第十二話 視察に連れて行くべき者たち
井伊直弼が人材を在野に求め、幕府が召し抱えるべきだと言い出したところ、幕閣の保守的な連中が不満な顔をする。
幕府の役人の多くは、実力ではなく、家柄でその役職を得ているものばかりなのだ。
在野の有為の人材を幕府に召し抱え、幕府の強化を図るのは、海舟会の建白書にもあり、島津斉彬や江川英龍とも相談し、導入すべきと判断した事態だ。
だが、言葉にならぬ不満を放置すると、実現の際に、抵抗される恐れがある。
そこで、阿部正弘は、あえて彼らの意を汲んで問いただすことにする。
「井伊殿、その様に在野に人材を求めるのでは、国の基たる身分秩序の崩壊に繋がるのではございませんか」
阿部正弘がそう言うと、井伊直弼の身分を気にして反論出来なかった連中が、我が意を得たりとばかりに頷く。
自分の頭では考えず、前例を盾に、何もしようとしない連中だ。
この連中のせいで、ペリー来訪も1年も前からオランダから聞いていたのに、幕府は何も対策を打てなかったと阿部正弘は苦々しく思う。
阿部正弘も、決して改革が好きな人間ではない。
彼の前任である水野忠邦の現実を見ない天保の改革の惨めな失敗も知っている。
だから、今まで通りで済むのなら、それに越したことはないと思っている。
だが、今は、この国の危機なのだ。
油断すれば、清を侵略した連中が日本に牙をむき襲い掛かるかもしれない。
そんな状況を放置出来るはずがないではないか。
阿部正弘は、彼ら現状維持勢力と正面から対立するつもりはない。
そんなことをしていれば、平八の夢にあったような国内の政争で時間と勢力が失われる。
今は、国内で争っている場合ではないのだ。
夢を見たいなら、夢を見せてやれば良い。
阿部正弘は、彼らには一切の現実を気付かせず、夢を見させている間に、誘導しようと考えていた。
「しかし、異国の事情に通じる者が、幕府に少ないのなら、致し方なかろう。
わしらは、命掛けで異国に行き、奴らの動向を探り、技術と情報を奪いに行くのじゃ。
まさか、そんなわしらに水先案内人もなしで、異国に行けというのではあるまい」
「その通りです。
そもそも、視察団に参加するのは、藩とも、家とも、縁を切り、国に奉仕することを誓う者達。
幕府の秩序に影響を及ぼす心配もございません」
水戸斉昭と井伊直弼が反論するのを聞くと阿部正弘が頷き、確認する。
「異国の事情に通じる者が必要だと言うのはわかります。
その上で、幕府が召し抱えるのは、その者限りという事でよろしいのですね」
阿部正弘が確認すると、水戸斉昭と井伊直弼が頷き、一部の幕閣は露骨に安堵した顔をする。
そんな様子に内心呆れながら、阿部正弘は続ける。
「幕府が召し抱え、視察に赴いて貰うのは、蘭学者だけでよろしいか」
「いや、それだけでは足りないでしょう」
島津斉彬が発言するのを幕閣の連中が睨みつける。
外様大名の分際で、幕府の方針に発言するなど、僭越であると考えるのだ。
それは井伊直弼も同様で、成り行きで、異国視察の話が外様大名の前で始まってしまったが、本来は彼らに聞かせることさえしたくない程なのだ。
だが、そんなことを気にもとめず、阿部正弘は島津斉彬に尋ねる。
「ほう、島津殿、足りないとは何のことでしょうか」
「視察の目的は、異人たちの状況を調べ、我が国が侵略されぬようにすること。
その為に、まず、異人たちの武器を作れるようになるべきでしょう」
「だから、蘭学者を連れて行って、その作り方を調べさせるのではありませんか」
井伊直弼が苛立ち指摘すると、島津斉彬は涼しい顔で応える。
「蘭学者だけでは、武器は作れないのですよ。
憚りながら申し上げれば、私は蘭癖大名と呼ばれるように、薩摩藩で異国の技術を手に入れようと研究を進めさせて参りました。
ですが、学者だけでは、理屈はわかっても、実物を作ることが出来ないのです。
実際に、手を動かして作り出す職人が必要なのです」
「国を代表して視察に行く人員に職人などを加えろと言うのですか。
いくら相手が異人と言えども、あまりにも無礼ではありませんか」
あまりの提案に井伊直弼が激高する。
「井伊殿が行くアメリカという国は身分がないと言います。
であるならば、職人を連れて行こうと無礼とはならないはず。
今は一刻も早く、異国の技術を入手せねばならぬ時です。
蘭学者だけでなく、大筒を作る為には鍛冶職人、西洋の船を作る為に船大工等々、様々な職人に異国の製造現場を見させるべきです」
「その様なことをせずとも、今回入手した武器を調べ、オランダから蒸気船を買って調べれば」
「もちろん、それで解ることもあるでしょう。
実際に、その研究はすぐに始めるべきであると私も思います。
だから、職人はすぐにでも雇うべきでしょう。
ですが、それだけでは時間がかかるし、難しいこともあるはずです。
例えば、混じり物のない良い鉄は反射炉を作らなければ作れませんし、この銃の内側の溝をどのように削れるのか、今の私には解らない。
異人たちが、反射炉のように本を書いていてくれればいいのですが、そうでないならどうするのか。
異国で職人に現場を見せ、作り方を学ばせた方が良いとは思いませんか」
島津斉彬が淡々と返すと水戸斉昭が尋ねる。
「ふん、禽獣に等しい異人たちのところに、職人を連れて行ったところで、奴らに区別はつかぬか。
では、わしが行くロシアはどうじゃ」
