第十三話 国防軍創設の第一歩
「さて、これで視察団の人員はおおよそ決まったようなのですが、それ以外に同行する護衛とお供は直参旗本から出すという事でよろしいですかな」
阿部正弘がそう確認すると、水戸斉昭が呟く。
「まあ、幕府の者でも構わぬが、出来れば水戸藩の者を連れていきたいのう。
わしの護衛とか、供とか慣れた者の方が良いからな」
水戸斉昭がそう考えるのは当然だろう。
異国に行くのに、本気で自分を守ってくれるかわからない幕府の旗本を連れていくより、昔から自分に忠誠を誓う水戸藩の方が安心出来るのは間違いない。
「それならば、側近の方々にも家督を譲って頂いた上で、
藩から離れ、視察団に参加させて頂けばよろしいのではございませんか」
島津斉彬がそう提案すると、水戸斉昭が喜ぶ。
「そうか。そうじゃな。家督を譲らせて、同行させる分には問題あるまい。どうじゃ、阿部殿」
「そうですな。蘭学者も家督を譲れば、視察団に参加出来るとするのですから、護衛やお付きの者も家督を譲られるのでしたら、問題ないかと。
ただ、随分な人数となるようですから、
お付きの方の碌は水戸藩で貰い受けている程ではないことはご了承頂きます」
「そうか、それは助かる。
じゃが、わしの護衛をさせる為に水戸藩を辞めるのに、碌が減ることも、その碌を幕府から貰うのも申し訳ない気がするのう」
確かに他の藩で碌を受けていた者が皆幕府から碌を貰うようになれば、幕府の負担は増え、逆に幕府に人員を出した藩の負担は軽くなることとなる。
気を付けねば、幕府衰退の原因となりかねない状況だ。
だから、召し上げても、然程の碌は用意出来ないというのは、よくわかる。
だが、自分の為に、異国にまでお供をしてくれる者たちに、負担を掛けるのも、これ以上、幕府に負担を掛けるのも申し訳ない気がする。
そこで、水戸斉昭は期待通りの提案をしてくれる。
「そうじゃ、水戸藩を出て、幕府で雇って貰う家臣の碌は水戸藩から幕府に支払うことにしよう」
「それは良いですな。薩摩藩からも、多くの職人、学者が幕府に召し上げられることとなりましょう。
ならば、私も、その分の碌は、幕府に献ずることに致しましょう」
水戸斉昭の提案に島津斉彬が賛意を示すと、井伊直弼が慌てて反対する。
「いや、待たれよ。幕府に召し上げられた分の藩士の碌を元いた藩が支払うというのでは、召し上げられた者は幕府への恩ではなく、元いた藩への恩義を感じるのではござらぬか。
それでは、幕府に忠誠を誓うこともなく、元いた藩の為に働くことになりかねませぬ」
「ならば、井伊殿はどうする?直参旗本だけを供として連れて行くにせよ、幕府に負担が掛かるのは間違いなかろう。それを良しとするのか?」
そう言われて井伊直弼も考える。
水戸様が水戸藩士の分の碌を幕府に支払うのは良いのだ。
そこに不満はない。
だが、薩摩藩が薩摩藩士の分の碌を幕府に支払うのは、幕府の内部に獅子身中の虫を入れることになるのではないか。
幕府を経由して薩摩の碌を貰っているに過ぎないと考えれば、幕府の中に入り込んだ薩摩藩士共は幕府の重要機密を盗み、異国の最新の情報を薩摩に流すのではないか。
正直、危険な外様大名の学者、技術者など、最初から召し上げねば良いとは考えるが、今、異国の知識に通じているのは、素性の判らぬ在野の学者と外様大名の支配下にいる者ばかり。
異国の脅威に対抗しようとするなら、それらを完全に排除するのは愚の骨頂だ。
では、どうするか。
考えた末に井伊直弼は彼らしい提案を口にする。
「幕府が彼らを召し上げるのは異国から我が国を守る為です。
であるならば、召し上げられた分しか払わないというのは、不遜ではありませんか。
日本全国、全ての藩が異国の脅威に晒されている。
ならば、幕府に藩士が雇われようが、雇われまいが関係なく、資金を献ずるべきではありませんか」
井伊直弼の主張は単純だ。
幕府が必要なのだから、他の藩はそれに従え。
権力者の必要に下々の者は従わなければならない。
