第三十三話 理由

斎藤弥九郎さんに連れられ、籠に乗せられ、アッシは韮山の代官屋敷に向かう。

お武家様の斎藤さんが馬に乗っているのに、庶民のアッシが籠で移動なんて、気まずいんなんてものじゃございませんが。

馬で移動なんて慣れない庶民には難しいもんでして、斎藤さんの後にしがみついてもお尻が痛くなると聞きましたし。

歩いて行こうとも思ったのですが、雪もチラホラ降り始める中、アッシの足ではいつ着くか判らないから、早く乗れと言われましてね。


まあ、正直、籠なんてもんも、ほとんど乗ったことがございませんからね。

韮山代官所に行くまでは、籠に乗っているだけでも移動は大変でしたよ。

箱根のお山を越えなきゃならねぇし、その為に、何人もの駕籠かきが交代でアッシを運ぶんですから。

アッシを呼ぶのに、どれだけの手間と費用を掛けられるのか。

そもそも、アッシを呼ぶのに、どんな意味があることやら。

そんな思いを胸にアッシはヘトヘトになりながらも、韮山の江川邸に到着致しました。


江川邸に到着すると、斎藤さんの案内でアッシは江川先生の寝所へと通されます。

と、そこには、頭に白い物を載せて布団に横たわる江川先生が。


「但庵、間に合わなかったのか」


斎藤さんが愕然とし呟くと頭に濡れた手ぬぐいを載せたまま、江川先生が答える。


「勝手に殺すな。熱があるで、寝てるだけだ。平八は連れて来たのか」


そう言われて、アッシは答える。


「へえ、ここに参っております。江川先生はご無事ですか」


「まあ、多少熱はあって眩暈もするようだが、頭はハッキリしておる。それを、大げさに騒ぎよって」


「当たり前だ。平八君の夢の話を忘れたのか。

お前は、この冬、働き過ぎが原因で病になって、死ぬと言われているのだぞ。

それなのに、お前と来たら、仕事を全然減らさずに、全力で働いていたではないか」


「全力と言っても、夜は寝ておる。

それに、地震で壊れると言われたから反射炉建設にも着工しておらんし、予算不足で途中までしか作れないと聞いたので、お台場の建設もしておらん。

平八の夢の中のワシと比べれば、大分、楽をさせて貰っておる」


「その代わり、アメリカとの交渉の全権をやって、アメリカ言葉の勉強をして、異国視察団の編成や、国防軍の編成に手を出しているだろうが。

全然、楽などしていないではないか。

ともかく、平八君の夢では、ここで無理して韮山から江戸屋敷に向かい、そのまま、お前は死ぬんだ。

それが、わかっていて、誰が江戸に向かわせるものか」


「大丈夫だ。わしが死んでも問題が起きにゃぁように、準備は出来ておる」


「そういう問題ではないだろう。お前には、まだ生きて、やって貰いたいことが沢山ある。

それなのに、平八君の夢では、無理をして江戸まで行っても、何も出来ずに死ぬんだろ。

それなら、今は無理をして行っても無駄だ。大人しく寝ておけ」


「人間いつかは死ぬものだ。武士なら、死ぬ覚悟など、いつでも出来ておる」


江川先生が静かにそう言うので、アッシは尋ねる。


「それでは、何故、アッシなんぞをお呼びになったので」


「わしが死んだ後のこと、お前に頼んでおきたいと思ってな」


「何を、アッシなんぞに?

