第二十五話 江戸に来た者たち 長州の村医者
異国視察団の派遣と事実上の国防軍の募集の知らせは、こうして日本中を駆け巡り多くの人を江戸へと引き寄せることとなりました。
そもそも、この時代は移動の自由も転居の自由も保証されていない時代なのでございます。
藩なり、幕府なりに、移動を許して貰わねば、勝手に移動出来ず、それだけで罪人とされる時代。
商売をするにも手形は必要ですし、お武家様の移動は攻撃に繋がる危険があると見做されて当然許可が必要。
アッシの様に無宿人になりゃぁ、自由に動けますが、幕府から見れば、犯罪者予備軍扱い。
無宿人狩りでいつ捕まるかわからないような状況でさぁ。
ところが、今回の異国視察団と国防軍の募集では、幕府が江戸に来ることを公認してくれる。
おまけに、各藩には、その邪魔をしてはならないとまで通達しているのですから、有難いことこの上ない。
それで、まずは、好奇心旺盛な蘭学者たちが動き始めます。
この時代の蘭学者というのは、不思議な存在でございますよ。
この頃は、儒教の一種、朱子学によって、仕事も役職も親から子へ、子孫代々受け継がれていくものと決まっております。
まあ、日本の場合、貧しくて喰っていくのが精一杯なことも多く、お家を守ることが第一になってるので、他の儒教国の様に弟は兄に、子は父に絶対服従というようなことにはならず、兄が無能なら弟が跡を継いだり、老いては子に従え、なんて言葉がある一方、子が無能ならお家を守る為に養子に跡を継がせたりしていると言った違いはございますがね。
だけどね、蘭学者になったって、絶対に出世なんて出来ないはずなのですよ。
そりゃあ、蘭学者の間では、それなりの名声を得るのかもしれませんが。
藩や幕府で重用されるなんて、まずありえない。
だって、今までの役職にそんな物ないのですから。
医者なら漢方医、学者なら儒学者の意見が尊重されるってのが、アッシがガキの頃の常識。
まして、異国は穢れであるなんて、水戸学が流行っちまっている様な状況。
水戸学を学んだ連中からは蘭学かぶれと蔑まれ、敵視されるんですよ。
そんな中で役にも立たない蘭学を学ぼうっていうのは、どんな人だと思いますか?
まあ、変わり者なのは間違いないですよ。
幕臣の端くれなのに蘭学を学んだ勝さんなんかは、以前は剣術を教えることで生計を立てていたようですが、蘭学を学んでいることがバレたら、蘭学かぶれなんぞに剣術は教われないと、仕事を断られちまったと笑っておりましたが、蘭学を学ぶには、それだけの覚悟がいるって状況だったのですよ。
そういう損を承知で、苦労して蘭学を学んで来たのは、どんな人なのでしょうね。
野次馬根性満載、好奇心旺盛なお調子者?
国を守る為、他人の評価、批判を恐れない英雄?
あるいは、そもそも他人の評価だの世渡りだの全く気にしない変わり者?
そういう連中が異国に行けるかもしれない上に、幕府に碌を貰って雇って貰えると聞けば、黙っているはずがございませんでしょ。
まあ、長崎が近く、異国の脅威に晒されていた西国雄藩なんかは、蘭学者を優遇しておりましたし、黒船が江戸に来たおかげで、藩を守る為には蘭学者が必要だーって日本中で騒ぎにはなってるんですが。
それでも、幕府のお墨付きの上、異国に行けるかもしれないってのが大きい。
蘭学者が、大挙して、江戸に集まってきたんでございますよ。
そして、次に集まるのが、今の体制で冷や飯を食わされている下級武士や浪人たち。
元々ね、アッシの夢の中のこれから15年で国が揺らいだのは、この生活困窮している下級武士や浪人が暴れたってのが一因なのですよ。
異国に脅されて交易を始めたら、異国に
だから、異人どもは斬っちまえ、異国に従う幕府なんぞは倒しちまえってなっていくのでね。
そういう連中を、国防軍の募集は大いに引き付けることになります。
生活の苦しい連中、今の状況に不満がある連中が大勢ね。
その中には、島津斉彬の様のお声が掛かった薩摩の武士、吉田寅次郎さんに集められた長州藩の武士の他、龍馬さんや万次郎さん経由で土佐藩の郷士と呼ばれる下級武士や近藤さんの試衛館の門下生、斎藤先生の練兵館の門下生なども続々と参加することになります。
夢の中では敵として殺しあっていた連中が、同じ釜の飯を食い、訓練し、呉越同舟することになるのです。
アッシの目から見ると、この人たちが協力しあって異国に立ち向かうというのは、不思議な気持ちになりますな。
ただ、その為にはね、この集まった人たちをどう扱うかっていうことが重要になって参ります。
正直、阿部様と手腕のおかげか、象山先生の計画以上に展開が早いですからね。
学者は如何に、その知識を異国に行った際に有効に活用出来るか。
国防軍に参加するって連中は、如何に統率するか。
そいつが重要となってくるそうなのですな。
集まった連中が無秩序に暴れて江戸が無法地帯になっちまったら、目も当てられませんから。
それで、まず、考えられたのが、学者への対応。
最初に考えていたのは、異国視察に行くまでに万次郎さん、象山先生、江川先生で英語を叩き込んでしまおうということだったのですがね。
だけど、それだけでは勿体ないことに気が付かされたのでございますよ。
まず、集まる者には、蘭学に堪能な者もいれば、そうじゃない者もいる。
特に職人系の人たちには、文字の読み書きが出来ない人までいるのですね。
語学が苦手でも優秀な人間もいる。
確か、長州の久坂玄随なんかは蘭学が苦手だったようだし、西郷さんも語学が堪能という気がしない。
そういう人たちが挫折して帰っちまわないようにする為の工夫が必要となってくるそうなのですよ。