「ロシアには、身分があり、貴族と皇帝を名乗る人物がいると聞きますが、武士以外の者が行ったところで、無礼にはならぬでしょう。
長崎からの報告書によると、ロシアの提督は貴族のようですが、50年前のロシアと日ノ本の紛争の解決に貢献した日ノ本の
阿部正弘が応えると水戸斉昭は呆れて呟く。
「商人如きを尊敬するというなら、職人を連れて行っても問題なさそうじゃな。
わしは、職人を連れていくことにするぞ、井伊殿」
「……しかし、それでは武士の面目が立たぬではありませんか」
「郷に入っては郷に従えじゃ。
異人どもが気にせぬことをこちらが気にしてやる必要はないじゃろ。
まずは、奴らに追いつき追い越し、異人どもを追い出す力を付けることが第一。
別に、職人を連れていくと言っても、連れていく連中を、武士にしてやれと言う訳ではないんじゃろ」
「そうですな。連れていく職人を全員武士にすることなど出来ませんな。
そんなことをすれば、この国の身分秩序を乱すことになる。
幕府で雇い、禄を渡してやるにせよ、幕府とは別の受け皿を用意してやる必要があるでしょうな」
幕閣の連中が嫌がるのは、幕府の中に、異分子が紛れ込み、自分たちの権益が侵されること。
ならば、その外に組織を作ってしまおう。
それが、阿部正弘と島津斉彬が出した結論だった。
何もしようとしない連中には幕府が安泰だと信じ込ませながら、新たな組織にやる気のある者、知識、武力、財力を集中させていく。
その力をもって、異国の侵略を防ぐのだ。
「なるほど、そういうことでしたら、私の方からもお手伝いさせて頂く。
我が藩には、私の指示で様々な物を作った腕の良い職人たちがおります。
その者たちを是非、お雇い下さい」
島津斉彬がそう言うと他の外様大名たちも頷き、口々に職人の紹介を口にする。
彼らが西洋技術を研究しているのは、幕府に反乱を起こす為ではない。
異国による侵略の脅威を、誰よりも感じているからなのだ。
だが、それに対し、井伊直弼は危機感を募らせる。
雇った職人が外様大名の間諜で、異国の情報を外様大名に漏らしては意味がないのだ。
外様大名が異国と組んで武装し、反乱を起こしてからでは遅いのだから。
「職人を連れていくにせよ、規律は必要でしょう。
相手が野蛮人であろうと、こちらは礼を尽くす。
その為の教育をすべきです。
そして、誰であろうと、幕府の許可なく情報を漏らさぬよう厳しい義務を負わせること。
それが最低限の条件でしょうな」
井伊直弼がそう言うと水戸斉昭が頷く。
「うむ、そうじゃな。武士の忠の道を知らぬ職人を連れていくのじゃ。
夷狄に取り込まれ、日ノ本の情報を漏らさぬよう厳しい法で縛るべきであろう」
井伊直弼は外様大名に異国の情報を漏らさぬことを主眼に考えていたが、水戸斉昭は日本の情報を異国に齎す危険を主眼に考える。
そう言いだすことも予想済みの島津斉彬が頷く。
「仰せの通り。職人を雇い入れるとして、秘密を守る義務を負わせることは重要でしょうな。
もっとも、薩摩での研究のことを、こちらに伝えることは構いませんが」
そう言うと敵意がないことを示す為に穏やかに笑って見せる。
だが、薩摩を警戒する井伊直弼にしてみれば、不敵に笑っているようにしか見えないのは皮肉な話である。
「その上で更に、今回の視察には、商人も連れて行って頂きたい」
「商人ですと?」
「はい。武器を買うにせよ、相場を知ることが必要です。
古くて悪い物を高く売りつけられる訳にはいきませんからな。
更に、交易をして利益を上げるなら、相手が何を求め、何を安く売るのか調べることが必要です。
それならば、餅は餅屋。最も利に敏い、商人に探らせれば良いではないですか。
アメリカは身分のない国、ロシアの貴族は日ノ本の商人を尊敬しているというなら、商人を連れて行ったところで、何の問題もないでしょう」
図々しく意見を言い続ける島津斉彬に幕閣は不満を隠せない。
商人如きを視察団に加えるとは何事だ。
島津は幕府の権威を落とすつもりなのかと怒りに燃える。
だが、聞いてみれば正論ではあるのだ。
武士が異国でモノの値段を聞いて回るなど、そんなみっともない真似を出来るはずもない。
ならば、商人を連れていき調べさせた方が、確かにうまく行きそうではある。
既に職人を視察団に参加させることも認めているのだ。
ならば、商人も連れて行っても良いかもしれない。
だが、島津斉彬のいう事を聞くのは癪に障る。
それが、彼らの正直な気持ちだ。
と、その気持ちを代弁するかのように、阿部正弘が反論する。
「確かに、商人は利に敏い。
だが、だからこそ、我らを裏切り、異国に通じる恐れがあるのではございませんか」
阿部正弘がそう言うと、島津斉彬が確かにその可能性はございますが、と考え込む。
その様子を見て溜飲を下げる幕閣のお偉方。
と、水戸斉昭が声を上げる。
「異国に連れていく商人は
さすれば、バカなことをしないであろうよ」
水戸斉昭がそう言うと阿部正弘は大きく頷き応える。
「なるほど、それならば、商人が異国と通じるのを防げるやもしれませんな。
では、水戸様の仰せの通り、商人を同行させるということでよろしいかな」
そう言うと多くの幕閣が頷く。
こうして、学者、職人、商人を中心とした前代未聞の視察団の準備がされることとなる。
続いて、視察団の護衛、予算についての話し合いが行われる。
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