第三十四話 第三十六代 江川太郎左衛門英龍
アッシの夢の通りに事態が進行するなら海舟会の面々は勿論、多くの人が死んでいくはずだ。
それは、象山先生とも話し合ってきたことだ。
その根拠として考えられるのが、ポーハタン号の沈没と江川先生の病臥。
どちらも、避けたはずなのに起こってしまったという事態が、変えられる事態と変えられない事態が存在するのではないかと言う不安を生み出していたのだ。
だが、吉田さんのアメリカ船密航失敗や米英露との条約の様に変えられている事態も存在している。
今回の安政東海地震にしたって、国防軍を配置していたおかげで命が助かった人も大勢いる。
下田の人々は、本来、津波で100人近くの人が死んでいるはずなのが、ほとんど犠牲が出ていない。
だから、決して、人の寿命が決まっていて、必ず死ぬ運命の人がいる訳ではないはずなのだ。
とは言え、何が変えられない事態で、何が変えられる事態なのかを知る方法がない以上、全てが変えられない運命である可能性を考慮に入れ、その運命にあらがう方法を考え、更に、どうしても変えられなかった場合の対策を考えておくことも必要なのだ。
実際、日ノ本の分裂と異国による支配が避けられない運命であったとしても、少しでも流される血の量を減らし、たとえ異国に支配されようとも、少しでも皆が幸せになれる方法を求める。
最善を実現出来なくとも、次善を求めるというのが象山先生の考え方だ。
だから、象山先生自身も自分が暗殺されない方法を考えているけれど、同時に自分が死んだ場合の対応も考えているのだ。
だから、皆が死なないで済む方法を考えながら、死んだ場合の対策も考えている。
今回の江川先生への提案は、その策の一環。
とは言え、病気の江川先生に出来ることは決して多くはないのだけれど。
まずは、江川先生に何としてでも生き残るという気力を持って貰うことから始めるべきだろうな。
そう考えて、アッシは江川先生に返事をする。
「確かに、死が避けられぬ運命であるならば、皆さんが死に、アッシが残されることがあるやもしれませんな。
ですが、江川先生は、もう諦めてしまわれたのですか」
アッシがそう言うと江川先生は不満そうに呟く。
「諦めた訳ではない。だが、万が一に備えておきたいのだ。
今のわしに出来るのは、大人しく寝て、病を癒すだけ。
それ以外は、万が一の場合に備える位しかないのだ」
「とは言え、そこで満足して生きる気力を失われては困ります」
アッシがそう言うと江川先生が苦笑する。
「だから、後の事は任せろとは言わないつもりか」
「そんな事を言うだけの力も、やる気も、覚悟も、アッシにはありませんからな。
無学な年寄りに、重荷を負わせないで頂きたい。
そもそも、アッシはいつお迎えが来ても構わないと思っておりますが、江川先生は、まだやりたいことがあるのでございましょう」
「当たり前だ。やっとだ。やっと、この国が動き出したのだ。
アメリカに脅されて始まったのは不本意ではあるが、尚歯会の頃から念願だった、この国の改革が始まったのだ。
禁止されていた大船建造や反射炉の建設も許可され、異国への視察も可能になる。
あと、もう少しだけ。1年でも、2年でも良い。
それだけの時間があれば、出来ること、やりたいことが山の様にあるというのに」
江川先生が悔し気に呟く。
尚歯会というのは、確か江川先生や川路聖謨様、シーボルトに学んだ蘭学者高野長英、田原藩家老の渡辺崋山らが参加していた交流会の様なものだったはずだ。
多くの儒学者、蘭学者らが身分の壁を乗り越えて、知恵を出し合う集団であったが、政争に巻き込まれて、蛮社の獄とやらで、高野長英などの優れた海外通が根こそぎ排除されてしまったと言う。
海防論を話し合い、尚歯会の仲間と共に、この国を異国から守ろうとしていた江川先生としては、やっと幕府が異国の脅威と向き合い始めたというのに、病に倒れることはどんなに無念なことだろう。
あるいは、アッシに後の事を頼もうとされるのは、もしかすると、今はなき尚歯会の仲間の無念を誰かに継いで欲しいという思いなのかもしれないな。
とは言え、諦めるのはまだ早いだろう。
「まだ、未練があるのなら、諦めず運命にあらがってみることです。
その為には、身体を休め、病を癒し、病が癒えた後にやりたいことをお考え下さい。
決して無理はせずに、まずは休むのです」
「だが、わしには、身体が動くならば、やっておくべきことがある」
「アッシの夢では、そう言って江川先生は無理をして、何も出来ずに亡くなるのです。
無理して頑張ったところで何も出来ないのであるならば、ゆっくり休んで病と向き合っては如何でしょう」
「随分と辛辣な言い方だな。
だが、やるべきことがあるのに、ただ寝ているだけでは、落ち着かんのだ」
江川先生が駄々っ子の様なことを言いだすので、アッシは提案することにする。
「では、江川先生、家督をお子様に継ぎ、隠居なさいませ。
どうせ、病を押して頑張ったところで、何も出来る訳ではございません。
それならば、病を癒すことに全力を傾け、仕事のことは一旦、完全にお忘れ下さい」
アッシがそう言うと、江川先生は苦虫を噛み潰した様な顔をして呟く。
「佐久間だな?」
「は?」
「お前に、この様な事を言えと策を授けたのは佐久間であろう。
どうして、あの男は、人の気持ちを逆なでせずにはいられんのだ?