そこで、江川先生と象山先生は相談して、まず、蘭学が判る者に関しては蘭英辞典を長崎で購入して貰って、自習を勧め、文法など判らないところを補うと形を取ることを決めたそうです。
蘭学と英語ってのは、似ているようで方言みたいに、ある程度応用が利くらしいんですな。
そうして、語学も教えるが、それ以外の事も学べる場にしちまう。
日本中から、様々な知識を持った人たちが集まりますからな。
西洋船の作り方が判る船大工、鍛冶職人、蒸気機関を作る者等々、その人たちの知識や経験、技術を分け合い、異国視察に行かなくとも、知識の底上げをしちまおうと考えたそうでございますよ。
勿論、自然に集まる人だけに教授役をお願いすることはございません。
時には、アッシの夢の中で活躍した人を実際にお呼びした上、本当に教えることが出来るような方であるかを象山先生、江川先生、それにアッシで確認し、問題がないようならば、それぞれの部門の塾頭のような役割をお願いしようということになったのでございます。
それで、最初に来ていただいたのは、異様に頭の大きい御仁。
長州で村医者をやっていた村田蔵六殿、つまり後の大日本帝国の名軍師となる大村益次郎殿ですな。
この当時は、宇和島藩に雇われて蒸気船だの、砲台だのを作っているところだったのを、幕府の命令で来てもらったという状況なんでございますよ。
村田蔵六はムスっとした顔で、まだ築地に建てられたばかりの洋学所の応接室に座っておられる。
江川先生、象山先生が入ると上座に座り、アッシはお二人の傍に控える形となります。
「まず、遠く宇和島からよく来てくれた。礼を言う」
「いえ、礼には及びません。
宇和島藩より、幕府に出向せよとの命令を受けてきただけですので」
幕府のお偉方であると思われる江川先生が、礼を言っているのに、噂通り無愛想な人ですな。
江川先生が、村田さんの仏頂面を見て、気分を害しているのかと困惑しているようなので、小声で二人に説明する。
「村田様のあのお顔は、別に不機嫌でされている訳ではないようです。
あの方は、合理と論理に拘られる方と聞きます。従って、社交辞令や遠まわしな言い方は不要。
用件のみ、わかりやすくお伝えし、納得して頂ければ、引き受けて頂けるはずです」
アッシがそう言うと、象山先生が我が意を得たりとばかりに社交辞令を飛ばして話始める。
「幕府の命令で来たというなら、その命令を聞くのも問題ないな。
僕は、佐久間象山だ。君は異国への視察団派遣のことは聞いているかね」
「はい。その為に、人を集めておられるとか」
「そうだ。今、この国は遅れている。
放っておけば、簡単に異国の餌食になるだろう。
それは、君も理解しているだろう」
象山がそう言うと村田さんは頷く。
「だから、一刻も早く、我らは異国から学び、追いつかねばならぬのだ。
その為に、君にも手伝って欲しくて、呼んだのだ」
「私は、もともと蘭方医術を学ぶ為に蘭学を学んだ田舎医者に過ぎません。
国を守る手伝いをしろと申されても、どうしたら良いのか。
まして、天下の大学者である佐久間象山先生がいらっしゃるなら、私のすべきことなど、ないのではございませんか」
「まあ、確かに、僕がいれば、たいていのことは大丈夫だ。
だが、僕の時間は有限で、何もかもする時間がある訳ではないのだ。
そこで、君には、僕の代わりに、兵学を学び、講義をして貰いたいのだ」
「私は医者で、兵学書などは趣味で読んだだけなのですが」
「そうは言っても、宇和島藩では、兵学書を読み、蒸気船や砲台を作っていたというではないか」
「確かに、そうではありますが。あれは、宇和島藩の命令であるから、仕方なくやったものでして」
「ならば、こちらも命令だ。宇和島藩の命令より、幕府の命令の方が重いだろ。
さあ、兵学書なら、この洋学所には山ほどある。
まず、これを読んでくれ。判らなければ、僕が教えよう。
良ければイギリスの言葉も教えるぞ。
そして、得た知識を基に、君と江川先生で、集まった食い詰め者どもを屈強な軍へと鍛え上げて貰いたいのだ」
象山先生がそう言うと村田さんは少し考えてから尋ねる。
「命令と言うならば、お受けしましょう
しかし、私は田舎の村医者です。その様な者の命令に従う武士がいるとお思いですか」
「武士も農民も人であることに変わりはないだろ。
300年前は、そんな区別もなく戦っていたのだ。
生まれが村医者であろうとも、君の指揮が間違いないものであるならば、兵は自分を生き残らせてくれる将についてくるものだ。
それでも、逆らいたがる連中がいるなら、そんな連中が納得するだけの肩書を用意してやれば良いだけの話だ。
それで、良いだろう」
象山先生が幕府の身分制度の根幹を蔑ろにするような発言をするのを聞いて、江川先生は苦虫を噛み潰すような表情をしているが、村田さんは、そんな表情を気にも留めず、しばし考えた後、応える。
「確かに、それならば、理に適っております。
ただ、そこまでして頂いても、私がご期待に添えるかは不明でありますぞ」
「なに、いざとなれば、天才の僕が手伝う。
だから、君は、精一杯、兵学を学び、学んだことを教え、国防軍を組織してくれれば良いのだ」
「それならば、まあ、私の出来る範囲でやらせて頂きましょう」
象山先生がそう言うと、村田さんは淡々と答える。
こうして、国防軍は村田さんと江川先生を中心に組織され、鍛えられることになり、その下で、西郷さん、久坂玄瑞、河合継之助らが兵学を学ぶことになるのでございます。
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