ここにいる斎藤先生にせよ、佐久間先生にせよ、頼りになる方は大勢いらっしゃるでしょう?」


アッシがそう言うと寝たままの江川先生が答える。


「斎藤にせよ、佐久間にせよ、頼まずとも、この国の為に戦ってくれるだろう。

だが、お前は頼まねばやってくれないだろう。だから、頼むんだ」


「そりゃあ、アッシはお武家様ではありませんから。

まつりごとは庶民のアッシには手に余ることでございますよ」


一年半ほど前、アッシは150年先の世界を夢で見た。

これから、15年ほどで、この国が分裂し、血で血を洗う殺し合いを始め、異国に支配されることになる未来だった。

あの時も言ったことではあるが、庶民のアッシから見れば、お武家様に支配されるのも、異国に支配されるのもたいして変わりはないと思う。

ただ、それでも、それまでに多くの惨劇が生まれることも見てきたから、一応、誰か伝えておくべきだと考えて、勝さんたちに見た夢を伝えたんだ。


もう、アッシが夢で見て、海舟会の皆さんや江川先生に話していないことはない。

象山先生の扱いが上手いと言われているようだが、勝さんとか、龍馬さんとか、海舟会でも象山先生の扱いに慣れてきた人も増えてきただろう。

だから、アッシが出来るようなことは、もうないはずなのだ。

それなのに、なんだって、江川先生はアッシなんかにこの国の為に戦ってくれなんて言うのだろう。


「やはり、簡単には引き受けてくれぬか。

……平八、随分前のことだが、わしが大塩平八郎殿のことを知っているかと聞いたことを覚えているか」


「ええ、そんなこともございましたね。それが、何か?」


「わしはな、もしかしたら、お前が大塩平八郎殿かもしれないと思っておったのだ」


「随分、突飛な話でございますね。まあ、確かに、年の頃なら近くはありますが。

陽明学者で、世直しの為と称して乱を起こし、もう、二十年も前に亡くなられた方だったと思いますが。

庶民のアッシとは似ても似つかない方ではございませんか」


「似ても似つかないか。お前は大塩殿をどう思う」


「アッシから見れば、結果も考えず、自分の信じる正義とやらの為に乱を起こした

はた迷惑な方と言ったところでしょうか」


アッシが率直に答えると江川先生は苦笑する。


「随分と辛らつな言い分だな。

だが、大塩殿の国を思う志は誠であった。

わしは、大塩殿とはどういう訳か縁があってな。

乱を起こす前に、大塩殿が書いて江戸城に向けて出した汚職の告発文が、伊豆の山中で見つかり、わしが、幕府にその密書を届けたのだ」


「それで、何か変わりましたか?」


「いや、何も。

告発された方が罰を受けた訳でもなく、わしも口外不要を申し渡されただけだ」


「つまり、全ては無駄だったということですな」


「いや、全てが無駄だとは思わん。

大塩殿が信じた民を思う赤心は檄文として多くの者の胸に残り、この国を変える力の一つになっているとわしは信じている。

実際、乱で家を焼かれた大阪の庶民でも、誰も大塩殿のことを悪く言っていなかったと言うぞ」


「そりゃあ、空気を読んで言葉にしないだけではございませんか。

家を焼かれた人間が、感謝をするとはアッシには思えませんよ。

まつりごとは結果が全て。

知行一致を主張しても、結果として庶民に迷惑をかけたなら、只の自己満足と変わらないではありませんか」


アッシがそう答えると、江川先生は暫く考えた後、答える。


「なるほどのう。確かに、その考え方もわかる。

だが、あの頃から、大塩殿が逃げ延びたという噂は絶えなかったのだ。

だから、逃げ延びた大塩殿が異国に渡り、異国の事情を知った大塩殿が身分を隠し、平八と名乗って、わしらの前に現れたのかもしれないと思ったのだよ」


随分と想像力豊かだな。

でも、まあ、訳のわからない無宿人が未来を見たと言ってくるよりは現実味があるのかな。

まさか、まだ疑っているとは思わないが、一応、誤解を解いておくか。


「いえいえ、アッシは生まれついての庶民ですよ。

三河生まれの農家の八男でしてね。

若い頃には三河を飛び出し、江戸に出て一旗揚げることを夢見たりもしましたが。

結果は、何一つ思った通りには行かず、今じゃしがない無宿人。

まあ、それでも、金がなくなりゃ働き、宵越しの金は持たないで遊んで、楽しく暮らして参りました。

そんな訳ですから、もともとは、天下国家だの、世の為、人の為だの、興味はないんですよ」


「では、何故、わしらに150年先の世のことを伝えようと思ったのだ」


「ただ、伝えて考えて頂きたいと思っただけなのですよ。

あの夢が当たるものかどうか、アッシにはわかりませんでした。

でも、見た夢には妙な現実味があり、どうも只の夢だとは思えなかったのです。

そして、夢の中の皆さんは、この国のことを考え、必死に生き、そして死んでいかれました。

そんな想いをしている方がいるかもしれないのに、見た夢の話を何も話さないまま知らん顔をするのは、どうも、いけないことをしてるような気がいたしましてね」


「どうしてだ? 天下国家や他人のことなど、関係ないのだろ」


「そりゃあ、誰かが大事にしているものが失われるかもしれないと思えば、注意くらいはしますよ。

それに、アッシもいい年ですからね。

馴染みの連中が一人減り二人減り、お迎えが来始めています。

そんな風になるとね、終わりが見えてくるのですよ。

自分が、もうすぐ死ぬってことが実感として感じられるのですよ。

何も出来ず、何も持っていなくても、好き勝手に生きてきたアッシですがね。

それなりに、楽しくは生きてきたのですよ。

でも、江川先生の仰る通り、人間、死なないで生き続けることなんぞ、出来やしません。

必ず死ぬのがわかっていて、もうすぐお迎えが来ることが分かっていれば、最後に少しは誰かに喜んでもらえる様なことを残したいって気持ちにもなるんですよ」


「気ままな位でも、最後に、自分が生きた証を残したいと思うか。

わしにとっては、この江川の家であり、伊豆の領民であり、この国を守ることがそれに当たるのかな」


「まあ、江川先生と違いアッシの場合は、残せるようなものは、何にもございませんからね。

だから、少しでも、やれることをやろうとは思ったのですよ。

もっとも、今まで、何処にも属さず、勝手気ままに生きてきやしたから、今更、自分は、徳川家に仕える三河の民だの、天子様の御座おわす日ノ本の民だのと名乗り、自分がチンケだとしても、こんな立派な方々の仲間であるから、自分は偉いなんて思うほど、図々しくもございませんが」