それには、御三家であろうと関係ない。
そして、この命令に従わせることが出来れば、幕府の権威は更に増すこととなる。
徳川幕府の権力の絶対性を信じる彼は、その主張が当然に認められるものであると考える。
この考えは、江戸幕府初期であるならば、そう間違えたものでもない。
だが、既に何度も改革に失敗し、その権威にも、軍事力にも陰りが見えてきた今の幕府が、簡単に諸藩に認められるような考えではなかったのだ。
「確かに、この異国の脅威は、この国全体の問題ではあります。
だが、これ以上の負担に耐えられる藩がどれだけあるのか。
昨年、南部藩でも大規模な一揆が起き、大変なことが起きたと聞き及んでおります。
また、我らが異国の技術を研究しているのも、異国から藩を守る為。
必要以上に、お手伝いを求められれば、異国が侵略しやすい素地を作りかねませんぞ」
島津斉彬が穏やかにそう説明すると、佐賀藩、福岡藩等の外様大名だけでなく、譜代大名たちも口々に不満を口にする。
外様大名だけではない。ほとんどの藩が苦しい財政の中で何とかやっているのが現状なのだ。
国を守るという名目で自分たちの藩にまで負担を要求されれば、堪ったものではないというのが彼らの本音だ。
まさか、皆から一斉に反対を受けるとは思っていなかった井伊直弼は狼狽える。
そんな様子を見て、阿部正弘は助け船を出すことにする。
「皆様の仰せの通り、異国から守る為とは言え、これ以上、下々の者に負担を掛ければ、この国そのものが立ちいかなくなることもございましょう。
それでは、本末転倒。
しかし、異国の脅威は目の前に迫っているのも事実。
視察団だけでなく、異国の進んだ武器を買うことも、その技術を取り入れる為にも、多大な予算を要するのは必定。
井伊殿の仰る通り、お手伝いすることが出来ぬと仰るのなら、異国にどう対処されるおつもりか」
阿部正弘がそう言うと皆考え込む。
アメリカの武器の威力を見せて貰った以上、備えなど必要ないと言える愚か者はここにはいない。
異国の侵略を防ぐ為に武装を強化しなければならないのは間違いないだろう。
だが、藩の財政に余裕がないのも確かなのだ。
簡単に資金を献上することなど出来るはずもない。
「倹約令をしき、全国で無駄使いをなくし、その余った資金を、国の防衛に当ててはどうであろう」
幕閣の一人がそう提案する。
幕府のこれまでの改革は、全て、このような形の改革で、支出を減らすことで足りなくなった資金を補充するのが主であった。
「だが、それで幾らのいつまでに、いくらの予算が確保出来るんじゃ。
異国に対する備えは一刻も早くせねばならぬのだぞ。
どれ位の
「では、異国との交易を始め、その儲けを異国からの備えに向けては」
これは本来、勝麟太郎を始めとし、阿部正弘らの従来からの考えでもあった。
だが、これにも当然反論はある。
「まず、交易は、鎖国を止めることであり日本開闢以来の祖法に反することじゃ。
その上、交易を始めたからと言って、儲けが出るという保障も何処にもない。
だからこそ、異国に視察に行こうと言うのに、交易すれば、何を根拠に利が上がると言えるのか」
など、喧々諤々の議論が続く。
そして、意見が出尽くしたと思われたところで、島津斉彬が海舟会の案を口にすることにする。
「それでは、一年毎の参勤交代を、三年に一度に変更して下さいませぬか。
さすれば、本来、参勤交代で掛かる費用、薩摩藩なら1万7千両ずつ献上致しましょう」
その言葉に財政の苦しさに頭を悩ませていた各藩の当主は頭を上げる。
参勤交代による財政の圧迫は激しく、財政の半分ほどが、参勤交代に当てられる程なのだ。
それが減るならば、その分の献上など喜んでしよう。
そんな気分になる大名もいる中、またも、島津斉彬が提案することに苦虫を嚙み潰したような者もいる。
ただ、一定の財政がすぐにでも確保されることは大きい。
薩摩藩は1万7千両と言ったが、全国で300藩もある中、莫大な金子が確実に手に入るはずなのだ。
