第十一話 「日本」の胎動
井伊直弼の視察団派遣が決まったようなので、阿部正弘は話を進めることにする。
「それでは、井伊殿と水戸様が視察団を率いて下さるということで、よろしいかな」
そう言うと、二人が頷き、他の者もそれを認める。
「では、今、アメリカとロシアから視察の申し入れがござるが、どちらが、どちらに参られますかな」
「わしは、北蝦夷(樺太)のことでロシアと話さねばならぬだろうからな。わしがロシアに行こう」
水戸斉昭がロシア行きを言い出すと直弼が確認する。
「はて、北蝦夷(樺太)のことで、ロシアと話さねばならぬとは何のことですかな」
「実は、水戸藩には北蝦夷(樺太)をロシアから守る為に防衛隊を派遣して頂いておるのです」
「北蝦夷(樺太)の防衛?それは、幕府が兵を出すべきところではございませんか」
阿部正弘が答えると直弼が不満を述べる。
異国から日ノ本を守るのは、幕府の役割のはず。
いくら、御三家と言えども、僭越ではないか。
そんな不満を感じたのか、水戸斉昭が応える。
「まあ、わしもそう思う。だから、わしは幕府に北蝦夷(樺太)を守る為に兵を出せと進言したのじゃ。
それを、予算がない。来るかどうかわからぬものに、兵は割けぬなどと申してな。
それ故、僭越ながら、幕府に許可を貰い、水戸藩の兵を派遣させて貰ったんじゃ」
水戸斉昭がそう言って幕閣を睨むと、樺太行きに反対した幕閣は気まずそうに視線を逸らす。
「それで、東湖の奴が兵を率いて松前藩と一緒に北蝦夷(樺太)に行ってみれば、ロシア兵が入り込んでおってのう。
わしらが行かねば、北蝦夷(樺太)が取られていたかもしれなんだ」
「その節は誠にお世話になり、幕府一同、水戸様の慧眼には感謝しております」
阿部正弘は自分で水戸斉昭に樺太派兵を唆しながら、そんな事はおくびにも出さず、感謝して見せると水戸斉昭は、その感謝を鷹揚に受け止める。
「何、東湖と松前殿がうまく異人どもを説得してくれたので、戦にもならずに済んでおる。
全てはあ奴らの手柄よ」
「そういうことでございましたか。それならば、水戸様にロシアに行って頂くのがよろしいでしょうな」
水戸藩のおかげで樺太がロシアに奪われずに済んだという事実を聞き、直弼は納得する。
「となると、井伊殿にはアメリカに行って頂くということでよろしいかな」
「そうですな」
阿部正弘が確認すると、直弼が応えたので、すかさず次の一手を打つ。
「これで、ロシアとアメリカ視察団の長は決まりましたな。
アメリカはペリーとやらが、アメリカに戻り準備が出来次第となると思われますが、ロシアは現在、イギリスらと
それで、よろしいかな」
そう言って、皆が頷くのを確認した阿部正弘は言葉の爆弾を投げ込む。
「とすると、次の問題は、アメリカ、ロシア以外の国が、我が国に来た場合の対処方法ですな」
一瞬、阿部正弘が何を言い出したか理解出来ず、あっけに取られる一同。
「アメリカとロシアが交易を求め、我が国に来ている現状において、時間を稼ぎ、連中の国を視察し、奴らの武器や技術を奪い取り、武装しこの国を守る。
この基本戦略は、皆さまの仰る通りであり、慧眼であると私も思います。
ですが、アメリカとロシアとだけに視察を行い、他の国に視察を行わなかった場合、我らがアメリカとロシアとだけ特別な関係にあると誤解される危険があるのではと思いましてな」
そう言うと考える素振りを見せる阿部正弘。
それに対して、水戸斉昭は鼻を鳴らして応える。
「異国にどう思われようと関係なかろう。
今までも、清とオランダとだけ付き合ってきたが、何の問題も起きておらぬのだからな」
「清とオランダは、ずっと昔からの付き合いですからな。異人たちも、不思議には思わぬでしょう。
ですが、今ままで門前払いにしてきたアメリカやロシアに我らが行けば、他の国も我らを招こうとするのではございませんか」
「何が言いたい」