「日ノ本の一員、幕府の一員であると誇るは図々しいか」


「いや、日ノ本にも、幕府にも、海舟会にも、凄い方が大勢いらっしゃるのは間違いございませんがね。

それは、その方が凄いんであって、アッシは、その知り合いってだけ。

仲間と呼んで貰えるのは光栄ですが、アッシには何の価値もありませんよ。

もう、アッシの知っていることは、皆さんに伝えちまいましたからね。

出来ることなんざ、何も残っていないのですよ」


「でも、お前がいるから象山は、あいつにしては、マシな建白書を書くことが出来た。

お前と事前に相談をしていたから、アメリカとの交渉もロシアやイギリスとの交渉も、今のところ、順調に進んでおる」


「そう言って頂けると光栄ですよ。

それに、今回のことに関わらせて頂いて、アッシなんかの言葉を皆さんが聞いてくれるのは嬉しゅうございました。

誰にも興味も持たれないような年寄りの言葉を、偉い方々が聞いて下さるんですから、本当に嬉しかった。

それに、その結果、世の中が動く様に見えることが楽しくもございました。

まるで、自分に大きな力があり、この世を動かしている様な気分になることは出来ました。

ですがね。結局、最後に決めたのは、皆さまであって、アッシではございません。

この世を変えるってことは嬉しくもありますが、正直、庶民のアッシには荷が重いんですよ。

まつりごとは結果が全てです。

アッシが決めて、その結果、アッシの夢よりも酷い世になってしまったら?

そんな責任、恐ろしくて負えないのでございますよ。

それに、今のこの世は弱肉強食。地球は戦国時代の様な状況。

日ノ本を守る為に、他の国の連中に地獄を見せなければならないかもしれない。

まあ、顔も知らないような連中がどうなろうと、正直知ったことではございませんが、

それでも、自分の意思で誰かを不幸や戦乱に叩き落すなんてのは、やりたいことではございません。

死ぬ前に、そんな責任や恨みつらみを背負ったりなどしたくもないのでございますよ。

だから、アッシとしては、責任のない気楽な立場で、皆さんに提案をさせて頂き、皆さんの行く末を眺めながら死んでいきたいというのが本音でしてね」


アッシがそう言うと、江川先生が静かな声で答える。


「確かに、お前は幕臣になることも拒んだおかげで、自分で決める力は何一つもっていない。

だが、お前はまだ生きているではないか。

斎藤は、わしが身体を大事にせず、働き過ぎた所為で倒れたと思っているようだがな。

これでも、わしは、なるべく休み、夜は寝て、仕事を減らしてきたつもりだ。

だが、わしはお前の予言の通り倒れ、まだ来ていないはずのポーハタン号はロシア船の代わりに津波で沈んだ」


江川先生も、その結論に達していたのか。

運命という奴が存在し、それが敵対してくる可能性がわかっているのなら、話しておくべきことがあるだろう。


「ええ、ここに来る前、象山先生とも話しておりました。

未来を変えたつもりでも、運命というものが存在し、変えたつもりの未来を修正してくることはあるのかもしれないと」


「そうだ。津波で異国の船が沈み、わしが死ぬことが運命であるならば、これから2年半後に老中阿部正弘様が亡くなり、3年半後には島津斉彬様がお亡くなりになられることが運命であるやもしれん。

お二方は、既にその覚悟をされ、お二人が亡くなったとしても、盤石となる体制を作られるおつもりではあるが、舵取りを失った日ノ本が実際、どうなるか、誰にもわからん。

海舟会でも、佐久間は10年後に死ぬとされておるし、

15年後も生き残るとされておるのは、斎藤の他は、勝君と桂君位だろう。

だから、お前に頼むのだ」


江川先生の言葉がしっくり来ないので、アッシは尋ねる。


「アッシはいい年でございます。15年後に生きていられるかどうか」


「だが、死なぬかもしれん。お前の夢に、お前の死の情報はなかったのだろう」


「そりゃあ、アッシの様な木端がどうなるかなんざ、何処にも残りはしませんよ」


「ならば、可能性はあるだろう。他の者が死ぬ中、お前が生き残り、この国を救える可能性が」


「それは、可能性と言えば、何だって可能性はあるとは思いますが、ほとんどあり得ない話でございましょう。

天が落ちてくるのを心配する杞憂の様な話でございますよ」


「そうかもしれん。

だが、どんな小さな可能性であったとしても、わしはやれる限りの事をやっておきたいのだ。

もう、わしに出来ることは、ほとんど残っていないようだからな。

やる気のないお前に、少しでも責任を負わせ、頑張って貰いたいのだよ」


江川先生の声が静まり返った寝所に静かに響き渡った。

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