは誇らしげに微笑んだ。
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