「先ほど申しましたが、ロシアは今、イギリス、フランスと
そのイギリスとフランスが、我が国との交易を求めてきた場合、もし視察を断れば、ロシアの仲間だと判断され、攻撃する口実を与えるのではないかと」
阿部正弘が指摘した危険性に、元々話を聞いていた以外の者は蒼ざめ、更にそこへ、島津斉彬がダメ押しをする。
「その様な事はないと言いたいところですが、イギリスという国は清でご禁制にされた阿片を持ち込み、それを摘発されると、摘発を不服として、清に
ロシアとだけ親しくしていると判断すれば、イギリスは日ノ本がロシアと盟を結んでいると判断し、日ノ本を攻めてくるやもしれませんな」
島津斉彬の言葉で、清を倒したイギリスが日本を攻撃することが現実的に思い浮かび、
重苦しい空気が場を包む中、堀田正睦が声を上げる。
「ならば、ならば、他の国も断らず、視察を送れば良いのです。
どの国も特別扱いをせずに、平等に視察する。
さすれば、攻撃の口実にされることもないはずです。
その上で、様々な国を視察すれば、それぞれの国の事情がわかり、異人に騙されることもなくなるでしょう」
異国に行ってみたい堀田正睦にしてみれば、イギリスを恐れて、ロシア視察やアメリカ視察がなくなるなんて冗談ではない話だ。
むしろ、これを契機に視察の数を増やし、自分も異国に行きたいと考えたのだ。
だが、異国と幕府以外の勢力が結びつくことを望まない者もいる。
「いやいや、待たれよ。その様に、多くの国に対し、全権を担うものを派遣するのでは、
井伊直弼が、幕府に忠誠を誓わないものが異国に行かないように食い止めようとすると、そんな意図などわからない堀田正睦が反論する。
「ですが、視察をしなければ、攻められる危険があるとするなら、視察の数を増やすしかないのではありませんか」
「それに、異国では各国に一人ずつ全権代理の権限を持つ者を常駐させていると聞きます。
我が国が、各国に視察の使者を送ったとしても、異人に軽く見られることはないでしょう」
島津斉彬が異国の知識を披露するが、外様大名に異国と結びつく機会を与えたくない直弼は反論出来ないことに狼狽えながらも、必死で知恵を絞る。
「そうであるとしても、何か条件が必要なはずです。
誰もが、簡単に国の全権を担えるなど、あってはならないことです」
そう言うと、井伊直弼は条件を考えながら、阿部正弘を見る。
「・・・例えば、水戸様や井伊殿のように、家督を譲り、隠居していることですか」
直弼から言葉が出ないので、阿部正弘が案を出してやると、直弼はすぐにその餌に喰らいつく。
「そう、そうです。視察には、日ノ本の国を代表して行くのです。
家からも、藩からも離れ、国の代表となって頂かなければなりません。
ならば、隠居し、国に忠誠を誓って頂かねばなりますまいぞ」
視察団の長となるには家督を譲り、隠居して、家からも、藩からも離れることという条件が、思いつきのはずなのに、思っていた以上に島津斉彬らの異国行きを阻止し得ることに気が付いて、直弼は少し興奮気味だ。
島津斉彬にも、成人した嫡男はおらず、隠居した
そんな状況で、斉彬は誰かに家督を譲って薩摩を離れられるような状況ではないはずなのだ。
だが、島津斉彬は悔し気な様子をおくびにも見せず、頷いて続ける。
「なるほど。お国の為に、家や藩のしがらみ、私利私欲を捨てられるものだけが、国を代表出来るということですか。
だが、それでは、藩の者を供に連れていくことも出来ないのではございませんか」
確かに、理屈ではその通りだ。
家や藩とは関係ないと言いつつ、自分の藩の者を大量に連れて行けば、その藩の影響は避けられないだろう。
「そうじゃな。わしが、水戸藩の者を連れて行けば、わしがどう言おうとお国の為ではなく、藩の利益を考える者が現れるじゃろう。その辺りは、どうする井伊殿」
「供は、幕府の者、直参旗本にさせれば良いのです。
さすれば、藩の利益の為に動く者はいないはずです」