平八君の夢で、わしが病で倒れた後、何も出来ずに死んだことは知っている。
だが、だからと言って、どうせ何も出来ずに死ぬのだから、大人しくしていろとは何事だ」
憤慨する江川先生を見て、思わず苦笑したくなるのを懸命に堪える。
江川先生と象山先生は本当に不思議な関係だ。
お互いに相手を嫌いあっていることは間違いないだろうに。
それなのに、どうして、名前を出さずとも、相手のやることを見抜けるのだろう。
「確かに、象山先生と相談させて頂いた上でのご提案ではございますが。
言い方はともかく、象山先生なりに、江川先生を心配してのことであることは、ご理解下さい」
アッシがそう言うと、江川先生は鼻で笑う。
「ふん。それが隠居して、療養に専念することか」
「はい。ご存知の通り、象山先生は誰よりも負けず嫌いで、自分を地球一の天才であると考えておられます。
全てご自分の提案通りに従えば、日ノ本は救われると考え、本当のところ、誰も必要とはしておりません。
そんな象山先生ですから、江川先生の助けが必要であるとも考えられてはいないでしょう。
しかし、それでも、出来ることなら、江川先生に死んで欲しくはないと考えておられるのです」
アッシがそう伝えると、江川先生の怒気が多少は収まった様な感じがする。
「奴め、わしを憐れむ気か」
「いえ、象山先生を認めない江川先生に生きて頂いて、生き残った江川先生に象山先生の優秀さを認めさせ、見返したいのではないでしょうか」
「あるいは、わしを運命を乗り越える為の実験台にでもする気ということか。
仮にも、砲術では師であったわしを実験台にするとは、何と無礼な男だ。
で?わしが隠居して、療養に専念することに何の意味がある」
無礼さの中に潜む、酷くわかりにくい象山先生の配慮を多少は感じて下さったのか、江川先生は苦笑混じりに穏やかに尋ねた。
「象山先生も気休めに過ぎないかもしれないと仰っておりましたが。
本当に運命というものがあるとするならば、その運命が、間もなく江川先生が亡くなることでない可能性に賭けるとのことでございます」
「わしの死が避けられない運命でない可能性に賭ける?」
「そうです。アッシの夢では、間もなく江川先生が亡くなり、その三男である英敏様が後を継がれます。
もし、この英敏様が家督を継がれるということが変えられない運命であるならば、江川先生が隠居し、英敏様が家督を継がれるだけで、江川先生が運命に命を奪われることがなくなるかもしれないということなのですよ」
「運命という物があるかさえも、わからぬのに、その様な不確かなものの為に、わしに全てを捨て、病の療養に専念せよと申すか。
そして本当に運命があるなら、隠居する程度の簡単なことで運命の牙を逃れられると考えるのか」
「そいつは、アッシにもわかりません。
運命がどんな姿かなど、結局、アッシらにはわかりませんから。
だから、気休めに過ぎないかもしれないと申し上げている訳でして。
でも、アッシらとしては、江川先生には、何としてでも病を癒して立ち直って欲しいというのが正直なところでございますれば」
アッシがそう言うと、江川先生が考え込んで沈黙する。
庶民のアッシらとしては、隠居することなど、何ということじゃないのですけれどね。
でも、お武家様や
この国は建前上、儒教の国ということになっているが、家長である父は死ぬまで家の最高決定権を持つとされる儒教とは異なり、隠居すれば『老いては子に従え』として、決定権はその時の家長に移る。
この様なやり方を当然としている日ノ本は、儒教国家としては、かなり歪な形であるらしい。
その歪さは、おそらく国全体の貧しさから生まれた物で、生きる為に、役に立たない年寄りを切り捨てる姥捨て山伝説があったりするのも、この国の特徴であるらしい。
役に立つ物を得ることを第一とする功利主義で動く者達と、功利を求めるのは商人の卑しさとして、
「武士ならば成功を求め利を得ようとするのではなく、義を求めて行動すべし」という朱子学や葉隠、
正しいと信じれば効率を考えず行動すべしとする陽明学の教えを信奉する者達が対立するのだろう。
この国は、功利を求めて行動すれば原則に関係なく一気に発展出来るのかもしれないが、大義名分に縛られると、変化を厭い、硬直化してしまうのだろうな。
夢で見た限り、これから15年、いや皇国と帝国の戦が終わる25年後まで、この国は大義名分に縛られ、多くの命が失われることになる。
だが、帝国と皇国の10年戦争が終わって、権威や大義名分を振りかざす連中の妨害がなくなると、爆発的な発展を遂げていたからな。
果たして、江川先生は、大義名分の縛りを脱することが出来るのだろうか。
それとも、大義名分の下、武士らしい最後を選ばれるのか。
そんなことを考えていると、江川先生が静かに決断を下す。
「わかった。では、わしは、ここで死ぬことにしよう。
家督は英敏に譲り、対外的には、わしが死んだと発表し、坊主に念仏も唱えさせよう。
そうすれば、お前が見た通りの状況になるはずだ」
「確かに、その様にされれば、アッシの見た夢とは変わらないでしょうな」
アッシがそう答えると、江川先生は満足そうに頷くと続ける。
「だが、わしは死なぬぞ。死んでやって堪るものか。
ゆっくり休み、病との戦に必ず勝って、戻って来てやる。
佐久間の奴が偉そうにやって、失敗するのを見て、鼻で笑ってやるのだ。
幸い、今の日ノ本には、隠居しようが、身分がどうであろうが参加出来る国防軍と海外視察団がある。
病を癒し、必ず、この国を異国から守るのだ」
そう宣言する江川先生の言葉を聞き、アッシは心から、この宣言が実現されるのを心から祈るのでございました。
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