幕府の財政を司る者としては、是非にでも手に入れたいものだ。
これに対し、薩摩に警戒心を持つ井伊直弼が反対する。
「待たれよ、島津殿。それは享保の改革の折りに行われた上米の制と同じではないか」
「上米の制?確か、石高1万石につき、100石の米を献上させる代わりに江戸滞在期間を半年にしたという仕組みでしたな」
「そう、その通りだ。
結果、幕府の財政は潤ったが、幕府の権威は低下し、大名の財政も大いに潤ったという。
その様な、失策を許すわけには参りませぬ」
井伊直弼がそう反論すると、島津斉彬が涼しい顔で答える。
「上米の制は、幕府の財政難を解消する為に、各藩の上米を要求したから幕府の権威が下がったのかと。
今回は、異国から我が国を守り戦う為に集めること。
先頭を切って戦う幕府の権威が落ちることがありましょうや。
また、上米の制は、参勤交代で掛かる費用を安く見積もり過ぎた故に、大名の財政が潤ったのかと。
これに対し、私が提案するのは、参勤交代に掛かる費用を献上すること。
大名側が得をすることなどあり得ぬかと」
多くの者がそうかもしれぬと頷く中、阿部正弘が斬り込む。
「しかし、参勤交代で掛かる費用が幾らになるかを
もし、参勤交代を3年に一度にすると言うのなら、藩の財政を
阿部正弘がそう言うと島津斉彬が考え込む仕草をする。
その様子を平伏したままで眺める江川英龍。
二人とも、最初から相談していたのにたいした役者だ。
阿部様が言い出せば、幕閣からの反発を受ける。
だから、島津様から言い出した上で、やり込める形で島津様に譲歩を促し、反対派の溜飲を下げさせる。
さすがは
佐久間が難しいと言っていた国防軍の創設の為の予算がこれで確保出来る。
実際、各藩は財政状況の報告など、幕府にしていない。
260年前に決めた石高に基づいて、その格にあった対応を要求しているだけだ。
だから、各藩はそれぞれに工夫し、改革に成功した藩は、260年前と比べ者にならない程の利益を上げているが、幕府はそれを把握出来ていない。
それが、白日の下に晒されるのだ。
利益を上げている藩程、その様な介入は許したくはないだろう。
そんなことを幕府に知られれば、何を要求されるかわからないから。
しかし、島津様は手の内を晒すと仰っていた。
あの二人は、本気で、この国を一つにまとめ上げる気なのだろう。
平八の夢の通りなら、自分はもう一年もない命。
覚悟は出来ているが、その先も見たいものだと江川英龍が考える中、長い沈黙の後に島津斉彬が応える。
「我らに後ろ暗いことはございません。
全てはこの国を守る為、我が藩の財政につき、お聞きのことは全てお応えいたしましょう。
さすれば、参勤交代を3年に一度とする件、ご承諾頂けるのですかな」
島津斉彬の言葉に、声にならない絶叫が響き渡る。
幕府側の人間としては、あの生意気な島津斉彬をやり込め、
参勤交代を3年に一度にするだけで、今まで不明だった外様大名の財政状況の確認が堂々と出来る上に、
軍備増強の為の大金が手に入るのだ。こんなにありがたいことはない。
外様大名側としては、財政状況を幕府に知られ、何をされるか判らないという怖さはあるが、島津斉彬が引き受けてしまった以上、断ることなど出来ない。
まあ、実のところ、既に阿部正弘から打診され、了承している話でもあるのだが。
阿部正弘ならば、酷いことにはならないと信用しているし、何より彼は若い。
この体制が揺らぐことなど、彼らは微塵も疑っていない。
手を晒し、財政的に協力することにより、この国の運営に関わっていく気満々である。
こうして、海外視察団の予算から始まった話が、まだ組織、指揮官など未定の点は多いものの、国防軍創設へと繋がっていくこととなる。
そして、阿部正弘は海外視察最後の障害について、話すこととなる。
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