「ですが、お家の為に動く者は避けられないでしょうな。
そも、幕府には異国の事情に通じる者がどれだけいるのですかな、江川殿。
異国に無知な者ばかりが異国に行けば、異国の技術を手に入れることなど出来ぬはず。
それでは、視察そのものが失敗に終わりますからな」
島津斉彬が江川英龍に尋ねると、江川は顔を上げ、阿部正弘を見る。
そこで、阿部正弘が頷くのを確認し、応えることとする。
「は、恐れながら、幕府に異国の技術にまで通じる者となりますと、決して多くはございません。
幾つもの国に視察団を派遣するとなると、その全てに対応するのは難しいかと」
幕府は、これまで異国を侮り、排斥してきた。
鎖国を続ける為、日本を守る為に異国のことを知ろうとする人々を弾圧、迫害してきたのだ。
海防の為に、西洋砲術などを始めて西洋技術を知ろうとした江川英龍は変わり者。
幕府の侍でオランダ語を学んだ勝麟太郎などは、汚れた学問を学ぶ者とされ、一時は剣術の師範の仕事がなくなったこともある位なのだ。
おそらく、今の幕府で異国事情に通じるものなど、極僅かしかいないだろう。
江川の返答に考え込んだ島津斉彬が応える。
「そうですか。それでは、視察が効率的なものとなるには難しいかと。
一方、我らの下になら、西洋技術を学んだ者が多くおります。それらを連れて行って頂ければ」
そう言われて、直弼は慌てる。
外様大名の臣下が異国に行けば、異国の技術を学び、外様大名が異国と通じ、技術を発展させる機会を与えてしまうではないか。
視察団の団長にすることを防ぐだけでは足りなかったのだ。
慌てた直弼は、阿部正弘と島津斉彬の思惑通り、幕府の体制を大きく動かす切っ掛けとなる発言をする。
「視察団に参加するならば、視察団の団長同様、家督を譲り、藩との縁を切って頂かねばなりませぬ」
「それで、禄はどうされるのですか。
藩を離れ、家を離れて、生活出来る藩士は、我が藩でもそう多くはありませぬぞ」
「もちろん、幕府に召し抱えて頂く。忠誠も幕府に誓って頂く。
そうでなければ、国を代表する視察団に参加させる訳には参りません」
「ですが、多くの藩士は藩に忠誠を誓っております。
それを捨てて、幕府に仕えるとなると、裏切りと看做す者もいるかと」
「ならば、人材を広く、在野にも求めれば良いのです。
藩から裏切りと疑われ、国の為に働けないなどと言う者は不要でございます。
どうせ、家も、藩も捨てさせるのです。家柄も関係ございません」
「なるほど、それでは、我が藩では、『この国を異国から守る為に、幕府が人材を求めている。
これに参加することは、藩への裏切りではなく、お国へのご奉公である。
我こそはと思う者は、幕府の試しに参加せよ。
採用されなくとも、その心意気を表し、褒美を与えよう』との布告をだしましょう。
その上で、参加を志願した者を審査して頂きたい。
そこで、視察団への参加が決まった時点で、藩を離れ、家督を譲らせるようにしましょう。
それならば、問題はございませんな」
島津斉彬が確認すると、井伊直弼が頷く。
正直、直弼が団長として行くアメリカに外様大名出身の者を参加させるつもりはない。
在野にも、必ず人はいるはずだから、そこで採用すれば良いと考える。
だが、この行動が家柄だけを重視してきた幕府の変質を齎すことを直弼自身はまだ気が付いてない。
この時を境に、今まで家柄などを理由に燻っていた多くの有為の人材が幕府に集まっていくこととなる。
後世の歴史家は、この日を境に、藩を中心とした地方分権国家であった日本が、中央集権国家日本への第一歩を踏み出したと述べている。
その一歩が、強力な統一国家日本の誕生に繋がるのか、日本分裂の切っ掛けとなるのか。
その行く末を知る者は、まだ誰もいない。
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